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困るほどの律儀者、佐竹義宣を語る

1 :人間七七四年:2008/03/08(土) 20:08:53 ID:5YkPWQKJ
「日の本一の律儀者、しかし、律儀すぎるのも非常に困る」と家康に評され、
「治部が死んでは生き甲斐が無くなる」と石田三成との友誼を重んじた、
佐竹義宣を語りましょう。

<関連スレ>
常陸の最強武将 佐竹 鬼 義重
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196512813/
\●/佐竹氏を語るスレ 其の2
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185375928/

2 :人間七七四年:2008/03/08(土) 20:11:18 ID:5YkPWQKJ
家を任せる息子だと気苦労が絶えないが(笑)、
友としては最高の漢だと思うがどうだろう?

3 :人間七七四年:2008/03/08(土) 20:54:41 ID:X1R2Z+Or
はいはい

終了

4 :人間七七四年:2008/03/08(土) 21:17:55 ID:Sgs8gipH
関ヶ原後に藩政を担うブレーンを自身の側近(梅津憲忠や渋江内膳)に
シフトさせて体制を確立させているけど、この話を扱った「雪の峠」は結構この板の住人では
呼んだ方も多いのではと思う

5 :人間七七四年:2008/03/08(土) 21:35:22 ID:5YkPWQKJ
>>4
「雪の峠」は、今は入手困難なんだよね。

6 :人間七七四年:2008/03/09(日) 01:36:55 ID:ywOKQjoS
家康から隠居を申し渡された三成を佐和山まで護衛したのは佐竹勢で本当?

7 :人間七七四年:2008/03/09(日) 02:44:10 ID:Lm1o5GVw
ま た イ左 ケケ 厨 の オ ヵ 儿 ├ ス レ ヵ`

8 :人間七七四年:2008/03/09(日) 03:05:15 ID:9zftFmnb
>>6
それって結城秀康じゃなかった?
そのときのお礼に三成が秀康にあげた脇差が正宗で
「石田正宗」と言って越前家の家宝になったとか

9 :人間七七四年:2008/03/09(日) 03:38:27 ID:ywOKQjoS
>>8
勘違いだった。確かにら結城秀康であってる(家康の指名だった模様)。

義宣が三成を護衛したのは、武断派襲撃後から隠居までの間で、
小西や宇喜多と共同してとのことらしい。

10 :人間七七四年:2008/03/09(日) 11:04:11 ID:ZdQgTE3V
佐竹は鹿嶋の殿様を「酒っこ飲みに来い」言うて毒殺したデレスケのゴヂャッペ

11 :人間七七四年:2008/03/09(日) 11:09:47 ID:ZdQgTE3V
デレスケは栃木茨城福島の方言でくず野郎。ゴヂャッペは嘘つき

12 :人間七七四年:2008/03/09(日) 12:22:04 ID:f7mnEjG/
重複しています
こちらへ移動してください

\●/佐竹氏を語るスレ 其の2
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185375928/

13 :人間七七四年:2008/03/09(日) 20:00:28 ID:Y2vbzgRD
ちくらっぽ言ってんな

14 :人間七七四年:2008/03/10(月) 04:31:32 ID:FvxH7bh5
「もとより諸将に対して悪意は無いが、公命に背いていない治部少輪を討つのは私怨。危急を見過ごせず救援したまで」


やっぱり格好良い!


15 :人間七七四年:2008/03/11(火) 19:15:24 ID:9ta/11fm
野戦指揮官としてはどうかな? さすがに親父殿にはおよばないはずだが。

16 :人間七七四年:2008/03/11(火) 19:42:22 ID:OPKuXIBy
>>15
義宣って野戦で指揮取る機会
大阪冬と摺上原、小田原時の忍の他にあったっけ??
家督もらってから惣無事令までの期間が短くて
野戦指揮の機会はほとんどなかったのでは?

17 :人間七七四年:2008/03/12(水) 10:43:48 ID:tnv/5N18
困るほどの律義者の従兄弟は困るほどの不義理者。
本当に同じDNAが含まれてるのか?

18 :人間七七四年:2008/03/12(水) 15:59:13 ID:lVPNVqKq
>>15-16
そもそも初陣っていつだ?


19 :奥七郡の人:2008/03/12(水) 23:12:08 ID:5Dh/0FsL
義宣の初陣は天正13年と言われる
天正14年初頭に家督を継ぎ4月には総大将として軍勢を率い下野を転戦した
それ以後、常陸南部や下野・陸奥に出陣し北条方や伊達方の軍勢と戦いを続け
小田原の陣・奥州仕置でも佐竹洞中を率いて出兵した
その後、浅野に従い常陸の反抗勢力を討伐した

20 :人間七七四年:2008/03/13(木) 04:41:01 ID:k6XoqFlO
>>19
家督継いだのって天正14年だっけ?
俺の記憶では天正17だったと思うんだが…
といっても文献などで確認したわけではないので17が事実かどうかはわからないが

21 :人間七七四年:2008/03/13(木) 06:25:07 ID:eh9RLI18
(豊臣)天下の六大将。

22 :奥七郡の人:2008/03/13(木) 17:47:11 ID:Sg5EWhgu
>>20
天正14年4月に初めて義宣が軍勢を率いて宇都宮氏へ後詰めした事が宇都宮国綱の書状に残されている(宇都宮家蔵文書)
また、この一連の戦いで義宣が感状を発給している(秋田採集文書)
7月には大山氏と起請文を取り交わした
ただ、天正14〜15年の書状は義重との連署のものが多く、義重が後見していた事が伺える
天正16年以降は義宣のみの文書が大半を占めるようになっている事から
天正14に家督を譲り16年までには完全に義宣へ委ねられたと見られている
佐竹家譜では富岡与一左衛門訴帖に義宣が17才で家督を継ぐとあることから
生年から見て天正14年であるとしている

23 :人間七七四年:2008/03/13(木) 18:47:59 ID:k6XoqFlO
>>22
なるほど、ありがとう
確かに天正14年ごろは近場でも上方でも情勢がめまぐるしく変わってたから
いきなり義宣を全面的に前に立てるのは難しかったのかもね。

24 :人間七七四年:2008/03/13(木) 22:53:04 ID:JAmbFwqM
弟達とは仲良かったの?

25 :人間七七四年:2008/03/14(金) 14:16:48 ID:+qwIl/ww
末弟以外は10歳にも満たない頃に養家に入ってしまったから兄弟の仲を感じる暇もなかったんじゃないかな?
末弟の彦次郎は年が40以上離れてるからこれはこれで弟のような気がしなかったかもしれない
佐竹関連本では子供のできなかった義宣が我が子のように可愛がった云々と書いてあるのをよく見る
実際のところはどうか知らんけど一時世継ぎに据えたのは事実のようだ

26 :人間七七四年:2008/03/14(金) 20:08:07 ID:qIwHtJ0f
六大将…徳川、上杉、毛利、前田、島津、佐竹
と言うのだろうが、
六番目は宇喜多だろう?

27 :人間七七四年:2008/03/14(金) 20:22:58 ID:gVy2lZVF
朝鮮出兵時の出陣式では、佐竹は伊達政宗の後を行進している。
当時の両者の力量を端的に示している。

28 :人間七七四年:2008/03/14(金) 20:32:50 ID:+xcC5o7m
>>27
全体の順序をkwsk

29 :人間七七四年:2008/03/15(土) 02:15:34 ID:oY6AXpyD
伊達はおだてて朝鮮に送り込む気だったんだからしゃーないわ

30 :人間七七四年:2008/03/15(土) 04:52:27 ID:9WDBdA11
煽てるも何も命令が出たら嫌でも海渡る事になるだろ‥

31 :人間七七四年:2008/03/15(土) 09:45:19 ID:tGOQdE7J
佐竹厨の特徴はやたら伊達家に対抗意識燃があるとこだね。
完全に格下なのにな

32 :人間七七四年:2008/03/15(土) 10:47:37 ID:+PIHOFfQ
侍従止まりの佐竹が
中納言の宇喜多や織田
少将の伊達を
差し置いて豊臣六大将?

33 :人間七七四年:2008/03/15(土) 10:52:35 ID:D4h6c+wx
>>31
格下だと思っているのならこんなところまで来て暴れないでください。
普通にしてれば佐竹系スレは北条方の話や白河あたりの話で楽しくやれるのに
伊達の方々が来るとどうしてか人取り橋の話や石高比較の話になってしまい不毛です。

佐竹なんかよりもっと大きくて、あなた方が思う伊達と同格以上で、
かつ伊達が渡り合った相手のスレがあるならそちらへ行って存分に思いの丈をぶつけてきてください。
大崎スレとか。

34 :人間七七四年:2008/03/15(土) 11:15:40 ID:D4h6c+wx
>>32
「豊臣政権の六大将」が豊臣政権化のいつ頃言われていたことなのでしょうかね…

宇喜多は57万石ですから公式発表における石高としては佐竹より上。
官位も従三位の上一応秀吉の一門衆。六大将に入ってないのは確かに不思議です。

伊達が少将になったのは慶長二年。秀吉のほぼ最晩年でした。
伊達は豊臣政権化では冷遇されてる感がありますね。経緯を考えると仕方ありませんが。

逆に佐竹は実力というより三成と懇意だったということや、
立地などの物件的に厚遇されています。そういう面も加味しての六大将かもしれません。
宇喜多に関しては実に謎ですが。

35 :人間七七四年:2008/03/15(土) 11:25:06 ID:tYj29Wqh
単純に宇喜多は豊臣準一門(秀吉猶子)なので除外されていると思っていた

36 :奥七郡の人:2008/03/15(土) 11:25:24 ID:xoZ43/JY
いつも自分らで突っ掛かって来て伊達に対抗意識持ってるとか言われても困るわな

37 :人間七七四年:2008/03/15(土) 11:55:15 ID:+PIHOFfQ
そうか岐阜中納言は主筋だし、
備前中納言は身内だからランク外か
勉強になりましたm()m

38 :人間七七四年:2008/03/15(土) 14:15:04 ID:XjpuvLyh
伊達に対して格上・格下という感情は無かったんじゃないかなあ。
というのも身内だからさ。身内親族にそんな感情持たないだろう。普通は。
一蓮托生みたいなもんだもん。

それだけに政宗が佐竹領を攻め出したときは
心底「なんでやねん!!」と思っただろうな。水戸の人だけども大阪弁で。
それくらいの行為。まさに寝耳に水の行為だったろう。

39 :奥七郡の人:2008/03/15(土) 15:28:59 ID:xoZ43/JY
さすがにそこまでは甘くないかと
周囲はみんな親戚みたいなものだし
佐竹の宿敵である小田や那須だって親類
伊達あたりは遠方だから大して関心がなかっただけで
お互い激しい敵意を感じ始めたのは天正15年の葦名氏後継問題からだろう
それも豊臣氏の東国進出により3年程で終った

40 :人間七七四年:2008/03/15(土) 19:03:59 ID:ARdsdPZR
南陸問題は複雑怪奇、て混沌状況だったからね
血縁があるからこそ紛争の種になる

大体、佐竹は身内同士の争いで中世の大半を過ごしたようなものだ
それを克服したからこそ、戦国期には一門の分裂だけは起きなかったが
義宣の代にも大掾一族の謀殺、秋田での老臣粛清等々やっとるね

41 :人間七七四年:2008/03/15(土) 23:24:22 ID:jMY5JLSa
血縁というか義宣の場合は長男で()多分姉がいるが)本家だからな。
秋田で兄弟くわせなあかんからね。
戦争より内政を取った場合・内政でもうけたお金で食べていこうと思った場合
久保田城を選ぶわな。平野だしね。そのいざこざで粛清が。

まあ宿老粛清はさすがに問題だが、
将来を考えれば久保田選ぶわな。律義者の場合は、ここらへんのビジョンがはっきりしていたな。
兄弟改易されて戻ってきているわけだし、一族の長としてこれからずっと皆を食わせなならん。
だから武器は捨てよう、秋田で開拓者となろう。という・・・
まあ、大阪の陣にはもちろん参加はしたけどね。基本は武士だしね。

ただ、リチギーがそこまで皆を思っても、芦名の残党は最終的に迎合できなかったみたいだね。
一度は常陸で復興したものの移転後は角館。そこでまた復興を目論むという。
やはり他家だからな。居心地悪かったのか復興だけは忘れられなかったのか・・・
とにかくいろいろ絡んでいるので難しい。

42 :人間七七四年:2008/03/16(日) 22:47:31 ID:iBeTeWZL
>関東、南奥州の盟主にして武田家無き後は源氏之頭領!

こんな事誰も言ってないし書いてもない


>若年に家督を継ぎ、後北条の関東侵攻を阻止に立ち上がり、仙道方面では伊達政宗を圧倒!

仙道方面で圧倒してたのは政宗
どうせ煽るなら北条も圧倒と書けばいいのに何で伊達だけ?


>武田信玄、上杉謙信と対等に渡り合いあった戦国最強武将佐竹義重の武勇伝を語り合おうではかいか!!
実際にやり合った北条を差し置いて、何故一度も戦った事もない上杉謙信と武田信玄?

結論 >>1=北条厨

43 :人間七七四年:2008/03/17(月) 05:09:13 ID:ggh4so6i
なんか、、、誤爆乙

44 :人間七七四年:2008/03/17(月) 07:27:59 ID:21P34qHc
佐竹には実弟の芦名・岩城・多賀谷の三大名や相馬が寄騎に付けられた。
佐竹+寄騎大名の石高は、宇喜多や伊達を凌いでいる事実がポイント。

45 :人間七七四年:2008/03/17(月) 08:53:04 ID:/7vkqP+V
>>44
相馬と佐竹って血縁関係があった?
地理的に近く懇意だから寄騎になっただけ?

46 :人間七七四年:2008/03/17(月) 12:01:45 ID:X0R3g9vU
相馬利胤の最初の妻が芦名氏だし、東北の大名なんてほとんどが何かしらの形で親族になっている。
また、相馬氏の改易が決まりかけたころ、義宣が「うちらの領知のうち一万石わけるけど来る?」と
呼びかけている。ちなみにこの両家は江戸時代も互いに養子を迎えるなどしており、結構親密だよ。

47 :人間七七四年:2008/03/17(月) 14:57:56 ID:/7vkqP+V
>>46
細かい解説、感謝です。
「一万石あげるから〜」ってのも凄い話ですね。

それを断って自力で本領安堵を勝ち取った相馬も凄いですが。

48 :人間七七四年:2008/03/17(月) 15:16:27 ID:ggh4so6i
>>47
たしか相馬は伊達とも仲良くて、
本領安堵には伊達の裏添えがあったとかどうとか
相馬は田村とかをバリバリ攻撃してる印象が強いが
もしかしたらみんなに好かれるタイプだったのかもしれん。

49 :人間七七四年:2008/03/17(月) 18:02:42 ID:FBB7o3EV
まあ昔は相馬も佐竹も一貫して北朝だったからな
しかも周りを結城伊達北畠に囲まれて

50 :人間七七四年:2008/03/19(水) 02:10:55 ID:KTDCj3Iw
相馬の場合は、元々は伊達家から嫁を貰っているから。
大乱ではそういういきさつで種宗側について以来、延々と揉めていた。
ちなみにそのあと何十年立ち、政宗と和解し、その後はだいぶ伊達派になっていた。

それから数年たった頃、伊達家側に寄り出した田村家と揉めて、また伊達家と戦う羽目に。
その後、政宗の人材スカウト戦法で骨抜きにされ、滅ぼされる寸前に。
でも小田原参陣で生きながらえたが、徳川の世で佐竹派とみなされ改易。
というのも16代の娘が佐竹貞隆の妻なので、佐竹派扱いになっていた為。

その後大名復帰。新井白石の本で、政宗の口ぞえで大名復帰ということになっているが、
これは謎。むしろ政宗は相馬領はほしいだろうしな。そこまで口ぞえしないと思う。
とはいえその前年に上杉家に共同で攻めたりしているからありうるかも知れん。謎。


51 :人間七七四年:2008/03/19(水) 09:10:31 ID:V7D/EpRQ
地政学上(茨城県)面白い位置なってしまってたよね。

52 :人間七七四年:2008/03/19(水) 18:18:34 ID:rDokS0Iw
愛姫の母親の実家だし複雑なんだよ

53 :人間七七四年:2008/03/20(木) 16:01:12 ID:ahR9YLgb
>>51
茨城県が面白い位置って?

54 :人間七七四年:2008/03/25(火) 17:15:29 ID:jvzTbumq
徳川期には徳川から
姓も名も貰えなかった
国持ちは山内と佐竹?

55 :人間七七四年:2008/03/28(金) 17:25:32 ID:Xu/nsa2T
>>54
山内二代目忠義は秀忠からの偏諱と松平姓を賜ったはず…。山内三代目の忠豊の「忠」は秀忠からの偏諱かどうかは判りません…。

56 :人間七七四年:2008/04/06(日) 17:51:26 ID:u9p0dtDX
なんかもぅ徳川より豊臣の武将というイメージが強いからね
そんな経緯でもらえなかったんじゃ?という単純な話ではさすがに無いか

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