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【討議】中国名将列伝【選抜】

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/23(土) 16:49:42 ID:m2G4f/Kg0
時代・民族枠関係無し、定義無しであれこれ名将について
決めよう、語ろう、自由にやろう。




2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/23(土) 16:53:39 ID:m2G4f/Kg0
さあどの名将から語ろうか?

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/23(土) 17:01:24 ID:m2G4f/Kg0
韓信、李靖、孟珙は外せないな。

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/23(土) 19:17:24 ID:0nJp6bd9O
守護神 孟キョウ 李牧 楽毅

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/23(土) 22:01:29 ID:RYVWwXtT0
五胡の魔神 慕容恪 慕容垂 石勒 劉曜


6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/24(日) 00:05:47 ID:Fnzjy44D0
もうきょうよりもてきせいの方が評価高いんよな?

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/24(日) 00:14:51 ID:wWUrfBL50
沈尹戌、項羽、霍去病、楊業

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/24(日) 08:14:19 ID:/RgDy0Uw0
>>6
評価はよく知らないけど人気はあるみたいだね。
面白いエピソードとか多いし。

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/26(火) 22:05:13 ID:s9mzYB5PO
馬援
光武帝とのエピソードも好きだし。

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/26(火) 22:17:36 ID:kUh6hsY90
【確定は】 中国名将百選 其ノ四 【誰だ!?】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1176597949/

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/26(火) 22:58:53 ID:OwLYXtlj0
宋の襄公
弱いのに礼を守って負ける高潔さが好き
ただ、上司だったら嫌なタイプ

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/26(火) 23:12:46 ID:QHbJdUeM0
なぜ名将?
しかも高潔って?
泓水の戦いの部分しか知らないのか?

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/27(水) 01:18:50 ID:bcvIBTLZ0
郭子儀を挙げておく。

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/27(水) 05:01:10 ID:qT0am3bP0
劉禅だな
ただし敵将として

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/27(水) 12:58:05 ID:+Tlh0AtW0
白起

彼が死を賜ったとき、どんな罪でこんなことになったのか自問自答
して、長平で投降兵数十万を生き埋めにしたから充分死に値する
といったというエピが好きだ
切ないけど、納得できる

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/27(水) 21:25:59 ID:TG2hau5F0
やはり楽毅ははずせないよな。
楽毅が燕の昭王に対して送った『恵王に報ずるの書』とか仁義を強く感じるな。
諸葛亮も彼の生きざまを手本としたって言うし。  
ただ戦上手なだけじゃないってところに強く魅力を感じるし。

17 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/05(木) 22:21:19 ID:lKkyeG610
名将100選スレから初めてこっちのスレに来てみました。
そいだら>>3さんが孟珙・李靖・韓信は外せんという意見を出してくれとって、おれと同意見で嬉しい。
とりあえず俺的三傑の雑感。

孟珙はモンゴル軍を南宋領に一歩たりといれてない上、
四川から襄陽にかけて対蒙古防衛ラインを構築、自分の死後までそれが機能するよう残したあたりで非凡。
晩年にはモンゴル軍を逆に圧倒したうえ襄陽で衆数十万を集めて北伐しようともした傑物やし、
朝廷に止められんかったら中原からモンゴル軍を駆逐できた可能性かなり高い。
易と仏教に通じて教養も非常に高いし、温厚篤実、ストイックで部下や民衆からの信望も極めて厚かった。
宗沢・岳飛・狄青・楊業らに比べても頭一つ抜けとると思う。節度使で制置使で枢密院承旨やし。

李靖は中華統一戦においては李孝恭と戦功が折半されるところもあるけど、
天下統一後の突厥討伐戦が凄い。騎馬民族に騎馬戦挑んでことごとく勝って滅ぼすっちゃけん半端な将才じゃない。
しかも宰相としても天才級。なかなかおらん人材です。

韓信はいちいちエピソードを持ち出すまでもなく、「国士無双」の四文字が彼を語るかと。
ただ、戦と同じくらい政事にセンスがあれば漢と楚を喰い合せて斉帝国を打ち立てられたのになぁというのが残念。

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/06(金) 21:32:23 ID:Cw3DWnRYO
あの頃のモンゴルの状況を鑑みた上での発言なら、驚くな。

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/06(金) 23:35:21 ID:avfkwUD40
孟珙と余玠のコンビなら中原回復もあったかもね。
宋の兵士じゃなけりゃ・・・。

余玠(生年不詳〜1252)
>>17で>四川から襄陽にかけて対蒙古防衛ラインを構築、とありますが、四川に関してはこの余玠の築城知識と技術に拠るところが大きいかと。
1236年から各地に侵攻してきたモンゴル軍を撃破。
(襄陽の孟珙への援軍としても活躍。)
1241年、戦局不利となっていた四川方面に四川安撫制置使兼知重慶府兼四川總領兼夔路轉運使として赴任。
汚官の弊害を除き、屯田を布き、十余の城を築き防御を固めた。
四川に侵入したモンゴル軍と大小三十六戦を戦って全勝。
十年間、四川の地を守り通した。
1252年、讒言により自害したと伝えられる。
(「宋史」には、彼の死を知り、四川の民は皆、父母を失ったかのように悲しんだ、と記されている。)

1259年、モンケ・ハーンが攻めあぐね陣没した釣魚城は、この余玠によって築かれた城である。

20 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/10(火) 00:12:07 ID:GBDa7rBU0
>>19さん
宋の兵じゃなけりゃ、のくだりは
俺的には宋の腐敗した官僚体制が取り除かれれば、やと思う。
岳飛だって弱兵率いて金軍に連戦連勝したんやから、
要は指揮官の権限を朝廷がどこまで認めるか、やろーと。
ところで南宋は王偏のつく部将が妙に強いね。孟珙、余玠、ちょいと遡って呉玠とか。

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/10(火) 21:43:24 ID:FhA7452S0
釣魚城で調べてみたんですが、サイトによっては「モンケがこの戦いで重傷→崩御」という説をとっているところもあるんですね。
(「疫病の流行→病死」という説が一般的なようで、わたしもそう思っていたんですが。)

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/10(火) 22:49:16 ID:pW2gANOj0
>>17
◆oOLAqFKRB.さん
>おれと同意見で嬉しい。つーか>>3はあんたのよく知ってる奴だもの。
まあここなら誰にも気兼ねなく思う存分語れるから好きなだけ発散していきなよ。
その為に立てたスレなんだし。

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/11(水) 22:20:05 ID:ubH4cKAp0
>>17
◆oOLAqFKRB.さん
> 宗沢・岳飛・狄青・楊業らに比べても頭一つ抜けとると思う。
爵位以外の理由は?どれも引けを取らないと思うけどな。

ここからは個人的感想を陳開。
孟[王共]も狄青みたいに上司に恵まれてたらよかったのに。
そしたらモンゴルと勢力を二分してたかもしれないし。
狄青は范仲淹に范仲淹からは厚遇を受け、『左氏春秋』を授かり
その後狄青は読書に励み、兵法に精通、更なる戦功を上げ、枢密副使にまで昇進してるし。
(最終的には枢密正使になってるけどね)
頬に兵卒の刺青してて、兜を付けないでザンバラ髪で戦ったり、銅銭を使った願掛けで士気を高揚させたり
(二枚を張り合わせ絶対表が出るようなトリックつかってるけど)
対西夏戦や儂智高の乱を討伐や崑崙関の戦いで儂智高の軍勢を打ち破ったり
戦上手なだけでなくエピソードも豊富だよね。

>>21
俺もモンケは(「疫病の流行→病死」という説を本で読みました。

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/11(水) 22:30:12 ID:BGpD1z7i0
狄青は正史で「辺境にあっておよそ二十五戦、大勝もないけど大敗もなかった」って書かれてるのが面白いと思った

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/11(水) 23:19:13 ID:ubH4cKAp0
南宋の名将と云えば孟[王共]や余[王共]に目が行ってますがこんなんもいるよと一応紹介。

国の防衛だけでなく、人事においても優れた手腕を発揮、
趙汝愚・周必大ら孝宗の治世を支えた有能な政治家を推挙した虞允文。
800の兵で4万の西夏軍を打ち破ったり
200の寡兵で金兵5000を破る戦果を挙げ
以後も対金戦で活躍し、数度侵入を阻まれた完顔兀朮に武勇に感嘆させ
孝宗即位後も金との戦闘で常勝を誇った李顕忠。
幼い頃から兵法を学び。
金主亮が和約を破り宋に攻め込むと、数万の義勇兵を従えて出陣。
楊州の金軍を背後から攻撃し、海州の包囲を解くのにも活躍し、
功を称えられ検校少保天雄軍節度使などの官位を得た王友直。 
知略・武勇に優れ、弓術と大刀の扱いを得意とし、
戦車・弩車・炮車といった兵器を開発して戦場で活用。
金軍が南進を開始すると、義勇軍を率いて淮河を渡り、金軍に戦いを挑んだ魏勝。
内政や異民族討伐に功があり、
孝宗から「文武に威風あり」と称えられた趙汝愚。 若年の頃から父・兄に従って各地を転戦し、
金軍や国内の反乱軍との戦いで功を立てた趙葵。


26 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/12(木) 01:34:01 ID:s/yiDFzC0
>>23
孟珙が頭一つ抜けとると思った理由はまぁ究極的には個人的好みなんやけど、
とりあえず弁明を。
まず楊業。
勇敢で用兵に長けたってのは確かやけど、「一代匹夫の勇」って感じがなんとなく
見え隠れする。むしろ擒らわれたあとで遼朝に願えるふりをして完治してから北宋に
帰参したらもっと評価高かったかも。あと、バカ潘美の作戦を愚直に効く必要もなかったと思う。
お次は狄青。
北宋最高の名将なれど西夏と戦って決定的な勝利をあげた記録がない。>>24さんの書き込みどおり
「大勝もないが大敗もない」という傑出した部将というよりバランス型だと思うので。あと、この人は
上司に恵まれすぎやろ。范仲淹がおらんかったらあそこまで昇進できたか怪しい。
さらに宗沢。
この人が一番孟珙に近しいレベルにあると思う。義勇軍の大兵力を編成して金朝に逆撃しようと考えたのは
孟珙が襄陽に大軍集めて北伐敢行しようとしたのと同じスケールやと思うし。ただ、この人は活躍するには
年が行き過ぎとったと思う。20年若かったら中原回復したかも、って中央官界の汚濁があるかぎり無理か。
ラスト、岳飛。
掛け値なしの超絶英雄。戦場ごとの武勲は隠れもなしなんやけど、孟珙ほど先を見据えた戦略眼を備えていたかどうか。
あと、この人才能があるのを鼻にかけて他の軍閥の人たちを見下しとった感があるし。張俊なんかはそれでムカついて
秦檜の謀略に加担した。どっかの本で読んだけど相当の酒乱で酒が入って部下を殴り殺した経歴があるとか、
張飛の再来と呼ばれたとか、不名誉な記録あり。
というわけで、
自分の死後までの国家戦略構想を打ち立てた(賈似道が台無しにしたけど)孟珙が一番ではないかと。
戦場を駆け巡って自分で暴れまわるのも得意やし、
大本営から部下達に指示を飛ばす(四京回復はほとんど部下がやった)参謀的役割もこなすし。
あとこの人は奥ゆかしくて腰が低かった(その上で民衆から「我らが父」と慕われた)って人格麺で岳飛を上回ると思うし、
役と仏教に造詣が深い当代一流の教養人やったってのもポイントかと。
まぁ、単に俺が孟珙好きじゃあゆっとるだけやけん、明確な根拠はないです。お気になさらず流してくれると助かります。

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/12(木) 02:34:16 ID:H9cNTVaa0
好き嫌いで語っていいなら、俺の好きな中国史の人物は何故か坑金、坑蒙、坑清の人達ばっかりだなw

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/12(木) 02:46:46 ID:Wyy/FdL30
白起とか項羽とかみたいな将軍ですか><

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/12(木) 03:06:45 ID:PwHrmS+c0
バカ潘美って……

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/12(木) 06:52:46 ID:gbY5eqPB0
>>27
個人が好きなように語っていいんだよ。
ここは変なこだわりをとっぱらって自由気ままに武将のこと語ろうよって趣旨で
スレ立てたんだからさ。

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/12(木) 11:34:44 ID:PHE4IwnT0
>>26
人の好き好きなんだからいってもしかたないとは思うが。
潘美は軍事面では当代一といっても過大ではない(適当でもないと思うが)ほど優れた将。
人格面で相当な難があったのは事実で、楊業のファンから毛嫌いされるのも当然だとは
思うが。

あと孟珙の構想を壊したのは、賈似道でなく賈似道の足をひっぱったヤツらだと思う。
賈似道は軍将としてはともかく、国家の指導者としては間違いなく優秀。孟珙の死後、
彼が政権を執らなければ南宋の衰退はもっと早く進んだだろう。

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/12(木) 12:30:54 ID:aqpsOzif0
南宋末期の人物だったら名将とはいえないかもだが夏貴が好きなんだよなぁ

賈似道がガンガン将軍を罷免してったときも残ったし
宮崎市定は当時の軍隊は略奪がひどかったから罷免されてもしょうがない
みたいなこと言ってたな
ま、それを利用して賈似道が自分の権力を固めた面もあるにせよ

そん中で夏貴だけが略奪を行わなかったとか

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/12(木) 20:37:21 ID:p0FNEVNh0
>>31
賈似道が有能なのはわかるが、余玠や王堅の死に関わってるっぽいのがなぁ・・・。

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/12(木) 20:40:40 ID:2G8qqDSt0
名将って、道徳的な部分はどうするの?
戦績だけじゃなくて、略奪しないとか、降伏兵の扱いとか
そういうのも考慮されるのかな?

35 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/12(木) 20:55:41 ID:vqKTInhF0
>>34さん
自分の裁量で決めていいんではないかと。
ここはそーいうフリースペースだと俺は思っとるし。
(じゃなきゃあそこまで孟珙以外の四将をこきおろせん)

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/12(木) 21:51:33 ID:gbY5eqPB0
>>34-35
>>1に書いてるように時代・民族枠関係無し、定義無しであれこれ名将について
決めよう、語ろう、自由にやろうを旨にしております。
各自が思うであろう名将を挙げていただければ幸いです。

◆oOLAqFKRB.さん>>26のレスdでした。
俺も孟[王共]は好きですがただ楊業、狄青らとの差って何?と思ったもんですからちょっと聞いてみました。
生来知りたがりなもので…スマソ
迷惑ついでといってはなんですが
策稜(ツェリン)ことサイン=ノヤンについて簡単にでいいのでご教授願えませんか?
ガルダン・ツェリンを撃破し超勝の称号を与えられたのと
兆恵(ジョーホイ)と並んでジュンガル討伐に活躍した以外知識がないもので…
個人的には岳鐘[王其]と明亮が好きですね。
あと戦う豆腐屋宋景詩とかも。

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/12(木) 22:50:07 ID:cTsNUrXC0
なんか突然良スレ化してるね。
岩城氏もついにこちらへお出ましですか。

楊業について、ふと。
前に《十国春秋》には伝がない、って言ってたでしょ。
あれ、実は楊業は劉姓を名乗っていたんですよ。
で、仮子によくある輩字の「継」をもらって劉継業という名前で北漢のところに立伝されてます。
内容は宋史のと変わりないですけどね。
でも、並びが親族のところだから、たぶん劉承鈞の仮子だったんじゃないかと。
親父の名前が楊信で、後晋期の叛将・楊光遠の息子と同じだから、一瞬びっくりしました。
(楊光遠の息子は、楊承信→楊信)
結局、北漢時は何をしていたか、よくわからないですね。


38 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/12(木) 23:30:43 ID:ZvmD3Orc0
>>36さん
ツェリンについて了解しました。あんまり長くなると悪いんで駆け足で。
ボルチギット族ハルハ部の人で自称チンギスの20代の子孫だとか。
13歳のときジュンガルのガルダン・ツェリンがハルハ部を圧迫したので
清朝に内附、康熙帝に才知を認められてその娘を妻に娶ります。
康熙初年、ガルダンが数十万の大軍を編成して南下してきたとき、
前任者(名前忘れた)が敗れます。そこで起用されたのがツェリン。
敗戦間もないことで十分な兵力もなかったのですが、ツェリンは機略縦横の用兵で
ジュンガルを撃破します。
そして雍正帝の御世にはまたも宿敵オイラートからツェワン・アラプタンが侵攻、
これを大破してその名は天下に轟きました。
その後もオイラートはしばしばハルハの地を侵すのですが、ツェリンはその全てを
撃退しています。功績により多羅郡王。のちホージャ親王とされます。
因縁のオイラートはツェリンに対する報復行為として彼の二人の息子を攫い、
タミル渓谷に逃亡しましたが、ツェリンはわずかに(オイラート軍と比較しての話)二万の
兵を率いてこれを追い、エルデニ・ジョーで大会戦、徹底的オイラートを破ります。
この活躍で雍正帝から超勇公の称号を下賜されました。
その後ジュンガル、オイラートの残党討伐に活躍、雍正41年、労病をもって致仕。
死後康熙帝の帝陵に倍相されましたが、モンゴル人でその栄誉に浴したのは
ツェリンとセンゲリンチンの二人だけです。
ツェリン個人に関してはこんな感じで。

サイン・ノヤンはツェリンの属するハルハ4部の盟主の称号ですね。
分裂していたものを康熙帝の命令でツェリンが統一し、
その最初の盟長となったのが始まりです。

とまあ、駆け足といいながら長文になりました、すんません。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/12(木) 23:33:10 ID:2G8qqDSt0
太平天国忠王李秀成かなぁ
イカれた主君に振り回されて、もう一歩で上海がとれなかった
それでも南京陥落後も、幼君(でもないか)を守って脱出しようとする
捕まって、供述書を書かされ、媚びるような表現もあったとことから
投降分子などと批判されたりもしたらしいが、充分太平天国のために
尽くしたと思うんだよね
彼の部下にリンドレーというイギリス人青年がいて、それが従軍記
を出版している
まあ、この著の評価はいろいろで、持ち上げる気はないのだけれど
それでもその書の献辞として
 本書を太平軍総司令官
 忠王李秀成に献ぐ
       もし亡き後であれば
       その思い出のために
とあるのが切なくてしょうがない


40 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/13(金) 00:08:22 ID:JVS7MJK10
>>37さん
俺を岩城氏と呼び十国春秋の話を振る貴方は、◆RQdk7scN8sさんですか?
やとしたらまた唐末〜五代の熱い話を読ましてもらえるんでしょーか。
一住人として楽しみにしとりますよ。



41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/13(金) 04:12:10 ID:9iZ894Vo0
>>38
◆oOLAqFKRB.さん ツェリンについてご教授dです。
面倒なことばかり言いまして申し訳ない。
超勝ではなく超勇ですね。勘違いしてました。
それとですね、ここは個人が思う様に語っていただければ
スタイルにはこだわっていませんので長文についてはあまり気にしないで下さい。
またわからない事があったらご教授お願いできますか?
◆oOLAqFKRB.さんのレスはすごく勉強になるし。  

>>37
同感。久しぶりに覗いたら岩城氏が熱く語ってたのでビックリした。
活気というか活性化させてくれた◆oOLAqFKRB.さんに感謝感謝。


42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/13(金) 20:32:23 ID:TBfw69Rt0
>>40
こんばんは。
唐末五代北宋極めて初期しか語れないから、行き場はかなり限られております。
一番好きなのは後周世宗なんですが、在位期間が短いのがなんとも。

孟珙の対蒙古防衛ラインに対して、こちらは対契丹防衛ラインを、
河北の滹沱水(こだすい。瀛州、鎮州の線で流れる河)、胡盧河(深州、冀州の間の河)を基準に構築し
契丹の常習化した侵入を大きく防いで(瀛州は燕雲十六州の最南端)、後年には北伐の足がかりともした。
その防衛ライン構築は、王彦超、韓通が実際に指揮をとったけど、一時契丹の重囲に陥るほどの危険な作業だった。

ところで、後周軍団といえば趙匡胤がいの一番に上がると思うけど、そのせいでか韓通は地味キャラ扱いに。
実際、韓通は嫌なヤツだったようだけど、趙匡胤が武名を挙げる前から顕職にあったベテラン。
禁軍の幹部から、出鎮し節度使を歴任し、ただ軍事にのみの精通ではなく、郭威親征時の首都防衛や
黄河の治水など多方面に手柄をたてていた。
そのせいでか、柴栄も留守番、外城建築などテクノクラートと見紛う使いようで、その分戦場でど派手な手柄
を立て続ける趙匡胤に、大きく水をあけられた感じがする。
まぁ、良将の類だけど。

百撰で語れんような地味な良将系を語るのはスレ違いかなぁ?


43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/13(金) 20:41:50 ID:E54n8+on0
地味な良将について語れる人には語ってほしいな。

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/13(金) 20:59:54 ID:phbbDzUn0
陳慶之に勝ったことで有名な堯雄の話でもしようか

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/13(金) 21:58:15 ID:9iZ894Vo0
◆oOLAqFKRB.さん、ちょっと調べてみたのですが
>>38で言っている前任者はフルダンでは?
ツェリン=ドンドブがアルタイ山を越えホブドに進駐し、
靖辺大将軍フルダンをホトン=ノールで撃滅されたとなっています。
(これは違う話?)
ちなみにツェワン=ラブタンの孫のアムルサナーはジョーホイに撃退されてますね。 うーん敵味方共にツェリンだしおまけにツェワンも紛らわしい名前が
なんとも多いですね。

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/13(金) 22:18:13 ID:9iZ894Vo0
>>42
>百撰で語れんような地味な良将系を語るのはスレ違いかなぁ?
いえいえそんなことないですよ。好きなように気兼ねなく語ってくださいね。
俺も柴栄(世宗)が好きなんですよ。
うーん過労死?しちゃったのがなんとも残念な気がします。
ちなみに柴栄スレでの柴栄と王朴に関するレスは貴殿でしょうか?
>>43
地味な良将かなと個人的に捉えてるを取り敢えず挙げてみます。
前漢の周勃、蜀漢の馬岱、孫呉の陸抗 西晋の羊コ、
諸葛亮の兵法も学んでいた馬隆、曹魏の諸葛誕、
靖難の変にて朱棣(永楽帝)を討ち取る寸前まで迫った平安。
ざっと思いつくのはこんなところでしょうか。


47 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/13(金) 22:19:26 ID:DC5eQ5hg0
>>45さん
フルダンは多分違うと思います。
ツェリンがガルダン・ツェリンを破ったのは康熙初年のことで、
フルダンがガルダン・ツェレン
(ツェワン・アラプタンの息子。いくらなんでもガルダン・ツェリンに似すぎ)に
に負けたのは雍正32年のことやから。
ただこの人も岳鐘hの副将として活躍してたりして、それなりの良将ですね。
独断専行の行いが多いうえにガルダン・ツェレンに負けて将軍を免職されとりますが。
死罪確定やったところを雍正帝崩御の大赦で釈放されたとか、運がいいのか悪いのかよく分からん人。

で、結局のところツェリンがガルダン・ツェリンを伐ったときの前任者は思い出せません。申し訳ない。

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/13(金) 23:35:08 ID:TBfw69Rt0
>>46
そうです。ちなみに、柴栄と五代スレのレスはほとんどが自分という…(遠い目)
王朴は翰林学士から枢密使になった、ばりばりの皇帝軍事顧問。軍師といってもいいのじゃないかと。
それと同様、宰相の王溥(王姓でも血縁関係はないけど)も、有能。

柴栄が即位間もないころ北漢の侵入があって、馮道などの主だった臣下のほとんどが、親征する柴栄を諫止していたけど
王溥だけは、皇帝親征を促したという…(ふつうなら非難の対象だけど)
さらに王溥は、秦・鳳奪還戦の指揮官として誰を充てるかというとき、例の高平戦のときに奮戦した
向訓を大将にすることを推薦した。
向訓は王景と、援軍でやってきた韓通とで、後蜀の李廷珪や王環を撃破し、四州を平らげた。
王溥は人事についての助言が多いけど、こういう逸話もある。

王溥は後漢の時進士に及第した科挙あがりの官僚で、郭威がまだ後漢の枢密使だった頃、彼に見出された。
郭威は当時、河中で挙兵した李守貞という重鎮を討伐するため兵を募っていたが、このとき王溥を従軍させた。
ちなみに、韓通も趙匡胤も、この乱と郭威の募兵が縁で彼の麾下に配属された。
(さらに言えば、柴栄の奥さん、符皇后は李守貞の息子の嫁だった)

乱鎮定後、河中の城中から李守貞と密かに連絡をとりあっていた、高官や節度使らの文書が発見されたが
王溥はこれを燃やしてなかったことにすれば、彼らも安心できると進言した。
劉秀や曹操と同じことをしたわけですね。

と、将ですらなかったですね。失礼を。


49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/13(金) 23:51:48 ID:9iZ894Vo0
>>47
◆oOLAqFKRB.さん、申し訳ないなんて言わないでよ。共に推薦合戦を繰り広げた同士じゃないですか。
(まあ他ではキツイこともいいましたがご勘弁を)

>>48
俺のよく知っている御仁のレスだろうなとは思っていましたが
やはりそうでしたかw
(まあその御仁からの御返答なのですが)
さっきも書きましたが本当に好きな様に語ってくださいね。

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/14(土) 00:14:44 ID:S8duR7Z90
岳鐘[王其]が岳飛の子孫って本当の話?

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/14(土) 21:35:11 ID:S8duR7Z90
>>44
その堯雄と穎川で寡勢で衆を制して激戦し、
堯雄軍を大いに打ち破った北周の宇文貴つーのもいますね。
堯雄については陳慶之が東魏を討ち、堯雄と戦ったが、利あらず帰還した。
元慶和が東魏の南頓を攻めたが、堯雄に敗れた。
とぐらいしか知識が…。


52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/14(土) 22:01:11 ID:S8duR7Z90
>>47
>運がいいのか悪いのかよく分からん人。
フルダンはホトンノールの地で数万の敵の包囲を受け大敗。
前線基地のコブド(科布多)に帰り着いたのはわずか二千あまりという惨敗ぶり。
別働隊としてウルムチを襲撃していた岳鍾[王其]は、
フルダンの敗北のとばっちりを受け、以後雍正帝の不興を買いつづけた。  
ツェリンがエルデニジョーでジューンガル軍を大いに打ち破る際も
敗走する敵を効果的に追撃することができず、
また賞罰や命令が一貫しない、兵士を愛さないなどの理由で
ついに将軍を解職される。
後にフルダンと共に復帰して金川への出兵で再び四川提督として起用され
金川土司莎羅奔(サラベン)に降るよう説得し、その功により三等威信公に封ぜられる。
四川のチベット土司の鎮定、反乱鎮圧に従事し乾隆十九年
重慶の民乱を鎮圧後に資州で死去。
彼は清朝唯一の漢人大将軍で漢人ながらその統率力と人望は
満州人からも崇拝されたんですよね。
(一部、話が被ってますがご勘弁を)

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/14(土) 22:38:36 ID:WZzpWDIA0
>>51
陳慶之が攻めてきたとき、場所忘れたけど堯雄はどっかで迎撃して
二ヶ所に傷を負ったけどますます壮んに戦って、陳慶之は輜重を捨てて敗走した

その後陳慶之が南荊州を囲んだ際に、直接救援に行くんじゃなくて
梁の重要拠点が手薄だからそっちを攻めれば囲みは解けるっつってそっちを攻略、
陳慶之が戻ってきたときにはその拠点はもう落とされていた
っていういわゆる「囲魏救趙」、リデルハート言うところの間接アプローチで意図をくじいた

陳慶之伝のほうには堯雄らを破ったって書いてあったと思ったんで
勝ったり負けたりしてたのかもね

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/14(土) 23:28:33 ID:8EM4vNqw0
>>勝ったり負けたりしてたのかもね
そりゃ、百戦百勝なんてないでしょ。

その「囲魏救趙」で思い出したけど、李克用、朱全忠、劉仁恭の三つ巴で、泥沼化した例がある。
まず朱全忠は燕を攻撃しようとした。燕の劉仁恭は焦って、一応自分を後押ししてくれた李克用を頼る。
その焦りっぷりは常軌を逸していて、使者が踵を接して前後100人に及んだとか(きょうびのスパムメールもびっくり)
救援なんかしたくない李克用だったけど、子の李存勗に「燕まで敵にまわしてどうする」と言われ援軍を出すことに。
しかし、直接の援軍ではなく潞州に配備されている梁軍を攻撃した。

潞州は汴州に近いから、「囲魏救趙」の故事に沿い、燕は救われるわけですが
ここで、劉仁恭は凡人には及びもつかない仕儀にでました。
まず、李克用の発した潞州方面への攻撃軍は、その前から潞州を包囲していた梁軍を標的
としていたもので、梁軍のほうは康懐貞以下10万の大軍を配備していたのですが、潞州の李嗣昭の堅守
により、なかなか陥とせずにいました。
そこで李思安に大将が交替された矢先のことでした。
晋の周徳威の先制攻撃を喰らい、李思安は大敗して夾寨へと逃げ込んだのでした。
その時点で朱全忠は燕攻撃を中断して軍を返しました。ここまではいいんです。
しかし夾寨へと逃げ込んだ梁兵が、これまたしぶとく周徳威も容易に攻略することができませんでした。
ここへきて、燕×梁で始まったはずの戦役が、いつの間にか晋×梁になり、潞州のにらみ合いが
夾寨に移動しただけとなったのです。

その膠着の最中、自分が攻められていたにも関わらず、劉仁恭は晋の持ち城である順州を攻めました。
もともと目付け的に割譲されていた順州は、燕の領内に食い込む州城だったので、劉仁恭はこの期とばかりに
これを強奪したのでした。なお、この順州の刺史は郭簡といい、後周太祖郭威の実父でした。
故に、郭威は2歳で孤児となる境遇を与えられたのでした。

五代初期の芋洗い状態は笑わせる…

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/14(土) 23:58:38 ID:S8duR7Z90
>>54
でも呉起は生涯負け無しだし、(引き分けはあるけど)孫武も負けたって聞いたこと無いなw      
ちなみに堯雄が居た東魏には慕容紹宗つー凄い奴がいます。  
(かの有名な宇宙大将軍こと侯景がもっとも恐れた人物)
この人は水上戦で暴風に乗っていた艦船がに流されちゃって、
西魏軍の艦船に囲まれてしまい、降参を恥と考えて投身自殺した、悲惨な御方ですが…


56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 11:14:51 ID:DqqSQcrA0
孫武は大国楚を預章の戦いで完膚なまでに破り、
楚の都郢に迫り驚いた楚の昭王は都を捨て楚の属国であった隋に逃亡してます。楚が水軍を率いて呉に迫って来た際には、
孫武は水軍を編成しこれまた楚軍を完膚なまでに打ち破り、
壊滅した楚軍は長江北岸へと敗走しました。
また勇猛な武将が精兵を率いて来ても殆どが孫武により殲滅させられてます。
あと百戦百勝にほぼ近いスブタイつーのもいますね。
完顔陳和尚に大昌原の戦で破れた以外は黒星無しですからね。
楚の荘王も確か晋の士会以外に負けたことがなかった気がします。
芋洗い状態なら東晋〜五胡十六国時代や南北朝だって負けちゃーいませんよ。

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 12:35:41 ID:UMb6dTOE0
>>56
小国とはいえ、ピークなときの国家間の戦いであれば、双方勝ったり負けたりが多いと思う。
そういうのは結構好き。
同じ指揮官同士の戦いでも、あの戦いではこっちが勝ったが、この戦いではあっちが勝った、みたいなの。

たとえば岳飛は相手が精強なときに連勝したからかなりすごいけど、防衛戦であったことは無視できない。
攻め込んで連勝する、というのは相手の弱化も大きな要因となっているはずですから、
それをもって勝率100%というのは、むろんふつうにすごいのだけど、物足りなさも感じてしまう。
相手を弱化させる前段階も、忘れてはいけないでしょうね。
そういうときの戦いは勝ったり負けたりが多いように思う。

>>芋洗い状態なら東晋〜五胡十六国時代や南北朝
ここで興味あるのは、北魏分裂後。武川鎮の連中は、晋のパンドラボックスの前身的系統なので
そういう意味からも興味あるなぁ。
「一軍中に五帝あり」
一平卒で編入された郭威を入れると、実に、後に皇帝となる人物が6人いた山西李存勗軍団。

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 14:53:34 ID:DqqSQcrA0
>>57
六鎮の乱後、朝廷は統制力を失い、軍閥が割拠するようになり、
懐朔鎮出身で北魏の実力者の高歓が「東魏」を建国しました。
これがやがて北斉王朝となります。
(ちなみに高歓の配下には慕容紹宗と侯景がいます)
一方ではライバルの宇文泰が「西魏」を擁立しました。
宇文泰は六鎮のひとつ武川鎮の出身で、宇文氏政権は、
やがて北周、隋、唐という三王朝を建国します。
宇文泰の西魏政権は軍国体制をとり、550年前後に胡漢の各部隊を混成した
二十四軍からなる府兵制を成立させ、
徴兵制を敷き、二十四軍を六人の柱国大将軍に分掌させています。
宇文泰自身は柱国大将軍の一人であると同時に、軍事の最高責任者として
柱国の最高位に就きました。
そして、柱国の下に十二人の大将軍をおいて二軍ずつを、
さらに二十四人の開府儀同三司をおいて1軍ずつを率いさせました。
この体制は北周王朝にも継承されています。
柱国大将軍や大将軍には
宇文泰と同じ武川鎮の出身者が多いようです。
武川鎮軍閥の団結は、北周王朝になっても、少しも変わりませんでした。
北周末には貴族化が進み関隴集団(関隴貴族集団)と呼ばれるようになります。
(北魏分裂後についてはこんな感じでいかかでしょうか?)


59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 17:13:58 ID:eyRl5GXw0
六柱国+宇文泰+西魏の皇族の誰か
で八柱国だよね

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 17:35:19 ID:UMb6dTOE0
>>58
ううう、サンクスコ。
そういう話が聞きたい。
上っ面は概説書などで読んでいても、
その頃にどういう勢力バランスで、どういう戦いがあり、どういう武将が活躍したかは詳しく知らない。

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 19:19:11 ID:DqqSQcrA0
>>59
そうですね。
宇文泰自身と西魏の宗室と六柱国を含めてたのが
八柱国と呼ばれてますね。

八柱国
宇文泰、元欣(西魏の皇室)、李虎(唐高祖・李淵の祖父)
李弼(李密の祖父)、独孤信(楊堅の皇后・独孤氏の父)
趙貴 、于謹、侯莫陳崇

十二大将軍
楊忠(楊堅の父)、元賛、元育、元廓
侯莫陳順、宇文導、達奚武 李遠、豆盧寧、宇文貴、賀蘭祥、王雄

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 19:34:38 ID:DqqSQcrA0
六鎮は平たく言えば唐の六都護府みたいなもんです。
六都護府は調子ぬっこいてしばし唐に離反したのに対し、
六鎮は孝文帝の親政による華化政策の加速で
鮮卑・匈奴の名族間の格差が広がりと洛陽に遷都により、
六鎮は流刑地同然の状態となり、次第に冷遇されたので
「俺たちをなんだと思ってんだ、なめんじゃねーぞ ゴラァ」
みたいな感じで反旗を翻したのが六鎮の乱って感じかな。
この乱平定の過程で大軍閥に成長した爾朱栄が実権を掌握し、
(ちなみに洛陽を奪還する際に陳慶之を散々に打ち破ったのがこの爾朱栄)
爾朱栄の死後はさっきも書きましたが高歓と宇文泰が争います。
(この二人は爾朱栄の傘下にいました)
孝武帝がに宇文泰を頼って出奔したことで、北魏は東西に分裂しましす。
東魏では孝文帝の曾孫の孝静帝が立てられましたが実権は高氏にありました。
高歓、高澄の後を継いだ高洋に550年に簒奪されて東魏は滅びます。
(高洋は戦争はメチャクチャ強いんですがひどい酒乱で
真冬の都でストリートキングや酔って母親に暴言を吐いたりしたり、
全く困りもんの明暴君なんですw)
西魏でも宇文泰の主権下にまもなく孝武帝が廃されて孝文帝の孫の文帝、
その子の廃帝欽、恭帝廓と廃立され、宇文泰の没した
556年に恭帝が廃されて北周が建てられました。
ちなみに六鎮は懐朔鎮・武川鎮・撫冥鎮・柔玄鎮・沃野鎮・懐荒鎮の
六つを差します。


63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 19:37:04 ID:DqqSQcrA0
62は60さん宛てね。アンカー付けるの忘れてた・・・orz

64 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/15(日) 20:04:32 ID:1L/FFdoo0
スレの流れは南北朝後期のようですが、あえて流れを読まずに明の平安など。
耿炳文の先鋒として白沟河、滹沱河で毎度朱棣を追い詰め、
滹沱河では朱棣の将王真を討ち取る大殊勲。
あそこまでやったんやから靖難の役後には解任か処刑かされて当然やと思うんやけど、
実のところは北平都指揮使、行後府都督僉事という歴々たる将軍職についとるという。
やっぱり朱棣をして殺すには惜しいと思わせるもんがあったんでしょうな。
あとこの人は武芸に熟達しとって、
それが海を渡って空手の型の一つ(その名もずばり平安)になったというエピソードも好き。
(一応、空手やってたので。平安もそりゃもー何千回とやりました。だいぶ前にやめたけど)
そんでもって、この人が朱元璋の養子やったのは調べなおしてはじめて知った。
やけん才能あっても胡蘭の獄の大粛清から免れたんかね。

>>52さん
>>47でフルダンもそれなりの良将、って書いたけど、
レスを読ませていただくとフルダンの功績は
岳鐘hの又借りばっかで本人は良将と呼べるほどの功績ないですね。
(フルダンの功績=岳鐘hの10分の1、くらいですか)
けどあの厳格無比の雍正帝の下で失敗を重ねながら生きながらえたのは
やはり運だけはよかったのではないかと。

65 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/15(日) 20:10:37 ID:xOTahxSv0
>>64
間違い。王真を殺したのは淝河の役でした。すんません。

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 20:46:47 ID:DqqSQcrA0
>>64
◆oOLAqFKRB.さん。 流れなど気にしないで好きな様に語ってくださいね。
しかし平安って凄いっすよね。
建文帝陣営で勝ち星挙げたのってこの人だけなんですよね?
朱棣(永楽帝)を討ち取る寸前まで追い詰めたりしてるし。
(つーか二人は一応は兄弟?)
あとフルダンの運の良さも一応は実力の内でしょうか?

またまた南北朝の話なんだけどw
北魏の拓跋珪とライバルの
慕容垂って皇帝になった後も 71歳まで馬上で活躍してたんだよな。
(元々は仲がよかったんだけどね)
参合陂で、慕容宝と慕容徳が北魏に大敗すると、
「おい珪ちゃん、調子ヌッコいてんじゃねーぞ ゴラァ」と
自ら軍を率いて、北魏の都平城を陥しちゃうところが
陳慶之に奪われた洛陽を爾朱栄が奪還するのに状況が結構似てるな。
慕容垂は帰還途中に上谷で没しちゃったけどね。
(やっぱテュルクマンセー)

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 21:40:22 ID:UMb6dTOE0
>>62
北魏末の大将軍、爾朱栄はずいぶんなキーパーソンですね。
爾朱栄の本拠は太原ですか?

と、そのあたりの勢力図眺めていると、吐谷渾の勢力が大きかったのはこの頃なんですかね。
というのも、後晋期の契丹南下をぼちぼち調べているのですが、太原の劉知遠軍閥とともに
吐谷渾の末裔である白承福が、契丹支軍・偉王軍を撃破しているんです。
(鴉鳴谷の追撃では、白承福らの騎兵がずいぶん活躍したんじゃないかと思ったり)

で、その白承福ら吐谷渾の末裔は、やがて郭威によって皆殺しにされます。
統制が取りづらくなったことが第一義で、しかも彼らは意外に財産があったからなのですが。
挙兵のための軍資金目当てと、逃げられて他の軍閥に利用されないため、です(鬼です)。

吐谷渾の末路が上記だそうです。
吐谷渾はもともと鮮卑慕容部の分かれた方らしいですね。
と、待てよ。
劉知遠の同母弟の慕容彦超は、《舊五代史 新輯會證》によれば、吐谷渾の人となっているな…
唐末期、朝廷に謀叛した李国昌・李克用親子を、幽州の李匡威とともに撃破し、韃靼に追い払ったのは
当時、吐谷渾の族長だった赫連鐸で、その功績で雲州防御使を拝命していたから
かれらの遊牧地はだいたいその辺ということになるのか。

後に赫連鐸は李克用に捕らえられますが、沙陀と吐谷渾とには、それなりに交わりがあったのかもしれない。
ということは、劉知遠は弟の部族をぬっころしたのか… 実行犯は郭威だけど。
ちなみに後年、後漢隠帝(劉承祐)が郭威の家族を皆殺しにしたので、郭威が兵を率いて南下したのを
開封城外で迎え撃ったのが、慕容彦超。

慕容彦超は、あの趙匡胤の仕官を断ったことで有名な(w)王彦超らに一撃され、自鎮に遁走したが
後周が立つと、契丹、北漢、南唐と手を組んで、挙兵に及んだ。
吐谷渾の末裔として、ではなく劉知遠の弟として、なわけだろうから、上記吐谷渾の滅亡の因果とは関係ないでしょうが。


68 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/15(日) 22:14:38 ID:2y4YhYlS0
慕容彦超と宋初の慕容延サ、
もしかして血縁関係かなーとか思ってちょいと調べたけど、
二人とも漢の高祖の同母弟が祖と言い張ってるから同族ではあるらしい。
ただ、祖父と孫、とか叔父と侄、とか、
そーいう近しい血縁やったのかどーかまではわからんかった。
彦超の直径子孫が延サやったら吐谷渾の血健在、ってことになるんやけど。

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 23:10:08 ID:UMb6dTOE0
>>68
>>二人とも漢の高祖の同母弟が祖

いや、漢高祖の同母弟が、慕容彦超そのものなんですよ。
その父は慕容亮。
慕容延釗の父は、慕容章。で、太原の人。
ありえるとすれば、この慕容章と慕容彦超が兄弟?

でも、慕容延釗は早くから郭威の帳下に編入され、柴栄の代になると、殿前副都指揮使など
かなりの重用っぷりなんですよね。
しかも趙匡胤はアニキと呼んで慕ってたそうだし。
叛将・慕容彦超の親族とするなら、異例のような気がする。

《宋史》列傳第十、慕容延釗のところには、上記のようなことしかわからないです。
…漢の高祖って劉邦じゃないですよね?
実際、劉知遠はそこまで遡って末裔と称しているので…
ちなみに言うと、後周は当然、周王朝の末裔としており
宋は、やや複雑で趙氏自体は戦国期の趙の血族としており
宋の国号は春秋期の宋国あたりを、趙匡胤が節度使として拝命していたことと
宋国が殷王朝の遺民の国だったということもあったらしい。
つまり、後唐(唐)→後晋(西晋)→後漢(前漢)→後周(周)→宋(殷)と、次第に王朝を遡ったことに
したかったようです。
さらに、宋代では趙匡胤の父、趙弘殷(侍衛馬軍指揮使。柴栄が「餅が薄い」とブチ切れたときなだめたお人w)
の諱、殷を避け、殷王朝のことを商と呼ぶようになったそうな。



70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 23:20:56 ID:DqqSQcrA0
>>67
爾朱栄は契胡族(または奚丹、鮮卑の別部で契丹の祖の一派とされる)
の有力部族の爾朱部の酋長だと言われているようです。
若くして北魏に仕官、勇猛果敢で孝明帝の時代には遊撃将軍となり、
六鎮の乱平定の武功によって、車騎将軍・大都督に昇進。
武泰元年に胡太后の専横を除くよう孝明帝の密詔を受けますが、
帝は太后のために毒殺されます。爾朱栄は君側の奸を除くと称して挙兵し、
軍を率いて洛陽に侵入、胡太后を殺害しました(河陰の変)。
孝荘帝(元子攸)を擁立し、自ら都督中外諸軍事・大将軍・尚書令・領軍将軍に任じ、太原王を称しました。
帝位をうかがいますが失敗し晋陽に帰還。
葛栄らを滅ぼし、北鎮の乱を平定し、
翌年、北海王・元曄を破って、天柱大将軍を号しましたが、
横暴がひどく、孝荘帝によって殿中で誅殺されました。
太原王と称していますので本拠地はそこら辺りになるのかな?
はっきりしてるのは爾朱栄は山西の実力者だそうです。
北魏末の真のキーパソンは高歓なんですよ。
で息子の高洋の酒乱振りは実はこの人譲りなんですw
俺は高歓が大好きなんです。
(特に下級役人から伸し上がり北魏の権力者になるところが)


71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 23:26:58 ID:IN0D2tGJ0
爾朱栄はなんとなく董卓っぽいイメージがある

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 23:36:50 ID:UMb6dTOE0
>>70
やっぱすごいですね、爾朱栄は。
んで、晋陽に戻っていると書かれているので、本拠は太原ですね。
たしか、晋陽城のなかに、太原府がおかれ、そこが命令起点になってたはずです。
ふつう、山西軍閥といえば太原のことを指しますから。
ご存知のように、山西とは太行山脈の西ということになって、山東とはその東の地域になります。
現在の山東は泰山の東ということになってますので、その辺地域に誤差がでますね。
(崋山の東というときもあるし、たまにわけわからなくなる)

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 23:40:44 ID:UMb6dTOE0
>>72
>>現在の山東は泰山の東ということになってますので
うろですが、金のときにそう呼ばれるようになったのでしたっけね。
その頃、山東半島あたりに対金レジスタンスが活発だったことも関係あるのかな?
楊妙真、でしたっけ。

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 00:11:46 ID:0vbUxYpc0
>>72
連投すんません。
なんかすごいウソつきましたので、訂正。

>>たしか、晋陽城のなかに、太原府がおかれ、そこが命令起点になってたはずです

そもそも府制が置かれたのは唐代のことでした。
しかも、唐の州制(ここは并州)を改めて府制としていますので
行政単位としての太原府、で、治所が晋陽城ということになりますか…

北魏の頃はよくわからん。
地名としての太原と晋陽は同一の場所のような気がするんですが、どうなんでしょうね。
で、太原王というのは、この場合太原郡王ということですよね。
どうも、こういうところは勉強不足なもんで。

75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 01:48:02 ID:AK/jhRtY0
太原郡=晋陽=ヘイ州
つまり、南郡=江陵=荊州のようなものだろ。
それだけ要地ということ。
あの山だらけの土地が何でそんな重要なのか知らんが。

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 01:51:30 ID:O+7T8GGD0
>>75
製鉄が盛んなんじゃなかったかな

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 01:58:54 ID:9jvx/vZn0
>>73
最終的には、そのあたりの勢力は元の漢人世侯としてまとめられるんでしたっけ?

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 08:01:14 ID:IuvSjZAE0
趙が廉頗を誘って、その気になった廉頗が必死で馬に乗ったり
大食いしたりして頑張ったのに、トイレが近いという理由で、
没になったのがなんとも
死ぬときまで、趙の者を使いたいといってたつうのが余計・・・

でも、まぁ平穏っちゃ平穏か

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 10:38:02 ID:6iv6D1c+0
レンパって長平の戦いのときで既にじいさんだったのに、そのころって一体いくつくらいだったんだ。

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 22:10:59 ID:rsS8Z0YG0
>>74
>地名としての太原と晋陽は同一の場所のような気がするんですが
>>75さんの仰る様に太原郡=晋陽=並州で北魏でも名称は同じみたいです。
(石勒が並州を改めて太原国としたり前燕が晋陽に太原国を置いたりしてます)
太原(晋陽)は秦代に対北方防衛重要地点とされてますし、
唐の李淵も太原留守に任じられたりしています。
北魏も同様に対北方防衛重要地点とされたと思われます。
あと平城(大同)に睨みを効かせる意味もあったんでしょう。
(平城(大同)は北魏の孝文帝が洛陽へ遷都する前の北魏の首都)
経済的拠点として重要視されたのは五代十国からですよね。
漢の文帝が劉参を太原王とし
西晋代に司馬瑰らが太原王に封じられています。
爾朱栄も古の例に従って太原王を称したのではないかと。

爾朱栄の父の爾朱新興は畜群をおおいに繁殖させて谷を以って
数を計ると称され、朝廷の軍役には決まって軍馬を提供して
隠然たる勢力を培っていた様で
爾朱栄はこの基盤を受け継いだみたいです。

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 22:17:05 ID:4dlUlfY20
清末〜の蔡鍔は名将。

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 23:14:19 ID:0vbUxYpc0
>>80
代州の雁門関とあいまって、北方の重要拠点ですね、太原は。
大同と聞くと、雲州大同軍節度使を思い出しますが、代州やら雲州やらとなると、
つい楊家将を連想してしまいますね。

>>経済的拠点として重要視されたのは五代十国からですよね
「険にして粟多し」と言われたのは、太原府に鎮した河東節度使・劉知遠治下のときでした。
その頃は後晋時代なんですが、後晋期って高祖・石敬瑭が崩御するかしないかあたりから
とてつもない天災が降りかかってくるのです。
出帝・石重貴が耶律徳光に拉致された年まで飢饉、旱魃、蝗害などがつづいていたという。
その領域は後晋領全域だったけど、太原だけはその被害をまったく受けておらず平穏無事だったそうで。

不落の太原(晋陽城)はこの頃では伝説的ですね。
朱全忠をはじめとして、劉鄩(は到達すらできなかったけど)、王壇、ちょっと飛んで張敬達、
契丹支軍(偉王軍…も侵入した時点で追い散らかされた)、柴栄、趙匡胤と
それぞれ攻め落とすことができなかったし、趙匡義も一度はそうで、降伏によって得ましたからねぇ。
李克用時代では、ここは北方交易が盛んで、その貿易によって巨万の富を得た李嗣昭の奥さん楊氏
というのが、この時代の山西軍閥を支えた賢夫人として有名ですよね。
そういうルートは以後も、確保されていたのだろうか…

河東生まれの関羽が商売の神に転進したのは、山西商人華やかかりし頃のことですかね。


83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/17(火) 21:56:03 ID:FeumT/tQ0
関羽は遅くとも唐以前には崇拝の対象となっていたようです。
(この頃には既に商売の神になっていたんじゃないですかね。)
北宋以降の各王朝の皇帝たちは関羽に次々と爵位を追贈し、
その地位を高めていったみたいです。
そして、ついには「関帝」と呼ばれるようになり、地位が上がるにつれ
信仰が盛んになり、各地に関帝廟がつくられていったそうです。
また関羽の故郷である山西の商人が中国各地に関羽信仰を広めたという
説があるみたいです。

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/17(火) 22:19:43 ID:FeumT/tQ0
南漢の劉隠って本当にアラブ系なんでしょうか?
安禄山や史思明は確かソクド人かなんなの混血でしたよね。
この頃には中東との交わりがあったんですかね?


85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/17(火) 23:44:14 ID:VYB0Xt5N0
南漢には興味ないからなぁ(w
劉隠の祖先は、徐州彭城の人、あるいは頴州上蔡の人で、父親が広州の官吏だった。
潮州の長史だったかな。広州嶺南節度使の支郡のひとつだったと思う。
でも基本的に商人だったようですよ。
で、黄巣の乱で侵略された広州の、後片付けで立身しましたね、劉隠は。
アラブ系とするのは、海上交易商人という出自と実績から導き出されたものじゃないでしょうかね。
まぁ、全然詳しくは知らないのだけど。

ソグド系は唐代ではめずらしくもなんともないんですよね。
六州胡の姓はなじみの深い、安や康や石など。
李克用麾下には、安金全とか康君立とか史敬思とか、なんか安史の乱的なやばそうな名前が多いし。
ちなみにソグドは馬に乗り騎射に通じておるなど、テュルクと似た境遇だったわけで、それゆえ戦力となり得、
河朔三鎮の乱のおりには傭兵のような感じで外人部隊となっていたように思われます。
その後、六州胡にまとめられていたソグドは雲州のほうに移され、
やがて流転の末、河東にやってきた沙陀と巡りあいます。
まとめて雲州あたりに置かれた両部族が親交を持ったであろうことは想像できますね。
双方ともにテュルク系ということでもあるし。

あれ、吐谷渾も雲州じゃなかったか?
雲州は収納キャビネットじゃないのだけどなぁ…
李克用は最初、朔州宣武節度使(龐勛の乱平定の功績により)で、黄巣の乱初期、
雲州の赫連鐸(吐谷渾族長)を攻めたけど、負けて韃靼に敗走しました。
その後復活して、河東節度使・晋王を拝命したあと、朱全忠と赫連鐸の謀略にはまって
朝敵とされたことから、ふたたび赫連鐸と険悪となって
李存孝が刑死した年(894)の10月、雲州を攻めて赫連鐸を殺しています。
赫連鐸の下に白義誠というのがいて、それを許したので、劉知遠が招致した吐谷渾族長・白承福に
続くのだと思います(>>67)。


86 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/18(水) 23:01:28 ID:QYTx7URH0
太平天国の人たちは洪秀全以外全員好きなんやけど、中でも14歳で入会して
25歳で斬られた夭折の天才、陳玉成を軽く紹介。
当時民間で流行ったわらべ歌があって、その中で
不怕清軍馬強、英王一到即完蛋(清軍の馬の強きを恐れるな。英王到れば即ち終わり)
英王用兵如嘯虎、清軍遇到即死亡(英王兵を用いて虎嘯せば、清軍すなわち死あるのみ)
我有英王為長城、哪怕清軍百万兵(我に英王ありて長城をなし、清軍百万を懾らす)
天朝有将英王、究人生活有保障(天朝に将英王あらば 究人も生活保障あり)
とまで持ち上げられとります。ネタ本は「中国歴代名将、治軍・謀略・指揮」って本ですが、
太平天国からのエントリー5名中、わらべ歌がついとるのはこの人だけ。石達開にすらついとらんから、
太平天国の中でも彼が特に民衆に敬慕された人物やということが類推されます。
ちなみにこの本3150円と安かったのはいいんやけど、
53名の名将の中に孟珙が入ってないのが不満。かわりに楊幺とか入っとるし。


87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/18(水) 23:17:50 ID:kgZy8DLk0
中国ではおおむね孟キョウの評価は低い、というかあんまり注目されてない感じですね
向こうの名将を語る掲示板みたいなのを覗いてもほとんど名が挙がってません

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/18(水) 23:59:31 ID:STqIw1ok0
>>86
人呼んで四眼狗だね
ところで5人はいってるというと誰?
南王や西王は戦死が早いから入らないのかな?
ちょっと地位はさがるけど羅大綱なんかも、捨てがたい

天王が好きじゃないのはよくわかる、武将でもないしね
でも、一番変でおもろいよ
洪武帝なんかとは別の意味で下の人間はたまったものじゃないが

89 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/19(木) 00:32:51 ID:imtb7quV0
>>88さん
楊秀清、石達開、陳玉成、李秀成、頼文光で五人。
頼文光は太平天国崩壊後も革命運動続けとるから、太平天国とはちょっと
違うんかな。清朝からはヌルハチとこの5人と左宗棠の7人だけ。ツェリンとか入れて欲しかった。
あと唐からは李靖、李光弼、郭子儀、李晟、李愬の5人だけなんよ。李勣も薛仁貴もおらん。
ちなみに李晟と李愬は現地での支持率随分高い気がする。人物伝記とか読むと大概二人とも載っとる。
あと絶対載っとるのは衛青と霍去病。衛青はともかく霍去病はいらんと言いたい。

90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/19(木) 01:01:53 ID:Nsys35gVO
なんで?
その時代に他にどんな面子いるのか知らんが
普通に漢代の名将だと思うけど。霍去病

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/19(木) 01:11:14 ID:xgAwOpUC0
清朝なら太平天国の北伐を打ち破ったセンゲリンチンかな

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/19(木) 01:28:59 ID:MjFeYwhD0
李勣が入ってないのは謎過ぎるなw

私からは極めてマイナーながら北魏の万度帰を推してみる。
史書への登場は極めて少ないながら、二度の遠征では5000の兵で[善β]善、焉耆を討ち、
1000の兵で亀茲を討ち、西域を平定した。
この結果北魏には遠く中央アジアからも朝貢使節が送られるようになる。
中国に属する将軍が遠く西域を平定したのは漢の李広利(但し戦果は上げたが経過はめためた)、
班超、前秦の呂光(後涼の創設者)以来のものである。
北魏や、それを継承した北周隋唐帝国は極めて豊かな国際色が特徴とされているが、
万度帰はそれを招来するのに大きな役割を果たしたと言えよう。

93 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/19(木) 01:39:32 ID:dbt44MiU0
>>90さん
すんません、霍去病は間違いなく名将です。
ただ評価が高すぎて鼻につくっつーか、
アンタもういいよっつーか、
個人的に派手すぎて好みじゃないっつーか、
とにかく個人的な好き嫌いで言っちゃいました。
でも霍去病の出征回数って5回(やっけ?)だけやし、
武帝が舞台をしつらえてやった上での武勲やと思うし、
年取ってまで生きてたらメッキはがれたやろーとか思うんです。
ともあれ、大変失礼しました。

94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/19(木) 02:31:09 ID:QYhPa4C60
頼文光がはいるなら張宗禹だって

95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/19(木) 02:56:22 ID:4SJtpKOk0
>>81
唐継尭らと袁世凱討伐を起こした以外に何かしたっけ?

96 :88:2007/07/19(木) 07:47:09 ID:ogUfpHY30
>>89
あんがと
太平天国から5人はかなりの優遇だな
しかし清朝は実質2人かよ(ヌルハチも除けは一人か!)
ドドなんかは「揚州十日記」でダメだろうね
入れろとも思わないけど


97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/19(木) 11:52:24 ID:SmR6/1Ex0
李広利って中身を吟味しないで上辺だけ見たら名将だよなw

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/19(木) 15:16:09 ID:mFkac8DT0
李広と李広利って紛らわしい
李広は紛れもなく名将だろうけど

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/19(木) 18:20:04 ID:C4sjtkcJ0
隋の長孫晟が好きだな
唐の長孫無忌・長孫皇后の親父

突厥対策の専門家で外交戦略に長けていた
個人としては武勇に優れている(弓が得意で一石二鳥の中国版『一箭双雕』の言葉ができたくらい)
が、あんまりそれを感じさせない知将ぶり

100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/19(木) 21:36:10 ID:xwrqaiT50
武帝期には衛青、霍去病、李広、李陵
昭帝宣帝期には趙充国、馮奉世など匈奴と戦ったが名将いるけど
やっぱりパッと頭に浮かぶのは衛青、霍去病だね。
でも>>93で◆oOLAqFKRB.さんが言ってるように俺も霍去病はあまり好きじゃないな。
霍去病は生まれながらのエリートな上、傲慢で、兵士が飢えているのに自分たちだけ、
宴会を開くような事をしていたりするし。
それでも、霍去病は宮廷や兵士の間でも人気はあったらしいですし、
傲慢も頼もしい勇壮と見られていたようで、
武帝も霍去病を寵愛していたみたいですが。
あと霍氏が外戚として専横を奮ったのがちょっと彼の印象に響くな。
(あくまで個人的に)
それに対し少年の頃、奴隷として羊飼いをしていたが
姉のお陰で世に出ることができた衛青の方が親しみ持てるな。
野営では遠くまで斥候を放ち兵士に休養させたというエピがあるように
兵士を大切に考えていたりするし。
李広は飛将軍、李陵は司馬遷が彼を弁護して腐刑を受けたのが有名だね。


101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/19(木) 22:32:35 ID:xwrqaiT50
>>92
万度帰は遠征の際、兵士や官吏を戒め、侵略を許さなかったため、
[善β]善辺境軍の長はみな感心し魏軍の旗を見るとこれに降伏し、
そして[善β]善王真達も、面縛して降伏。
万度帰は真達を伴って北魏の都に帰ると、道武帝(拓跋トウ)は大変喜びして、真達を手厚く遇したんですよね。

>>95
蔡鍔は唐継堯・梁啓超らと護国軍を組織して袁討・雲南独立を宣言して
第三革命を実行した。
1916年に四川総督とされたが、療養のために訪日して客死した。
となってますね。


102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/21(土) 02:02:10 ID:PWw7kc2s0
明末の義軍の中では最強と呼び名の高い陳邦彦を推しとくか。


103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/21(土) 14:39:45 ID:+/naYRix0
太平天国と戦ったゴードン将軍は、戦死したときグラッドストーン
内閣が倒れたほどの英雄で、ベーカー街221bのホームズとワトソン
の部屋にはゴードンの肖像画が飾られている

104 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/22(日) 00:55:54 ID:Sz3HOo5Z0
ノーマークやったけど西漢の韓安国とかどーやろ?
呉楚七王の乱で呉軍を撃退、名将と謳われる。
閩の反乱平定に差し向けられるも賊軍が逃げたため手ぶらで帰朝。
武帝初期の対匈奴戦では
「長躯北まで進軍しての戦いでは兵が疲弊して不利」と常に和平論を唱える。
聶壱の策に乗り気になった武帝から匈奴討伐の総大将に任命され、やむなく受けた。
初戦を勝利で飾るも部下の王恢が勝手に帰ったんで中途半端なまま帰朝。
晩年、漁陽に駐屯していたとき2万の匈奴軍を守備隊700で撃破。
李広の先輩に当たる名将・・・って呼ぶには戦功不足かいな?
和平論者ながら戦えば勝つって辺り、北宋の狆師道に通じるものがあると思うんやが。

あと忘れとったけど漢楚争覇〜西漢はじめの酈商。
この人もなかなかな名将やと思う。
宛城、穰邑、漢中と立て続けに平定、将としては楚軍の鐘離昧に勝っとるし。
(漢書では「鐘離昧と戦った」ってあるだけで勝ったとは書いてないんやけど)
天下平定後も臧荼、英布の叛乱平定に参加、戦功甚だ盛ん。
最後周勃の呂一族誅滅に参加したけど、
周勃に脅されてやむなくの参加なんよね。これが灌嬰あたりに劣る要因かも知らん。

105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 01:22:26 ID:sXn8TifA0
李広は名将と呼んでいいのか?

106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 01:28:31 ID:Me96Tfx+0
十分に名将でしょ。
飛将軍のあだ名は伊達じゃないよ

107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 01:39:55 ID:QVYD6ZMv0
さすがに衛・霍と比べると見劣りはするけどね
それはしょうがないわな

李広に比された人物といえば隋の史万歳がいるな
大将軍→兵卒→儀同三司から柱国まで出世→庶民→柱国という経歴を持つ男

108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 01:43:32 ID:sXn8TifA0
実は上官桀は漢書では名将扱いされいる

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 11:02:38 ID:15dcdZx/0
鐘離昧は韓信を頼るも保身の為、殺されちゃったが、
季布はその有能さ故に劉邦に過去のことを許され、
最終的には河東郡の太守にまでなってるんだよな。


110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 11:42:21 ID:3aSmKNjS0
先例を見るに、
軍籍にあった者が一度降格されると、上も扱いづらくて不遇をかこつもの。

そこ行くと、季布は生涯誠実であり、一本筋が通った男だったために、誰からも愛されたよね…

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/23(月) 23:47:30 ID:fDtoZgmy0
田単

112 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/24(火) 01:18:21 ID:WREDnzKX0
百選スレで確定したけど紹介されてない武将、ここで紹介文出していいかいな。
いいよね。孟珙についても挙げたしね。
李靖
あざなは薬師。雄偉な体格と秀麗な容姿を兼ね備えたと伝わる。
兵書を読んで若くしてその奥義に達し、伯父の韓擒虎から
「おまえはいずれ孫子・呉子に匹敵する兵法家になるだろう」
といわれる。
生年になると隋朝に仕えて吏部尚書・牛弘から
「王佐の才」
左僕射楊素からは
「卿はいずれ宰相の椅子に座るようになるだろう」
と絶賛されるも、楊素の美妓・紅拂に一目ぼれされ、契りを結んで出奔したため、
楊素の怒りを懼れて太原まで逃亡する。
その後ほとんど出世せず、馬邑の丞でくすぶっていたが、李淵挙兵を朝廷に知らせようとして
擒らわれたことで逆に運が開ける。李淵自らの詰問を受けるも
「私怨で義士を殺すようなものが天下を取れるか!」
と論駁。これを聞いた李世民がこれはひとかどの人物である、と見抜いて父に・助命を嘆願、
自らの秦王府に招く。
王世充平定後、李孝恭の下で江陵の蕭銑討伐に出征、江水の氾濫を怖れる将帥たちに
「兵は神速を尊ぶ。敵の準備が整う前に江水の流れに乗って敵を衝けば蕭銑を擒らえることはたやすい」
と主張、李孝恭にその意見を認めさせ江水を下り、蕭銑本軍を直撃、大いにこれを破る。
再び李孝恭の下で杜伏威を撃破、その将馮亮、陳正通、輔公拓の三将を斬る。李淵は
「李靖の将才は古代の韓信、白起、衛青、霍去病らの名将を上回る」
と言って大いに喜んだ。
625年、突厥の州数万が太原を侵すとわずか3千の兵で迎撃してこれを撃破、
そのまま兵を率いて突厥に逆撃を加え、斬首万余、俘虜十万を獲て突厥を震撼させる。
「漢の李陵は5千人で匈奴に擒らわれ、李靖は3千で突厥を破った。古今未曾有の戦功である」
と賞賛された。
634年冬、吐谷渾が涼州に侵入した。李靖は老齢を理由に断ったが結局迎撃戦の総大将に抜擢された。
五方面総管兵馬として昼夜兼行で騎馬隊を走らせ、千里を駆けて大小数十戦を重ね、無数の敵を切り、
余衆を投降させた。
李靖は数ある名将たちの中でもことに優れた将であり、彼に比べうる人材はそうそう存在しない。
高祖李淵と太宗李世民の二人に30年間仕え、常に軍部の中枢にあって、
内憂外患を除く戦の多くに参加し、彼の策が外れることは一度もなかった。
まさしく唐朝の千里駒といえよう。
                《中国歴代軍事人物伝略》より

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/24(火) 01:35:54 ID:S4vYEtKx0
蔣中正あたりは名将と評しても良いんじゃない?
肖像が紙幣にも使われているし。

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/27(金) 23:50:10 ID:xsEwzOAj0
カイセキかよ。

115 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/30(月) 01:15:53 ID:s3zUr8w/0
100選スレが活気出てきたのに対してこっちはあまりにも静かやね。
レスも金曜日で止まっとるし、みんな100選スレに戻ったんかいな。
俺も最近こっちに投下してないけんねぇ。
もっとバンバン書き込めばROMってる人が来てくれるんやろか。

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 13:43:54 ID:/2rPm6QE0
百選スレはどうもいかんことになってきている。
同じことを何度も何度も…
まとめようとしても、次の日には元に戻っている…
入れたい人物のどこがすごいかを書けといっても書かないで、名前だけ列挙する。
あれは故意にやっているとしか…
当分出入せずにこちらにいようと思う。

で、岩城氏に質問。
>>《中国歴代軍事人物伝略》
は、どこで手に入りますか?

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 18:19:54 ID:b9XZHMpZ0
中国史上最高の名将はやっぱり李靖かな?

>>116
他スレの愚痴をここに持ち込まないように

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 18:23:57 ID:/2rPm6QE0
>>117
ああ、それは失礼。
史上最高かどうかの判断は難しいと思うな。
唐初ではまちがいなく最高の名将だと言える。
しかしそれも李靖個人のみで、というわけでもないが。

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 18:28:36 ID:s+bacLM+0
郭子儀はどうかな?

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 18:36:36 ID:5d+8wYhW0
李靖は世界の名将十傑に入らないかな?言い過ぎ?

でも海外では孫武と韓信が評価高そうだ。

121 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/30(月) 20:28:15 ID:5mm75e2v0
>>116さん
《中国歴代軍事人物伝略》とその続編の《中国歴代軍事人物伝続集》
は中国関係書籍専門店『鶴本書店』のHPから買いましたよ。
ただ、中古品やから俺が買ったので最後かも。
ともあれこっちに活気が戻りつつあるみたいやけん、俺も微力ながら紹介文いろいろ落とそうと思います。
前も書いたけど100選スレで議論なく確定になった人物の略歴とか、改めて調べたいし書きたいし。


122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 21:23:52 ID:bXuGoN450
中国歴代軍事人物伝略はさっき『日本の古本屋』で探したらあったよ

>>120
孫子は中国の名将っていったら一番に出てくる感じかな
アメリカの誰かがランキングした「ミリタリーリーダーズ100」だと孫子は23位
(「名将」じゃなくて世界史に影響を与えた軍事指導者という位置づけだけど)
ほか中国の人物は毛沢東が48位、林彪が76位の二人だけと全体的に西洋に偏りまくり

ちなみに日本人は東郷68位、山本77位

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 21:31:17 ID:ztmNXIOC0
なにそのフザケタ選定w

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 21:36:15 ID:/2rPm6QE0
>>121
情報ありがとう。ネットの古本関連洗ってみます。

>>議論なく確定になった人物の略歴
わかるところは、まとめサイトにひっそり書き加える所存。先日、李存勗をアップしていますが
柴栄、趙匡胤もとくにこれといった紹介文なかったですよね(柴栄スレにはこれでもかってくらいに書いたが)。

よくよく見たら、李晟・李愬より史思明入っているのが、今になってふと疑問に(当時は思わなかったw)。
史思明VS郭子儀ではどちらがスゴイか!?
を、検討してみるのも面白いか。

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 21:58:24 ID:dmvHgaT/0
>>120
韓信はあれだけ重要な決戦をいくつもこなしているにも関わらず、無敗と言うのが凄まじい。
孫武や呉起の不敗の実績も素晴らしいが、数多の列国を劣勢の国力で次々と滅ぼしたのは韓信が
その端緒だろう。
多くの名将が今まで推薦されてきたが、韓信と比較してどの分野が優れていると、はっきり優劣を主張
できた武将て、今のところいないんじゃないの?
(政治的無能を比較項目にされたら、逆に韓信に劣る武将の方が少ないような気もするが)


126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 22:06:11 ID:/2rPm6QE0
>>125
楚漢に詳しくないことをまず断っておいての質問。
韓信遠征のとき、諸王国の地盤は強固に整っていたのだろうか?
分裂期の諸国相克というより、内乱鎮定の色が強い、ということはないのだろうか?


127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 22:12:28 ID:bXuGoN450
>>123
突っ込みどころは色々ある
孫子よりクラウゼヴィッツのほうが高いとか
チンギスはさすがに4位と高いが、1位がワシントンとか

逆に中国人の考えた世界の名将10人もなかなかアレだ
一位は該当者なし 2陳慶之 3孫武 4李靖 5白起 
6アレクサンドロス 7岳飛 8ナポレオン 9項羽 10ハンニバル
で、中国は昔っから戦争に動員される人数が桁違いに多いので名将が多くても当然だ
みたいなことが書いてあるわけだが

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 22:25:41 ID:El9gWh+4O
なんという中華思想
つか一位が該当者なしってどういう事?

129 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/30(月) 22:31:54 ID:5mm75e2v0
>>127さん
中国人の考えた名将10人、実質一意が陳慶之って・・・
みんな「奔流」読んだんじゃあるまいかって勘ぐりたくなるなあ。まぁ確かに名将なんやけど。

さておき、投下。人格考えずに戦功だけで見たら檀道済よりたぶん上、ということで。
王鎮悪
 劉宋の名将。前秦・苻堅の名将・王猛の孫。
383年、肥水の戦いで苻堅が大敗したとき、長江を渡った。時に13歳。
荊州に客居してもろもろの兵書を読破する。好んで軍国の大事を論じ、騎射に優れ、ことに当たって果断であった。
409年、劉裕が北伐し南燕を滅ぼしたときには、天門郡臨澧の令だった。
あるひとが王鎮悪の賢才を劉裕の耳に入れ、招かれた。
劉裕は「卿は王猛の孫か! 将門にはまた将あり、というのは本当なのだな!」と王鎮悪の勇才を讃え、将とした。
盧循討伐、劉毅討伐に活躍。劉毅討伐では速攻で敵の後方を扼し、敵軍を焼いて劉毅を荊州に敗走させた。
劉毅討伐直後江陵城に入り、劉毅入城前の荊州城が防備を終えないうちに速攻、朝から昼まで戦い、劉毅軍を潰滅させる。
江陵に向かって落ちのびた劉毅を擒らえ、殺す。一連の戦いで見せた芸術的指揮手腕を劉裕に嘉された。
415年、荊州刺史司馬休之を撃ち、後秦に亡命させる。
劉裕が東晋の実験を掌握したのち、416年。冠軍将軍檀道済らとともに後秦へ北伐。
東晋軍は五路から水陸両軍ををって進み、先鋒を任された王鎮悪は破竹の勢いで淮、肥を攻め落とす。
さらに兵を進め漆邱を取り、西に軍を還して虎牢関を抜き、許昌、洛陽を陥落させる。
後秦軍が潼関に大兵力を集結させると後秦の大将姚紹と戦う。食糧不足により攻め下せず弘農に退き、
敵軍の補給を絶つべく農民に後秦軍に兵糧を上納しないよう言い含める。
劉裕が親兵を率いて潼関に到着すると、長安攻めを命ぜられ水軍を率いて出撃。秦将姚丕が渭水上流で守るも、
王鎮悪はそれと交戦せず船を棄てて陸路で長安に向かう。
兵を慰撫して「死戦して大功を立てるべし」と発破をかけ、自ら先頭に立って長安北門に突撃。
秦軍を大破し長安を下して、417年、ついに後秦を滅ぼす。
長安入城後、部下に略奪を厳しく戒め、民を慰撫し、劉裕を迎えた。
劉裕は王鎮悪を慰労し、「私の覇業がなったのは卿がいたからだ」と絶賛、
これに対し王鎮悪が謙遜すると「卿は馮異に学んだのか?」とからかわれる。
 王鎮悪は知勇人に過ぎ、紛れもない名将ではあったが、性貪婪で、関中に入ったのち
それまでの謙虚さをかなぐり捨てて子女や玉、帛などの宝物を勝手に着服するようになった。
劉裕は彼の大功に免じて不問に付した。劉裕が簒奪により帝位につくと都雍秦二州諸軍事に任命され、
次子・劉義真の後見人を任される。
 418年、夏主・郝連勃勃は劉裕が東に帰ったと聞くやすかさず関中を奪った。王鎮悪は速攻でそれを奪い返したが、
参軍従事・沈田子と功を争い、かねてから王鎮悪の横暴が腹に据えかねていた沈田子と内訌を起こして、互いに相手を殺した。
その後関中は郝連勃勃によってふたたび奪われ、梁朝の蘭欽が奪い返すまで長らく南朝には帰らなかった。

 ・・・前半生は人品優れた名将だったのが突然変貌、劉裕の寵愛を嵩に来て貪婪な略奪者になるあたり、
人間偉くなったり大きい後ろ盾がつくとなかなか昔のまっとうな人間には戻れんという見本みたいな人やね。結構好きやけど。

130 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/30(月) 22:38:14 ID:5mm75e2v0
>>129、出典の欠き忘れ。
中国歴代軍事人物伝・続集より、ということで。

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 22:43:49 ID:ycucAvPc0
>>126
諸国の地盤は強固ではなかったよ
城壁は秦始皇が破壊してたし
でも、韓信は韓信で少ない兵数やかきあつめたばかりの弱卒で攻め込むのを余儀なくされている
それでも無敗だったんだよね

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 22:47:25 ID:dmvHgaT/0
>>126
呉楚七国の乱見れば一目瞭然だが、地方の独立志向は一時の統一程度では決して拭えない強固なものだ

韓信=一介の浪人、旧秦の領土から率いてきた精兵の多くを劉邦に取り上げられる……orz
趙・燕・斉=ほとんどが旧六国の君主を神輿に担いでいた、陳余なんかは自他共に認める名望家だ
内乱鎮定するも何も、韓信のほうが明らかに胡散臭い闖入者以外の何者でも無いじゃん
秦の強欲隠居ジジイとは状況が何もかんも違いすぎる


133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 22:48:02 ID:Eu2DIs4YO
>>125
孫武の場合は、自身の考えを書物にまとめたことが大きい。
数ある書物の中で、なぜ彼の著が選ばれたのか――偶然以外で説明できる部分がある。

韓信と孫武で、無条件に韓信に軍配はあげれない。

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 22:59:12 ID:bXuGoN450
>>128
誰が最も優れてるかなんて決められるもんじゃないみたいな意見だったような気がする
だったら二位までのランキングはなんだよと思わなくもないがw

>>129
他のところだとベリサリウスとかハーリドとかスヴォーロフとか入ってる渋い人選もあった

日本でもライトな層だと信長とか義経とか上杉謙信とか入りそうだし
そんな感じなんでしょう

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 23:04:22 ID:Dvglkn/A0
◆oOLAqFKRB.さん
こちらのテコ入れ是非たのんます。俺も微力ながら投下していきますので。
>>126
裏で張良先生の暗躍と彭越がゲリラ戦術で項羽を撹乱してたのも大きいかと。
しかし韓信は自己の采配で何度も兵を集め訓練し、
地形を見事に使った奇策を展開していったのは特筆ものかと。
三秦攻めで章邯を打ち破ったり、趙攻めでの背水の陣や(確か趙軍20万VS韓信1万だったはず)
楚陣営切っての名将龍且を水攻めで討ち取ったとこなんて普通に凄いと思うよ。
あと史記を読んで見る事をお薦めします。
あと孫武は空気読んでさっさと隠遁したからね。
もっと長い期間活躍してたら韓信以上の功績を残していたかも。

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 23:07:01 ID:ycucAvPc0
>>135
韓信を一番援護したのは劉邦
ずっと中原をおびやかす位置に出つづけて項羽をひきつけ、諸国を孤立化させた

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 23:26:55 ID:Dvglkn/A0
>>136
スレ違になるけど各国に楔を打ち込んだのは張良先生の暗躍に依る部分が大きいよ。
劉邦にあれこれ献策したのも張良先生。あとバックアップに陳平。
彭越のゲリラ活動があったから劉邦は中原を引っ掻きまわせたんだし。
劉邦は彭越の活躍に幾度となく助けられてるし。

138 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/31(火) 12:39:44 ID:SigoA1Bz0
早めの夏休みをとったんで今週一週間はヒマ。つーわけで昼からここに来ました。
まずはとりあえず返答と報告を。
>>135さん
 了解しました。俺の駄文がどれだけ役立つか分からんけど、やれるだけやってみます。
 俺の翻訳スピードやと精々一日に一人二人ぐらいしか紹介できんけど。
(頭ン中にある知識だけで書くとどーしても齟齬が出るんで、
その都度史書とか評伝書とか読んで確認する必要があるのです。
まぁ趣味で作ってる中国名将録のデータが増えて一石二鳥ではあるんやけど)
>>116さん
 吉報。鶴本書店に2冊ともあるみたいですよ、例のブツ。これ、古文じゃなくて
 現代漢語やから読みやすいし、おすすめです。ただし時々演義とか講談の話も
 混じっとるから、読むときにはちょいと注意が必要かと。

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 13:18:08 ID:IxW/BLf20
>>138
◆oOLAqFKRB.さん快諾していただきサンクスです。   
打ち間違いだとは思いますが設連勃勃は左官職人として有名な赫連勃勃のことですよね?
ちなみに、赫連勃勃についての紹介文投下しようかと準備中です。
また以前の様に◆oOLAqFKRB.さんとの投下合戦を繰り広げることを楽しみにしております。

140 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/31(火) 13:32:17 ID:SigoA1Bz0
昨日劉宋の王鎮悪でなぜいきなりムカリ? な感じですが、気分です。
ムカリ
 ジャライル族の人。沈毅にして知略に優れ、手長で騎射に長じ、二石の弓を引いた。
その忠勇をボルチュ、チラウン、ボロクルとあわせて“四傑”と称される。
 チンギス即位後、金伐戦に従事。1211年、ジャライル族とムカリ直属の特殊部隊
タマ(探馬)、それにコンギラト族、オングト族などの混成部隊を率いて再び金を撃ち、
宣徳に迫り徳輿を陥とした。また翌年、雲中、九原の諸郡を攻めてこれを陥とし、
またチンギスの主力軍と合同で撫州を囲む。金軍は撫州を救うため大挙40万の兵を動員
して野狐嶺に進軍、ムカリは決死隊を率い、衆に先んじて敵中に突撃し、右に左に敵を
殺して、ついに金軍40万を覆滅する大殊勲を挙げた。大敗した金軍を追撃し、道には
百里に渡って死体が晒されることになる。
1213年、金の左監軍高hを大潰させ、居庸関を抜いて涿鹿を陥とす。そのまま益都、濱
州、棣州の諸城を陥とし、ついで直属軍を率いて山東に入り覇州を抜く。同年、史天倪、
蕭勃迭とその一族を帰順させた。
1214年冬、遼東を征す。翌年、東京を陥とし、北京を攻めて金軍20万を破る。斬首8万級。降伏を受け入れず金の軍民をことごとく屠ったが、部下エセンから「こんなこと
をしては降るものがいなくなります」と諌められ、興中府、錦州の投降を受け入れる。
ただし投降と偽って叛いた錦州の主将・張鯨は捕らえてチンギスの元に送り、 誅した。
錦州の反乱を平定後、義州、広寧、懿州、濼州、平州などを立て続けに占領、破竹の快進撃を見せる。 同年羅山の守将・杜秀を投降させた。
 1215年、いまだ根強く抵抗する錦州を囲む。伏兵を使って援軍4万を破り、ついに城を陥とす。金軍はまた援軍を派遣したが、これもムカリの前に敗れる。ついに城を落としたムカリは、見せしめのために屠城した。
 1217年八月太帥大王に任命され、チンギスより「太行(山脈)の北は朕自ら経略す。
太行以南は卿これを勤めよ」との言と九錫、大旗を下賜されて、中国経営の全権を任された。さらに五投下と称す戦闘部隊と契丹兵を授かり、戦力を増す。雲州、燕京を占領
した。同年秋、中原目指して南征、まず遂城、蠡県、大名、益都、淄博、登州、莱州、灘坊、高密などの諸州を攻め取る。1218年、西京から発して河東に入り、代県、忻定、
汾陽、霍汾などの諸州を攻略、太原を陥とす。1219年、ふたたび朔州から出兵し、岢嵐で金軍を破り、南下して離石、呂梁、絳州を取った。
1220年、燕から出兵、満城に逼る。史天倪の建議を容れて部下に略奪を禁じ、敵兵の
老人、子供を殺さず、田畑を荒らさず整然と進軍したので、満城の吏民は喜んでモンゴ
ル軍を迎えた。 そのまま南進して滏陽に到り、金の刑陽節度使・武貴遷を降し、別将を
派遣して衛、懐、孟の諸州を攻略させ、自らは彰徳、大名、磁、洛、滑、浚などを下し
て人民30余万戸を得た。さらに黄陵岡にて金軍 20万に急襲、一撃の下に潰滅させた。
勝ちに乗じて楚丘、単州を攻め取り、東平を包囲した。兵糧攻めによって東平城を降す。
1221年冬、ムカリは雲中から出兵し、黄河を渡り、進軍して陝北を取った。ムカリの軍が葭県に到ると金の守将・王公佐は戦わずして逃げ、葭県はモンゴル軍の手に落ちた。
勢いに乗って絳徳を攻め取り、馬蹄寨を破って延安から30里に逼る。金の守将・完顔
哈達は兵3万を率いて延安城の東に陣を敷き、モンゴル軍を待ち構えた。数に勝る金軍
に対してムカリは負けたふりをして偽装退却し、谷間に埋伏させた伏兵を発して金軍を
大いに破った。しかし金軍は延安城に篭城して墨守の構えを見せ、モンゴル軍の猛攻に
も下らなかった。ムカリは当地を放棄して南下、鄜州を攻め落とす。
1222年冬、病を得るも軍を率いて南征、同州を抜き、蒲城を下し、長安を衝く。
このときも金の守将は完顔哈達で、20万の兵を擁し堅守、モンゴル軍は今回も
陥とせず、ムカリはやむなく兵を二分して一軍で潼関を、もう一軍は鳳翔を撃たせたが、
これもはかばかしくなかったので翌年春、河東に兵を還した。
1223年、山西省聞喜にて危篤となり、「汴京を陥とすことができなかったのが
心残りだ」と言い残して死んだ。享年54歳。
                   《中国歴代軍事人物伝略》より



141 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/31(火) 13:40:02 ID:SigoA1Bz0
>>140
改行間違えました。読みづらくてすんません。
ワードで作った文章を改行バッチリやと思い込んで
そのまま張っつけたもんやからこんなことに・・・。
やっぱちゃんと確認せにゃいかんということを痛感しました。ホントすんません。
ところで>>139さんは○さんなのですか?

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 14:18:26 ID:RCkF1UnR0
呉楚戦争の手柄が孫子一人に帰すのはなんか違和感がある。

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 19:03:43 ID:IxW/BLf20
>>140
おおっ!四駿筆頭格でしかも「国王」の称号を与えられ、
モンゴルの精鋭「五投下」・契丹族・投降した女真族で編制された
大軍を委任されて東方攻略を一手に引き受けたムカリですか。
チンギスが長期にわたり大西征に専念出来たのは彼の存在が大きいですよね。
しかもムカリはチンギスの治世に置いて事実上NO2の存在の彼。
四駿の子孫たちは元朝で世襲貴族の筆頭格となり、特にムカリの一族からは多くの名臣を輩出していたりしてたり、
配下には史天沢・張柔・厳実らが居ますね。
ちなみに四狗はジェベ ・ジェルメ ・クビライ、そして陳和尚以外に敗れたことの無いと言うスブタイ。

>>141
どうもです。ツェリンの件ではお世話になりました。

144 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/31(火) 19:39:13 ID:1RGj+fiF0
賀若弼(字は輔伯)
 河南洛陽の人。慷慨にして大志あり、北周と隋の二朝に仕える。韋叔裕の平陳戦に従軍して10城を抜く。
のちの隋文帝・楊堅が丞相となるや起こった尉遅迥の乱では災禍を逃れて長孫平と任地を交代した。
 高祖文帝は受禅により帝の位に就くと、ひそかに平陳の志を燃やし、適任者を捜した。高熲が「朝臣の中に
文武才幹において賀若弼以上の者はおりません」と言い、高祖は「まさにそのとおりだ」と肯く。これにより
賀若弼は呉州総管を拝し、平陳の大事を一任されて大いに喜んだ。彼と寿州総管・源雄がともに重鎮というべき
存在だったが、賀若弼は自分の才気を恃んで源雄を見下し、「俺とお前じゃ比べものにならんからひっこめ!」
的な詩を送って源雄をおしのける。ライバル不在となったところで文帝に兵陳十策を献じ、善しとされ宝刀を
下賜される。開皇九年、隋朝は大挙平陳の軍を興し、賀若弼が行軍総管に任ぜられた。隋軍は大挙して旗幟を掲げ、
野に営幕を広げた。陳人は大軍の去来に、総力を挙げて国中の士馬をかき集める。事このときにおよび、賀若弼率いる
大軍は満を持して長江を渡った。陳人はその威容に錯覚を覚え、なすすべもなく渡河を許す。上陸した隋軍はまず
南徐州を攻め、敵に打ち勝ち、刺史・黄恪を擒らえた。賀若弼率いる隋軍の軍紀は厳明で粛として整然、民衆を集合も
害することなく、民衆に歓迎された。兵を進め蒋山の白土岡に屯し、陳将魯広達、周智安、任蛮奴、田瑞、樊毅、孔範、
蕭摩訶ら陳の精鋭たちと戦う。田瑞がまず賀若弼軍に攻めかかるも、賀若弼はこれを一鼓のもとに破る。魯広達らは互いに
連携して輪を描くように攻めかかり(車懸り?)、賀若弼はしきりに軍を引いて様子をうかがう。敵に驕りと惰性が
うかがえるようになると、配下の将士を督して逆襲、ことさら死戦し、ついにこれを破った。麾下の開府・員明が蕭摩訶を
擒らえ、賀若弼の前に引き出す。賀若弼は蕭摩訶の右卒を問答無用で斬ったが、蕭摩訶が顔色一つ変えなかったので気に入り、
許して礼遇した。京師に入り京上の北掖門で戦い、韓擒虎が城門を抜いて陳主・陳叔宝を捕らえた。賀若弼の前に引き出された
陳叔宝は恐慌をきたして汗を流し、はいつくばって再拝する。賀若弼は「小国の君主が大国の卿に当たるのだから、拝礼は礼儀に
かなっている。」と皮肉を言った。陳叔宝を捕らえ損ね、功が韓擒虎の下に置かれた賀若弼は韓擒虎を恨み、両者は互いに罵りあい
相手の前で抜刀するまでに険悪化した。しかし文帝が賀若弼の功績を嘉し、詔書と褒賞を下賜したので、賀若弼は溜飲を下げた。
凱旋した賀若弼を文帝はみずから迎え、労をねぎらって「三呉平定の功績は公のものだ」と言って賀若弼を御座に座らせ、上柱国、
宋国公、食邑3千戸に、数々の宝物を授け、職を右領軍大将軍、のち改めて右武候大将軍とする。
 賀若弼は位人臣を極め、家には数え切れないほどの珍宝が並び、婢妾その他の使用人が100人以上、栄耀栄華は計り知れず、自ら
隋朝最高の功臣は自分であるといって憚らなかった。自分は宰相に登りつめると公言していたが右僕射には楊素が就任し、
賀若弼は将軍のままであったから、憤然たる不満を抱えた。あまりに恨み言が多いというので数年後、獄に落とされる。
直接面会に訪れた文帝から「朕は高熲、楊素をもって宰相とする。汝は不満を鳴らしたが、この二人はお前が言うようなただ飯喰らい
ではない。なぜ彼らの才能を認めず意地を張るのか?」賀若弼曰く「高熲はわが師父であり、楊素は私の舅の子であって、彼らの
ひととなりを私はよく知っています。私の言葉に間違いはありません」あくまで自分は他人より上、という態度を崩さない賀若弼を
公卿は死罪に当たるとしたが、文帝は彼の功績と才能を惜しんで死一等を免じ、庶民に落とすにとどめた。一年後、再びもとの官爵に復す。
しかし文帝に忌まれ、任用されなかった。
 煬帝が東宮であったころ、賀若弼に向かって言った。「楊素、韓擒虎、史万歳の三人はともに良将というべきだが、優劣はどうか?」
賀若弼は「楊素は猛将、韓擒虎は門将、史万歳は騎将に過ぎず、どれも大将の器ではありません」と答える。「では誰が大将にふさわしいのか?」と
問われると「それは殿下がお決めになることです」とはぐらかしたが、内心では大将に相応しいのは自分しかいないと強烈に自負していた。
そのためか即位した煬帝に忌まれ、高熲たちにも誅したほうがいいと判断されて、上疏を受けた煬帝により誅殺された。
しかも三族誅滅のうえ奴婢に到るまで全員誅滅という徹底ぶりだった。ときに賀若弼は64歳。

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 20:20:58 ID:78eZ0Ujc0
>>121 >>122
さっそくポチりました。どうも情報ありがとうございます。

>>132 >>135
レスありがとう。
史記あたりは斜め読みしているんですが、もっとこう、その背景というかそういうものを知りたくて。
諸王国の拠ってたつ基盤や国力、土地の者とのつながり具合とか、当時の世論とかそういうの。
ま、そういうのはスレ違いになるのかな?

しかし、なぜ韓信が連戦連勝できたのか、というのはその辺を詳細にみる必要ありかなと。
そう思ったうえでの、素朴な疑問と思ってください。

146 : ◆oOLAqFKRB. :2007/07/31(火) 21:08:05 ID:1RGj+fiF0
誤字発見。「京上の北掖門」は「京城の北掖門」で。

ついでに長すぎて書ききれんかった分書いとこ。

まずムカリ。
華北一帯を転戦して金を苦しめたムカリ。評伝でも無敵の快進撃みたいに書かれとるんやけど、
1220年あたりからそれまで五投下、契丹部の活躍で連勝しとったのが次第に勝てんくなるんよね。
固守する金軍を抜けずに終わる、ってのが後半増えるところを見ても。
 で、戦力低下の原因はもともとジャライル族だけの部隊じゃなくて他部族との混成軍であるための
隔意と軋轢、戦闘部隊五投下の内部抗争、契丹の反抗などが原因と見る。つまり一枚岩じゃないゆえの
宿命的欠陥。名将ムカリといえど彼らを一まとめに従えることは出来んかったようで、その点後世の
バヤンに比べると劣るのかも。戦況打開を狙っての京兆侵攻作戦にも失敗しとるし、病気のせいか
晩年は間違いなく精彩を欠いて、逆に力を盛り返してきた金軍に追い立てられる始末、というのが実情。
それでもチンギスにとって安心して背中を預けられる無二の2であることは間違いないと思うけど。

ついで賀若弼(こっちは正史引いた)についても相当削ったんでちょこちょこと。
 平陳戦で長江を渡るときの賀若弼の名ゼリフ。
「弼、親から廟略を受け継ぎ、国威を遠く振るわす。罪を征して民を安んじ、
凶暴を刈り取る。長江の上天、見識あらばここに降り、善者は幸福に、悪者は禍に遭うべし。
大軍つつがなく長江を渡るも、もし離反するものあらば長江の魚の腹に葬られ、死してなお恨むべからず。」
 削りたくないなぁ〜と最後まで思ったんやけど、“本文が長すぎます”言われたけんね。
あと開皇19年の宴。突厥からの使者が弓の名手を連れてきて、百発百中で的を次々射抜いたとき、
文帝から「彼の相手は賀若弼でなくては務まらん」と引っ張り出され
「臣がもし赤心奉国の者であれば一発にして的よ破れよ。そうでないなら当たることなかれ」と祈って矢を放ち、
見事的を貫いたエピソードもできれば残したかった。このとき文帝は大喜びで、突厥の使者に
「この人は天が我のために遣わした人なのだ!」と言ったんやけど、文帝の治世で賀若弼が再び用いられたって
話は知らん。多分文帝のお気に入りに戻ったのはそのときだけで、あとはまた飼い殺し状態に戻ったと見る。
 そもそも冒頭で父親から「舌禍を避けよ」と言われとるんよね、この人。でも結局は舌禍で誅殺。有り余る才能が
あってもそれを誇りすぎると嫌われるという見本。霍去病もなまじ長生きしたらこんな風になったんと違うかな、
とか思う。

以上雑感でした。

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 22:05:34 ID:IxW/BLf20
赫連勃勃の紹介文投下しようかと思ったけどその前に色々と俺も雑感を。

ムカリもいいんですがやはりバヤンの方が好きなんだよな。
文武共に言うこと無しってところがなんとも凄いかなと。
孫武は西は強軍と言われた楚を撃破し郢の都に進撃、
北は大国の斉や晋に威勢を示して諸国の間で有名になり、呉が覇を唱えれたのは、
孫武が一役買っていたからと言っても過言では無いと思うけどな。
闔閭も伍子胥も孫武のことをかなり頼りにしてたし。
>>56に活躍振りを述べていますので参考にして頂ければ幸いかと。
韓信はですね頭の構造が他の人とはかなり違う次元に飛んじゃってるよなこの人。
『正と奇・虚と実を組み合わせれば策は尽きる事が無い』と、
孫武も言ってますが、正にそれを地で行くのが韓信かなと。
隋の名将と云えば楊素>賀若弼≧韓擒虎かな。
楊素の一人勝は仕方ないとしても賀若弼が韓擒虎とセット扱いされるのには
不満がありますね。(これは余所でも主張しましたが)
◆oOLAqFKRB.さん、劉宋→蒙古→隋ですか、ついてくだけで必死な俺…orz

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 22:24:12 ID:yzcVxd780
隋初四大名将のもう一人、史万歳も忘れないであげてください

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 22:48:36 ID:IxW/BLf20
>>145
史記はせめて春秋時代辺りからちゃんと読んだ方が色々なことが見えてきますよ。
孔明スレでも漢楚に詳しい方が述べられてましたね。
高祖本紀や留侯、淮陰侯列伝などを読めば韓信についても、当時の状況なども見えてくるかと思います。
出来れば左伝、戦国策なども一度読んでみてはいかがですかね?
あと柴栄スレでも言ったんですが前後の時代を無視、軽視するのが
日本の歴史学者の悪いとこだそうで…
(歴史の一部分を見ても本当のことは見えてこないと述べてました)

>>148
すんません。史万歳は単に入れ忘れただけなんです。

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 23:41:57 ID:wsrWo0tyO
ムカリについて。
後期の精彩のなさは割り引いて宜しいかと。
モンゴル軍じたいが、攻城戦を得意としておらず、必ず一度は苦戦してます。
ムカリの限界ではなく、モンゴル軍全体の傾向ですよ。

あと、戦法としてモンゴル軍は、一部隊を相手に当たらせ頃合いを見て、
伏兵がひそむ場所まで後退し、反転包囲滅殺する戦法を得意としてました。
ムカリについて調べると、それを有効的に使い、実効性を証明した人物の一人だと考えてます。

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/01(水) 00:21:34 ID:AkqzT+ZLO
スレタイに討議と有るので、あえて質問。
上司にしたいのは誰?
部下にしたいのは誰?
友達にしたいのは誰?
飲み仲間にしたいのは誰?
合コンに呼びたいのは誰?

ちょっと、おふざけ気味に。
上司にしたいのは王忠嗣
部下にしたいのは李晟
友達にしたいのは高(馬井)
飲み仲間にしたいのは李晟
合コンしたいのは安録山

李晟と愚痴りたい気分。

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/01(水) 00:24:51 ID:BX57y4Ij0
妻を娶らば 呂 雉

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/01(水) 01:07:36 ID:/KIwReBh0
名将スレでほとんど議論なく確定に入った武将の中から、五胡十六国最強の将軍で石勒を

 上党郡武郷県出身、匈奴の別部とも雑胡の一種とも言われるくらい小規模な遊牧民部落に生まれ、
飢饉・旱魃等過酷な自然環境の中で、ときには漢人豪族の下で農奴同然の肉体労働に明け暮れる
暗黒の青年時代を送る。やがて太安年間の大飢饉により、部族は崩壊、自身も王族司馬騰による
奴隷狩りに遭い、冀州に売り飛ばされてしまう。
 転機が訪れるのは、買い取ってくれた漢人豪族の荘園の近傍で馬賊をやっていた汲桑と意気投合して
同じく盗賊に身を投じた当たりから。やがて、官軍に公然と立ち向かう賊軍へと変貌した汲桑軍は
司馬騰の軍を破り、これを殺し、また幽州刺史を楽陵に攻め、これも滅ぼしている。
官軍主力の「屠伯(多くの敵兵を殺害して京観を造成したことからこの渾名がついた)」苟晞が前線に
出てくると、敗れることが多くなり、官渡付近において壊滅的打撃を受けて、汲桑の勢力は瓦解
汲桑、石勒ともに匈奴の劉淵を頼り并州へと逃亡する途中で、汲桑は戦死する。

 劉淵に仕えるようになった石勒は壺関攻略では先鋒を命じられると、敵将黄秀を討ち取り見事に壺関を
奪取した。続いて魏郡に侵攻すると太守王粋を捕虜とし、返す刀で趙郡へ寇略すると冀州の西部都尉
馮沖を戦死に追い込んだ。乞活(大規模な難民の自衛集団)の赦亭らを中丘に攻略すると、これらを
皆殺しにし、さらには鉅鹿、常山に攻め込んでは城の守将を次々と討ち取っていった。
 幽州より南下した王浚配下の名将祁弘(八王の乱鎮圧の立役者)と鮮卑段部の合わせて10余万の
連合軍に大敗して万単位で戦死者が出たものの、黎陽で態勢を立て直すと信都に転戦して、冀州
刺史の王斌を敗死させ、新任の魏郡太守劉矩を降伏させる。白馬から進軍して、エン州刺史袁孚を
殺害すると、石勒討伐に洛陽より遠征してきた車騎將軍王堪も呆気なく討ち取る。

 劉淵の崩御の後劉聡がこれを継ぐと、漢軍はついに本格的に洛陽攻略へと踏み切った。
石勒は襄陽へ南進すると次々と江西の諸城を陥落させていった。王導と交戦中に疫病と兵糧の枯渇
から、やむを得ずふたたび北方へ軍を返すと新蔡王司馬確を討ち取り、続いて上党太守羊綜、廣平太守
邵肇らを降伏させ、その勢力を吸収した。許昌では平東將軍王康と戦闘になり、これを殺害している。
 東海王司馬越が薨すると、太尉の王衍を司令官として晋軍の主力は逃避行を始めた。石勒はこれの追撃を命じられると、軽騎兵を率いて一挙に壊滅させ、司馬氏の皇族、高級官僚のほとんどを殺害し、降兵も
ことごとく坑殺した。

爾後、洛陽陥落の後は襄国を根拠地にエン州、冀州、幽州、并州、青州、予州、徐州、荊州北部を
311年〜324年の間に併呑していき、328年には旧主の流れを汲む匈奴の劉曜を洛陽に破って
関中を制圧し、華北の大部分をその支配化に治める。
いろいろと凄いが、やはり何と言ってもその復讐鬼ぶりが際立つ。
特に、苟晞、祁弘、王浚といった石勒を一敗地に塗れさせた勇将たちが後年、捲土重来を果たした
石勒の毒牙に次々とかかっている点である。
幾度と無く敗戦を繰り返しても、ゾンビのごとく軍を立て直す手腕は、五胡のみならず魏晋南北朝を
通じて、ぴか一のものであろう。

154 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/01(水) 01:18:32 ID:X0psHo/K0
直接的と戦って華々しい戦果を挙げた、って点では名将の定義から外れるけど、敵の心を攻めて戦わずして
心服させるのもまた名将、ってことでこの人を紹介。
唐彬(字は儒宗)
 魯国鄒の人。代々の将門に生まれ、若くして身の丈8尺、強力で、弓馬に長じ任侠を好んだ。成人すると
経史を学ぶため教授に師事する。人となり豪放で小節にこだわらず、経国の大きな器を持っていた。
のち仕官し、州刺史・王沈の召集に郡吏として参加、呉軍打倒の方策を論ずる。唐彬は制呉の策をつぶさに語った。
まもなく王沈の推荐で相府から使いが迎えに来て、朝廷に入り掾属となる。司馬昭が唐彬の才覚を問うと、
陳騫が「唐彬の人となりは私のかなうものではありません」と言った。
司馬昭は笑い、「卿のような才は簡単に得られるものではない。なにを以って優劣を論ずるのか」唐彬は留め置かれ、
再び召されて問われた。“卿にはいかなることが出来るか?”唐彬は答える。「巷の噂から古人の事跡まで、語れば
満天下の口に勝り、故にまた満天下の恨みを買う」司馬昭はそれを聞いて「果たして然り。名は虚しく伝わることは
ないものだ!」と喜んだ。
 264年、ケ艾が誅殺されると、司馬昭はすばやくケ艾が鎮した隴右を押さえて士卒の心を得た。また現地の動乱を
見極めるため唐彬を派遣する。以下当地を見た唐彬の報告。「ケ艾は心が狭く矜持のみ高くて才能劣り、素直に従う
ものには歓心を寄せるが直言の士にはその言を聞きません・・・中略。とにかくケ艾をメタクソに言ってのける。
で、今諸軍はすでに到り、内外を鎮圧するに十分です。憂慮する必要はありません」と結ぶ。これにより司馬昭の
信頼を得て朝廷で重きをなした。
 晋武帝・司馬炎が即位すると関内候の爵位を授かり、各地の県令・太守として顕著な政績をあげた。まもなく
益州監軍の位が欠けた。朝廷では唐彬と武陵太守楊宗のどちらかを補充要員とする議論が交わされた。武帝は散騎常侍の
文立に意見を求め、文立はどちらも不可と答えた。理由として「唐彬は財欲が強く、楊宗は酒好きです。臣には決められません
ので陛下が裁決ください」という。武帝は「財欲は満たしてやれば済むが酒癖は改められない」ということで、
唐彬を益州監軍に決定した。巴蜀の東は呉と国境を接す紛争地域であり、唐彬には監巴東諸軍事、広武将軍の肩書きが与えられた。
唐彬は任地につくとみずから晋、呉の境界線を巡察。呉軍が境界を越えれば戦ってこれを退け、また武帝に平呉の策を上疏し、
その策は武帝の意にかなった。
 279年、唐彬は竜驤将軍王濬とともに詔を奉じて巴蜀の兵8万を率い、江東に出て晋の本軍と共同で呉を伐つ。唐彬は巴蜀の
諸軍を率いて要沖に屯し、朝命一下、衆を率いて先駆ける。唐彬はまず擬兵を設け、しかるのちに奇兵をもって呉の丹陽を撃破。
ついで王濬指揮下の水軍が長江をまっすぐ下り、筏に油をかけて焼いたものを放ち、呉軍が江中に設置した鉄索を分断する。
王濬はそのまま西陵を攻め、呉軍の都督・留憲を斬り殺して大いに呉軍を破り、無数の俘虜を得る。巴陵に到るに及んで、
沔口より東の呉軍は震撼、未曾有の大船団を前につぎつぎと降伏する。軍は建業まであと200里のところまで迫り、唐彬は巴蜀の軍
を率いて呉軍の主力と激突、激戦のすえこれを潰滅させ、呉主・孫皓の退路を断って投降させた。呉の地が平定されるとその功により
右将軍とされ、上庸県候に封ぜられる。
 まもなく、鮮卑の各部が右北平を侵略したので、唐彬は持節を授り監幽州諸軍事、領護烏桓校尉として現地に着任した。兵馬を訓練し
武威を轟かせる傍ら、農業の発展にも意を用い、学校の創建も行い、朝廷の恩信を内外に示した。唐彬の人柄に信服した鮮卑の大莫廆、
擿何ら諸部は朝廷に服従を誓い、晋朝のために境界を拓き、地を広げること千里、万里の長城を修築し、右北平に屯して防衛の任につく。
これによって辺境は安寧を獲、危険を知らせる犬の泣き声もしなくなった。民衆は唐彬の徳を敬慕して碑を建てた。
 元康初年、唐彬は前将軍、領西戎校尉、雍州刺史とされ、任地に赴く。礼を重んじ士を敬い、恩と威を使い分けたので、州郡は大いに
治まった。294年、任上で没。享年六十歳。のちの人の評によれば、唐彬は兵を用いずして敵の心を攻める優れた名将であり、
高潔な風格を備えていたという。賢明であるという点では、王渾、王濬もはるかに及ばない。
                         《中国歴代軍事人物伝・続集》より
・・・今日はこれでラストっす。さすがに疲れましたわ、ホント。

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/01(水) 05:21:47 ID:xuV7ms8j0
孫氏の孫武
呉氏の呉起
司馬法の司馬穰苴
三十六計の檀道済

兵法書を残した人物は皆名将でもあったんだな
張良とか、将として実戦経験の少ない純粋な軍師だとやっぱり書けないものなんだろうかね
頭賢いし何か残してそうなものだが

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/01(水) 05:29:47 ID:F5Wc7r310
仮託でいいなら劉伯温の『百戦奇略』があるぞ

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/01(水) 07:21:04 ID:A6zCv6mF0
韓信や項羽も兵法書残したしなあ
現存しないけど

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/01(水) 11:36:42 ID:DBtmcfBQ0
足を斬られた孫[月賓]も張良と似たようなもんだと思うが

159 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/01(水) 14:34:39 ID:diO8Np170
たぶん滅茶苦茶マイナーやけど、一応北宋中期から。
郭逵(字は仲通)
 北宋中期、西夏との戦いが激化していく時期の名将。名もない一兵卒だったが兵法を知り用兵に長け、
少なからず軍功を残した。ただし西夏の患を除くことはできなかったけれども。
 1040年、兄郭遵の戦死により軍に入る。范仲淹に才能を見出され、明晰な頭脳を見込まれる。
范仲淹より学問と読書を薦められ、郭逵もその期待に応えて勉学に励んで、長ずるや立派な将才を備えるようになった。
いまだ戦功なくしていきなり辺境の鎮を任される。諸将が寧夏・霊武の地を取ろうと進言するのに対し、
霊武の地は攻めるに易く守るに難いとしてそれらの意見を封殺した。侮られたが原の鎮将・任福が危機に陥ったとき
軍を率いて出撃し、果然として戦い西夏軍を全軍潰滅させてからは、心服しないものはなくなった。
 宰相・陳執中は郭逵の知勇兼備であることを聞き、賓客として郭逵を招いた。当世の名将は誰かと語らい、
陳執中は葛懐敏を一等に挙げたが、郭逵は「懐敏は名将の器でないから近いうち失脚するでしょう」と言った。
事実それから数日後、懐敏は西夏に大敗し、軍を潰滅させて帰った。郭逵は懐敏の後任を任され、真定兵馬押に任命された。
 保州駐軍で反乱が起こると范仲淹の下で平定に向かい、反乱軍を説得して無血開城させる。
功績により内門祇候、環慶兵馬都監となる。母の死にあたって官を去ったが、のちまた復して原都監となった。
 仁宗の末年、湖北の蛮族・彭仕義が反乱を起こすと勅命を奉じて平定に赴き、蛮族をことごとく平らげて、
余衆を投降させた。改めて邵州の知事を任される。武岡の蛮族をも平定して容州観察使となり、改めて
原路副都部署となった。
 1065年、英宗に召されて検校太保、同署枢密院を授かり朝政に参与する資格を得る。ただ当時の朝廷は
武を抑える気風が強かったので、枢密院に入りしばしば上奏しても「曹彬や狄青ほどの才覚もないくせに」
と握りつぶされた。半年後、朝廷を出て陝西四路宣撫使兼渭州判官となり、鄜延鎮に屯した。
 1070年、西夏が大挙して環慶州に攻め込んできた。陝西宣撫使・韓絳が迎撃に出たが文人の韓絳は兵法を
知らず、実戦指揮官として狂生を抜擢するまともに戦えなかったので、郭逵と交代した。郭逵は2万の兵を
かき集めて西夏軍を破り、首級数千を挙げたが、韓絳に手柄を横取りされたと恨まれ、弾劾文を上疏された。
 翌年、誣告により降格される。まもなく桂州で交趾の反乱が起こり、欽、濂二州が陥とされて8千余任が
殺された。さらに邕州までも陥とされ、屠城されて5万8千余人が殺された。神宗は郭逵を安南行営計略詔討使兼荊湖、
広湖宣撫使に任命し、郭逵は鄜延、河東の古い自分の部下を集めて統率する。南下して長沙に到り、
軽装騎兵の一軍を分かって欽、濂二州回復に向かわせる。自分は主力を率いて西に進み、源州を破って交趾の将・劉応紀を
降伏させる。勝ちに乗じて諱A門州を下し、良江に逼る。欽、濂二州を回復し、江辺近くに到った別隊は、江に浮かぶ交趾の
大船と満載された精鋭たちを郭逵に報告した。郭逵は正面から当たったのでは利がないとして、まず船攻めの工具を作り、
敵船を毀した後奇兵を使って奮撃する、という策を立てる。さっそく兵を分散し山の中で木を切り倒し、投石器を作った。
それを引いて江辺に到り、用意の石を次々投げて船を砕く。郭逵は精鋭数万を筏に乗せて腹に穴の開いた敵船に節減させ、
急攻させた。交趾の偽太子・洪真尚は船の上で七転八倒しつつも奮戦したが、矢に当たり船から落ちて落命した。
交趾の衆は総大将の死を見て次々逃げ出し、宋軍は勝ちに乗じて水軍でこれを追って首級数千級を挙げた。
さらに河を渡ってなお追撃しようとしたが、郭逵は南方の風土に慣れていない士卒が疫病にかかることを恐れて兵を退かせる。
兵を分かって江北の州県を攻略し、交趾王・李乾徳を富良江で破り、十分に怖れさせてから講和を求める。
郭逵がそのまま講和条約締結の使者となり、和議を結んで朝廷に還った。
 哲宗即位後潞州知事とされ、のち広州観察使兼河中知事とされた。まもなく病を得、それを理由に致仕して洛陽に帰った。
同年病没。帝は一日中涙が止まらず、生前の功績に応えて雄武軍節度使を追贈した。
 郭逵は兵法に習熟し、よく将を用い、士卒を可愛がってみだりに騒いだり部下を理不尽に殺すことをしなかった。
しばしば文官の抑圧を受けたとはいえ、それでも当世の名将であることは疑いない。
                                    《中国歴代軍事人物伝続集》より

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/01(水) 15:59:45 ID:58spEVli0
>>158
孫ピンだけ例外と思って外したんだが他にもいる?

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/01(水) 17:18:13 ID:/TzHEyha0
>>160
『尉繚子』書いたとされてる商鞅や管仲はどう?  
因みに張良の兵法は毛利家に伝わり、
毛利元就がこれを駆使したことは広く知られているから、
一応現存はしてたみたいだね。

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/01(水) 18:47:15 ID:/TzHEyha0
>>159
>范仲淹より学問と読書を薦められ、郭逵もその期待に応えて勉学に励んで、
>長ずるや立派な将才を備えるようになった。
狄青といい郭逵といい范仲淹は人材育成に励んでたのか
呉下の阿蒙の故事でも模倣して
見所のある人物に学問と読書を薦めいたんでしょうか?

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/01(水) 22:31:08 ID:/TzHEyha0
赫連勃勃
姓は劉、字は屈子。匈奴鉄弗部、十六国時代の夏国の創建者。
父は前秦に帰属していたが、北魏の道武帝に攻められて一族と共に皆殺しにされる。
叱干部に逃れていた赫連勃勃は、砂漠の北の雄を称し、
早くから後秦の姚興に帰順した。
勇猛で、馬術、弓術と智謀に長けていた彼は
姚興の深い信任を得ていた。
驍騎将軍に任ぜられ、さらに奉車都尉を加えられ、安遠将軍に進み、
陽川侯に封ぜられた。
安北将軍に上り、五原公に改封されたが407年、後秦を裏切って、兵を挙げ、朔方において自立。
陝西北部を平定し、大夏天王大単于を称し、名前を赫連勃勃と改名。 国号を夏とした。
赫連勃勃はあえて本拠を定めずに嶺北を荒らし回り、
後秦を弱体化させ姚興の死後に長安を取ることにした。
赫連勃勃は南涼の禿髪ジョク檀と通婚することを望んむも拒否されてしまう。
それに激怒し南涼を攻めて略奪を行った。
禿髪ジョク檀は追撃したが、赫連勃勃は道に車を埋めて塞ぎ、南涼軍を散々にに打ち破った。
そして敵の死体を重ねて髑髏台と称した。
後秦の姚興は親征に及ぶもが、逆に勃勃に大敗。
413年に黒水の南に都を造営して統万城とと名付けると同時に、
後秦から投降した将軍王買を策士に付けて国家制度を整備。
赫連勃勃は生来、残虐で簡単に人を殺していた。兵器を作った後に職人は必ず殺し、
その死者は数千人と伝えられる。
また、いつも城壁の上に弓や剣を持って立ち、目障りに見える者を殺し、
諫める者がいれば舌を切った後に首を刎ねた。
417年東晋の劉裕が北伐して長安を陥落させ、後秦を滅亡させ、建康に帰還すると、
赫連勃勃は王買徳の献策に従い南下して長安を占領。
臣下は長安遷都を勧めるが、勃勃は北魏への備えを重視とこれを却下、
統万城をそのまま夏の都と定めた。
425年、赫連勃勃は病死し、廟号世祖、諡号武烈皇帝として、嘉平陵に埋葬される。

長安で隠士の韋祖思を召見した際に、
彼が非常に畏怖したので、己を蛮夷として恐れるものと怒り、
これを殺したことで知られている。

侯景と赫連勃勃ってネタキャラとして結構人気があるね。

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/01(水) 23:15:44 ID:2BogDzH20
>>149に言われて、春秋戦国をちょっと学ぼうと中国の歴史02を購入してきたが…
五胡もいいなぁ。
ネタといえば、禿髪姓もたいがいだと思うw

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/01(水) 23:47:03 ID:+XVO0EYR0
五胡一番のネタキャラはロリコン暴君石虎だろうな。

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 16:12:12 ID:dPJpW8km0
>>164
ううっ、以前からずっと口説き続けた甲斐があった。
貴殿には春秋戦国や五胡のことにも興味を持ってもらいたかったので、
この反応は凄く嬉しい。
(あれだけ五代に詳しいのに他の時代をあまり知らないのは勿体ないと思ってたし)
因みに中国の歴史02は陳御大の著書ですか?

>ネタといえば、禿髪姓もたいがいだと思うw   
はい。予想通りいじられてますよ>禿髪姓
禿髪部ってモヒカン族?とか北斗の拳に出て来そうとか言われるしw だって禿髪は当て字ですし…

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 16:21:37 ID:VCA/fvcx0
拓跋と禿髪は同音って言われるけど、
実は鉄弗もそうだった、って説をどこかで見たような。

そうすると北魏帝室と南涼王室(だったっけ)と赫連勃勃は親戚になるんだよな
確かに道武帝は勃勃チックだw

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 16:29:41 ID:cxjf8McT0
尉遅と乙支が同じというのも聞いたことがあるな
尉遅敬徳と乙支文徳は同系か?

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 17:12:47 ID:VCA/fvcx0
>>168
もしそうだとすると、隋は尉遅氏(尉遅迴)を破って建国し、
尉遅氏(乙支文徳)に破れて国を滅ぼしたことになるんだよな。

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 17:40:22 ID:Xb/KHjH30
>>166
購入してきた「中国の歴史」は近年シリーズで発売された、自分の尊敬する礪波護氏が監修の一員やってるやつです。
副題は「都市国家から中華へ」というもので、まぁできればこれを期に全巻揃えようかな、とか…
すでに唐、宋、遼西夏金元は(当然ながら)持ってますが。
はい、そのとおり。それ以外は表面しか知らないです(苦笑)。

>>167
関係ないけど、鮮卑拓跋王朝の唐は諸国には「タブガチ」と呼ばれていました。
タブガチは拓跋の音なんで… って全然脈絡ないですね…
禿髪姓では禿髪烏孤が一番笑いましたね。ハゲでカラスで。
拓跋氏とは同族なんですよね。それにしてもどんな字を当てているものか。悪意が感じられるw

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 18:26:19 ID:dPJpW8km0
>>170
いやいや表面しかってそんなに言わなくても…(汗)
春秋戦国を知ってた方が漢楚とか理解しやすいかなっと思うし、
五胡とかの流れを知っていれば唐末〜五代がより楽しめるのではと思った訳で…
(自分も百選の方に触発されてこの前、世界の歴史シリーズの古本を買ってきた)
あと禿髪部と拓跋部は同じ鮮卑族です。(因みに慕容部も)
で当て字なんですが悪意はないと思いますよ。たぶんw


172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 19:01:24 ID:PLQuvhG10
林彪は日本軍と正面からぶつかって勝てる数少ない名将。

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 19:13:19 ID:dPJpW8km0
>>167
鉄弗部の出身である赫連勃勃は鮮卑の血が入ってますね。
鉄弗部は匈奴と鮮卑の混血だし。
南涼の禿髪氏は元々鮮卑拓跋部からの派出ですからこれは完璧に鮮卑拓跋部と親戚で、
そんでもってこの三者はそれぞれ血縁関係にあることてになりますね。
確かに道武帝は勃勃チックなんですが拓跋珪の場合は薬をきめてラリってたからなぁ。

174 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/02(木) 22:22:56 ID:mspiHmma0
劉曜(字は永明。生年不明〜328)
 劉淵の族子。幼くして孤児となり、劉淵に育てられる。幼い頃から聡明で、長ずると
身の丈九尺三寸、明晰な頭脳と並外れた驍勇を備えた。一箭射れば一寸の鉄板を射抜き、
人々から“神射”と称えられたほどである。しかも兵書に親しみ、悉く暗唱できたという。
 靳準が乱を起こすとこれを討伐、伝国六璽を奪い靳一族を殺した。長安に遷都して国号を趙とする。
 三年、親征して東晋の皇族、司馬保とその部下達を殺し、司馬保が従えていた氐、羌族を自軍に取り込む。
 そのまま進軍して洛陽を取ったが、以後・ここが石氏との抗争の火種になる。
 氐族の楊灘当を討伐、大勝したうえで説得、趙の臣として王位を与えた。
 陳安と交戦。陳安は兵二万を率いる陳安を趙軍の呼延瑜が破った。逃れた陳安は
西州の羌族、氐族をあおって自軍に取り込み、衆10万を得る。慢心を諌める部下を斬った。
 太寧元年、劉曜が征西している隙に、陳安が南安を攻めた。しかし劉曜は軍を還して陳安軍を逆包囲し、
8千余人を俘虜とした。陳安は数百人をもって囲みを抜け、近くの城に援軍を求めるつもりだったが、
あてにしていた土地の城はことごとく趙軍に占拠されていた。劉曜は平先、丘中伯に騎馬隊を授けてその後を
追わせ、追い詰められた陳安は右手に大刀、左手に八丈の蛇矛をたずさえ平先と戦うが、平先は驍勇絶倫の
勇将で、わずか3合にして蛇矛を奪った。馬を棄てて逃げる陳安だったが、洞窟の中に隠れているところを
呼延青人に見つかり、斬られた。陳安の死を劉曜ははなはだ喜んだ。隴城は投降、陳安に従っていた羌族、氐族もまた投降した。
 劉曜は劉岳、呼延謨に兵を授け、石氏討伐に向かわせた。緒戦で5千人を斬るが石虎率いる4万の援軍に敗れる。
石虎はそのまま進軍して劉岳隊の糧道を分断し、さらに東進してきた呼延謨を殺して部隊を潰散させる。
劉曜は自ら劉岳救援に赴き、八特坂で石聡を倒すも、その後は石虎と3戦して3敗。逃げ遅れた将士1万6千は生き埋めにされた。
 張駿は劉曜が石氏に敗れたことを知って晋朝に帰順し、大将軍に任ぜられたて趙を攻めた。劉曜は劉胤に4万人をつけて派遣し、
晋軍と趙軍は洮河をはさんで70余日対陣した。膠着状態だったが冠軍・呼延那灘が自前の2千人で糧道を阻み、劉胤が
河を渡って晋軍に逼ると、張駿麾下の将・韓璞の軍は大潰し涼州に逃げ去った。劉胤は追撃して令居で首級2万を挙げる。
金城太守・張閬と護軍・辛晏を降し、その麾下の兵数万を投降させる。劉朗、劉胤、呼延那灘の三人をそれぞれ列候に封じた。
 石勒は石虎に4万の兵を与え、石虎は軹関から西に進軍して劉曜討伐にやってきた。蒲坂が攻められ、劉曜は自ら蒲坂を救いに出る。
もともと翻意のあった張駿、楊難敵らも東晋側について主人不在の長安を攻めた。劉曜は水陸の最精鋭を率いて衛関から河を渡り、
石虎を脅かす。軍を返した石虎を追撃、高候で大戦して石氏の兵を打ち破り、その将軍・石澹を捉えた。この戦いで屍骸が200里に
渡って地に転がったという。石虎は朝歌に逃れ、劉曜もそれを追ったが、石生に阻まれる。
 劉曜は日ごろから士卒を愛さず、奸臣たちと酒や博打に興じ、左右の諌臣の言には怒って難癖をつけ殺した。そういう風であったので
士卒の士気は低く、まともに警戒する歩哨もおらず、石氏の奇襲にも対応できなかった。石堪が機に乗じて陣幕に飛び込み、劉曜は酔いも
一片に醒めて逃げまどう。10数箇所に創を負い、うち3箇所は内臓に達していた。石湛に擒らえられ、護送されて長安で処刑された。

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 22:26:26 ID:1estRDcQ0
ここはコピペを貼る会場なのかな?

176 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/02(木) 22:38:51 ID:mspiHmma0
>>175さん
まぁ、正史を直訳して紹介文として落しとるわけやから、
コピペといえばそーかも。
こーいうのが不愉快、って思ったら言ってください。
そやったら投下やめますわ。

177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 22:45:27 ID:JQo9F7s70
◆oOLAqFKRB.さん、書き込むときはなるべくsageたほうがいいよ

178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 22:49:07 ID:xEGfwtjG0
>>174
晋書劉曜載記と細部が若干異なるが、出典どこ?

しかし、いつも思うが劉曜が石虎との直接対決で負けた記述ってあったかなあ
328年の洛陽の決戦でも、勝敗を決したのは石勒の電撃的強行軍による有利な布陣にあったと思うが
「石虎に敗れて捕えられる」という記述にはやっぱ違和感ある

179 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/02(木) 22:55:00 ID:mspiHmma0
>>174
いや、普通に晋書劉曜載記やよ。
多分俺の訳が間違っとるだけやないかな。
紹介文なんやから本来間違えたらいかんのやけど。

180 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/02(木) 23:03:05 ID:mspiHmma0
アンカーミス。
>>179>>178さんの間違い。しかも敬称付け忘れとるし。
細部が違うのはかなり大幅に削ったけん、それでかもしらん。
>>177さん
メール欄にsageって打ち込んだけど、これでいいんかな。

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 23:07:38 ID:dPJpW8km0
禿髪樹機能が反乱を起こして鎮圧出来ずにいた際に李熹が
劉淵を派遣すれば問題は解決すると進言するも
司馬炎は孔恂の意見を受け入れ劉淵を派遣せず代わりに
誰かこれを平定出来る者はいないかと問うたところ馬隆が自ら名乗り挙げました。
司馬炎は馬隆を討慮将軍とし、武威太守を兼ねさせた。
これに対し廷臣の多くは、馬隆のことを誹謗しましたが
司馬炎はそんな言葉には耳も貸さず馬隆のことを強く信頼しました。
馬隆は、強力の者、四鈞の弓を引ける剛腕の者、九石の弩を挽ける者を集め
三千五百の勇士を得て、反乱鎮圧に出向いた。

温水を渡河すると、樹機能が数万を従えて堅固に守りを固めて待ち構えていた。
馬隆は山道が険しく進軍の容易でないことを察知し、部下に命じて箱車を作らせ、
それに兵を乗せて移動させた。四面に鹿の角ようなものを取り付け、
車に木造でできた屋根を取り付け、弓や弩を避けることが出来る様に施した。
樹機能らの兵がどこに兵を伏せているかしているのかが予測出来ない為であった。

検討がつかなかったからだ。
樹機能は馬隆の軍をみて一斉に馬隆の軍に襲いかかって来た。
しかし馬隆の軍は車に乗り弓矢を射掛けられても屋根のおかげで、
相手の攻撃が効かず、しかも隘路のだった為、
今度は樹機能の軍は兵を退きだらかなで広地に敵を引き寄せて
これを取り囲み殲滅しようとした。

相手が広地に来たのを見て、樹機能は怒涛の出撃を開始。
馬隆は、鹿角車を並べて樹機能の軍に突撃していく。
鹿のような角に吹き飛ばされる樹機能の兵は無数であった。 戦場が広地なら鹿角車を並べて布陣、
隘路では車の上に木屋をつくって戦いながら前進した。
樹機能の軍がどこに埋伏していても関係なし。
突撃してくれば弓矢では敵は射倒されるばかり。
馬隆軍の箱車が通った道はたちまち敵の屍になった。
こうして馬隆は樹機能にを散々に打ち破り秦涼地方を平定した。

西晋の馬隆が征蜀の名将を多く打ち破り司馬亮・杜預・賈充らの討伐軍を恐懼させた禿髪部の禿髪樹機能を
撃破・殺害に成功を収めた際に諸葛亮の八陣法を用いたとのこと。


182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 23:25:56 ID:dPJpW8km0
>>178-179
328年劉曜は洛陽の攻略を図り、石虎を破って洛陽を包囲したが、
後趙の石勒に攻められた時も泥酔して戦場に立ち
氷上に落馬して動けなくなったところを捕虜にされた。
戦いの様子ってこんなじゃなかった?

183 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/02(木) 23:42:48 ID:mspiHmma0
>>182さん
石勒が石虎に4万を与えて戦わせるも劉曜に粉砕されて洛陽に撤退、
洛陽が囲まれるも、
石虎は台風に乗じて石門に拠し、石勒の増援とともに大逆撃。
洛水の戦いでの先鋒は確かに石勒ですわ。このへん読みが足らんかった。
で、酔っぱらってる劉曜の陣に石堪が突っ込んで、
馬に乗って逃げようとした劉曜は馬から落ちて河に落ち、
石堪に10余の傷と内臓に達する傷3つを与えられた上ふんじばられる、と。
・・・大体こんな感じで書いてありました。やけん最高殊勲者は石堪かな、と。

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 00:10:04 ID:UCKvLTU50
>>183
石虎が撤退したのは朝歌
石虎(ナンバー2)、石生(当時だと軍事的にはナンバー3、前趙と国境を接する司州に鎮しとったからね)
を続けざまに、真っ向勝負で撃破されたからこそ、襄国は懼れ震え上がったわけで

三ヶ月間沈黙を守っていた石勒が意を決するや、一挙に強行軍を出して敵より先に緊要地形である
成皋を占領する流れは、さすが石勒と言いたくなる鮮やかさ、機動力の妙だろう
鉄騎、突騎全盛の魏晋南北朝において、しばし軽騎を用いて長躯機動する石勒の戦理戦略は
時代の徒花でしかないのだろうが、それゆえに同時代の他の名将たちとは一線を画していると感じさせられる
まあ、単なる雑感だが

185 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/03(金) 20:06:02 ID:z/o0vUEu0
慕容垂(字は道明、326−396)
 后燕創始者。慕容皝の大五子。幼少にして聡明、度量が広く、父・慕容皝の寵愛を受けて育つ。
慕容皝は慕容垂を溺愛し、慕容儁に代えて嗣子にたがるほどだったが、群臣の諌めで取り止めた。
この話が漏れた所為で慕容儁から忌まれる。ただし異母兄の慕容恪とは仲がよかった。
 慕容垂の妻は西晋の段一族の娘で、二人の間には慕容令、慕容宝という2人の男子が生まれた。
段氏と皇后は平素から仲が悪く、晋の穆帝の升平2年(358)、段氏は讒言により殺される。しかも
後妻に皇后の妹を娶らされた。
 慕容暐が即位すると慕容垂を高く買っている慕容恪は、「とにかく呉王(慕容垂)を使いなさい」
と吹き込んでいた。今際の際にも「私が死んだあと、衣鉢を託せるのは呉王しかいません。彼は管仲や蕭何に
匹敵する人傑です」と言った。しかし慕容暐は執政を兄・慕容臧と太傳・慕容評に任せ、軍事では弟の慕容沖を
大司馬とした。慕容垂は侍中、車騎大将軍にとどまった。
 太和四年(369)東晋の大司馬・桓温が燕にむかって北伐を開始した。7月、枋頭に到る。
慕容垂は兵5万を率いて晋軍を迎撃し、火計をもってこれを破る。さらに精鋭8千人を選抜して
追撃し、昼夜兼行で追撃。追ってくるのが寡兵と気づいた桓温は回頭してこれを迎え撃つが、
慕容垂は范陽王・慕容徳とともに前後から挟撃し、晋軍を破って斬首3万級を獲た。
 一連の戦いに全勝した慕容垂は襄邑を経由して鄴都に到り、その武威は国外にも轟いたが、嫉妬深い慕容評の妬みを受ける。慕容評は
皇后・可足渾氏と謀り、慕容垂暗殺を企んだ。慕容恪の子・慕容楷がそれと知って忠信してくれたので、慕容垂は先んじて慕容評を殺した。
こののち骨肉相食む現状を憂い、2人の息子を連れて秦に亡命する。
 秦主・苻堅は燕の名将・慕容垂が亡命したことでこれで怖いものはない、と増長し、慕容垂を厚遇した。
宰相・王猛は慕容垂が人の下で終わる器でないことを見抜き、殺せと苻堅に進めるも、苻堅は聞かなかった。
 王猛の燕討伐に従軍、燕を滅ぼし慕容暐を擒らえて長安に帰った。慕容垂は生き残った郎中令・高弼を自ら説得する。
ひそかに二人でいつか燕を復興させることを誓い合った。
 太元7年(382)10月、苻堅は東晋討伐に出征した。この行動は多くの大臣達に反対されたが、ひとり慕容垂はこの作戦を支持していた。
慕容垂は苻堅がいつか驕慢とプライドの高さゆえに失敗することを料り、そのために無理な出兵に賛同したのである。はたして淝水で
秦軍は大潰し、ひとり慕容垂だけが無傷の精兵3万を擁して無事だった。苻堅は敗残の兵を率いて慕容垂の陣に退却した。慕容垂の幹部達は
この機に乗じて苻堅を殺すべきだと主張したが、慕容垂は苻堅に受けた恩を忘れず、生かして秦に帰らせたばかりか自らの領する兵士達も
全員苻堅に与えた。そののち直後北方の夷戎討伐を願い出て許され、これを慰撫しみずからの兵力として苻堅から独立する。
 太元9年正月、みずから大将軍、大都督、燕王を称し、正式に一政権を建立した。史書に言う後燕である。すかさず20万の衆を率いて
鄴城を囲んだが、秦軍も頑強に抵抗した。慕容垂が攻め下せずにいる所に、10年4月、東晋の将・劉牢之が救援にやってきた。
これは一撃で撃破。打ち破られた劉牢之はそのまま中山に割拠し、帝を称した。
 11(386)年8月、南征。青、兗、徐州などに割拠する武装勢力をことごとく下す。こののち慕容垂は年中征戦を繰り返し、
それでも国威は衰えなかった。後燕の実力は絶えず発展し、また19年6月には西燕を滅ぼした。
 20年5月、慕容垂は太子慕容宝、遼西王慕容農、趙王慕容麟らに兵士8万、および後詰め1万8千を授け、拓跋珪の北魏を討伐させた。
両軍は参合で会戦し、後燕軍は大敗、慕容宝、慕容徳らとともに逃げることが出来た兵は10人中1、2人で、ほとんどの兵が戦死した。
 参合の戦いでの大敗を受けて、慕容垂は自ら大軍を率いて出陣、まずは参合で死者に哭礼を行う。以前より病を抱えていた慕容垂は
血を吐いて倒れるも、魏軍が迫っていると知って一計を案じた。自分は死んだことにして、魏軍を油断させたのである。はたして魏軍は
この詭計にはまり、後燕軍の前に大敗した。恨みを晴らさんとばかりに追撃し、首級無算。慕容垂は帰国途上、上谷の沮陽で落命した。ときに71歳。
                                                 《25史新編・西晋書・東晋書》より

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 20:38:34 ID:ZJRC4pdSO
方言は聞くのはともかく文になると読みづらいんだが
周りに合わせるってことしてくれないかな

187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 20:40:24 ID:ZJRC4pdSO
>>186は◆oOLAqFKRB.さん宛ね。

188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 20:57:31 ID:JzAl2fti0
あんまり長文書くと容量オーバーで突然止するから気を付けてね。
このペースで行くと500行かないんじゃないかな?

189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 21:08:12 ID:ruhawgQe0
どこか無料ブログ借りてそっちに書いたらどうよ

190 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/03(金) 21:30:41 ID:r+exZq5W0
>>186さん
了解しました。博多弁なしの方向で。
まぁもともと標準語で書き込んでたわけだから、なんとか出来るはず。
不便を感じさせて申し訳ない。
でも博多弁→(脳内変換)→標準語って結構難しい。
博多に生まれ博多に生きて30年、だから。
>>188さん、>>189さん
載記は本紀並みに長いからどーしても長くなるんです・・・。
それはさておいて、
俺の書き込みってこのスレ的にウザい?
それだったら言ってください。出来る限り改めるか投下やめるかします。

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 21:40:17 ID:SvQ2s11q0
>185
キタキタキター慕容垂。
五胡で一番好きなんだよな慕容兄弟。その次が石やんこと石勒。
>>66にも書いたけど参合陂で、慕容宝と慕容徳が北魏に大敗すると、
「おい珪ちゃん、調子ヌッコいてんじゃねーぞ ゴラァ」と
自ら軍を率いて、北魏の都平城を陥しちゃうところがなんとも痺れます。
帰還途中に上谷で没しちゃったけどね。
それとヒ水で破れた苻堅を殺して自立しようと宝の奨めに対し
垂は大恩があるから関西は諦め、慕容部の自立、王朝再興は関東でやろうと
言い放ったとこもカッコ
いいし。
残念なのは垂の死後、後を継いだ慕容宝がなぁ。宝はあまり出来が良くないし。
孫の会に望みを託したんだろうけど…
異母兄の慕容恪も内紛を回避するべく、ひたすら低姿勢を貫き通す思慮の深さを持ち、
しかも臨機応変な奇策を最も得意とし、慕容部最高の傑物ですからね。
やっぱ慕容兄弟最高たな。

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 21:52:14 ID:SvQ2s11q0
◆oOLAqFKRB.さん
俺が元々お願いしたことだし、別にウザいとは思わない。気にせず投下してほしい。
それにいい起爆剤になってると思うけど。
仮にスレが容量オーバーで突然止まっても俺が責任持って次スレ立てます。
長文が嫌な人はレスをスルーすればいいのでは?
もしくは無理に参加しなくてもいいのでは?

193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 22:10:49 ID:j0hBukbl0
やっぱ魏晋南北朝時代は面白い人物が多いですね
もし余裕があられるのならば桓温や劉裕の伝もお願いします

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 22:22:12 ID:SvQ2s11q0
桓温はいいんだけど劉裕ってあまり人気ないんだよなぁ。
南朝なら劉宋、劉裕が好きなのだが…
解体された北府軍を纏めあげ桓玄を打ち破ったとことかカッコいいし。

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 22:29:46 ID:WV+yTb3+0
清末以降が好きそうな連中はここにはいなさそうだな…

196 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/03(金) 22:47:29 ID:LD+5aINP0
ちょっと書き忘れというかネタなんですが、
慕容儁の嫁さんの姓、可足渾って言うんですわ。
こーいう名前見ると何処の部族の出身だよってツッコミたくなる。

>>195さん
 清末好きなやつ、いますよここに。義和団事件の趙三多とか。
・・・まぁ趙三多は武将ではないかもしれませんが。
太平天国とか湘軍は清末ではないのかな。まだ1800年代だもんなぁ。
さすがに近代の孫中山あたりから後ろは首尾範囲外ですわ。

197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 22:47:51 ID:SvQ2s11q0
東晋の帝位簒奪を画策するも志半ばで死んじゃった桓温、
親父の野望を受け継ぎ帝位簒奪に成功、楚を打ち建てるが三ヶ月も経たない内に
劉裕に滅ぼされされちゃった可哀想な桓玄。    
鮮卑を手玉に取ろうと画策し、段部、宇文部にサンドイッチ状態の慕容部を手助けするも
逆に慕容部が勢力を拡大することなっちゃった悲惨な石虎。
しかも恩を仇で返されてるし。
>>195
それは分からないよ。一度、紹介文を投下してみてはいかがでしょう?


198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 22:57:35 ID:Cr5tYlSo0
>>196
可朱渾氏ってことになってたような。

199 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/03(金) 23:43:51 ID:12q8g3Mc0
>>198さん
こっちの資料(25史新編 西晋書・東晋書)では可足渾氏ってなってます。
これが間違ってるんだろーか?
改めて《晋書》慕容垂戴記を読んでみるも、
慕容垂が嫁さん殺されたことすら書いてないです・・・。
別のところに書いてあるのだろーか?
実は俺の《晋書》がおかしいのか?
漢語大辞典出版社製だから、中華書局版とは違うのかもしれんです。

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 23:53:30 ID:Cr5tYlSo0
ついでに斛律金
北魏〜北斉の将軍。朔州勅勒部の人。騎射に巧みであり、行軍は匈奴の法を用いた。
戦場では巻き上がる塵によって敵軍の騎兵、歩兵の数を知り、
地の匂いを嗅ぐ事で敵軍までの距離を知ったという。
初めて軍主となると、蠕蠕の王阿那壊の北帰を護衛し、射猟の技を披露して感歎される。
後、蠕蠕が北魏に侵入した時にはこれを撃退した。

のち六鎮の乱が発生すると、乱主破六韓抜陵の軍に身を投じ、王号を授けられる。
しかし破六韓抜陵軍が杜洛周に破られると爾朱栄の陣営に属した。
ここで金は高歓と知り合い、のちの高歓と爾朱一族の抗争では前者に属し、以降東魏、北斉の将軍として活躍する。
侯景が反乱を起こした際、迅速に河南の地を回復したのも斛律金の手腕であった。
また蠕蠕が崩壊し、草原が混乱にあったときには、中華の地と草原の結節点である白道に駐屯して事なきを得ている。

この功臣の一族に対して、北斉帝室は婚姻を幾重にも結んでおり、「一門一皇后、二太子后、三公主」と言われる程であった。
天統3年(567)死亡。享年は80歳であった。

なお彼の詩として、勅勒歌が残されている。(但し彼は後述の様に漢字がかけなかったため、以下の詩は翻訳された物の可能性が高い)
  敕勒川,陰山下。天似穹廬,籠蓋四野。天蒼蒼,野茫茫,風吹草低見牛羊。

また、彼本人は読み書きが苦手で、本名である阿六敦(もしくはそれを縮めた敦)を漢字でかけなかった。
そのため名を金と改めたが、それでも司馬子如に教えられてようやく書けるようになった。
この阿六敦とは、おそらく北方民族の言葉で金を意味するアルタイ・アルタンであろう。

>>199
「可足渾」は『魏書』官氏志の「渇燭渾」(後改姓して味氏)と同音の音写で、
この斛律金の部下でもあった可朱渾道元や最近墓誌が出土した可朱渾孝裕と同系統だって言われてるってことです。

201 :200:2007/08/04(土) 00:20:09 ID:uvnRYkMH0
阿那壊の壊は正式には土偏じゃなくて王偏です。

ついでに金の息子斛律光
斛律金の長男。若い頃から騎射に巧みであり、武勇を持って名を知られ、父親に従って転戦した。
17歳の時、宇文泰の配下である莫者暉を射落として擒とし、高歓に嘉されて都督に抜擢された。

高澄の前で狩猟をした際、一羽の大鳥の首に矢を中てて射落とし、「落[周鳥]都督」と当時喧伝された。
その後も高歓陣営にあって転戦して活躍し、中でも[亡β]山の戦いでは宇文泰軍を大敗せしめ、
さらに自ら敵将可叱雄を射殺している。
この後も国境防衛のための城砦を多く建築し、北斉の軍事的優先を現出した。

この斛律光を恐れた北周の韋孝寛は、北斉国内に以下の2歌を流布させた。
  百升飛上天、明月照長安。(百升は一斛、名月は斛律光の字)
  高山不摧自崩、槲樹不扶自豎。
もとより建国の功臣の一族である斛律光は、当時皇帝の取り巻きとして権力を振るっていた恩倖勢力とは
折り合いが悪かったため、恩倖の言を容れた後主によって殺害された。
北周武帝はこれを喜び、大赦を行うほどであったという。
また、のちに北斉を滅ぼした武帝が[業β]に入場した時には、
「もし斛律光がいれば、私はここには至れなかっただろう」と言った。

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/04(土) 00:28:55 ID:p0Vkeh0S0
これって推薦してるの?どこが好きなのか添えてくれるとありがたい

203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/04(土) 01:14:51 ID:uvnRYkMH0
最後に韋孝寛
韋孝寛、京兆郡杜陵の人。経史に通暁していた。
蕭宝寅が関中で反乱を起こすと、すぐさま洛陽に走って蕭宝寅討伐に志願した。
蕭宝寅討伐戦では戦うごとに功を挙げ、行華山郡事に就任、のちに大都督楊侃の司馬となった。
楊侃は彼の才を愛して女婿とした。

のち高歓と宇文泰が対立すると宇文泰に付いて各地を転戦する。
河橋の戦いで西魏軍が大敗すると、国境地域は騒然としたが、韋孝寛が行宜陽郡事となると安定した。
大統5年(539)、東魏に対する最前線である玉壁城に入城した。
同12年、満を持して高歓が征西を開始し、玉壁城を包囲した。その軍営は数百里に渡るほどであった。
高歓は穴攻や攻城車など、様々な法で攻め立てるが、そのたびに韋孝寛は策を用いて撃退した。
結局高歓は60日ほども攻撃を続けたが陥とすことが出来ず、軍隊の半分近くを失って撤退した。
その後も韋孝寛は玉壁城に駐屯し、周囲の胡族たちを平定している。

韋孝寛は北斉国内に多く間諜を放っており、また北斉の人で韋孝寛から金銭を受け取り、
彼に国内の情報を書状で送ってくる者もあったため、北斉の動向は北周朝廷に筒抜けであった。
北斉の名将、斛律光を流言によって殺害したのも、彼の持つ間諜網が有ってこそであろう。
また北斉に城ごと降った部下を、間諜を放って暗殺している。
建徳年間、武帝に平斉三策を上奏、北斉攻撃はほぼ彼の献策どおりに進行した。

その後、北周の実権を握った楊堅に反発して尉遅迥が反乱を起こすと、
韋孝寛は行軍元帥となって尉遅迥を攻撃、迥の軍を討ち破って自殺せしめ、方々の諸軍も悉く平らげた。
長安に凱旋した一月後に死亡した。享年72歳。


とここまで三人挙げましたけど、一番好きなのは韋孝寛かな。
篭城戦ではあの手この手で攻めて来る高歓を悉く撃退、スパイ網の形成やその利用法も鮮やかとしか言いようがない。
こんなに具体的に間諜網を利用したって書かれる人は他にいたっけ?
軍人となって以来常に最前線にいて、
「屡しば強敵と抗る。経略を所有し、布置の初め、人之を解す莫けれども、其れ事成るを見て方に乃ち驚き服す」(『周書』韋孝寛伝)
なんてまさに知将の代表格かと。

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/04(土) 03:11:38 ID:ZwWB7mJR0
>>203
名将ではないけど陳平かな。あと張良や范雎も情報を操るのが得意じゃないかな。
意外なところでは秦の始皇帝が間者を使った謀殺が得意。

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/04(土) 03:12:09 ID:1g3FbsY80
慕容恪と垂で慕容兄弟あつかいされるが
慕容徳も非凡だと思う訳で
個人的には慕容三兄弟なんだけどな

206 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/04(土) 06:50:21 ID:7CRTaLPJ0
朝っぱらから書き込みです。北の国主を二人続けたんで、今度は北伐のさきがけを紹介。
祖逖(字は士稚。266−321)
代々の将門に生まれた。父・祖武は早くに死んでしまったので、年長の兄達について育つ。
性、闊達ながら礼儀を修めず、14、5になってもまだ書を読まないという按配で、諸兄らの
頭痛の種だった。しかし財を軽んじ義を重んじ、慷慨にして義によって立つ。しばしば兄の
意向と称して民衆を賑恤し、頗る郷の人々の尊敬を受けた。304年、恵帝に従って北伐するも
湯陰で敗れ、洛陽に還る。311年、石勒が洛陽を陥すと、京師大乱、祖逖は親しい友人100家
余りを率いて淮泗に逃げた。老人が居れば車に乗せてやり、自分は決して楽をしなかった。
薬物、衣服、食糧などはすべてみんなに平等に分け、智謀と指導力によってみんなから主と
推戴された。泗口にたどりつくころには、祖逖の名は元帝・司馬睿の耳に届くまでになっていた。

祖逖は常々、晋室の社稷腹腔の志を抱いていた。しかし元帝にはすでに気力がなく、北伐を放棄していた。
だから祖逖に対しても奮威将軍、豫州刺史の名義を与えたが、一千の兵士とわずかな食糧しか与えなかった。
しかし祖逖は水軍を編成し、櫂で水面を叩いて「祖逖、中原を清むることあたわずしてまた済れば、
この江のごときものあらん!」と叫んでその気宇壮大なことで皆を感嘆させる。長江を渡り、淮陰に註して、
武装を整え兵を募って、義勇軍2000を得て北伐を敢行した。

対するに、流人塢の主・張平は部下と諸部族の酋長を率い、譙邑で祖逖を迎え撃つも敗れる。祖逖は
勢いに乗じて追撃したが、張平の部下だった董瞻、于武、謝浮ら諸部族の酋長らが張平麾下・樊雅に
ついて攻撃してきたので形勢不利となった。そこで祖逖は自称・寧朔将軍の陳川に使者を遣わして慰撫し、
援軍を請求する。陳川の援軍・李頭に助けられ、力戦の結果、ついに譙城を抜いた。のち、行き違いから
陳川は李頭を殺し、祖逖と事を構える。部将の魏碩を遣わして豫州諸郡を略奪させ、多数の子女と車馬を得た。
祖逖はこれを聞き将軍の衛策に一隊を授けて派遣し、陳川の略奪部隊の帰路を截って撃破させ、衛策は
大勝利を博して帰還した。祖逖は略奪された子女・車馬をすべて元に返し、寸毫ほども私にすることがなかったので、
民衆は大いに喜んだ。

陳川は独力では祖逖に叶わないと感じ、石勒にすがった。祖逖は衆を率いて陳川討伐に赴き、石勒は従弟の石虎に五万の
兵を授けて陳川を応援させた。両軍あい見えて激戦となり、兵力に劣る祖逖は梁国まで退がった。石勒の部将・桃豹が
精騎を率いて蓬関の後ろを截ち、石虎、陳川が軍を合わせて祖逖を撃つ。しかし祖逖の伏兵と奇兵による奇襲作戦が
図に当たり、石虎は大敗、豫州に兵を退き、陳川も襄国に軍を還した。祖逖は麾下の韓潜を封岡に駐屯させ、馮鉄に蓬関を
占拠させ、自らは雍丘に鎮する。石勒の部下が守る各所の鎮をことごとく破り、投降させた。石勒はまた精騎万余を派遣して
戦を挑んだが、祖逖はたやすくこれを破った。祖逖は士卒を愛し、身分の卑しいもの相手にもこだわらず接し、倹約に努め
みずから農業を勧督し、克己心にあふれ、資産を惜しみなく分け与え、自ら木を伐っては薪を担ぎ、死者が出ると大々的に
葬儀を執り行った。そんなふうであったので皆の恩礼を受け、兵士達も微功のために命を懸けたし、民衆にも感じ入らない者は
いなかった。祖逖の活躍により黄河以南はすべて東晋のものとなる。諸塢主は祖逖に心服し、後趙はしばしば謀りごとを弄したが、
祖逖は密偵によりそれを察知したので敗北することがなかった。

連戦連敗の石勒は祖逖と修好する事を思い立ち、祖逖もそれを受け入れ、これにより両河南北はひとまずの安寧を見た。
祖逖はこの安息を利用して兵を強化し武器を揃え、黄河を越えて清・冀・朔州を奪回することを考えていたが、
元帝は戴淵を征西将、都都督、袞、豫、并、雍、冀六州諸軍事として祖逖に代えた。寸毫の軍才もない戴淵が
出征していくのを見て、祖逖は戴淵では自分が取り戻した土地を守ることも危ういだろうと予見、心中に憤懣を
抱える。そのうち朝廷では政争が起こり、国家多難で中原回復など夢のまた夢となり、憤慨のあまり病を発し、
雍丘で没した。享年56歳。彼の死を聞いて豫州の士女はみな涙を流し、民衆は彼を偲んで祠を建てた。
朝廷より車騎将軍を追贈される。
                     《中国歴代軍事人物伝・続集》より
今回は行間あける余裕がありました。次はリクあったし桓温か劉裕の紹介文落とそうかな。

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/04(土) 08:18:04 ID:3FdmdmND0
暗殺を多用した人物と言えば公孫述が有名じゃないか
名だたる東漢の将軍たちが呆気なく討ち取られてるし

>>203
韋孝寛は全時代通じても十傑に入りそうなくらい名将だと思う

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/04(土) 11:16:32 ID:aHwwYmJj0
>>206
乙。いつも楽しく読ませてもらっている。
向こうのスレは実質、死んだようだけど。
自分は名将の上下を決めない方がまったりしていていいな。

石勒スレに出入りしているものだけど
この祖逖の記述。結構、晋書の内容と違うけど、こっちの方が納得できる。

なぜ、桃豹が敗北したくらいで、石勒が祖逖と和平に踏み切り、南方討伐を諦めたか
劉曜の存在だけでは説明できない。
石勒軍NO.2の石虎が敗れたとなれば理解できる。
でも、祖逖が回復した領土はそれほど広くはないんだよね。
岳飛に負けない逸材と思うけど
本当、東晋はヘタレだなあ。

209 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/04(土) 11:17:52 ID:DY5A5+M30
>>193さん、余裕あるわけじゃないけど書いてみました。劉裕は書くかどうかまだ曖昧ですが。
桓温(字は元子。312−373)
 晋朝初期の動乱期に生まれる。将軍・温嶠に向かって啼き声を挙げたので温と名付けられた。
15のとき韓晃に父を殺され、18のとき、韓晃が病死するとその子3人を殺す。自首したが
孝義の士であるとして罪に問われなかった。のち明帝の婿となり徐州刺史となる。
豪爽不羈で他人を見下していたが、朝臣の庾翼とだけは仲がよかった。
庾翼死後、安西将軍、都督荊梁等四州諸軍事となる。

347年2月、前蜀を征伐。蜀兵を前に群議を開き、席上、江夏の相・袁喬が言った。
「ただ兵力を集中し、勇猛奮戦して努めて一戦を争い勝ちを獲るべし」桓温はその言を容れ、
兵力の一極集中策をとった。成都に逼る途上、蜀将・李権に遭遇、三戦して三勝し、大敗した
蜀軍は成都に逃げ帰る。十里の間をおいて成都を囲んだ。蜀将の多くは西晋軍の威容を前にして、
戦わずして自潰する。部下が役に立たないと見た李勢は自ら軍を率いて出陣、笮橋で両軍交戦し、
激戦となった。晋軍の前衛が挫かれ、参軍の襲護が戦死、桓温も愛馬の頭に矢を受けた。
李勢の軍は向かうところ敵なく、西晋軍の将士は皆が撤退を考えた。しかし令鼓吏が間違えて進軍の
銅鑼を鳴らすと、袁喬が剣を抜いて突撃、衆を督して力戦し、ついに蜀軍を大敗させた。
桓温は勝ちに乗じて追撃、成都城に火をかけ城門を壊す。蜀兵は恐れをなして闘志を萎えさせ、
李勢は夜、東門から抜け出し葭萌に逃げ、降伏を請うた。桓温はそれを受け入れ、李勢の身柄を建業に
送った。蜀地を完全に制圧したのち、桓温の名は大いに盛んとなり、朝野を震撼させた。
官爵を征西大将軍、臨賀郡公に進められる。

桓温は石氏の趙が滅んだ隙に乗じ北伐を敢行しようとしたが、上役の殷浩にその任務を奪われる。
しかし殷浩はしばしば戦ってはしばしば敗れたので庶民に落とされた。彼の後任には桓温が収まり、
桓温は晋朝における大権を掌握した。354年、秦伐を上奏し北伐する。歩騎4万を動員し、
江陵から出発、同時に水軍も併進させ、南郷に到達、歩兵を武関に入れ、梁州刺史に命じて午谷から
出して長安を直撃させた。騎兵主軸の別隊を自ら率いて洛を攻め、秦の荊州刺史を擒らえる。
青泥まで進軍して連戦連勝、事態を重く見た秦王・苻健は一族を率いて桓温を潰すべく出陣、
桓温は藍田で迎撃し、秦将・苻生の驍勇に将軍二人と数千人の死傷者という犠牲者を出したものの、
力戦してついに秦軍を潰滅させた。さらに転戦して覇上に至り、歩兵部隊と合流、苻健の逃げ込んだ
長安城を囲む。しかし兵粮が尽きやむなく長安攻めは中止、南に軍を還し、襄陽にいたる。

356年、穆帝に洛陽遷都を請うも断られる。かわりに姚襄征伐を上奏し、征討大都督に任ぜられた。
自ら水陸の大軍を率いて北伐、同年8月、伊水に到着すると姚襄は洛陽の囲みを解き、桓温に当たる
べく林の中に精鋭を伏せた。一方で桓温のもとに使者を派遣し、へりくだって自らを弱者に見せ、
桓温の油断を誘った。桓温は姚襄の詐術を見抜いていたが敢えてその手に乗るふりをし、逆に油断した
姚襄の軍を大いに破って首級数千を挙げる。追撃せずに洛陽を囲み、これを陥とした。功績により侍中、
大司馬、都督中外諸軍事とされる。

369年、燕を伐つため5万を率いて北伐する。湖陸で戦い一鼓のもとにこれを抜き、守将・慕容忠を
捕らえたのちさらに進軍して、金郷に到った。このとき旱魃で水路に水が通らず晋軍は大いに苦しんだ。
が、燕の慕容歴が2万の兵を率いてやってくると猛然と戦い、これを破った。ついで慕容臧の軍をも破り、
進んで武陽に駐留した。秦が燕を滅ぼし、苻堅は秦将・慕容垂を南討大将軍に任じ5万の兵を与えて晋軍を
攻めさせた。桓温は枋頭でこれを迎え撃つも、慕容垂の繰り出す軽騎1万5千の前に大苦戦、しかも巧みに
後方を遮られて糧道を截たれ、700里を歩いて退却する。さらに慕容垂自ら率いる軽騎8千の前に潰散
させられ、死者3万以上を数える大惨敗を喫した。帰国後、寿陽で反乱を起こした袁真を討伐、2万の兵を
率い、袁真病死後はその息子袁瑾を討って擒らえた。

371年、西海公を廃して簡文帝を擁立、大司馬となって朝政を専擅した。2年後病没。享年62歳。
                                《中国歴代軍事人物伝・続集》より

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/04(土) 14:11:25 ID:ZwWB7mJR0
>>205
南燕の世宗ですね。
兄の垂が徳に任せとけば間違いないみたいな感じで頼りにしてた印象を受けますね。
俺も慕容徳は非凡だと思うけど恪と垂が目立ちすぎるんじゃないかな?

>>208
ひょっとして石勒スレで翻訳してる御仁ですか?もしくは翻訳にアドバイスされてる御仁?

◆oOLAqFKRB.さん
貴殿の様な詳しいのは無理だし、時間がちょっと掛かるけど、
あれなら劉裕の紹介文投下しましょうか?
南朝なら劉宋、劉裕好きだし。

211 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/04(土) 18:40:25 ID:5BC44TpK0
>>208さん
楽しんでもらえたなら幸いです。ホントありがとうございます。
祖逖は本当に不遇ですよね。
戴淵と代えられなければもっと活躍できたのに、と思います。

>>210さん
劉裕の紹介文、できたらお願いします。
やっぱり多くの人が投下して語りあうのがあるべきスタイルだと思うので。

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/04(土) 19:16:35 ID:ZwWB7mJR0
>>211
◆oOLAqFKRB.さん
劉裕の件、了解しました。ちょい時間が掛かると思いますが紹介文投下しますね。
因みに東晋の名将なら祖逖より陶侃の方が好きですね。
上司にしたくないって悪評が立ってますけど…

213 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/04(土) 21:51:59 ID:AkQhcxeV0
100選スレでは候補どまりだったけど、とりあえず紹介。
誤艾(生年不明−354)
 謝艾は涼州の主簿だったが、346年、後趙の将軍王擢、麻秋、孫伏都らが軍を率いて
武街、金城を落とし、涼州の人々を恐れさせた事件が起こる。張重華は征南将軍・裴恒に
境内の全軍を授けて迎撃させたものの、裴恒は恐れて戦わなかった。それで司馬の張耽が
「将の優劣は国家の存亡に直結します。主簿の謝艾は文武を兼ね備え、兵略に明るく、
古の楽毅、韓信、司馬穰苴、呂蒙に匹敵する俊才。彼であれば人情を鎮定し国家を危機から
救う任に耐えうるでしょう」と進言、張重華はそれを聞いて謝艾を召し、寇軍を討つ方略を
尋ねた。謝艾は「私に7千人を授けていただければ十分趙軍を破るに足ります」と答える。
張重華は大いに喜び、謝艾を中堅将軍に任命し、歩騎5千を授けて趙軍の麻秋を撃たせた。
謝艾は命令を受けるや速攻で出撃し、安地を選んで営を築いた。夜半、将兵を叩き起こし、
煙が上がらないよう埋めた鍋で食事を作らせ腹いっぱい飯を喰わせ、夜明けを待たずして
進軍、馬に枚を含ませて疾走し、一直線に趙軍の陣営に逼り、鼓を鳴らして突撃した。
趙将・麻秋はすっかり怠けて備えを怠り、そこに突然の突撃を受けて恐慌をきたす。鎧も
つけず裸馬に跨って、命からがら逃げ去った。涼州の兵は勢いに乗じて追撃し殺戮し、
首級5千を挙げる完全勝利を獲た。
 まもなく、趙主・石虎は謝艾なる将の名を聞き、これを除くべく麻秋を大将として大夏を
攻めさせた。大夏太守・宋晏は城を挙げて投降し、趙軍は勢いに乗じて枹罕を攻める。
しかししばしば攻めるも克てず、大夏に退いた。麻秋苦戦の報を受け、石虎は中書監・石寧
を征西将軍に任じ、兵2万を授けて麻秋を援護させた。援軍を得た麻秋は再び涼州に攻め込み、
張重華は宋秦を将として迎撃させるも、宋秦は敵を怖れ、兵2万を挙げて投降、趙軍はいよいよ
涼州深くに侵入した。張重華は怖れ、慌てて謝艾を召し、軍師将軍に任じ、歩・騎3万を授けて
臨河で趙軍を阻ませた。謝艾は部将・張瑁に一計を授けて間道に伏せさせ、自らは軽車に乗って
出陣する。麻秋はゆったり構えて神色凛然たる謝艾に怒気を発し、「一介の書生が大敵を前に
して、随分優雅なことではないか、俺を嘗めているのか?」言うや黒矛竜驤兵と称する精鋭部隊
3千を突撃させる。涼州の将士はみな色めき立ち、部将・李偉が謝艾に退陣を勧めたが、謝艾は
聞かず、泰然自若として車を降り、床の上に胡坐を書いて、動くことなく軍士を指揮督戦して
黒矛竜驤兵を斥ける。麻秋は涼軍の間近に迫るも、一敗地にまみれた経験から将士にみだりに動かず、
軽はずみに進むな、と訓戒、しかしそのとき、間道から張瑁率いる一隊が趙軍の後背を衝く。
後方からの奇襲を受けた趙軍は陣容を崩し、社外はこの機に乗じて軍を発した。前後から挟撃し、
趙軍を大敗させる。将軍杜、汲魚らを戦死させ、首級1万3千を挙げた。
 20日後、麻秋、石寧、王擢らは12万の兵を動員して決戦を挑んだ。涼都姑臧は敵の多さに
震撼する。張重華は自ら兵を率いて敵を拒もうとしたが、謝艾がそれを諌めて止めた。別賀従事
の索遐が「一刻の主が軽々しく動いてはなりません。長史・謝艾は文武兼備し、大任を任せるに
足る人物です。謝艾に任せておけば憂慮することは在りません」と説く。謝艾は都督征討諸軍事、
行衛将軍に任ぜられ、索遐を副将に、二万人を率いて迎撃線に出た。謝艾は王帥の牙旗を立てて
進み、神烏で王擢に遭遇しこれを痛撃、王擢を敗走させる。勢いに乗って麻秋を攻撃し、斬首
1千級、俘虜2千8百を獲た。麻秋は金城に逃れる。石虎は次々入ってくる敗報に「我は九州を
定めて向かうところ敵なしだというのに、今九州の力を合して攻めながら、涼州に人あってこれ
を落せない。軽んじることは出来ないものだ!!」と長嘆した。
 趙軍撃退の功績により、謝艾は張重華から甚だ重く用いられることとなる。
353年、病篤くなった張重華より遺文で公子の補政を託されたが、張重華
の伯父・張詐と奸臣たちが遺文を隠して朝政を専擅し、内外の大権を掌握、
張詐は翌年王位につき、先君の功臣・謝艾は誅殺された。
                     《中国歴代軍事人物伝・続集》より
>>212さん、受けていただきありがとうございます。

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/04(土) 21:52:46 ID:ZwWB7mJR0
劉裕の作業中だがちょっと投下しとこうかな。

慕容徳
慕容徳は後燕建国後、車騎大将軍、笵陽王に復し、侍中、尚書令、司徒を歴任、
慕容宝のもとでは都督六州諸軍事、冀州牧に任じられのちに丞相になるなどかなり有能。
南燕、建国後は北魏と東晋に挟まれ苦境にあったが
人材の登用に努め、
塩鉄の生産をすすめ戸籍を整え国力の充実を図り富国にするなど、
君主としても有能だよね。
惜しいのは国が滅んだことだな・・・

前涼の謝艾
謝艾は前涼の主簿であったが、大抜擢を受けて中塁将軍にのぼり
後趙の涼州侵攻を幾度と無く撃退しているし。
書生風の格好で戦場指揮を取っていたため、
敵将から過分に罵られることもあったみたいだけど、
石虎に「中原の総力を注いで、謝艾のいる一城を落とせないとはッ!」
と歎息させたほどの人物だし。

215 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/04(土) 22:23:10 ID:11qGmiht0
次は什翼犍を挙げる予定です(他の人と被ったら行けないので予告)。
ついでに謝艾の補完。彼の背景となる前涼について。
 前涼は西晋大乱となったとき北に残った張氏が作った政権。涼州は乱に際して
難を逃れた関中・中原の漢人の亡命先で、漢族にとって北の安息地でもあった。
張氏の長、張軌は晋朝に忠勤を誓い、頗る信任を得て政権の地盤を固め、張軌の
曾孫・張重華の代に独立して涼王を称したが、東晋王朝にはあくまで忠誠を示した
北方では変り種の国。

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/04(土) 22:43:10 ID:ZwWB7mJR0
◆oOLAqFKRB.さんと謝艾のこと偶然被ってるな。
やはり人物の好みとか似てるのかな?

217 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/05(日) 01:23:14 ID:DI9A0saq0
長くかかりましが予定通り什翼犍です。
拓跋什翼犍(318−376)
 鮮卑拓跋部の人。動乱期の末に生まれ、長ずるやたちまち頭角をあらわす。329年、
拓跋各部を糾合し兄・翦槐を代王の位に就けた。自らは当時北方で最強の勢力を誇っていた
趙の石氏のもとに人質として赴く。人質として襄国にあること10年、漢文化に接し、
これが後日の代国の政治に大きな影響を与えることとなった。
 338年、拓跋翦槐が病篤くなり、今際の際に什翼犍を趙から呼び戻し、代王の位につけよ
と言い残した。各部の首領たちは趙を懼れて什翼犍の弟・孤を代王に立てたが、拓跋孤は兄の
遺命に忠実であり、什翼犍を擁立すべく自ら趙の都城を訪れた。石虎はその意気に感じ、
什翼犍を解放、孤とともに帰国させる。什翼犍は帰国すると繁畤で即位し、代王となり
国を建てた。まずは弟・孤の義挙に謝辞を述べ、ついで拓跋諸部統領を定める。
 什翼犍は寛厚で度量が広く、智慧と勇気に優れ、喜怒を表に現さなかったので、衆望は
日々盛んとなった。翌年、襄国でつぶさに見た漢族式の政治制度を実行する。手始めに
文武百官を置き、政務を分けて司どらせた。燕風、許謙らを起用して律令制度を制定させ、
また軍士が命令一下明白に動くよう軍制を改革した。法律を簡潔にしたことで民衆の支持を受け、
他部族から帰属するものも多く、什翼犍の部衆は数十万に達した。始祖・力微以後、一度は衰退
した代国はここにきて再び黄金期を迎えた。
 燕の慕容皝と同盟を結び、慕容皝の妹を妻に娶る。建国3年、雲中に遷都して楽城を建てる。
4年、軍を派遣して匈奴の大軍を撃破、その首領劉虎を捕らえ慰撫する。劉虎死後もその息子が
努桓がひきつづき代と好を結び、匈奴と代の間には安寧がもたらされた。
 建国後数年が経ち国家経営が軌道に乗ると、外に向かって兵を用いたいと思うに到った。建国
14年、什翼犍は趙の石虎死後の内紛に乗じ、「冉閔を誅し四海を平定する」と高言したが、
各部の首領たちが猛反対したので出兵は取り止めになった。しかし什翼犍は兵を用いる機会を諦めはしなかった。
 建国19年正月、匈奴の単于・劉務桓が死に、弟の閼頭があとを継いだ。閼頭は代国に叛意を
抱いたので、これに対し什翼犍は大軍を率いて匈奴を圧迫、投降させ、匈奴で代国の臣となって
いた悉勿祈(閼頭の侄)に匈奴の撹乱を命じて還す。のち郷土の中で内紛が起き、悉勿祈は部衆
を率いて代に帰服した。26年、自ら兵を率いて高車族を討伐し、大いに勝ちを獲て俘虜1万余
と無算の家畜を獲る。
 建国28年、起用殿劉衛辰(悉勿祈の弟。単于)が叛いた。什翼犍は自ら兵を率いてこれを痛撃し、
遁走させる。劉衛辰は反復常ない人物だったので、建国30年10月、再び出撃してこれを討伐する。
冬、黄河がまだ氷結しきっていない時期、什翼犍は部下に筏を作らせ、黄河を渡った。劉衛辰は代軍の
速攻に驚き、西に逃げた。彼の部下のうち10人中6,7人は代国に帰服し、什翼犍は意気揚々と凱旋した。
 反復常ない劉衛辰に決定打を加えるべく、什翼犍は旭日昇天の勢いの秦に目をつけた。これと好を
結ぶべく貢ぎ物を贈り、同盟を結ぼうとしたが苻堅はこれを拒絶、両国の間には正面激突しかないと
はねつけられる。秦は日増しに強大化し、什翼犍はこのまま無事に済むわけがないと秦の武威に怯える。
建国39年10月、劉衛辰は秦に援軍を求め、苻堅は代国討伐の軍20万を発した。匈奴と秦に挟撃され、
什翼犍は武将を遣わして迎撃に出したが、これは惨敗した。事ここにいたって什翼犍は病を発し、
軍を率いるも精彩を欠き、敗れて陰山に逃れる。この機に服属させた高車族までもが叛いた。什翼犍は
拠って立つ基盤の多くを失い、秦軍撤退を知って12月、雲中に帰る。しかし喘息をこじらせて死んだ。
享年57歳。什翼犍の死後間もなく代は滅ぼされるが、その孫・拓跋珪が再び代王となり、鮮卑拓跋部を
糾合して北方最大勢力、北魏を建国する。什翼犍は北魏建国のために不可欠な先駆者であったといえよう。
                             《25史新編、西晋書・東晋書》より

218 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/05(日) 20:14:31 ID:VjX3TopH0
今日は昼から出掛けて疲れました。
いろいろあって帰って来たの六時過ぎだし。
そーいうわけで多分一人ぐらいしかあげられないとは思いますが、
リクがあったらお願いします。
個人的には陶侃、石勒のどっちかを訳そうかな、と迷っている現状。

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 22:09:34 ID:ebgbPy0o0
劉裕 
彭城(江蘇)出身。字は徳興。
母は彼の誕生後すぐに死亡、父親は下級官吏で貧窮のため彼を殺そうとしたほどであった。
(代々軍人の家であったとされている)
その為、劉裕は伯母に養育されて育った。
始め東晋の冠軍司馬を勤め、後に劉牢之ので参軍となる。
陶淵明と同僚だった時期もあった。
安帝の時代、五斗米道を奉ずる孫恩は地方の信徒と示しあわせて
一時に蜂起し、反乱を起こした。
劉牢之がその討伐に当たったが、孫恩は陸上の勢力を粉砕されると
再び海上に逃れ時期を見て突如入寇していたが
やがてこれに壊滅的な打撃を与えたが劉裕であった。
402年野心をむき出しにした桓玄を打つべく司馬元顕は
劉牢之を差し向けるが逆に桓玄側に寝返ってしまう。
劉裕はまず桓玄を打倒すべきだと諫めるも聞き入れなかった。
後に劉牢之は兵権を取り上げられ失意のうちに自殺した。
桓玄が東晋を簒奪し、楚という国号を名乗ると
404年桓玄が北府軍の解体を焦るあまり将兵の間に不満が広まっていたのを
劉裕は纏め劉穆之と共に京口で義旗を掲げこれを討伐し、
翌年には安帝を復位させた。
406年侍中・録尚書事・楊州刺史となる。
409年朝廷での反対論を排し北伐を決行。
淮水から支流を遡り北上、泰山山脈を難なく通過し
南燕の都、広固を陥落させ慕容超は捕え健康に送らて処刑された。
411年盧循の乱では海上戦力を増強させ海路を迂回南下し
広州の敵の本拠地を攻めさせ、
自身は水軍と騎兵を率いて揚子江を西に進み盧循を散々に打ち破り、乱を鎮圧。
功により大尉・中書監となる。
王鎮悪を派遣し劉毅を滅ぼしを荊州を安定させ、
また王鎮悪と壇道斉を派遣し洛陽をまた沈田子を派遣、蜀を平定させた。
417年には長安に攻め入り、姚泓を捕らえて後秦を滅ぼした。
418年に相国・宋公に進んで彭城に鎮した。
安帝を殺して恭帝を立て、419年に宋王に進んで寿陽に移り、420年に譲位させて宋朝を樹立。
徐羨之、謝晦、檀道済ら寒門を登用して、後事を託し、在位三年で崩じた。
廟号は高祖諡号は武皇帝

彼は学が無く、字が下手であり、
腹心であった劉穆之が「せめて字を大きく書けば立派に見えます」
というと、6、7字で紙一枚がいっぱいになるほど大きく書いたというエピが有名。 寒門出身の身で門閥重視の東晋にあって
桓玄の失敗を教訓にし、劉穆之の補佐があるにせよ
己の力量だけで皇帝に登り詰めたのはさすがだと思う。


220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 22:20:25 ID:ebgbPy0o0
劉裕には劉穆之が石勒には張賓がいるし好きだなコンビで凄い奴。

>>218
◆oOLAqFKRB.さん
余裕がある時でいいので明か清の人物とかは頼めないのでしょうか?

221 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/05(日) 22:29:49 ID:scj+mK+90
>>219さんお疲れさまです。
で、俺も投下。陶侃でも石勒でもなくこの人。
沈勁(字は世堅。生没年不明)
 呉興武康の人。父・沈充は王敦の一族に逆らい、敗北したため反逆罪に問われて逃走、
部曲の将・呉儒に殺された。沈勁は連座して殺されかけたが、同郷の人・銭挙に匿われて
事なきを得る。後年ついに王敦の余党を殺し、仇を討った。

 沈勁は幼少のころから気風がよかったが、一面父が義によらず殺されたことを哀歎して
王敦を恨み続け、自らが功績を立てて父の汚名を晴らそうと志した。30数歳のとき、
一族連座して罪に問われる。郡将・王胡之はこれに深く異を感じ、司州刺史に昇進して皇帝
に上疏した。「臣、山陵を守って義により郡心を督するといえども、人の思いは同じからず。
しかるに貧家を断斬し、国恩に報いるに急病をおして賢才を奉ず。呉興の男子沈勁、清く
節操あって郷国に名、著しく、操固くして幹事をもってするに足る。かつ今西に赴くに、
文武義の人、呉興もっとも多し。もし令して沈勁を参臣府にすること叶えば、見識ある人
みな喜び、衆もまた彼の義につくというもの。彼の父は先朝から罪を得たといえども然るに
その家は朝廷の恩顧を蒙り、特に審を得るべからずして沛然として垂るべし。皇上、臣の所を
許すか否か?」帝はこれを聞いて沈勁を抜擢し、王胡之の解職を認めた。

 升平年間、慕容恪が山量に侵攻した。冠軍将軍・陳祐は兵2000足らずで洛陽を守り、
沈勁は自ら志願して陳祐の副将・冠軍長史となった。壮士を募り、兵1000余を集める。
いざ会戦となるや陳祐を補佐して戦い、しばしば寡をもって衆を制した。しかし兵粮の運搬
が滞り、沈祐は恐惶して自分を保つことが出来なくなる。燕軍は許昌を寇し、陳祐はこれを
救ってここに拠る。

 興寧3年、沈勁は燕の攻撃から500人をもって洛陽を守る。陳祐は援軍を連れて東進するも、
許昌を出て間もなく落城陥落の報せを受け、許昌も危ないとして崖塢に逃げ去る。沈勁はここを
死地と定めて欣然と戦い、慕容恪に攻められて城が落ち、擒らわれても神気凛然として怖れる色
なし。慕容恪は沈勁の奇才をもって燕の将にしたいと望んだが、中軍将軍・慕容虔が「沈勁は
奇士でありますが、人の下で終わる人間ではありません」と言い、ついに殺された。慕容恪は
帰国後、慕容暐に語った。「以前広固を平らげたとき辟閭を救うことが出来ず、今回洛陽を陥とし
ましたが沈勁を死なせてしまいました。これはまったく、天下に恥ずべき行為です」東晋王朝は
沈勁の忠義と奮戦を嘉し、東陽太守に追封した。息子が義熙年間、益州刺史となる。

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 22:35:22 ID:R1cy5B2D0
>>219
よくある間違いなんですけど、劉裕の出身は彭城じゃなくて建康近くにある京口と言う場所です。
彭城は出身地じゃなくて本貫(一族の本籍地)ですね。

223 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/05(日) 22:51:26 ID:scj+mK+90
>>220さん
諒解しました。とりあえず明末から抗清名将史可法なんかどーでしょう?
もっとマイナーな人で言うとアルタンの軍10万を潰滅させた曾銑とか、
苗族討伐の名将・石邦憲とかもいます。常遇春は紹介文挙がったんかな?

清朝の名将というと康熙〜乾隆帝に集中しがちなんですがそれでもいいですか?
まぁ後期にもアヘン戦争で活躍した陳化成に関天培、太平天国の指導者とか、
それを倒した曽国藩(この人自ら出ると必ず負けるっていわれたほどだから、名将じゃないですね)、
僧格林沁、勝保、あと洋槍隊を率いた英国将軍たちも一応いますが。
僧格林沁を殺した宋景詩については1スレ目のアジ歴からの引用以上のことは書けないので勘弁してください。

224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 23:00:49 ID:ebgbPy0o0
>>221
◆oOLAqFKRB.さん有難うございます。そう言ってもらえると悪戦苦闘したかいがありました。
劉裕自身も凄いんですが王鎮悪と壇道斉もやはりかなりのやり手ですね。
王鎮悪は長安攻略、壇道斉は後秦攻めでの活躍が。

>>222
ご教授有難うごさいます。
あちこちの資料から引っ張ってきてるので改めて確認したところ
建康(現在の南京)付近に住まう一小役人の子として生まれ、
やがて東晋軍に入隊との記載がありました。    
うーん劉宋、劉裕が好きといいながらなんとも恥ずかしい…

225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 23:15:37 ID:ebgbPy0o0
>>223
◆oOLAqFKRB.さん、厚かまなお願いしてすいません。
ちなみに常遇春、関天培、僧格林沁、宋景詩は名将百選の方に
簡素ながら取り敢えずは紹介文を挙げています。
個人的にはマイナーな人物とかのこと知りたいですね。
誰を紹介するのかは◆oOLAqFKRB.さんにお任せいたします。
本当に気分の乗った時でいいので無理はなさないで下さいね。

226 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/06(月) 00:52:59 ID:yXYOk59a0
マイナーかどうか分かりませんが、少なくともメジャーではないということで。
馬光輝(生年不明−1655)
 名将・馬光遠の弟。明朝で武挙に及第した将門のエリートだが、兄とともに清に降った。
1633年、光先二等参将を授かり、遊撃将軍となる。1638年、戸部理事官とされたが、
商いの売り上げを着服したのが露見して罷免された。翌年6月、漢軍鑲黄旗に配属される。
11642年、杏山城を下し官爵を復された。翌年中後所、前屯衛の二城を落とし、
一等喇章京に進められる。

 順治帝が入関し清朝を建てると、まず参政、ついで侍郎に改められた。1647年、
征南大将軍・譚泰に従って江西の叛将・金聲桓を討ち、これを殺す。譚泰より江西提督
を授けられるもこれを辞した。譚泰はついで都察院理事官・紀国先に同職をおしつけよう
としたがまた断られ、紀国先とともに馬光輝をも弾劾、これをうけた順治帝より梅勒額眞、
侍郎世職(世襲性の官位)を喇布勒哈番に降格される。1650年、梅勒額眞に復し、
1651年にはしばしばの戦功により恩賞を賜り、三等阿思哈尼哈番とされた。5月、
戸部侍郎を授かる。1653年、兵部尚書兼右副都御史総督直隷、山東、河南三行省に
任命された。1653年9月、膠州総兵の海時行が叛き、莱、沂州を荒らした。馬光輝は
軍を率いてこれを討って時行を宿遷まで走らせ、さらに追撃して永城に追いつめた。
同年、漕運総督沈文奎が叛き、霊壁から永城まで海時行を救いに出ると、これを洪河集の
西で迎撃、大いにこれを破り、海行時を捕縛して軍を還した。1654年、功績により
任子に昇級、翌年甄別諸督撫、太子少保にすすめられるが、老病をもって致仕する。
翌1655年7月没。謚は忠靖。

227 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/06(月) 23:02:06 ID:ZjpigB2I0
遅くなりましたすいません。
戚継光と兪大猷だけと言うなかれ、明中期にはこんな人もいるのです。というわけで周尚文です。
周尚文(字は彦章。1414-1548)
 西安後衛の人。おさないころより読書を好み、その概要に通じた。謀りごと多く騎射に長ずる。
16歳のとき世襲により父の官爵を継ぎ、指揮同知となった。しばしば塞外に討って出ては戦い、
功あり。指揮使に昇任する。
 寞潘が叛くと周尚文は黄河の渡しでこれを迎撃、賊将・丁広らを擒らえ、推挙されて掌衛事となる。
関内の回族発起し南山に割拠するとこれを平定した。御史・劉天和が寥堂に忌まれ、
弾劾されて獄に落とされると、連座して獄に落とされた。拷問を受けたが二人とも決して寥堂の
言いなりにならず、長いことかかってようやく釈放された。のち階州を守る。反逆した諸番を
擒らえるための戦略を構築し、諸部指揮僉事、甘粛遊撃将軍とされた。
 嘉靖元年、改めて寧夏参将となる。まもなく指揮同知に昇進、涼州総兵の任につく。御史按部・
荘浪が突然敵に遭遇すると、周尚文はただちに軍を分けて御史を助け、自らは麾下を率いて出陣。
矢を射掛けて寇軍を敗走させる。周尚文は追撃したが深追いした結果、寇軍に援軍が現れて益々
精強になった。士卒たちは怖れたが、周尚文は一人従容として馬を降り、鞍を解き崖を背にして力戦、
激戦となった。そこに部将・丁杲が援軍をつれて到着、寇軍は退き始めた。この一戦で周尚文は多く
の創を負い、帰国して致仕したが、まもなく再び起用された。
 9年、弾劾されて職を解かれる。しばらくのちまた再起用され、山西副総兵となる。北虜が偏頭関
から岢嵐に急行すると、周尚文は迎えて戦うこと300里、これを破った。周尚文の子、周君佐も創を
負いながら奮戦し、銀幣を賜る。まもなく総兵官として延絳に鎮した。北虜が紅山墩を犯すと、力戦
してこれを退けて褒賞を受ける。
 21年秋、周尚文は総兵官として大同に鎮した。北虜の酋長チシェン(吉襄)が万余の騎兵を
引き連れて前衛を犯すと周尚文は黒山で迎え撃って大いに破る。チシェンの子・マンチャタイ(満罕歹)
を殺し、涼城まで追撃した。斬首無算、功により右都督とされる。まもなく北虜の軍が宣府に逼ると、
周尚文は塞を出て北上し、北虜の軍に一撃を喰らわせ、俘虜数人を得る。北虜の軍は再度大挙して南進し、
鵓鴿谷を取って南下する。周尚文は楊和で敵軍に備え、四方に騎兵を伏せて敵が到るや一斉に発たせた。
北虜は逃げ散り、周尚文は帝から宝物とねぎらいの言葉を賜る。
 総督、翁万達は長城修築を提議、宣府から楊和を通って大同の開山口までの二百里の工程監督を
周尚文にゆだねた。周尚文はつつがなくこなし、これによって長城は400里の長さで塞外の民を
阻むこととなる。一千人を収容できる敵台も建設した。また大同で屯田を興し、4万頃を拓いて、
軍隊に1万3千人を増した。帝はその功を嘉し、左都督に進め太子太保を加えた。のち大保。
総兵官の身で三公にのぼったのは、明朝一代を通して周尚文一人だけである。
 はじめ、アルタン(俺答)とチシェンの諸子は強盛を誇り、辺境の人々は毎歳災禍を蒙った。
大同はその最たるものだったが、周尚文が赴任してからは民衆は安寧を教授できるようになり、
一方で北虜の勢いは日に日に弱まって行った。27年8月、アルタンは五堡に伏兵を敷き、明軍の
指揮・顧相を弥陀山に誘い出して囲んだ。周尚文は塞を出て救援に赴き、囲みを解くべく督戦、
しかし指揮の周奉、千戸の呂ト、郝經らが陣没するという大苦戦。転戦して野口に到ると、
伏兵が発ち、窮地に陥りながらも死戦して隊長の一人を斬った。数ヶ月が過ぎ、北虜はようやく
軍を還す。周尚文は伏兵を仕掛け、敵軍のしんがりを殺そうと画策する。岐路、アルタンは
万騎で宣府を犯す構えを見せた。それを翁万達の檄文で知った周尚文は曹家荘で敵を大敗させる。
同年没。太傳を追贈され、武襄と謚された。
 周尚文は倹約家で士卒を愛し、よくその死力を尽くさせることが出来た。よく間諜を用いて敵の
動向を知り、しかるのちに戦うのでしばしば勝利を獲た。宿将の王效、馬永、梁震らが死んだのち、
アルタンに抵抗できるのは周尚文一人しかなく、威名は大いに盛んとなった。
 ・・・昨日清朝で今日は明朝からだったので、明日は清朝から挙げたいと思います。
 とはいえ今日で夏休みも終わり。明日からは仕事なんで、毎日ペースで投下できるか危ういところですが。

228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/07(火) 00:00:32 ID:/5Q0nstW0
中国行って「名将百選」みたいな本があったので買ってきた。
こことは基準がちがってて、おもしろい。

229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/07(火) 20:13:02 ID:0yfwK66S0
>>228
頼む!
出来れば、ラインナップ教えてホスィ。
結構気になるw

230 :228:2007/08/07(火) 22:10:47 ID:/5Q0nstW0
基準が違うというか、有名人集めただけの気がw 
ヒマなんで写してみた(簡体字読めないのは●で代用)

【周秦】呂尚・孫武・伍員・呉起・田穣●・孫ピン・田単・楽毅・李牧
    廉頗・白起
【西漢】韓信・周亜夫・樊カイ・李広・衛青・霍去病
【東漢】寇恂・馮●・賈復・呉漢・耿●・王覇・贓宮・祭遵・馬援・耿恭
    班超・張●・虞「言羽」
【三国】諸葛亮・関羽・張飛・趙雲・姜維・張遼・典韋・張コウ・ケ艾・周兪
    太史慈・甘寧・陸遜
【晋】 羊コ・王浚・周訪・陶侃・周処

231 :228:2007/08/07(火) 22:25:06 ID:/5Q0nstW0
【南北朝】王鎮悪・檀道済・周山図・羊侃・楊大眼・韋孝寛
【隋】  楊素・韓擒虎・史万歳・長孫晟
【唐】  柴紹・尉遅恭・薛仁貴・郭子儀・李光弼・白孝徳・張巡・南●雲
     雷万春・韓游「王鬼」・李嗣業・馬燧・渾「王咸」・李晟
     李●・石雄
【五代十国】柴再用・王彦章・周徳威


232 :228:2007/08/07(火) 22:26:13 ID:/5Q0nstW0
【宋】  曹彬・狄青・宗沢・楊延昭・岳飛・韓世忠・曲端
【元】  伯顔・史弼
【明】  徐達・常遇春・胡大海・李文忠・沐英・沈希儀・傳友徳
     兪大猷・戚継光・秦良玉
【清】  年羹堯・左宗トウ・彭玉麟・鮑超

かたよってるなあ・・・・


233 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/07(火) 22:37:06 ID:8pW93tpN0
清朝所期(後金)の人たちは名将が揃ってるから、有名なのか無名なのかわからんです。
>>225さんの期待するマイナリティじゃなかったらすいません。
トゥルケ(図爾格。生年不明−1645)
 姓はニウフル(鈕祜禄)氏。満州鑲白旗の人。エイトウ(額亦都)の第八子。若くして太宗ホンタイジの
征戦に従い、累功により参将の世襲権を授かる。さらに和碩公主を娶り、皇族となった。ホンタイジが即位
し八旗にそれぞれの大臣二人を設け、16大臣と称するとトゥルケは鑲白旗の佐(副)大臣とされる。のち
本旗固山額真とされ、8人の本大臣の1人となった。天聡元年、錦城攻めに従軍するも克てず、大・小凌河の
2城を落として還った。翌年、父エイトウの功績によって総兵官の世襲を許される。
 3年、明伐戦に従軍、遵化を陥とす。4年、ホンタイジは帰国し、トゥルケは貝勒のアミン(阿敏)らと
ともに永平城に屯する。しかし明の総兵官祖大寿、馬世龍、楊紹基らが兵を合して永平城に攻め寄せ、守る
ことあたわず城を棄てて逃げる。アミンもまた諸城を保つことが不可能と判断し、塞外に撤退。トゥルケに
殿軍を命じた。帰還後ホンタイジの厳しい譴責を受け、総兵官の職を削られ固山額真を解かれる。
 5年、六部が制定されると吏部承政に起用された。同年ホンタイジが親征し、トゥルケは正白旗固山額真、
ハケトゥリ(喀克篤礼)の下について従軍、馬がなく徒歩での出征だった。松山、大凌河を下し、帰還。同年、
トゥルケは固山額真・タンタイ(譚泰)とともに出征、錦州を取る。ホンタイジは貝勒のジルガラン(済爾哈朗)
に留守を任せ、再び明伐。トゥルケは一軍を率いて張古台河の河口に屯し、海沿いの敵を防ぐ。そののちも
梅勒額真・ラサ(労薩)とともに張古台河に駐留、蒙古諸部を牽制した。
 チャハル氏討伐の帰還途上、平魯衛で明軍と遭遇、トゥルケはこれと交戦し、陣を陥として首級数百を挙げた。
明軍は城に引き篭もり、敢えて戦おうとしなかったが、トゥルケが伏兵を敷き還るふりをすると明将・祖大寿は
三千人を率いてこれを追撃、トゥルケは軍を回頭させで迎え撃ち、伏兵を発して挟撃し、明軍を大潰させた。
10年、功績により一等梅勒章京を授かる。
 崇徳元年、鑲白旗固山額真に復す。武英郡王アジケ(阿済格)に従って明伐、トゥルケは部隊を率いて延慶に至り、
さらに南進して城16を陥とした。昌平を攻めて雄県を下す。城攻めに際しては皆に先んじて城壁を登った。4年、
ホンタイジは睿親王・ドルゴン(多爾袞)を大将軍に任じ、明を伐たせた。トゥルケはドルゴンに従い、明の太監・
永盛と総兵・候世禄の軍を破る。また固山額真・パイントゥ(拝音図)とともに董家口で明軍を破り、辺塞を毀し、
青山関を奪って4城を下した。
 5年、ドルゴンに従って錦州を攻め、その穀倉を取り、しばしば明の兵を撃退した。また固山額真・シェクシュ
(葉克書)とともに兵300で烏忻河の河口に隠れ、城兵の出入りを伺って家畜を奪う。明兵は1千余でこの後背
を逐い、乱戦となった。葉克書の馬に矢が当たり、トゥルケは葉克書を救い上げ奮戦、その身に20余の傷を受けながら
敵を退け、功により三等昴邦章平に進められ、内大臣とされる。6年、ホンタイジの親征に従軍、諸貝勒に従って
塔山で戦い、高橋に伏兵を仕掛けて首級無算を獲た。
 7年10月、饒貝勒・アハタイ(阿巴泰)が奉命大将軍を拝す。トゥルケはその副将に任ぜられ、明を伐った。
アハタイと二手に分かれ、石城関、雁門関を抜いてさらに深入、北京を越えて畿南より山東を従え、南は兗州に
至って、下した府は3、州は18、県は67を数える。この間39戦して全勝。俘虜36万9千を数え、黄金を
はじめとする数々の宝物を奪い、さらに明の魯王、楽陵王、陽信王、東原王、安丘王、滋陽王を擒らえた。
8年6月、アハタイより遅れること一ヶ月で凱旋。ホンタイジより白金1千5百を下賜される。順治帝プーリン
が即位すると三等公に進められた。順治2年2月没。順治9年、忠義と謚された。
 雍正9年、三等果毅公の世襲を許される。
・・・人名の読みは漢和辞典開いて充てただけなんで、かなり適当です。間違いがあったらご指摘ください。

234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/07(火) 22:51:57 ID:GmM74Wlk0
>>228
ひょっとして人民美術出版社の『中国古代百将図説』か?
おれも持ってるわ

他に『百将図』というのも持ってるが大半がかぶってる

異同は、『中国古代百将図説』の
伍員、呉起、田穰苴、廉頗、白起、諸葛亮、関羽、姜維、張コウ【合β】、陸遜、
羊コ【示古】、張巡、胡大海、年羹堯、左宗棠、彭玉麟、鮑超

以上十七人が

『百将図』では
許チョ、朱伺、毛宝、沈慶之、宗カク【殻心】、周盤龍、沈光、崔寧、曹イ【王韋】、楊存中、
劉キ【金奇】、呉カイ【王介】、呉隣(隣は王へん)、王徳、畢再遇、李宝、魏勝

に替わってる
『百将図』のほうは抗金名将に力が入ってる感じか

235 :228:2007/08/07(火) 22:59:13 ID:/5Q0nstW0
>>234
あ、それです。道端で5元で売ってたw


236 :225:2007/08/07(火) 23:14:46 ID:Fw35HqGM0
>>233
◆oOLAqFKRB.さんd&乙
明・清はまだまだ勉強不足ですからいろんな人物を知りたいんです。
感謝しております。

>>235
道端で5元で売ってた・・・って値段安w


237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/08(水) 03:42:50 ID:s+62ZKZd0
漢人は戦争がイマイチな感じだから
漢人同士の争いよりも異民族に勝利した人こそ評価されるべき

238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/08(水) 08:44:41 ID:h8GLtJFX0
>>231
あ、柴再用がランキングしてる、やっぱ…
なんかでもランキングしてたんだけど、そんなに有名なのかな。
調べてみるか… しかし呉はまだなぁ…

239 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/08(水) 23:08:14 ID:RZOdBP620
昨日清将・トゥルケを紹介したので今日は明将の日ですね。
名将とはいえないかもしれませんが(しかも超メジャー)、元末明初の群雄から代表者2名を。
張士誠(1321-1367)
 泰州白駒場の人。3人の弟とともに海運業を興し、違法に財産を成した。彼は座位を軽んじて施しを好み、頗る衆人の心を得た。
常々富豪に塩を売って富豪から侮りを受けたり、あるいは金銭を支払わないですまされることもあった。ことに丘義というものが
最も甚だしく張士誠を侮辱し、怒った張士誠は書弟および李昇伯ら壮士18人を率いて丘義を殺し、ことのついでとばかり富豪たちを
皆殺しにしてその邸宅に火をかけた。お尋ね者確定となった張士誠は郡の塩場に赴き、悪童達を集めて起兵する。手始めに興化を
陥とし、徳勝湖の畔に営寨を建てて、衆1万余を集めた。元朝はかれらを慰撫して投降させようとしたが張士誠は受けなかった。誘降
の使者を斬って高郵を襲撃、これを陥とし、誠王を自称、国号を大周として年号を天佑とした。弟の張士徳が熟州を取る。
 至正16年2月、平江を陥とし、同時に湖州、松江、常州をも陥とした。平江を隆平府と改め、高郵から遷都する。この年、朱元璋
が集慶を攻め下し、楊憲を派遣して張士誠と友好を結ぼうとしたが決裂、朱元璋は徐達に兵を授けて張士誠を攻めさせた。
 張士誠は平江を得てのち、すぐさま嘉興を攻めたが、元朝の主将・楊完者の前にしばしば敗れる。弟の張士徳が杭州を攻めたので
楊完者はそちらに注意をまわし、張士誠は一息つくことができた。翌年朱元璋麾下の徐達が熟州を攻め、張士徳が迎撃するも敗れる。
張士徳は善く戦って謀あり、よく士卒の心を得て、浙西の地はすべて彼が平定した。彼が擒らわれたと聞いて張士誠は大泣きし、
朱元璋は張士徳をもって張士誠を降そうとした。 張士徳は密書をもって一旦元朝に投降せよと示唆、張士誠はそれに従い、元の
江浙右丞相タシ・テムルに投降した。元朝は彼に大尉を授ける。張士徳は金陵で断食して餓死。その後タシ・テムルと楊完者の間に
亀裂が入り、張士誠はタシ・テムルと謀って楊完者を殺した。
 至正23年9月、張士誠は再び独立し、呉王を称す。その領土は南は紹興から北は徐州を過ぎ、済寧の金溝に至り、西には穎、濠、
泗、東は大海を背にする2千余里の版図で、軍隊は数十万。また賓客を好んで招き、居室、器具を万全に完備した。他郷で困窮したもの、
戸籍のない人がこぞって呉に投じ、衆はますます盛んとなった。
 張士誠は表向き寡黙で度量があるように見えるが、その実遠大な抱負に欠けた。呉の国に平穏が訪れると奢侈をほしいままにする
様になり、将帥たちも傲慢で命令を聞かなくなり、しかも戦となるとすぐ病と称して従軍を拒んだ。
 朱元璋と張士誠は境内を接するに至り、張士誠は大兵力に任せて江陰、建徳、長興、諸全などを攻めさせたが、明の徐達、常遇春らに
よって淮北一帯を奪われる。
 至正26年11月、主元璋は自ら出陣し、平江を囲んだ。張士誠は数ヶ月に渡って拒守し、朱元璋はその頑固さに書を致した。「いにしえの
豪傑は天意に従い賢徳をもって民心に答え、自身と宗族の明知をもってその身を保ったものだ。漢の竇融、宋の銭俶がこれである。あなたも
熟慮英断し、自らを滅ぼすなかれ。進んで自らを滅ぼしては天下の笑いものになるぞ。」張士誠は返書を出さず、しばしば囲みに突撃して決戦
を挑んだが、利はなかった。窮地の張士誠は秘蔵の精鋭部隊、「十條龍」を出陣させる。驍勇善戦、常に銀の鎧と綿の衣を着て敵中に突撃する
精鋭部隊も、やはりまた明軍の前に敗れた。弟の丞相・張士信もここで落命する。27年9月、ついに城が落ち、張士誠は余衆を率いて万寿寺の
東で戦うもまた敗北、衆は散り散りとなる。明の大将軍・徐達が李伯昇を遣わして降参を勧めたが、張士誠は黙して答えず。船に載って金陵に
赴き、当地で自縊した。享年47歳。朱元璋の主催で葬儀が執り行われた。

240 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/08(水) 23:15:11 ID:RZOdBP620
連投。2番手は当然のようにこの人です。
陳友涼(1320-1363)
 沔陽の漁師の子。本姓は謝氏。幼くして読書を好み、文義の大略に通じる。県の小吏となったが、仕事を好まなかった。
寿徐輝が挙兵するとこれに従い、部将・倪文俊の簿掾となった。舒寿輝は帝を称し、国号を天完と称して順調に版図を拡大
するも、次第に丞相・倪文俊との仲が不穏になってゆく。元の至正十七年九月、倪文俊が舒寿輝謀殺を図るが、失敗して
黄州に遁走した。陳友諒は倪文俊の麾下を収容し、しばしばの功績によって元帥を授かる。のち倪文俊を殺して宣慰使を自称、
のち平章政事を称した。
 十八年、安慶を陥とし、龍興、瑞州を破り、邵武、吉安を採って、さらに兵を率いて撫州に攻め入る。また建昌、贛州、
汀州、信州、衢州を連破した。
 当時江南では陳友諒の勢力が最大であった。朱元璋は太平を取ったが、すぐ陳友諒に奪い返された。陳友諒は元の池州を
陥とし、朱元璋は常遇春を遣わしてこれを奪取せよと命じた。このため両者は相争うこととなる。陳友諒は驍勇で知られ
「双刀趙」の異名を持つ趙普勝に命じて、池州、太平を守らせた。朱元璋はこれに手を焼き、趙普勝謀反の噂をばら撒く。
それを信じた陳友諒は趙普勝を殺し、その麾下の兵を合わせた。そこに徐達率いる明軍の精騎隊が攻め込み、池州は奪われ、
全軍覆滅という大惨敗を喫する。
 陳友諒が龍興を攻め破ると徐寿輝はここに遷都しようと欲したが、陳友諒はそれを受け入れなかった。ほどなく、徐寿輝は
軍を率いて急遽漢陽を出発、陳友諒の治める平州に赴き、入城するや門を閉ざして江州城の士卒民衆を悉く殺した。そして
江州を都と定める。陳友諒は漢王を自称、王府の管理を設置し、采石機で徐寿輝を襲い、壮士に鉄垂でその頭を殴らせて殺した。
徐寿輝死後、皇帝を称し、国号を漢と改めた。
 陳友諒は勇敢だが疑い深く、権力を振るうことを好んだ。江西、湖広の地をことごとく占領して自らの強兵を恃み、応天を取ろう
と欲した。朱元璋は陳友諒と張士誠が手を組むことを怖れ、計を弄して陳友諒の旧友・康茂才の名で書を送り、投降するから速やか
に来てくれと請うた。果たして陳友諒は水軍を率いて長江を下り、江東橋に至って康茂才を呼んだが返答は無く、ようやく騙された
ことを知る。龍湾の戦いで大敗し、長江に飲まれるもの無算、戦艦数百を失い、陳友諒は走舸に乗って逃げた。張徳勝に追撃され慈湖で
打ち破られ、さらに馮勝にも襲われる。陳友諒は精鋭・黒旗軍を繰り出すも馮勝の前にまた大敗を喫した。ここで太平を放棄し、江州に
逃れる。朱元璋は勝ちに乗じて安慶を奪い、陳友諒の将領・于光と欧陽祥を投降させた。明年、陳友諒は軍を遣わして安慶回復を攻め
陥とすも、朱元璋は自らの討伐軍の前にあっという間で奪回される。朱元璋はさらに軍を進め長躯江州に到った、陳友諒は戦い敗れ、
夜陰に乗じ家族を連れて部昌に逃れた。将帥の呉宏、王溥、胡廷瑞らが明に降った。
 陳友諒は日増しに狭くなっていく版図に憤慨し、すぐさま大々的に樓船を発注、戦艦百艘を作らせる。どれも高さ数丈、紅漆で飾られ、
三層構造で構築され、軍馬を収容する棚があり、上下の人の会話は外に漏れず、船箱の中はみな鉄でできていて、家族と文武百官を乗せる
スペースがあった。これに全軍の精鋭を乗せ、南昌を攻める。雲悌、衝車を用い軍を分かって複数の路から攻めさせたが、3ヶ月かかって
も降すことができなかった。朱元璋が自ら南昌救援に去来、囲みを解かせ、東の鄱陽湖で大会戦となる。陳友諒は巨艦を鎖で連ねて陣営とし、
朱元璋に攻める隙を与えなかったが、対陣から三日、突然東北の風が吹く。朱元璋はそれに乗じて陳友諒の大船団に火計を仕掛け、炎は
たちまちに広がった。船と船が鎖で繋がれているため逃げ場が無く、陳友諒の弟、陳友仁もここで戦死する。陳友仁は「五王」と呼ばれ、
片目が潰れていたが智謀に長けていた。陳友諒が気を沮喪している間に明軍は多数の走舸で大船団を衝き、ついにこれを撃破、漢軍はまたも
大敗した。湖口を扼されて退却もできず、翌日また戦って一度は洪都に、二度目は康郎に、続けて敗れる。いよいよ窮した陳友諒は湖口の
囲みに突撃、明軍と江口で大会戦となり、陳友諒は船から頭を出して督戦しているところ流れ矢に当たり、死んだ。享年43歳、帝号を
称して4年目だった。
・・・やっぱり二人とも名将じゃないですね。でも明初を語るには外せない存在だと思ったので、なにとぞご容赦を。

241 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/08(水) 23:27:38 ID:RZOdBP620
>>239
変換ミス。
「座位を軽んじて施しを好み」は
     ↓
「財を軽んじて施しを好み」です。
しかし、なんちゅー変換ミスだよ、俺。

242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/08(水) 23:28:03 ID:+374kN0Q0
>>241
エロいな

243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/08(水) 23:55:17 ID:Jz+OBgdA0
     ____
   /__.))ノヽ  
   .|ミ.l _  ._ i.)  
  (^'ミ/.´・ .〈・ リ   
  .しi   r、_) |   どんだけ〜
    |  `ニニ' /  
   ノ `ー―i

244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/09(木) 05:07:56 ID:tfFO75aG0
>>239-240
確か張士誠、陳友涼と言えば対処に困った元朝が
爵位を与えて手なずけ様としたんですよね。
張士誠にはあっさり蹴られましたが…


245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/09(木) 21:01:22 ID:tfFO75aG0
すいません、元朝が爵位で手なずけ様としたのは陳友涼じゃなく方国珍でした。

246 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/09(木) 21:29:26 ID:H4L88mAz0
そんとき元に仕えてた劉基は方国珍に爵位やるのなんかやめとけって言ってたんだよな

247 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/10(金) 01:39:52 ID:94QzUeP10
すいません、今日の書き込みが遅くなっております。
とりあえずあと二時間いただければ清朝のトゥライ(図頼)を投下できるかと。
やっぱり毎日書き込みは難しいかな・・・。

248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/10(金) 02:24:53 ID:4zEllKJBO
>>247
無理して毎日、紹介文を投下しなくてもいいのでは?
マイペースでいいと思うよ。

249 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/10(金) 03:12:47 ID:RDyGejYI0
>>248さん、ありがとうございます。まぁ出来る範囲でやります。
トゥライ(図頼1600-1646)
 フィヤントン(費英東)の第七子。はじめ鑲黄旗、のち兄弟とともに正黄旗に改められた。天聡元年、
太宗ホンタイジの明伐に従軍、寧遠を奪う。3年、また明を伐ち北京に逼る。援軍にきた明の大同総管・
満桂と徳勝門で戦い、大いに敵を破ってその衆を悉く斬った。4年、貝勒アミン(阿敏)に従い明伐、
大兵力の前に退却するも、歩卒100人で追撃する明軍に対し16人で殿を努め、100人を悉く殲滅した。遊撃の世襲を認められる。
 5年、皇上はみたび明伐に乗り出し、大凌河の城を囲む。トゥライは壕の外に駐留、敵が壕を渡ったら
これを叩けと命ぜられる。城兵が外に出て挑戦すると、トゥライは勇み足で突進、ダルハ(達爾哈)が
部下を率いてこれに続き、貝勒ドルゴン(多爾袞)も兵を督して前進した。清軍は壕に迫り、歩騎まじえて
戦う。明軍は壕と城の上で争う清軍に向けて大砲を放った。清軍退却、宿将の多くが戦死し、トゥライもまた
創を被った。トゥライの軽挙に対して太宗は大いに怒り、トゥライの傷を心配するものには切腹を申し付けた。
同年、明の監軍・張春らが4万の兵を率いて大凌河救援に現れ、長山に駐した。太宗は諸貝勒を率いてこれを
防ぎ、トゥライは右翼から回り込んで敵の腹背を撞き、敵を潰走させてその帥を覆滅した。
 8年、太宗の第四次親征に従軍。トゥライは大同を従え朔州を攻め、霊丘を抜いた。9年、巴牙喇纛章京を
授かり、貝勒・ドド(多鐸)に従って明を伐つ。ドドは広寧に入り、トゥライに400人を授けて錦州攻めの
先鋒を命じた。トゥライは明将・劉応選を撃察し、その軍を破る。軍を還すと功によって優賓の扱いを受けた。
崇徳2年、議政大臣を授かる。3年、太宗の命で睿親王ドルゴンの副将となる。兵を分かってそれぞれに明を伐ち、
トゥライは牆子嶺から明の辺境を侵して11台を陥とし、さらに南下して山東を攻略した。明将は8千人をもって
この鋭鋒に退治したが、清軍のモンゴル人部将のアランタイ(阿欄泰)がこれを斥ける隙に、トゥライは兵を督し
兵力を分散して地方諸部を落とす。明軍が100騎で突撃してくるとトゥライはその堅陣を陥とし、明兵は敗れ去った。
城4つを抜き、三等梅勒章京に進んだ。6年、鄭親王ジルガラン(済爾哈朗)に従い明伐、錦州を囲む。明の総兵・
祖大寿を破り、前後して杏山、松山に兵を派遣し、塔山、杏山の2城を抜いて、一等梅勒章京に勧められる。8年、
また明を攻める。中後所を抜き、三等昴邦章京に進んだ。
 順治元年、睿親王ドルゴンに従い明伐、明将・呉三系の手引きで山海関を通過可能となった清軍は、4月、関から
10里のところまで逼る。李自成は部下の将・唐通に数百騎を授けて出関させてこれを防ぐも、トゥライは一片石で
これと交戦、巴牙喇の兵を率いて力戦し、唐通を敗走させた。ほどなく入関、李自成を破り西に走らせ、トゥライは
諸軍を従えてこれを追い、慶都でこれを破った。2年、功により三等公に進められる。トゥライは定国大将軍・豫親王
ドドに従って西に李自成を伐ち、李自成討伐が一応の成果を見ると南に軍を向ける。
 明の将帥を次々と降しながら、清軍は潼関に逼った。李自成は将軍・劉宗閩を山に割拠させ、自らは潼関深くに逃れる。
トゥライは140騎を率いて前線に立ち、一を以って百に当たり、敵の過半を殺し、または俘虜とした。賊軍を連日攻め立て、
ついに潼関を抜く。
 陝西が平定されると、豫親王に従い江南まで足を伸ばす。4月、楊州に陥とし、明の大学士・史可法を殺した。さらに南進
して南京を攻め、トゥライは手薄な西岸の援護に回ったてこれも落とした。南京を下すと貝勒ニカン(尼堪)に従って明の
福王を駆逐、福王を擒らえて軍を還した。帰還途上、摂政睿親王に「身を慎んでみても嫌悪の目で見られるのは避けられません、
どうか睿親王陛下の庇護あらんことを」と上書した。
 3年2月、貝勒ボミン(博洛)が征南大将軍となり、トゥライはその副将となって出陣、浙江、福建を攻める。5月、河南、江南を
平定、功により一等公に進んだ。この月、軍は杭州に至る。明の魯王は紹興に駐留していたが危機を感じて台州に逃げた。トゥライは
兵を派遣してこれを追わせ、将軍・武景科らを擒らえる。7月、衢州に攻め入りこれを抜き、浙江一帯を平定。8月、福建に入り、浦城、
建寧、延平の諸府を陥とす。明の唐王を追って汀州に入り、明軍2万の夜襲を受けるも逆に敵の過半を殺す。崇安を落とし、興化、章漳、
泉州の諸府を慰撫して、福建を平定。軍を還すも金華で病没した。8年、順治帝より昭勤の謚を賜る。雍正9年3月、一等雄勇公に追封された。

250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/10(金) 07:01:21 ID:qpzeIH340
>>230こんなページ見つけた
ttp://www.geocities.jp/fukura1234/rekisi/100/100.html

251 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/11(土) 00:54:11 ID:qLiLOO2w0
前回元末清初の群雄二人を紹介したので、今度は靖難の役の燕王府から明参謀にして勇将のこの人を紹介です。
(いまさら開国の功臣達を挙げるのも無粋ですし)
張玉(字は世美。1343-1400)
 祥符の人。はじめ元の枢密知院。元が滅ぶと北に逃れ、洪武8年明に帰順する。燕王朱棣に仕え、大軍の出塞に従軍し
捕魚児海に至る。功により済南衛千戸。のち安慶衛指揮僉事に遷った。再び征戦に従軍、遠順、散毛の諸洞を討ち、辺境を
騒がす元人を北に駆逐、鴉寒山に至って軍を還し、燕山左護衛に昇任。燕王の出塞に従い、黒松林に至る。また従軍して
野人の諸部を征し、驍勇多謀をもって燕王の信任を得る。
 建文元年、燕王挙兵。張玉は軍を率いて北平の9門を奪い、城の内外を安撫した。三日にして定まる。軍を南に向けるため
に献策した。すなわち朱能に東の薊州を攻めさせて馬宣を殺し、遵化を降し、兵を分かち永平、密雲に南下、すべて燕王府の
精強で意気盛んな軍隊があれば可能である、と。都指揮僉事に抜擢された。
 このとき、朝廷は大軍を遣わして燕王を伐つべく画策、都督・徐凱は河間に、潘忠と楊松は鄚州に、長興候・耿炳文は衆30万
をもって真定に駐留した。張玉は燕王の前に進み出て、「潘、楊の輩は勇はあれども智慧が足りません。襲って擒らえるべきです。」
と進言した。燕王は張玉に親兵の先鋒を命じ、張玉は兵を率いて速やかに樓桑に到達した。時に中秋、南軍が宴会を開いている中、
燕軍は夜半、疾く馳せて雄県を破る。雄県救援にやってきた潘忠、楊松の二将を張玉は月漾橋で迎撃、二将を生け捕り、ことのついで
に鄚州を攻め落とす。みずから軽騎で耿炳文の軍を偵察、軍に規律無く、その上敗北の気ありと見て、すぐさま急撃した。燕王は兵を
率いて西に進み、無極に至って回頭、諸将に謀と進軍方向を明かす。諸将は南軍を攻めると知って大いに気勢を上げ、新楽に駐屯する
ことを請うた。そこで張玉が「彼は衆といえども、みな新しく集まる。わが軍が勝ちに乗じて真定を直撃すれば、これ敵は必敗なり」
と言い、燕王は大いに喜び、「我、玉に頼れば大事をなすに足る」と言った。翌日真定に到着し、大いに耿炳文を破って、副将の李堅、
寧忠および都督の顧成らを擒らえ、斬首3万級を挙げた。また安陸候・呉傑の軍をも破り、燕軍の士気は大いに振るった。
 江陰候・呉高が遼東の軍を率いて永平を囲み、曹国公・李景隆が数十万の兵を率いて北平を攻めた。燕王と張玉は謀議の結果、まず
永平を救援する。呉高が逃げ去り、張玉はそれを追って首級無算を挙げた。また間道を通って大寧を襲い、これを抜いて還る。ついで
会州を攻めた。はじめ燕王府には5軍があったが、張玉は中軍の帥を任された。時に李景隆がすでに北平を囲み、燕王はそこに帰ってゆく。
鄭邑壩で大会戦となった。李景隆は敗れ、燕王は勝ちに乗じて城下に迫る。城内の士兵は鼓を鳴らして外に打って出、内外から挟撃さ
れて南軍は大潰した。
 建文2年、広昌、蔚州、大同攻略に従軍。間諜より李景隆が潰散した兵士を修復し、100万の大軍と號して北上中と聞く。そこで
「兵は神速を尊ぶと言います。先に白溝河に割拠し、逸をもって労を待ちましょう」と献策。燕王軍が白溝河に布陣して3日後、李景隆
が至る。精騎をもってこれを撃ち、また敵を大敗させた。進軍して徳州を抜き、逃げる南軍を追って済南を囲む。城を囲むこと3ヶ月
にして囲みを解き、還った。
 まもなく再出兵し、滄州を破って徐凱を擒らえる。兵を進めて東昌を攻め、そこで盛庸の軍と遭遇した。燕軍は盛庸によって十重二十重
に囲まれ、燕王は奮戦して囲みを脱する。しかし張玉は燕王の所在を見失い、燕王を捜して敵中に突撃、力戦し数十人を殺したものの、
創を負って死んだ。享年58歳。
 燕軍起兵より3年、鋭鋒甚だ鋭し。しかし張玉を失った時は全軍気力を奪われた。北平に軍を還すと、諸将は叩頭して罪を詫びた。
燕王は「勝敗は兵家の常、恨むべくは計が足りずに玉を失ったことのみだ。艱難の時に、吾はよき補佐役を失った」と言い、涙を流して
止まらず、諸将もみな泣いた。その後譚泰が夾河で没し、王真を淝河で失ったが、哀悼の想いは張玉を失ったときほどではなかった。
建文4年6月、燕王は帝を称し、永楽帝となる。張玉は都指揮同知、榮国公を追贈され、忠顕と謚された。朱能、王真、姚広孝とともに
永楽帝の廟庭に陪葬されている。
・・・次は靖難からもう一人、二人出すか、あるいは一気に土木の変まで(張玉の息子の張輔とか)飛ばすかする予定。あくまで予定ですが。

252 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/11(土) 22:20:29 ID:+RQlJLaW0
明清を交互に、と宣言したので明を進める前に清朝を。
トゥライは入関以前の名将だったので入関後に活躍した名将を紹介します。
張勇(字は非熊。1616-1684)
 陝西甘寧の人。騎射を善くし、はじめ明に仕えて副将となった。順治2年、英親王・アジケと九江で
戦い、敗北。総兵以下700余人をもって清朝に降る。遊撃を授かり、李自成の残党を鎮圧した。
 順治十年、湖広で大学士・洪承畴に見え、彼の推荐で経略右標総兵に任ぜられた。大臣・ツェニ(策尼)
より「今、貴公のような良将が少ないが、才能を恃んで敵を軽んじることのないように」と訓戒を垂れられる。
以後戦功を重ね、十五年、盤江で明軍と対峙、明兵が燃やした鉄橋を一晩のうちに修復、黎明、全軍でこれを
渡り七門関で明将・白文選を擒らえた。
 康熙十二年、呉三桂が叛き、四川総兵・呉之茂がこれに呼応して反逆した。13年、呉三桂は使いを出して
張勇を口説かせたが、張勇は話を聞かずに使者を捕らえた。陝西提督・王輔臣もまた叛き、張勇は兵を督して
これを防いだ。巡撫のファシャン(華善)が「王輔臣が呉三桂に呼応したことで河西は危急を告げている。
そうならずにいるのは張勇の存在が大きいから、彼のために便宜をはかるべきだ」と上奏したので、朝廷は
張勇に靖逆将軍、仍領提督と総兵以下を指揮する権利を授けた。王輔臣が張勇を誘ったが張勇はその使者を斬り
捨てたので、康熙帝は大いに喜び、靖逆候に封じた。
 張勇が西寧総兵・王進宝に命じて蘭州を攻略させ、兵を率いて河州を攻撃し、曽文耀を敗走させる。同時に
仕官・楊朝樑を派遣して洮州を攻めさせ、曽文耀撃退後これに合流、自ら兵を督して潘瑀もまた破った。康熙帝は
張勇の謀略を嘉し、その次子張雲翼に太僕寺卿を授けた。張勇が鞏昌に進攻すると、王輔臣と援軍を率いる将・
任国治は兵を合して撃って出る。張勇は副将・劉宣聖らとともに奮戦し、鞏昌軍の退路を截ち、その衆の過半を斬った。
俘虜473人。時に王輔臣は平涼に割拠し、貝勒・ドンゴ(洞鄂)が兵を督してこれを囲んでいたが、陥とせず、
康熙帝は張勇をこれに当てようとした。しかし張勇は鞏昌は戦略上の要地であり、兵力を分割することは絶対に避ける
べきであると上奏、康熙帝は張勇に鞏昌固守を命じた。
 呉三桂は将軍・呉之茂を遣わして四川より北を犯し、王輔臣に声援を送りつつ西和に屯した。張勇は振武将軍・
佛尼埒および王進宝とともに呉之茂と戦い、三戦三勝する。寧夏でクーデターが起こるも提督・陳福により鎮定される。
張勇は鞏昌へ帰還し、天津総兵・趙良棟の勇才を上奏した。康熙帝はすぐさま趙良棟を寧夏提督につける。
15年、洮州・河州回復の功により少保兼太子太保を加えられる。
 呉之茂は檪門に屯し、さらに楽門に進む。呉之茂はこの地の険を恃み、11の寨を築いて張勇を待ち構えたが、張勇は
兵を分かっての南北挟撃と火計によってこれを破り、首級1千余を挙げた。呉之茂は余衆を聚めてもう一戦を挑んだが、
張勇の前に大敗する。張勇は佛尼勒、王進宝らとともに寨を毀し、楽門を平定。この時期、王輔臣が降伏。張勇はたちまち
平涼、慶陽、鞏昌の諸郡県を回復した。詔によって功を讃えられ、一等候に進められる。少傳兼太子太帥を加えられた。
23年没。少子仍兼太子太帥を追贈された。謚は襄壮。
 張勇は数百戦を経験し、攻め克った府は5、陥とした州県は50に上った。右足を流れ矢に射抜かれ、歩行困難となって、
常に肩を支えられて督戦した。敵に臨んで自若とし、智謀計略沸くが如し、常に寡をもって衆を制して、古の名将の風あり
と讃えられる。賢士を礼遇し、優れた人材をよく推挙した。趙良棟、王進宝の二人はかれの推荐を受けて抜擢された人材の
最たるものである。

253 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/11(土) 22:36:47 ID:+RQlJLaW0
ついでにもう一人。一度戦功不足で罷免されてるし、名将かどうか少々微妙ですが。
趙国祚(1608-1687)
 漢軍鑲紅旗の人。父・趙一鶴はヌルハチの時代に清朝に降り、天聡年間、三等甲喇章京となった。
趙国祚はその次男である。はじめ牛彔額真を授かり、義州に屯田した。黒竜江征伐に従軍、前屯営、
中後所を取る。順治初年、江南征伐に従軍、揚州、嘉興、江陰と立て続けに攻めて、各所で戦功を立てた。
世職を半箇前程から二等阿達哈哈番に進められる。甲喇額真、鑲白旗固山額真を歴官した。
 順治13年、平南将軍に任ぜられ、温州に駐留。十五年、浙江総督を加えられ、鄭成功が温州を侵すと
兵を督してこれを退け、船90余を奪う。のちまた鄭成功が寧夏を犯すと、副都統・夏景梅、総兵・常
進功らとともに迎撃、ふたたび斥ける。捷ちの報せに接し順治帝は、「鄭成功撃退とは見栄を張りすぎている。
過大な報告は明末の古臭い慣わしの名残だ。」として賞さなかった。事実再び退去して江寧に鄭成功の前に
趙国祚は敗れ、官位を奪われ、改めて減俸処分とされる。しかし浙江にあること4年、頗る民心を得た。
いつの歳か、商人が米の値を上げたときには怒ってその商人を出入り禁止にし、隣の省から商人を呼んだ。
民衆はこれを徳と感じ、彼を慕った。十八年、山東と山西を回復するも、康熙元年、功績不足で解任された。
 康熙13年、呉三桂が清朝に叛くと、趙国祚は江西総督に起用される。呉三桂が江西の境内に入るや、勅命で
南昌に移動させられる。江西が空になったと知るや耿忠明が呉三桂に呼応して叛き、兵を遣わして江西を攻めさせ、
広信、建昌を陥とした。趙国祚は将軍・キルコン(希爾根)、ハルガチ(哈爾哈斉)とともに兵を率いて救援に
向かい、耿精忠の将・易明は建昌から満余の兵を繰り出して迎え撃つも、趙国祚ら官軍が兵を分かってそれぞれ
別路から攻めたので、あっけなく潰滅する。趙国祚は70里に渡って敵衆を追撃、憮州を回復した。明の再興を叫ぶ
賊数万に対し、趙国祚は先鋒統領・サナハ(沙納哈)、署護軍統領・ワタイ(瓦岱)とともに奮撃してこれを破り、
首級4千余を挙げる。14年、大将軍・安親王・ユエルゥ(岳楽)に征戦への従軍を請うて許された。翌年、長沙に
侵攻、呉三桂が来寇すると趙国祚はこれと干戈を交え、敗走させた。同年また勅命により茶陵に屯す。18年、官軍
は長沙を下した。趙国祚は安親王に従い、宝慶を攻めた。対するは呉三桂の孫・呉世璠の部将・呉国貴。呉国貴は
武岡に拠して迎撃の構えを見せたが、趙国祚と建義将軍・林興珠は正面からこれに当たり、力戦して呉国貴を斃し
武岡を攻め取った。三藩の乱終結後、趙国祚は戦場で積み重ねた傷の痛みに耐えかね、退職を願って許される。
康熙27年没、享年80歳。国葬を賜り敏壮と謚された。

 ・・・あれです。果たして自分の紹介文はスレ興しになってるんかなーとか考えてしまう俺です。
 相変わらずレス少ないし。
 できれば他の諸兄も紹介文落とすなり議論を交わすなりしてほしいなぁと思うわけですよ。
 もともとが【みんなで決めよう】から派生した場所なんだから、語らいましょう述べましょう?
 もちろん強制ではないですが、せっかくみんな繋がってるわけだし。
 それともここ覗いてる人の数からして少ないんかな?

254 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/11(土) 23:13:44 ID:Deszl+A90
>>253
◆oOLAqFKRB.さんの紹介文をいつも有り難く拝見させて頂いております。
スレの住人が少ない、議論が盛り上がらない理由は多分、
派生元の【みんなで決めよう】でもう語り尽くしたからじゃないでしょうか?
もしくは明・清はいまいち人気がないとか?
(春秋・戦国とかの方がレスは付くのかな?)
俺の場合はここでこまめにコメントしてましたが、
それもぶっちゃけちょっと疲れました…
今は違うスレ及び板に顔を出したりして語ってますし。

255 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/11(土) 23:21:47 ID:cBTHIH7U0
俺は趙良棟の名前を見てワクテカしとる

太平天国がらみなら多少は書けるんだけど、今時間ないしな

256 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/11(土) 23:58:34 ID:Deszl+A90
うーん。一応需要はありそうなんだね。
名将百選では明・清はいまいち人気なかったからなぁ〜
(明初や一部の武将はそうでもなかったけど)

257 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/12(日) 21:26:49 ID:I3NkNZl10
以前今更開国の功臣を出すのは無粋、と言いましたが、
開国の功臣の中では地味なこの人だったら問題あるまい、ということで。
126巻、ケ愈(1331-1371)
 虹の人。初名は有徳、朱元璋より愈の名を賜る。父・ケ順興は臨む濠に拠し、元軍と戦って戦死、
その兄に育てられるが、彼もまた若くして病死した。ケ愈は衆に推戴されて統領軍事となり、16歳
になるとしばしば元軍と戦い、必ず士卒に先駆けて陣を陥として、軍中にその勇を畏服しないもの
はいなかった。朱元璋が滁陽で挙兵すると吁胎から出向いて帰順を誓い、管軍総管を授かる。
朱元璋にしたがって長江を渡り、太平を攻め落として元の将・陳埜先を擒らえ、さらに溧用、溧水
を攻め取った。集慶を攻め下し鎮江を奪取、ことごとく戦功を立てる。広興翼元帥に昇進、朝廷を
出て広徳州に鎮守した。謝国玉璽の長槍隊を城下に下し、総管・武世榮を擒らえ、俘虜1千余を獲る。
宣州鎮護に遷され、兵を率いて読渓を攻め取った。また胡大海とともに徽州を攻め、枢密院判官と
して徽州に鎮守した。
 苗軍総帥・楊完者が十万の兵で徽州を攻めると、防備薄弱ながらケ愈は将士を激励し、胡大海と
兵を合して反撃し、ついに元軍を破った。進軍して休寧、婺源を攻め抜き、兵卒3千を俘虜として、
高川塁を下す。さらに李文忠、胡大海とともに進軍して建徳を攻め、途上道安を取って、長槍隊の
将帥・余子貞を撃破した。逃げる敵を追って淳安に到り、援軍もろともこれを撃破、ついに建徳を
破ってついにこれを陥とす。楊完者が大挙来寇するがふたたびこれを破り、その部将・李副枢を
擒らえ、渓洞の兵三万を投降させた。一月後、烏龍嶺でみたび楊完者を破り、朱元璋より僉校枢密事
を授かる。臨安奪取。浮梁、楽平、饒于、建昌を攻めて、悉く下した。
 陳友諒に敗れ、困窮。養子の馬を借りて逃走、撫州を奪われて入れず、奔って応天に還る。しかし
朱元璋はその罪を咎なかった。徐達が洪都を回復し、朱元璋はケ愈に大都督補佐として朱文正をつけ、
改めて洪都の鎮護を命じる。翌年、陳友諒の軍六十万が来寇、城郭のような高さを持つ樓船の群れが
洪都を百重に囲み、ケ愈は守備兵を分けて撫州門の要衝に当たり、自ら軍を指揮して攻め寄せた。
樓船の大砲で城郭を壊し、三十余丈の距離に逼る。ケ愈は城を修築しつつ戦った。敵の攻撃は益々急
を加え、両軍鎧を脱ぐことなく夜を迎える日が三ヶ月続く。朱元璋はみずから洪都救援に赴き、守城
の功を論じ大敵に勝たせなかった功績を讃えた。太祖が武昌を平定すると、ケ愈は兵を率いて江南の
いまだ帰服せぬ諸郡県を平定に出る。鄭克明の弟・鄭志清が兵二万を率いて永豊に拠り、明軍を阻ん
だが、ケ愈はこれを難なく破り、主だった将帥五十数名を擒らえた。ついで常遇春について沙坑、
麻嶺の諸寨を平定、さらに進軍して吉安、贛州を奪う。累功により江西行省右丞となった。時に二十八才、
事を起こしてからこれほど短期間でここまでの高官に上り詰めたのは、ケ愈以外、李文忠のみである。
 ケ愈は人となり荘厳にして慎み深く、艱難辛苦を憚らなかった。将軍としては厳しいがよく降った
衆を御撫した。福安の地をしたがえたとき、部下が略奪を働き、判官の藩枢がケ愈の責任を攻めた。
ケ愈は驚き謝罪して民を害したものを探し出し、斬って、藩枢とともに粥を作って民衆に分け与えた。
民衆は大いに喜悦したものである。
 呉の元年、右御史大夫となり、御史台の事務を担当する。洪武元年、太子諭徳を加えられた。同時に
征戌大将軍に任じられ、大軍での中原経略を任せられる。襄、漢の兵を率いて南陽に赴き、元兵を瓦店
で破って城下まで追い、これに勝って史国公ら十六人を擒らえた。随、葉、舞陽、魯山の諸州県をたて
つづけに下す。各地の山寨や均、房、金、商などの土地をも平定した。三年、大将軍徐達の北伐に従い、
元将・ココテムルと車道峴で交戦、敵の塁営に突撃、ココテムルに逼るが大魚を逸した。ほか諸々の功
により榮禄大夫に進められ、右柱国、衛国公に封ぜられる。官位世襲の鉄券を下賜された。
 洪武四年、蜀の地を伐つため襄陽に赴き、人馬を鍛えて兵站を万全に整える。翌五年、辰、澧の諸蛮が
反乱、征南大将軍として澧州に赴き、蛮夷の四十八洞を攻め落とした。6年、徐達の副将として西北の辺境
を巡撫し、十年、沐英の副将として吐蕃を撃ち、崑崙山まで追って首級万余を数えるも、帰還途上、病に
倒れ寿春で没した。享年四十一歳、寧河王に追封され、武順と謚された。

258 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/12(日) 21:34:05 ID:I3NkNZl10
靖難の役、官軍版です。
あくまで降らず志を貫いた鉄鉉のほうがよかったかもしれませんが。
盛庸(生没年不明)
 出身不明。洪武帝のとき累功により都指揮となる。建文帝のはじめ、耿炳文に従い燕王府を伐つ。
李景隆が耿炳文に代わると、李景隆の麾下となった。
 建文二年四月、白溝河で李景隆が敗れ、済南に奔った。燕王がこれを追うとさらに南へと逃げる。
盛庸は参政・鉄鉉とともに済南を固守し、三ヶ月の間燕王軍を阻んだ。夜襲を仕掛け、燕王軍を大いに
破って囲みを解く。帰還する燕王の後背に突撃し、徳州を回復した。九月の論功で歴城候に封ぜられ、
千石の禄を下賜される。まもなく総兵官、平燕将軍に任ぜられる。
 時に呉傑、平安は定州に屯し、盛庸は徳州に駐屯、徐凱は滄州に在って、掎角の勢を成していた。
冬、燕王軍は滄州を抜いて徐凱を生け捕りにし、その輜重を奪って済寧へと進んだ。盛庸は大軍を
率いて東昌に向かい、燕王軍の後背を衝く。燕王軍は動揺することなく前進したが、盛庸はもう一
度中堅を衝き、燕王の陣に入ってほしいままに蹂躙し、これを幾重にも囲んだ。燕王は部将・朱能
に救出されて逃走したが、燕王府の将兵はここで火器にやられ、あるものは創を負いあるものは
死んだ。大将・張玉が死んだのもここにおいてである。燕王は百騎に守られて館陶へと落ち延びた。
盛庸は呉傑、平安に檄を飛ばして燕王の帰路を絶とうとした。翌三年正月、呉傑、平安は深州で戦い、
燕王軍の前に窮地に陥ったが、盛庸が駆けつけて逆転。この一戦で燕王は精鋭の多くを失う。
盛庸の名は大いに轟いた。帝の宗廟に勝利を報告する。
 三月、燕王軍は再び南下して保定に到った。対する盛庸は夾河に駐留する。燕王は軽騎を偵察に出し、
盛庸はそれに気付くと一千騎でこれを追わせたが、逆に燕王軍の射撃にあい兵を返した。戦うにおよび、
盛庸は軍を整列させ盾を持って進ませる。燕王のほうは歩兵を先に進ませ、騎兵を要所要所に配置させた。
盛庸は軍を率いて力戦し、燕王の将・譚淵を殺した。また、朱能、張武といった将も死門(死ぬしかない道)
に導いた。燕王は精鋭騎兵を率いて盛庸の陣を破り、朱能の軍と合して奮闘、盛庸は驍将・荘得とp旗張を
失った。この日、盛庸は燕王軍を敗ったが、翌日、東北の風に乗じて攻め寄せた燕王軍に左右から挟撃され、
大敗して徳州に還った。麾下の将兵も意気阻喪し、その間に沛県に置いた兵粮と船を焼かれ、盛庸の軍は空腹
と戦うことになる。
 建文四年、霊壁の戦いで敗北、平安とともに擒らえられる。盛庸らは戦艦に乗せられ、戦艦は南下、途上で
下ろされた盛庸は長江保全の計画を立てるが、すでに吁胎と楊州が陥とされたと知るにいたり、六合および
浦子口を守って戦う構想を立てるもすべて後手に回って失敗、都督の陳喧が燕王にくだり、燕王軍はついに
長江を渡った。盛庸は船をかき集めて高資港で戦ったが、また敗れ、軍は潰滅した。
 永楽帝が京師に入ると、盛庸は衆をもって降り、淮西の守りを命ぜられた。しかし永楽元年致仕。
後年千戸長・王欽、都御史・陳瑛らに弾劾され、自殺した。

259 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/12(日) 21:43:10 ID:I3NkNZl10
本日ラスト。靖難の変〜永楽、洪熙、宣徳に仕えた元です。
薛禄(?-1430)
 膠州の人。六男なので薛六と呼ばれ、尊貴にのぼって禄と改めた。兵卒として燕王の挙兵に従い、九門奪取の
功を立てる。真定の戦いでは官軍の左副将軍・李堅を迎撃した。戦闘が始まると槊を操って李堅を馬から落とし、
擒らえる。指揮僉事に抜擢された。燕王に従い永平を援け、大寧、富峪、曾州、寛河を下し、北平を救う。
先駆けて南軍の遊撃を破り、指揮同知に進められた。大同攻めの先鋒となる。白溝川の戦いで官軍を済南まで
追って、指揮使に昇進した。東昌で戦ったときには五十騎をもって数百の官軍を撃破する。燕王が盛庸のために
敗れるとそれを守って北平に還った。盛庸が真定から諸県に檄を飛ばし、燕王の退路を絶ったとき、薛禄は威県、
深州からの官軍に突撃、滹沱の戦いで右軍を退け、敵陣に突っ込むこと数十回、ついにこれを破り、夾河まで
追撃して首級無算を挙げた。また単家溝で戦った時は平安に擒らわれながらも独力で脱出し、戦場に服して、
大いに平安の軍を破った。順徳、大名、彰徳を攻略し、西水寨を攻め落とし、都指揮・花英を生け捕る。勝ちに
乗じて東阿、東平、汶上を下し、連戦して淝河、小河、霊壁で官軍を討ち、功績最著であったので、京師に戻って
から都督僉事に抜擢される。
 永楽六年同知に勧められた。八年、驃騎将軍として北伐に従軍、右都督に進められる。十年、永楽帝より
「いにしえより、人を持ちうるには必ずその資質を見定めて教えるべしと言う。今の武臣の子弟も、戦がなくなれば
教える必要が無くなる。朕は緩急のなくなることを憂う」と言われ、海内四方より士官候補生数万を獲て、薛禄自ら
彼らを教育した。十五年、行在後軍都督董営造となる。
 十八年二月、永楽帝は正式に北平を帝都と定め、薛禄に靖難の役での誠心と勇戦により、彼を陽武候に封じ、俸禄
千百石とした。二十一年、右哨を率いて北伐に従軍、長興の盗賊を平定した。二十二年、ふたたび北伐すれど功なし。
 仁宗が即位すると掌左府を命じられ、太子太保を加えられて世襲を許す鉄券を授かった。洪熙年間、総兵官として
塞外の変事に備える。寇賊平定の功により俸禄五百石を授かった。同年鎮朔大将軍に任ぜられ、開平から大同の辺境
までを守る。
 宣宗が即位すると召し還され、辺境防備の五策を述べた。まもなくまた辺境防備に戻る。宣徳元年、楽安征伐に従軍、
先鋒となった。薛禄と尚書・張本とて楽安を宣撫する。宣徳二年春、詔を奉じて畿南の諸府城池を巡視、厳しく士卒を
戒め、ことに民を騒がすものは法に照らして罰した。この夏また大将軍を拝す。敵が開平を侵したと知るや城から
三百里のところに夜営し、精鋭を伏せて敵を待った。三日後、軽騎を以って逼る敵軍に伏兵を発して大いにこれを破り、
人畜無算を獲る。軍を還すと敵軍の残党がその後背を突いてきたので、奮闘ののちこれを下した。召し返され、三年、
北伐に従軍、敵を寛河で破り、薊州、永平に鎮護の兵を駐屯させる。五年、鳳凰嶺で敵に遭遇し、その多くを斬って
太保を加えられた。皇上より永寧山、囲山およびG鶚、赤城、雲州、独州の築城および守備を任せられ、
軍民三万六千人を動員して着工、精騎一千五百でこれを守らせ、みな長禄の命令を遵守してよく働いた。
張録は武人であり学が無く、よく楊士奇に問うた。楊士奇は「皇上がいにしえの賢人のごとく待っていたのは君だ」と
言ったが、薛禄は自分の賢明さに気付かず、自信なく「私には古代の賢人のような頭脳はございません。しかも不勉強
な私では皇上平価より受けた恩典の万分の一も返せますまい」と語った。同年六月病を発して没。鄞国公に追封され、
忠武と謚された。
 薛禄は勇敢にして謀に長け、謀を定めてから戦ったので戦えば必ず勝った。軍紀は厳明で秋毫も犯すことなく、よく
士卒を慰撫してかれらと甘苦を分かち合った。靖難の役の功臣の中でも、張玉、朱能と薛禄の三人の功績はずば抜けて
いる。ことに薛禄は永楽、洪熙、宣徳の三朝に仕え、宿将として重きを成した。

260 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/12(日) 23:19:14 ID:HAw6cEQe0
訳早すぎだね、ほんとに。
今日から数日休みだから、五代のクソマイナーをやろうとしたけど1ページもたん…
なんかイイ翻訳ソフトでも持ってます?

261 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/12(日) 23:20:16 ID:N8LHWidi0
>>230-232>>234
五胡、遼、金、モンゴルが完全に抜けてますね。やはり認識としては中国ではないと思われているのでしょうか。

262 :228:2007/08/13(月) 18:49:36 ID:GFXjKxth0
>>261
清朝も漢人か漢軍旗人だけだしねえ・・
OLAさんが挙げてくれたトゥルケやトゥライとかおもしろそうな武将は
いるみたいだけれど。


263 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/13(月) 22:56:44 ID:0DdVh7gM0
>>255さん、趙良棟でなくて申し訳ないです。趙良棟は明後日にでも挙げますのでご容赦を。
つーわけで、明初の海軍提督といえばこの人しかあるまい、ってことで施琅です。
施琅(字は琢公。1621-1696)
 福建晋江の人。はじめ明の総兵鄭芝龍の部下。順治三(1646)年、鄭芝龍の降伏に従って
清に仕えた。父に背いて南明に仕える鄭成功に招かれたが拒んだため、家族を皆殺しにされる。
順治十三年、定遠大将軍世子チド(済度)に従い福建で鄭成功を撃ち、同安副将を授かった。
十六年、鄭成功は台湾に割拠、朝廷は施琅を同安総兵に抜擢し、これに当たらせる。
 康熙元年(1662)、水帥都督に昇進。時に鄭成功が死に、その子・鄭錦が衆を率いて海澄を
侵さんと欲した。施琅は海門でこれを迎撃、鄭錦の将を斬り、軍船と武器を奪った。まくなく
靖南王・耿継茂が叛き、厦門を攻めると、オランダ人水兵を募って耿継茂の軍と激闘。首級1千余を
挙げる。勝ちに乗じて嶼、金門の二島を取り、右都督を加えられた。3年、靖海将軍とされる。
 七年、海上で鄭錦と遭遇、急ぎこれを攻める。朝廷に「賊兵は満に未たず、戦艦も数百とは
在りません。また、錦は知も勇も無い男。南路の打狗港と北路の文海港から出陣し、兵を合して
戦えば倒すのはたやすいこと。台湾の計はこの日をもって平らぐべしです」と上奏、しかし
朝廷の許しが出ず、勝機を逸した。水帥提督に進められ、内大臣を授かり、漢軍鑲黄旗に属す。
 二十(1681)年、鄭錦死す。幼年の息子、克爽(正しくは土+爽)が後を継いだ。内学士・
李光地は台湾取るべしと上奏し、海上のことは施琅に一任せよとした。皇上より福建水帥提督を
授かり、さらに太子太保を加えられる。
 二十二年六月、施琅は桐山より出陣、劉国軒の陣に突入して、流れ矢に片目を傷つけられ血を
流しながらも一歩も退かず、これに勇気を得た総兵・呉英が続き、大勝。首級三千を獲る。施琅
は自ら督す五十六隻の戦艦から八隻を残党討伐に分かち、自らは四十八隻を率いて直進、迫る
敵兵を悉く倒し、焼いた船は百余、溺死者無算の戦果を挙げて、台湾に上陸、澎湖を取る。鄭克爽は
降伏し、施琅がそれを皇上にとりついで許された。康熙帝は剃髪した鄭克爽に延平王の位を授け、
施琅にも台湾平定の功により靖海候を授けようとしたが、施琅はこれを辞した。
 康熙二十七(1688)年、皇上より「汝が内大臣になってから十三年がたつ。そのとき朕は汝を
知らず、軽く扱っていたが、今ではその深い智慧を知り、厚遇していると自負している。三逆の
平定にも福建、台湾のことを憂えずに済んだのは汝がいたからに他ならない。六十を過ぎて難靖
に冠たる汝を、朕は特に抜擢したいと思う。あるものは汝が功を恃んで驕傲となると言うが、
そのときは朕が汝を京師に呼び戻す。ますます謹慎を加えて、功名を保つべし」との言葉を賜る。
三十五年、没。大使少保を追贈され、国葬を賜った。謚は襄壮。
 施琅は軍を治めるに厳正、陣法に通じ、水戦をもっとも善くして、海中の風の流れを言い当てる
ことができた。台湾征伐のときも「みなが南風は不利だと言っています。なぜ六月の今に出陣する
のですか?」と問われ、「北風は日夜猛々しい。今から攻める澎湖は一戦で抜くというわけには
いかない。風が吹いて船が散らばるような天気で、なにを以って戦うべきか? 夏の今より前後
二十余日は風が微かで夜も五月蝿くなく、大洋に衆を停泊させるに足る。見ていれば分かる。
七日のうちに、必ず動きがあるだろう。颶風あるのは即ちこれ天意、人知の及ぶところにあらず。
鄭氏の将で最も驍勇を誇るのは劉国軒であり、彼は敗れたといえども必ず再戦を挑んでくる。
今、国軒の守りを破れば、すなわち台湾は戦わずして落ちるのだ」と答えた。戦うにおよんで
東南の風が起こり、劉国軒は颶風が生まれた、とはなはだ喜んだが、俄に雷鳴が轟き、
「今我が敗れるのは天命なのか!」と叫んだ。また、こういうこともあった。あるひとが施琅に
家族の敵をとらせようとして、鄭氏一門に毒を飲ませてはどかうと進言した。施琅は
「絶海の孤島に新しく生まれたものを誅戮するのは人情にもとる。私は貧しいもの苦しむものを
賑恤することで国の大事にかかわってきたのだ。あえて私情をさしはさむような真似はしない」
といって斥けた。

>>260さん
 俺の翻訳スピードはそんなに速くないですよ?
 一人訳すのに軽く2,3時間かかるし。
 ともあれ、期待していますので五代の翻訳頑張ってください。

264 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/13(月) 23:14:29 ID:pq4xh6md0
>>263
わたしゃ一人訳すのに今日一日かかってますがなにかw?
こっちは合いの手いれるくらいしかできそうにないので、巣の方に書いてます。
いつでもいいですから、南北朝期のよさげなところも列挙して欲しい感じ。

265 :携帯から失礼:2007/08/13(月) 23:35:58 ID:yxz2ixaEO
>>263
施琅と云えば康熙帝に台湾は重要だから
なにがなんでも取るべしと食い下がった人ですな。
(猛反対されたが重要性を説き伏せ康熙帝も最終的に折れましたもんね)

一人訳すのに軽く2,3時間とはかなり早いのでは?
(劉裕の推薦文作成には一日掛かりました)
>>264
同感。俺もコメントするが精一杯の状況です。

266 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/14(火) 23:15:32 ID:uVaWNkx60
今回は明の土木の変前後から二人ほど。
毛忠(字は允誠。1394-1468)
 初名は哈喇。西部辺境の人。曽祖父が洪帝のとき明に帰属し、戦死。祖父もまた戦死した。
父親の毛宝は驍勇剽悍、総旗をかかげ、永昌の百戸長となる。
 毛忠は父の職を継いだとき二十歳、膂力絶人にして騎射を善くした。しばしば太宗に従って
北方に出征する。宣徳五年、曲先の反乱を鎮圧して功あり、九年、脱歓山に出征し、十年黒山
に来寇してきた敵を撃ち、その酋長をことごとく擒らえた。そのつど官を進められ、指揮同知となる。
 正統三年、都督・蒋貴に従い、ダアルチヤン(朶児只伯)を討ち、最先鋒に立って敵陣を
攻め落とし、多数の俘虜を得る。昇進して都指揮僉事。十年、辺境を守って功あり、都指揮同知に
進められ、毛姓を下賜される。翌年、総兵官・任礼に従って沙洲衛都督[口+爽]哥の部落を討捕し、
彼らを塞内に遷す。また昇進して都指揮使。十三年、軍を率いて罕東に出、[口+爽]哥の弟で祁王
を称する鎖南奔を生け捕った。さらに昇進して都督僉事、忠の名を下賜される。まもなく右参将に
当てられ、他将と共同で甘粛を守った。
 景泰初年、侍郎・李宝が漠北に使いし、帰ってきて毛忠に、毛忠がしばしば派遣したオイラートへ
の使者が拘留されて戻らない、と告げた。詔により京師に赴く。兵部は毛忠の罪を論じ、死罪を請う
たが、景帝は許さなかった。官位を落とされ、福建で罪を償う功を立てよと命じられる。福建に使わされ、
官位を元に復した。命を受け甘粛の守衛大臣を京師まで送り届ける。英宗のはじめ、毛忠は沙漠に遠征し、
ジャシリンチェン(加失領真)を捕らえたが取り逃がした。英宗はこれを咎めず、赦したが、のちこれが
オイラートに奔ってエセンに用いられるようになると毛忠はこれを遺憾に思って殺害に向かい、エセンの
陣でこれを殺す。しかしエセンに拘留され、朝廷は毛忠がエセンと通じたと判断、ただ英宗だけが塞外で
の出来事を知り、かならず戻るとして召し返した。毛忠は直ちに戻り、福建にあってしばしば敵を斬り、
功績を挙げる。昇進して都督同知、左副総兵とされ、甘粛の鎮に遷された。皇上はこれを見て毛忠を慰撫
し諭して、玉帯と金の官服を賜わった。
 天順二年、オイラートが大挙して甘粛を犯すと、巡撫の芮サは諸将が職務放棄したと虚偽の弾劾文を
上奏した。兵部は議論のうえ、毛忠に功を以って罪(濡れ衣)を購わせるべきだという結論に達する。
三年、鎮番に属して賊を破り、左都督、五年、孛来に従って寧西、荘浪、甘粛の一帯を転戦、ことごとく
オイラートの強兵を破って涼州に至る。毛忠は一昼夜戦い、矢は尽き力衰えた。そこに賊兵が衆を増して
やってきたから、軍中みな色を失った。ただ一人、毛忠は大敵を見て意気をみなぎらせ、将士を慰撫して
ことさら死戦した。賊軍はついに毛忠を下すことができず、援軍を懼れてついに囲みを解き、逃げ去った。
毛忠は全軍欠けることなく保全して還る。七年、永昌、涼州、荘浪で諸番が跋扈すると、毛忠は総兵官・
衛穎とともにこれを討った。毛忠はまず大族を下してのちに小族を下し、他の将が賊を下せないので結局
一人ですべての賊を下した。論功により俸禄百石を加増、衛穎が授かるはずだった爵位世襲の鉄券を
代わって授かり、伏羌伯に封ぜられた。
 成化四年、固原の満四が石城に拠って造反した。毛忠と総督・項忠は詔を受けて詔を奉じてこれを討伐
に赴き、賊を挟撃する。毛忠は木頭溝から礟架山を直撃し、首級無算を挙げた。賊軍の退却に乗じて矢石
を放ち、山北、山西の二つの峰を奪取する。そのころ項忠は山の東に拠し、石城の西門を攻めた。賊は
大いに恐れ、窘められて泣き出す。しかしたちまち霧が立ちこめ、賊軍は力を合して城を出、毛忠を攻めた。
毛忠は力戦したが及ばず、流れ矢に当たって死んだ。享年七十五歳。
 毛忠は軍律は厳しかったがよく士卒を御撫したので、西域の兵で彼の死を痛まないものはいなかった。
皇上はこれを聞いて毛忠を侯爵に追封し、武勇と謚した。
 ・・・土木の変前とは言っても、この人は多分エセンとの直接対決はしてないです。直接対決したのは次の人。

267 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/14(火) 23:25:34 ID:uVaWNkx60
短いですがエセンを二度、打ち破ってい人です。
エセンを撃退したのは于謙だけではないってことで。
焦礼(字は小節?-1463)
 蒙古の人。父・把思台は洪武年間、明に帰服し通州衛指揮使となった。長子の焦勝が後を継ぎ、
その子・焦義榮が後を継いだが夭折して子が無く、弟の焦謙勝が職を継承した。しばしば功を
立てて都指揮同知にまで昇ったが彼も夭折、末弟の焦礼が職をついで遼東の防禦に当たった。
 宣徳初年、焦礼は京師に帰還、宣宗は焦礼の辺境防備の功績を労わり、原職のほかに管失奴指揮使
を授けた。焦礼はまもなく辺境で功を立て、昇進して都指揮同知となる。正統年間、累功により右都督。
英宗が北伐すると景宗の命で左副総兵となり、寧遠鎮を守る。まもなくエセン・汗が京師に逼ると軍を
率いて防戦、これを斥けて鎮に戻る。景泰四年、再びエセンが二千余の騎兵を率いて興水堡を犯すと、
焦礼はこれを撃って敗走させた。詔書により功績を奨励され、左都督に進む。
 英宗は復位すると焦礼の守辺の攻を喜び、京師ら召し寄せて東寧候に封じ、その世襲を許して、甚だ
厚く遇して宝物を賜って寧遠鎮に還した。兵部尚書が焦礼はすでに八十を超えており、一人では任に
絶えられまいとして都指揮・ケ鐸とともに守備させるよう上奏した。まもなく焦礼はケ鐸から侮辱を
受けたとして弾劾し、皇上は都指揮・張俊を持ってケ鐸に代えた。天順七年、鎮において死す。
侯爵を追贈され襄毅と謚される。
 焦礼は胆略あり、騎射を善くし、しばしば寡を持って衆を破った。彼が寧遠鎮に駐した三十余年間、
辺境には安寧が訪れ、士兵らは安楽を享受した。東寧候の爵位は明の滅亡まで脈々と続く。

 ・・・エセン撃退と言えば毛勝なんかもそーなんですが、読みづらかったのでこっちにしました。
 次回も土木の変前後から一人二人出そうと思います。毛勝とか蒋貴とか勿体無いし。
 さて、次は清の趙良棟ですね。
 >>264さんから南北朝も訳しちゃれとのお達しなので、今後は三日間で清、明、南北朝のサイクルになるかな。

268 :携帯から失礼:2007/08/15(水) 05:47:51 ID:N1tkm8JxO
土木の変で于謙がエセンを撃退したんだと思ってし、
女真を打ち破った袁崇煥みたいに焦礼は寧遠鎮で女真族を抑えていたんでしょうか?
それに明にも張俊って同姓同名の人物がいるんですね。
南北朝なら慕容紹宗なんてどうでしょうか?
(燻し銀だと思いますね。最後がちょっとあれですが)

269 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/15(水) 23:48:14 ID:X9LRrIWc0
>>255さん、お待たせしました趙良棟です。
趙良棟(字はフ宇。1621-1697)
 甘粛寧夏の人。順治二(1645)年、募兵に応じて兵となり、総督・孟喬芳の下に属して潼関を守る。
のち秦州、鞏昌で叛いた賀珍らを伐ち、寧夏水利屯田都司となった。五年、河西の回部を討ち、丁国棟を
擒らえる。高台遊撃に抜擢された。十三年、洪承畴の薦めで雲・貴を征伐、提標中軍副将に進む。
康熙元年(1661)、雲南広羅総兵に進み、前後して各地の苗族叛乱を鎮定した。四年、貴州平遠に移った
ところで父の喪に遭う。呉三桂に才能を見込まれ誘われたが断り、官を辞した。八年、官に復して山西
大同総兵、十一年、天津の鎮に移る。
 十二年、呉三桂が叛き、翌年寧夏で兵変が起こる。甘粛提督・張勇の薦めで寧夏総督に抜擢され、寧夏
鎮定を上奏。趙良棟は精鋭百をもって現地に赴き、把総・劉徳、参将・熊虎とともに謀って兵士を慰撫し、
首謀者二人を斬った。
 このとき大将・トゥハイ(図海)が軍を督して平涼で王輔臣を討ち、趙良棟と平涼提督・王進宝はその
指揮下で奮闘、秦州、西和、礼県を平定した。十八年、トゥハイらとともに兵を分かって益門鎮を攻め、
十月、徽州にて呉三桂の軍と遭遇、これを討つ。徽州から略陽に進み、呉三桂の部将・呉之茂を打ち破った。
勇略将軍、寧夏提督を授けられる。
 十九年、趙良棟と王進宝は白水壩で呉三桂と戦う。渡河しようにも船が無く、高みから賊軍の矢石が雨の
ごとく降り注いで兵は恐慌に陥るが、趙良棟は「わが鞭の向かうところ、あえて退がる者は斬る!」と
叫んで混乱を収束させた。騎馬で白水壩の乱流を渡り、兵士達もそれに続く。敵は大砲を発射、数十人が
創を負ったが顧みることなく、呉三桂の軍を潰走させて追撃、三戦三勝。龍安府を下し、明月江を渡って
綿竹に出た。呉三桂の部将二人を投降させ、成都を回復する。皇上は趙良棟の功績を嘉し、雲貴総督、
兵部尚書、領将軍を授けた。趙良棟は雅州、象嶺、建昌を回復し、東に進んで敍州、納渓、永寧の諸県を
攻略する。勅命により陝西、四川撫諸臣合籌運餉済軍に合流、成都から建昌に出る。呉世璠は将を派遣して
永寧ほかを犯し、趙良棟も将を派遣してこれを奪い返させたが建昌は回復できなかった。
 二十年、趙良棟は朝天閣から出陣し、馬湖の賊を攻略、二戦して二勝し、首級三百、俘虜八十余を得た。
ついで黄茅岡で呉世璠の軍を大いに破り、諸将を遁走させる。大将軍シャオタイ(彰泰)が四十万の大軍を
動員し、雲南を攻めた。趙良棟は持久戦を勧めたがシャオタイは速戦即決策を取り、呉世璠と決戦。呉世璠
は城を出て桂花寺で迎撃したが、奮戦する清軍の前に大敗、自殺した。呉三桂、呉世璠ともに雲南で死に、
三藩の乱は終息を見る。諸将の兵は美女、玉、帛などを奪ったが、一人趙良棟の部隊だけは秋毫も犯すところ
が無かった。
二十二年、自らの功績を上奏したが「趙良棟は功多しといえども建昌の守りを失った罪があり、功を以って
罪を購うべし」と言い渡された。左都督。ときに病を得て郷里に帰ることを望むも許されず、二十五年、
雲南を陥とす。軍紀廉潔にして法規を守り、将軍、総督原銜とされた。二十七年、再び入観して自らの戦功を
述べる。二十八年、喇布勒哈番を授かった。
 三十年、ガルダンが辺境を騒がすと将軍・ニヤハン(尼雅翰)に軍事を諮問された。三十二年、寧夏総兵・
馮徳昌とともに寧夏に鎮す。馮徳昌が軍の食糧を横流ししていることを上奏、馮徳昌は罷免された。三十三年、
軍を率いて土喇に駐留し、ガルダンの攻撃に備えるも京師に呼び戻される。三十四年、みたび戦功を上奏し、
大将軍トゥハイやシャオタイと肩を並べる一等精奇尼哈番を授かる。趙良棟は郷里の家に帰ることを請い、許された。
 三十六(1697)年、病篤くなり、没。享年七十七歳。国葬を賜り、襄忠と謚された。
 病床に送られた康熙帝の手紙に曰く「卿は偉大な男というべきであり、功績著しくありながら心驕らず。人と合わず
と言えども、朕の前に事を奏ずるときは常に的を射た。朕は国家保全の功臣の言を受け入れ、しかしその請うところ
を終に容れなかったことを悔やむ。今病に倒れ妻子を心配させる汝に、どうか安生が得られんことを」乾隆四十七年、
改めて一等伯に封ぜられ、官爵の世襲を許された。
>>268さん
<女真を打ち破った袁崇煥みたいに焦礼は寧遠鎮で女真族を抑えていたんでしょうか?
 多分そうだと思います。明は征服王朝を駆逐して成立しただけに、外敵に過敏でしたからねぇ。
 でも最後に袁崇煥を殺して、自分で自分の首を落としたわけですが。

270 :255:2007/08/16(木) 00:22:17 ID:Z5RJdKRN0
>>269
 フハッ
 その昔、原文を翻訳ソフトで悪戦苦闘しながら読んでようやく大意を掴んだので
 訳文を見ると感慨深いですなあ。
 ありがとうございました、今後も頑張ってください。

271 :携帯から失礼:2007/08/16(木) 02:03:51 ID:XsjFgfUxO
>>269
◆oOLAqFKRB.さん レスd&乙
やはりそうですか。明はモンゴル対策などの為に九鎮を配備してましたからね。
(後に瓦解しましたが)
それに五年間の猶予を与える約束をしていた袁崇煥を後金側が放った、
宦官の讒言を間に受けた崇禎帝は袁崇煥を斬っちゃいましたもんね。
おかげで洪承疇は後金に投降しちゃう羽目に…
このことが後に大きく響いてくることになろうとは夢にも思ってない崇禎帝であった…

272 :携帯から失礼:2007/08/16(木) 08:21:18 ID:XsjFgfUxO
洪承疇は松山の戦いで捕虜になったんだった。
袁崇煥が斬られたのとは関係なかったんだった…スマソ
袁崇煥が毛文竜を斬ったから孔有徳が兵と大砲を土産に後金に投降したんだった。

273 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/16(木) 23:49:49 ID:umi16LOz0
土木の変寸前に死んでますが、結構名将だし兵卒から身を起こしたあたりがかっこいいのでこの人。
蒋貴(字は大富。1380-1449)
 江都の人。燕山衛卒(近衛兵)から身を起こした。体格雄偉にして力強く、騎射に通じて累功により
昌国衛指揮同知となる。交趾および沙漠への出征に従軍し、都指揮僉事に遷されて彭城衛の事務を掌握
する。
 宣徳二年、四川松潘の諸番が叛くと、右参将に充てられ総兵官・陳懐に従ってこれを討った。郷で先導役
を募り、絶険の地を進んで賊の巣に逼って、一日に十数戦を経て大いにこれを破る。都指揮同知に進められ、
密雲鎮守となる。陳懐を補佐するべく松潘に鎮した。八年、鎮守・方政を援ける。九年、番族諸部がふたたび
反乱を起こすと法政らともに道を分かって討伐に進軍した。蒋貴は四千の兵を督して任昌の寨を打ち壊し、
都指揮使・趙得、宮聚らともに龍渓ほか三十七の寨を毀した。斬首千七百級、崖から落ちて死んだもの無算の
大勝利。朝廷は捷報を聞いて蒋貴を都督同知、総兵官に進め、平蛮将軍の印璽を授けた。方政と鎮守を交代する。
 英宗が即位すると、蒋貴は自らの管轄があまりにも辺地であることを奏し、兵と食糧の加増を請うた。正統元年、
召し返されて右都督を授かる。アダイ(阿台)が甘粛、涼州を侵すと辺境は危急を告げ、蒋貴も平虜将軍の印璽を
授かり軍を率いてこれを討つ。犯賊の将・荘浪が都指揮・江源を戦死させ、百四十余人が戦死。侍郎・徐睎は蒋貴
の遅参を弾劾したが、朝廷は蒋貴は甘州の精鋭と悍馬を選んで荘浪に当たらねばならなかったのだから仕方ないと
して不問に付した。
 翌年春、敵の駐留する賀蘭山後方に諜報を放つ。勅命により大同総兵官・方政と都指揮・楊洪が西に移動、蒋貴
と都督・趙安を含めた四人で涼州の賊の寨を封鎖した。蒋貴は魚子海子まで到ったが都指揮の安敬が前途に水草
すら生えていないと報告したので兵を引いた。陝西鎮守の都御史・陳鎰が蒋貴に状況を報告し、尚書・王驥が京師
から辺境事務主管として現地入り、安敬を斬り、蒋貴にも功を以って罪を償えと要求していると言った。蒋貴は感じ
いって憤撃し、ダアルチヤン(朶児只伯)は罪を懼れて朝廷に入貢、敵の勢力はわずかに弱まる。蒋貴は軽騎を
率いて狼山で敵を撃ち、一直線に石山へと逼る。まもなく朶児只伯が兀魯乃の地で再び阿台に寝返ったので、蒋貴は
二千五百人を率い先鋒となってこれを襲う。副将・李安がそれを阻止しようとしたが、蒋貴は県を抜いて「あえて軍
を阻むものは斬る」と言って夷の鎮に出向いた。間道を馳せること三日、敵の巣穴に到着する。阿台は馬を放牧させて
おり、蒋貴は馬の群れに突進して鞭と弓で威嚇、馬は逃げ散った。慌てて部将が出てきて弓をつがえたが馬を失った
騎馬民族など怖ろしくなく、蒋貴はほしいままにこれを蹂躙、指揮・毛哈阿がそこに突撃して、大いにこれを破った。
また軍を両翼に分け、八十余里に渡って転戦、大勝し、任礼がこれを黒泉まで追い、阿台、朶児只伯の二人を遠く遁走
させて西域を悉く平定した。王驥は捷報を聞き、蒋貴を定西候に封じて俸禄千二百石と官爵世襲を約束する鉄券を下賜した。
 六年、平蛮将軍の印璽を佩き、総兵官として王驥とともに出陣。途中軍を分かち、麓川、上江寨、杉木籠山の七寨を抜き、
馬鞍山の陣を破った。勲功第一とされ、帰還後侯爵に進められて俸禄三百石を加増された。
 八年夏、再び平蛮将軍の印璽を佩き、王驥とともに賊・思任発と思機発の兄弟を討ってその寨を破った。軍を還すと
おびただしい宝物と俸禄五百石の加増を下賜される。
 十四年正月、没。享年七十歳。国公を追贈され、武勇と謚された。
 蒋貴は兵卒出身で学が無く、字を知らなかったが、天性朴訥で人を忘れず見下さず、士卒と甘苦をともにした。
寇賊討伐で塞外に出る時は自らの食事用具を袋に入れて背負い、これも努めの一つだと言う。敵を前にして士卒に
先んじて駆け、部下と一体となって戦ったので、向かうところ敵は無かった。
 部下と艱難辛苦をともにした、とかこういう人結構好きです。次はいよいよ于謙を挙げようと準備中。

274 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/17(金) 23:56:05 ID:0dN3rpsS0
南北朝最初の一人は>>268さんのお勧めに従ってこの人です。
慕容紹宗(字は紹宗。501-549)
 五胡・前燕の慕容恪の末裔。風貌に威厳があり、沈着剛毅で謀に長けた。爾朱榮が舅の子ということで彼に帰属し、
北辺の動乱を防ぐ。慕容紹宗が家族を連れて晋陽の爾朱榮に投じると、意気投合して友愛を深めた。爾朱榮は洛陽で
挙兵するとき「この兵変は成功するだろうか?」と彼に尋ね、慕容紹宗は「大后の淫虐無道ぶりからして、失敗する
はずがありません」と答える。しかし爾朱榮は従わなかった。のち軍功をもって索盧県子に封ぜられる。高歓に
従って梁の羊侃を破り、また元天穆とともに刑杲を攻め滅ぼした。累功により并州刺史となった。
 紇豆陵歩藩が晋陽に逼り、爾朱兆がこれを迎え撃つも敗れた。爾朱兆は晋陽刺史・高歓とともに歩番を囲み、共同で
これを滅ぼす。爾朱榮死後、高歓が信都で挙兵すると爾朱兆は慕容紹宗を長史としてこれに当たらせ、行台を授け壷関
を守らせて高歓に抵抗させた。しかし広阿、韓陵の戦で連敗した爾朱兆は覇気を失い、自らを咎める。爾朱兆は韓陵の
戦いで多くの将士に裏切られ、懼れて将たちの中に隠れて逃げ帰る。慕容紹宗が旗を立てて角笛を鳴らし、義徒の壮士
を聚めて軍容を震わせたので、爾朱兆は馬に乗って逃げおおせることができた。のち、高歓が鄴城から発して晋陽の
爾朱兆を攻め破ると、爾朱兆は馬を走らせ赤[谷+洪]嶺に至り、自ら縊って死んだ。慕容紹宗は高歓から爾朱榮の妻子
および爾朱兆の余衆を預かり、恩礼に感じて高歓の部下となる。こののち東魏の軍事参謀となった。
 天平初年、高歓は鄴に遷都し、各方面の庶務がとどこおっているので、慕容紹宗と高隆之の二人を知府図籍諸事に任命
して事に当たらせた。二年、宜陽の民・李延孫の反乱に際して高歓は慕容紹宗を起用、西南道軍司とされた慕容紹宗は
厙狄安らを率いてこれを伐った。軍を還すと揚州刺史、まもなく青州刺史に任ぜられる。元象の初め、西魏の将独孤如願
が洛州、梁、穎の間で盗賊行為を働いたので、慕容紹宗は劉貴を率いてこれを平定した。公爵に進められ、度支尚書となる。
のち晋州刺史、西道大行台となり、朝廷に還って御史中尉に昇進した。梁の劉烏黒が徐方を犯すと、慕容紹宗は兵を率いて
これを討ち、大いに破って徐州刺史に累進。劉烏黒はその後敗残の兵を纏めてしばらく西魏の領内にいたが、慕容紹宗は
数ヶ月間これを放置、動向をつかんだところでこれを殺した。
 候景が叛くと慕容紹宗は東南道行台、開府、燕郡公に進み、韓軌とともに瑕丘に至った。梁の武帝・蕭衍は侄の貞陽候・
蕭淵明に十万の兵を授けて候景を援護させ、慕容紹宗、候景、蕭淵明が互いに掎角の勢をなした。候景は彭城を灌水させて
泗水を要塞とする。高洋は慕容紹宗に行台、節度三徐、二兗州軍事を授け、大都督・高岳を援軍に派遣した。打って出て
大いに敵を破り、蕭淵明とその部下の将領を擒らえ、多くの士兵を俘虜とした。回頭して渦陽に候景を攻める。候景の衆は
やたらと多く、諸将もそれを軽く見ることはできなかったので、偵察の将は大いに懾れ、慕容紹宗と高岳に「岳将軍は精兵で、
慕容将軍の兵は疲れています。どうか宜しくつつましくあらんことを」と述べた。ここにおいて決戦の火蓋が斬って落とされる。
諸将の兵が怯えてゆっくり進む中、疲弊しているはずの慕容紹宗軍が軽進し、諸将も意気上がってそれに続いた。大捷し、
候景は単騎梁へと亡命する。軍を還すと公爵とは別に永楽県子に封ぜられた。当初、高歓は臨終の間際に言っていた。
「もし候景が叛けば、慕容紹宗を用いるよりほかはなし」と。その予見は正しかったと言うことになる。
 西魏の将軍・王思政が穎州を犯すと、慕容紹宗は南道行台として大尉・高岳、儀同・劉豊らとともに兵を率いてこれを囲み、
穎城に逃れた王思政を洧水を灌水させて水攻めした。時に慕容紹宗は頭髪が真っ白になる夢を見て、心中穏やかでなかった。
しばらくして、慕容紹宗は劉豊とともに洧水の堰を切る。すると北から塵気が起こり、慕容紹宗たちは慌てて船に乗り込んだ。
船はまっすぐ穎城に向かって流され、慕容紹宗は虜囚の辱めを受けるのを嫌って水の中に身を投じ、死んだ。時に享年四十九歳。
全軍の将士が涙を流して悲しみに暮れ、朝廷でも哀悼と痛哭が治まらなかった。持節二青、二兗、斉、済、光七州軍事、尚書令、
大尉、青州刺史を追贈され、景恵と謚される。隋の開皇年間、大将軍、疊州総管を贈られた。
 次回は檀道済か韋叡を挙げようと思います。でもリクがあったらその人優先。北周なんかは名将の宝庫ですしね。

275 :携帯から失礼:2007/08/18(土) 00:26:00 ID:tEJ4actqO
>>274
◆oOLAqFKRB.さん d&乙
慕容紹宗は宇宙大将軍こと侯景が最も恐れた人物なんですよね。
侯景が梁で暴れ回ってた時、慕容紹宗が出向いて来たって聞いてマジかよって部下に言ってましたからね。
前にもカキコしましたが末路がなんとも悲惨な御方なんです…
以前からなんか慕容恪ぽいなと思ってたら前燕の慕容恪の末裔でしたか。
そりゃあやっぱ凄いはずだw(確か爾朱氏の参謀でもあるわけですし)

リクは虚弱体質の名将、韋叡をお願いしたいです。

276 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/18(土) 00:42:42 ID:XTGIuBrZ0
檀道済を希望します。
最後があまりにも哀れなので。

277 :携帯から失礼:2007/08/18(土) 05:55:38 ID:tEJ4actqO
◆oOLAqFKRB.さん
>>276さん希望の檀道済を先にしてあげてもらえませんか?
檀道済は最後に頭巾を地面に叩きつけたんですよね?(上島竜兵かw)
さすがに三十六計も君主の文帝(劉義隆)には使えないか…

278 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/18(土) 15:50:20 ID:EXS5WHRQ0
流れを切ってすまん。
あのスレはもう死んでいるが、もったいないので今のうちにこれだけ写しておく。

【現在の確定武将】
楽毅、楚の荘王(熊侶)、白起、李牧、王翦、呉起、廉頗、孫武、樗里疾             (春秋戦国より9名)
韓信、項羽、霍去病、衛青、趙充国、陳湯、周亜父、章邯、灌嬰                 (秦・前漢より9名)
劉秀、馮異、樊崇、耿弇(エン)、呉漢、班超、段熲(ケイ)、馬賢、曹操               (新・後漢より9名)
ケ艾、石勒、祖逖、王猛、劉曜、慕容垂、慕容恪、桓温、拓跋珪                 (三国・両晋十六国より9名)
劉裕、檀道済、韋叡、陳慶之、拓跋Z(トウ)、蘭欽、斛律光、高洋、韋叔裕、段韶        (南北朝より10名)
楊素、李世民、李靖 、李勣、裴行倹、薛仁貴、郭子儀、李光弼、李克用、史思明       (隋唐より10名)
李存勗、柴栄、趙匡胤、楊師厚、狄青、李存審、狆(チュウ)師道、楊延昭、李継遷、耶律徳光 (五代十国・北宋・遼より10名)
宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟珙(キョウ)、伯顔(バヤン)、拖雷(トゥルイ)、
阿朮(アジュ)、速不台(スブタイ)、察罕帖木児(チャガン・テムル)                 (南宋・金・元より9名)
徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥、朱元璋、李文忠、張士徳、馬芳             (明より9名)
洪承疇、多鐸(ドド)、施琅、策稜(ツェリン)
楊遇春、僧格林沁(サンゴリンチン)、左宗棠、石達開                        (清より8名)

☆現在確定武将の総数は92名


【候補武将】
士会、魏無忌(信陵君)、趙の武霊王 (春秋戦国)
劉邦、曹参、彭越、鄭吉 (秦・前漢)
岑彭、周瑜 (新・後漢)
陶侃、石虎、謝艾、謝玄、冉閔 (三国・両晋十六国)
李晟、李愬 (隋・唐)
海山(カイシャン)、張弘範 、郭侃、阿里海牙(アリハイヤ)、張俊、拡廓帖木児(ココテムル) (南宋・金・元)
李自成、邵栄、秦良玉、胡深 (明)
劉永福、明亮、岳鐘キ、兆恵、宋景詩、阿桂、李秀成、彭玉麟 (清)


279 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/18(土) 23:43:23 ID:czcGKScn0
于謙(字は廷益。1398-1457)
 銭塘の人。生まれたときある僧から「この子は他日、国を救う宰相になる」と予言された。永楽十九年、進士に
及第。宣徳初年、奸臣・楽安、朱高煦らによって罪に落とされるも、彼らが戦死して復権した。
 京師を出て江西に向かい、冤罪の囚数百人を解放する。また陝西の将校が民を害するとして、これを捕らえた。
昇進して兵部右侍郎、巡撫河南、山西。官途についてからは軽騎で各地を巡り、貪官汚吏を見つけては弾劾した。
 正統六年、河南と山西の穀物数百万石を貧農、病人に施すことを進言し、容れられる。河南の黄河沿岸で堤防が
決壊しているのを知り、この修築に当たった。また、辺境の諸将に開墾屯田を奨励、種を給付し、民の税を軽く
する。在任中、于謙は頗る民に恩恵を施し畏敬された。任官九年にして昇進、左侍郎となり、二品官の俸禄を授かる。
 当初、三楊が政府にあった時は于謙は甚だ重用されたが、彼らが死んで李錫、王振らが政事を専断すると疎まれ、
三ヶ月間獄に繋がれた。しかし生来の硬骨は変わらず、出獄すると陝西の流民二十万を救うために独断で河南、
懐慶二府の粟を支給する。在任前後十九年、父母の喪にあって官を辞し、のちまた官に復した。
 十三年、兵部左侍郎となる。翌年秋、エセン・汗が大挙して来寇、于謹は軽々しく動くものではないと反対したが、
英宗は王振らの進めに載せられて親征、明軍は土木堡で大敗し、英宗は擒らえられる。エセンは英宗の身柄を返す
条件として明との交易を望むが、于謙は諸将に徹底抗戦を議した。「南遷を考えるものは即ちこれを斬る。京師は天下
の根本、ひとたび動けば大事を逸す。宋朝の南に渡った故事を忘れるなかれ」として、守備を固める。京師には十万の
兵卒がいたが敗残で疲弊しており、到底戦力にはなりえず人々は震恐した。于謙は郕王を擁立、河南の軍を北に備え
させ、山東および南京の兵を倭寇に備えさせて、京師の人々を慰撫した。
 はじめ、大臣たちが主のないことで動揺したので、于謙は渋る郕王を即位させ、景帝とした。九月、上奏して「寇賊は
驕り昂ぶり、中国を侮っていますが、長躯南進して疲弊しています。諸辺の守臣と協力して防備に当たり、民兵を募って
衛穎らの将に九門の要地を守らせ、営を城郭の外に連ねるべきです。武臣・石亨らをこのときに用いずして、何の将帥で
しょうか。軍旅のこと、臣は身を持ってこれに当たります。手柄なくば臣の罪としてかまいません」と言う。
 十月、エセンは紫荊関を破って直進、京師を窺うも、官軍の布陣を見て意気粗相するものが出始めた。明からエセンに
降った喜寧は大臣達に英宗上皇を迎えさせるよう示唆、金帛数万を下賜され、また于謙、王直らに商談をもちかける。
景宗はこれを許さず、エセンの意思はさらに落ち込んだ。寇賊は徳勝門を窺う。于謙はあらかじめ石亨に伏兵を敷くよう
示唆しており、数名の騎兵を派遣して敵を誘った。敵は騎兵一万人を用いてそれを追うも、副総兵・范広が大砲を放ち、
埋伏していた兵が一斉に発して敵を屠った。エセンの弟・ハイラ(孛羅)平章・卯那孩らを殺した。敵は転じて西直門に
移ったが、都督・孫鏜が力戦これを拒み、そこに石亨が駆けつけて敵を破った。ついで敵衆は武興の守る彰義門を攻め、
武興に矢を射当てて殺したが結局退き、五日後、戦況不利として還った。于謙は論功により少保、総督軍務を加えられ、
固辞したが許されなかった。
 景泰原燃三月、ふたたびエセン入寇。しかし干戈を交えることなく、英宗上皇を返して講和を結び、還った。
 はじめ、エセンは喜寧を謀主としたが、于謙は大同鎮でこれを擒らえ、誅戮した。また王偉と図って間者・小田児を
殺す。特に進められて忠勇伯に封ぜられる。于謙は「南京は南方の要地であり、すべからく宣撫されています。中原
一帯の多大な民衆をこれと交代させ、文武の官を召募して患を未然に防いではいかがでしょうか」と上奏し、容れられた。
 于謙が兵部を司るようになると、エセンがまた勢力を増し、広湖、貴州、広西、瑶、僮、苗、僚に働きかけて武装蜂起
させた。于謙はすぐさまそれを調べ、独力でこれを征伐する。璽書、袍、銀鍵を下賜された。
 景泰八年正月、奸臣・吉祥らが英宗上皇を復位させた。于謙は皇帝を退位させたとして極刑とされ、復位した英宗は
「于謙の功は宝である」としてその処刑を渋ったが、結局奸臣たちに押し切られて処刑を断行、死体を棄市した。于謙
死後、奸臣たちは自分の地位を固めようとして互いに殺し合い、結局みな誅殺される。のち万暦中、于謙は名誉回復
されて忠粛と謚され、杭州、河南、山西の三州で祭られ、その祭祀は明が滅ぶまで続いた。


280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/18(土) 23:53:12 ID:XTGIuBrZ0
石亨って、于謙を陥れたん一味だよな。
名将なのに奸臣。面白い人物もいたものだ。

281 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/18(土) 23:54:46 ID:czcGKScn0
>>276さん、>>277さん、次回の南北朝は檀道済で了解しました。
明日は清朝からだから挙げるのは明後日ですけどね。
で、ついでに于謙を挙げたからにはその推薦で功労者になった石亨を紹介。
石亨(?-1460)
 渭南の人。生まれ着いて容貌奇怪、成長するや雄偉な体躯と膝まで届く美しい髯を備えた。酒の席で
ある人に向かい、「今の太平の世で我々はどうすれば候爵や宰相になれるだろうか?」と問う。父の職を
襲い寛川衛指揮僉事となった。騎射を善くし大刀を好んで用い、戦うごとに敵を破った。
 正統のはじめ、斬擒の功により都指揮検事に昇進。黄牛坡で敵を破り、多くの馬を鹵獲する。三年正月、
三百騎で黄河のほとりに出た北虜を追撃して官山の麓まで追い、多数を斬り、擒らえた。都指揮同知に進む。
六年、皇上に「北辺の兵まで糧を行き届かせるのは難しいものです。なので大同左右、玉林、雲川の四衛に
軍を配置し、浄水坪西の広大な土地を開墾し、牛と種を官給品とすれば、一年に一万八千石の増収が
見込めます」と上奏。翌年また進言して「玉林の故城から右衛までは五十里、東勝の単于城と相接して危険
ですが、水草が豊かです。そこで提案ですが、軍を分かって塁を築き、防禦のために屯田を興すのはどう
でしょうか」皇上はこの案を二つとも認可した。まもなく紅城に敵を破って功あり、都指揮使に進んだ。
北虜が延安を犯すと金山でこれを破り、さらに昇進して都督僉事となる。石亨は調停の制度の不備と将才ある
人材の欠乏を憂い、漢・唐の制度に倣うことと軍に謀遠宏、知識絶倫などの科を設け、自薦したものに試験を
課して擢用の可否を定めるよう上奏した。皇上はこれをよしとする。
 十四年、都督僉事・馬麟とともに出塞。箭豁山で兀良哈を破り、都督同知に昇進。当時民の辺防の名将と
言えば楊洪が知勇兼備の将として名高く、石亨はこれに次いだ。石亨は偏将といえども朝廷から頼りにされて
大軍を授かり、ゆえに力を尽くして辺境を守った。同年秋、エセン汗が大挙して来寇。石亨らは陽和口で戦った
が敗北、多くの将が戦死し、石亨は単騎京師に還った。降格され、手柄を立てるべく自ら義勇兵を召募した。
 尚書・于謙の推薦を受けて五軍大営を掌握、右都督に昇進する。まもなく武清伯に封ぜられ、エセンが逼ると
命令を受けて兵を分かち、九門の外に兵営を築いた。徳勝門で敵に当たり、尚書・于謙がみずから督戦した。
敵が手薄な彰義門の外に転じ、于謙直々の命令により伏兵を敷いてそこに誘い、敵衆を大いに破る。西直門の外で
囲まれた孫鏜を救い、城内に退却、五日間の対峙の後エセンは兵を退き、石亨は勲功一等とされて侯爵に封ぜられた。
 八年、英宗復位。石亨は功臣として忠国公に封ぜられる。英宗を復位させた奸臣たちは私怨により罪を捏造、
于謙と范広らを殺したが、石亨は政争を繰り返す奸臣たちを傍目に内外の兵権を悉く握り、驕慢になった。永楽帝以来、
臣下の石碑が建てられることはなかったが、その前例を破って自らを称揚する石碑を建てる。そして皇室の王府に匹敵
する豪奢な宮廷を建てた。恭順候・呉瑾が間違えて「これは定めし誰の王府でしょうか?」と問うと、英宗は「王府
ではない」と応えた。呉瑾が「王府でないのなら、いったい誰がこのような僭越を?」と追及すると、英宗はかぶりを
振って応えなかった。権力を握った石亨の態度はこのようで、皇帝すらないがしろにして振舞うようになり、皇上の
忌むところとなった。
 天順三年秋、英宗は激怒して石彪(石亨の侄)から官を奪い、投獄した。石亨はこれを懾れ、英宗に泣き付いて罪を
謝罪する。皇上はこれを許した。心を入れ替え謹慎にふるまう石亨だったが、四年、奸臣たちから謀反を企んだと弾劾
され、獄に落とされる。罪により斬刑、家財没収。獄につながれ一ヵ月後にして病死したので、処刑されることはなかった。

・・・前半生はよかったのに後半生で驕慢になって身を滅ぼした人物。でも青天白日な人もいいけど、こういう人間的欠陥を
抱えている人も好きだったりしますね。ちなみに彼が死んだのは于謙が処刑されてわずかに三年後。栄耀栄華も長くは
続かなかったんだなぁとしみじみ思うところがあったり。

282 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/19(日) 20:55:51 ID:hp7vJ5G50
一日空けたわけですが前レスは自分の。これいいんかなーとか思いますが、まぁいいやの精神で投下。
サプス(薩布素。?-1700)
 フチャ氏。満州鑲黄旗の人。世襲でない自らの力で驍騎校を授かる。康熙十六年(1677)、康熙帝が
内大臣・ギョロウモネ(覚羅武黙訥)らを長白山から吉林に派遣したとき、現地に詳しいものとして抜擢
された。寧古塔将軍・パハイ(巴海)に従い兵二百と三ヵ月分の食糧を以って従軍、水陸の道をゆき、
長白山の麓にいたる。
 十七年(1678)、寧古塔の副都統を授かる。ロシア(羅刹)軍がヤクサ(雅克薩)に住み着いたので、
二十一年(1682)、ロータン(郎坦)らとともに兵を率いてヤクサ城の形勢を探り、エスリ(額蘇哩)から
水陸両路を使って黒竜江および寧古塔にいたった。ロータンは皇上よりロシア囲むべしとの命令饒を受けて
おり、黒竜江およびフマル(呼瑪爾)の両地に木城を築き、パハイとサプスを寧古塔城主として兵千五百と
ともに駐留させ、船を造らせ大砲を準備させた。パハイを吉林に留め、サプスのもとに寧古塔副都統・
ワリフ(瓦礼祜)を派遣、エスリに駐留させる。エスリは黒竜江、フマルの間に在り、ヤクサ侵攻のための
要地であって、かつて田を耕した痕跡があった。サプスは防備の兵五百を使ってその地を開墾し、寧古塔城
は三千人を収容できる備蓄を獲た。皇上は辺境防備の兵の労苦を思い、黒竜江に城を建て、攻具の備えと
斥候の用意、一定区間ごとの駅の設置と兵粮の貯蓄を命じた。将軍、副都等を定め、サプスを黒竜江将軍に抜擢、
ロシアからの降人を招撫させ、令輔相招撫に任じた。
 二十四(1685)年、ホーチュンとともに兵を統率して進行、サプスは総大将としてヤクサ城を陥とし、ヤクサの民を
モルケン(墨爾根)に移して境界線に城を建て、防禦する。二十五年(1686)、ロシア軍は再度南進してヤクサを取り、
しばしば清領を犯したので、皇上は郎中・マンピ(満丕)を派遣して現地の実情を知った。そこでサプスはロシアから
の亡命者宣撫を一旦停止し、黒竜江城に戻って速やかに戦艦を修復、寧古塔の兵二千を率いてロシア軍を攻めた。また
ロータンらも命を受けてヤクサ城攻略に協力した。サプスはヤクサ城西の江に陣を敷き、城の三面に塹壕を掘り、塁を
築いて長く囲み、江の水軍を封じてニフチュからの援軍を截った。そのうえで黒竜江から兵粮を輸送し、持久戦に持ち
込む。皇上のもとにオランダからの使者がおとずれ、エラシチャハン・汗(俄羅斯察罕汗)を救って境界線を定めて
欲しいと要求してきたので、命令によりヤクサの囲みを解き、撤兵した。二十八年(1689)、和平条約のためロシアから
の使者・フィヤオドロ(費耀多囉)らが尼布楚にやってきたので、清からは内大臣・スオエウェイ(索額囲)が応答に出た。
清側は黒竜江に兵千五百を常駐させること、大興安以北からケルピチ(格爾必斉)河以南を境界とすること、ヤクサ城の
破壊を条件として提示、ロシア側もそれを受け入れ、条約が締結された。二十九年(1690)、サプス入朝、宝物を賜り
内大臣達の前に座せられる。総管・索倫から貢ぎ物をもらったことほかを弾劾されるも、康熙帝に許された。
 三十一年(1692)、チチハル(斉斉哈爾)および城都訥に城を建て、ホルチン(科爾沁)部のシパイ(錫伯)、クワルチャ(掛爾察)、
タフル(達呼爾)の諸氏族から壮士一万四千を選んで二城に駐留させ、彼らの佐領を決め、上三旗(満州正黄旗、鑲黄旗、正白旗。
皇帝の親兵に属するので上三旗と呼ばれる)に属させて防禦の守尉を設け、官位を与えることを上奏。同年ガルダン([口葛]爾丹)が
清の領土に入犯したので、これを迎撃。四月、ケルルン(克魯倫)河でガルダンを西に追い、大将軍フィヤング(費揚古)が敗れると
五百人を率いてこれを援護、ガルダンを破った。三十六年(1697)、京師に還って黒竜江に戻る。黒竜江に学校を建て、自ら教鞭をとった。
 三十七年(1698)、皇上は吉林に御幸してサプスの勤労を褒め称え、一等阿達哈哈番の世襲を約束し、衆前で自らの冠服を賜って見せた。
のち虚偽の報告をしたとして斬罪にあたるところだったが、康熙帝の計らいにより死一等を免じられ、免職に留められる。のち官に復して
散秩大臣となった。
 三十九年(1700)、没。乾隆帝のとき盛京通志が勅撰され、名臣の列に並べられた。そこにはサプスの明敏英邁なこと、よく軍民の心を
掴んで慰撫したこと、ロシア討伐から黒竜江に学校を建てたことなど、彼の文武に渡る才幹を物語る逸話が載せられている。
 ・・・まだ時間的には余裕ありそうですが他のこともやりたいので、今日はサプス一人と言うことでよろしく。

283 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/19(日) 22:42:34 ID:nkm8ASMLO
>>280
張俊も名将兼姦臣タイプじゃん。
名将=無私の人格者じゃないしね。

戦場での駆け引きを、宮廷内の謀略に使う人物はいる。

284 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/20(月) 08:51:53 ID:Z0XkC1Ol0
このスレはじめてきたんだけど、長文書いてるコテハンの人って、
どこかの資料写してるの? それとも自分で原典読んで翻訳してるの?
後者だったらすごいけど。


285 :携帯から失礼:2007/08/20(月) 10:27:55 ID:vpned/cgO
>>284
ほとんどの紹介文はご自身で原典読んで翻訳して投下されてるみたいです。


286 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/20(月) 18:27:56 ID:1QhoUVxu0
二十五史の列伝と百度百科では戦歴その他が微妙に違ってたりするんだよな。

287 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/20(月) 21:21:13 ID:Z0XkC1Ol0
>>284
(・∀・)スゴイ!! ところで原典資料ってどこに売ってるんだろ。中国?

288 :携帯から失礼:2007/08/20(月) 22:14:34 ID:vpned/cgO
>>287
二十五史なら中華書局の標点本二十四史が 中国書籍専門店にあるそうです。
これら中国発行の書は、普通の本屋さんには置いていないみたいです。
◆oOLAqFKRB.さんの方が詳しいと思いますが一応参考までに貼っときます。

【中国書籍専門店】
http://www.rockfield.net/kanbun/i/books/store.htm

289 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/20(月) 22:27:36 ID:tumqakJY0
>>284さん
俺の長文はあらかた原典を訳して、
それをMSワードの一ページに切り詰めて(それが大体一レス分相当)落としてます。
使用してるのは基本の中華書局版二十四史+清史稿。
ほかに使ってるのは上海古籍出版社の二十五史新編シリーズと、各種人物評伝本とか。
二十五史は中国書籍専門店があるのでそこを覗けば、大体1冊当たり千円くらいで買えますよ。
宋史なんかは40冊あるんで3万5千円ぐらいしましたが。
とりあえず俺が利用してる中国書籍専門店を紹介すると、
鶴本書店、東方書店、天牛堺書店、東陽堂書店、琳琅閣書店、書虫、中国書店(福岡店)とかで、
捜せば正史外の資料もいろいろ見つかると思います。
翻訳も中日辞典となんとなくのフィーリングで案外読めるもんですから、頑張ってください。
(大漢和辞典があると翻訳もよりスムーズになる気がするんですけどね、古本でも3万以上するので・・・)
さて、>>276さん、携帯から失礼さん、あと一時間ぐらいで檀道済の訳が落とせますので、少々お待ちください。

290 :携帯から失礼:2007/08/20(月) 22:27:37 ID:vpned/cgO
便乗質問
◆oOLAqFKRB.さんはモンゴル以外の遊牧民はどの種族が好きですか?
またモンゴルの魅力とは?
俺はテュルク系が好きで特に鮮卑や突厥に強く関心があります。
(もちろんモンゴルも)

291 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/20(月) 23:03:50 ID:tumqakJY0
携帯から失礼さんへ
モンゴル以外だと鮮卑系ですかね。でも民族より人物個人に魅力を感じるような。
たとえば兄貴に嫌われまくって一時苻堅のもとに身を投じた慕容垂とか。
あと氐族も案外好きかも。
楊大眼の爺様は楊難当って結構な驍将だったみたいですが、その祖先にも楊難敵って驍将がいるんですよね。
モンゴルの魅力を語るのは難しいんですが、やっぱ南宋がからむんですよね。
もしモンゴルの勃興が遅れたら南宋は金を撃破して中原王朝に返り咲き出来たかもしれない
(実際孟珙が武仙を破って30万人ほど撃破、俘虜数十万。金南方の守りをほぼ無効化したし)だけに。
でもモンゴルは結構義理堅くて、1234年蔡州の役のあと、南宋上層部が同盟破棄しなけりゃ平和共存できた
かもしれないんですよね。これは張范、張葵兄弟を責めるしかない。まぁその後はみなさんご承知の通り、
モンゴルが南進して最強無敵の突破力で南宋を席巻、孟珙生前は頑張って蒙古の侵入を阻んだんですがその後は
いかんともしがたく、1279年の涯山で衛王が幼くして入水させられるという、そういうカタルシスみたいなものがあって、
本来モンゴルは敵対視しているはずなんですが、ムカリとかスブタイの勝ちっぷりとチンギスへの忠勇を見ると
「やっぱすげえなぁ」とか思ってしまうわけです。あの団結力が凄いですよね。でも屠城はNG。
あえてifの話をするとバトゥ対孟珙の一戦が見たかったけど、
バトゥは征西組ですからね。ちなみに俺の中ではキプチャク・ハン国も大元帝国もおなじモンゴル扱いで、
むしろモンゴルから元になってからはあまり魅力を感じないところがあります。
無理に中国の鋳型にはめようとしたところがあるし。まぁ、それで民が安寧になったならそれはいいことなんですけど。
元朝が嫌いな理由の最たるものはやっぱり范文虎ですか。元にへりくだって南宋を裏切り、
しまいには元寇の総司令官になって日本にやって来るも台風で船が覆滅、部下を見捨てて身一つで帰った馬鹿。
なんでこんなヤツをフビライは信任したのか、理解しかねるところです。
まぁ元朝になってもアジュとかバヤンは好きですけどね。二人とも名将中の名将と言っていいし、一切民を害しなかったし。
・・・うぁぁ、長くなったよ。檀道済、あと少し残ってるのに。

292 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/20(月) 23:07:06 ID:tumqakJY0
>>291
間違えました。張范、張葵は趙范、趙葵でお願いします。

293 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/21(火) 00:06:03 ID:RJ8SBB5L0
連投になりますがお待たせです、檀道済。
檀道済(?-436)
 高平金郷の人。東晋の左将軍・檀韶の弟。幼くして孤児となり姉夫婦に養われた。
礼節を知り義兄に孝行し、恭敬な態度で人々に称えられた。
劉裕が挙兵すると檀道済も従軍して京城に入り、劉裕の軍事活動に参与、征西将軍となる。
魯山を討ち、桓振を擒らえ、輔国三郡、南洋太守を任された。挙兵参加の功により呉興県五等候に
封ぜられる。徐道覆が京城に逼ると城を出て迎撃、これを打ち破るにあたって戦功最著で、
戦後安遠護軍、武陵内史に昇進し、また大尉参軍とされ、中書侍郎、寧朔将軍、参太尉軍事を拝した。
前後して累功により作唐県男に封ぜられ、食邑四百戸を下賜される。
 義熙十二年、劉裕の北伐に先鋒として従軍。淮水、淝水から出発して、いたるところの城で降伏を受け入れた。
許昌まで進んで攻め捷ち、後秦の寧朔将軍、穎川太守・姚坦、大将軍・楊業を擒らえる。成皋まで進み、
後秦の兗州刺史・韋華を下した。道なりに洛陽まで進み、後秦の平南将軍で陳留公の姚洸を帰順させる。
すべての城を抜き塁を破って、俘虜四千余人を得た。あるものが捕虜は悉く殺すべしと言ったが、檀道済は
「罪人を伐って民を安撫する。(それによって)まさに今日(が)在る」と言って全員を釈放した。戎、夷も
これに感悦し、檀道済に心服してその麾下に入る。さらに潼関に進み、諸軍とともに守備隊長・姚紹を破った。
長安平定後、征虜将軍、琅邪内史を授かる。劉義符が江陵に鎮すと西中郎司馬、持節、南蛮校尉を任され、
再び征虜将軍を加えられた。昇進して宋国侍中、領世子中庶子、兗州大中正に遷される。
 天命により劉裕が晋の恭帝から禅譲を受け、大宋皇帝となると、檀道済は護軍、散騎常侍、領石頭戌事を授かり、
儀礼を省いて直接入殿できる資格を与えられた。佐命の勲により改めて永修県公、食邑二千戸。劉裕不豫の時のため、
緊急時に動かせる剣士二十人を下賜される。
 少帝の景平元年、北魏の軍が竺虁の守る青州・東陽城を囲んだ。竺虁は朝廷に危急を告げ、皇上は檀道済に持節を授け、
大軍と監征討諸軍事の称号を与えて、王仲徳とともに東陽を救いに向かわせる。未だ見たことのない大軍を前に北魏の軍は
恐れ戦き、営塞を焼き攻城兵器を焼き棄てて逃げ去った。檀道済は軍を還し、広陵に鎮す。
 徐羨之が少帝・劉義符を廃立、新たに劉義隆(文帝)を立てた。檀道済はこの謀議に加わらなかったが、即位した文帝は
檀道済を征北将軍、散騎常侍に任じ、楽隊一部を授けた。さらに武陵郡公・四千戸に封じようとしたが、それは固辞する。
かわりに青州、徐州、淮陽、下邳、東莞の五郡諸軍事とされた。
 朝廷は文帝即位に反対する謝晦を討つことを決定、檀道済は軍を率いて謝晦を追い、到彦之がこれに継ぐ。到彦之は打ち破られて
隠圻に退がり、そこに檀道済が割って入る。謝晦は檀道済を徐羨之同様に(文帝擁立の首謀者として)誅したいと思ったが、たちまちの
うちに逼られ、恐懼して、ついに戦わずして自壊する。事が平定されると檀道済は都督江州および荊州の江夏、豫州、西陽、新蔡、晋熙五郡
諸軍事および征南大将軍、開府儀同三司、江州刺史、持節とされた。食邑一千戸を加増される。
 元嘉八年、文帝は河南を平定したのち北の失地を取り戻すべく、到彦之を先鋒に北伐させた。金墉、虎牢の二関を同時に攻め落とし、北魏の
滑台に迫る。檀道済は朝廷から総督征討諸軍事として大軍を率い、後発した。東平郡張県で北魏の安平公・乙旃眷に遭遇、檀道済は王仲徳、
段宏を出してこれに当たらせ、大いに乙旃眷を破る。宋軍は転戦して高梁河に至り、ここで北魏の寿昌公・悉頬庫結と激突、檀道済は段宏の正兵、
沈虔之の奇兵を繰り出して襲い、悉頬庫結を斬った。檀道済は軍を率いて済水の上に至り、二十日間連続で戦い、矛を交えること数十度、戦う毎に
捷ったが北魏の兵は多勢で意気高く、撤退を決意。滑台を陥とし、帰還する。帰還後、司空、持節、常侍、都督とされた。
 檀道済は前朝より公を立て、威名甚だ高く、左右に腹心があった。百戦を経て諸子もまた才気あるものが揃い、それを畏れた文帝に擒らわれ、
ついに斬刑に処される。その直前に頭巾を地に叩きつけ、文帝を睨んで「すなわちまた万里の長城を壊すのは汝か!」と叫んだエピソードは有名。
腹心の薛彤、高進之はともに驍勇善戦で、関羽・張飛の再来といわれた勇将だったが、檀道済に連座して誅殺された。
・・・次回は韋叡ですがその次はどーしましょ? リクあったらよろしく。

294 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/21(火) 00:41:31 ID:71gvanNd0
>>287
中央研究院行けばタダで読めるよ

295 :携帯から失礼:2007/08/21(火) 02:19:15 ID:vUgwsxSZO
>>291
◆oOLAqFKRB.さん d&乙俺も前にもカキコしましたがやはり慕容垂は好きですね。あと慕容徳も。
(恪はもっと好きなんですが)
テュルク系なら鮮卑に魅力を感じるのはなぜででしょうか?
拓跋とかも何げに好きだしw
突厥なら兄のビルゲ・ハンを助けて民衆の信望を勝ち取り東突厥の最盛期を築き
その業績が突厥碑文に讃えられたキュルテギンと
同じくその業績が突厥碑文に讃えらてる名補佐役トンユククが好きなんです。

モンゴルについてですが屠城は遊牧民の権力維持の為の宿命としか弁護の仕様が…
それとキプチャク・ハン・イル・ハンとかも興味津々なんですよね。
モンケVS孟[王共]はどうだみたいな意見を見たことはありますが
バトゥVS孟[王共]も興味深いですなぁ〜
仮に対決したらどうなってたんだろ?
あとハンガリー辺りを席巻してた時にオゴディの死により打ち切られずそのまま進軍してたら
歴史はガラッと変わってたもしれないし。
興味は尽きないですね。
確かにifの話なんですかw
范文虎もそうなんですが
は趙彝(チョー・イ)も同じくらいバカタレなんですよね。
フビライの朝鮮攻めではあっさり祖国裏切ってたり
元寇の計画立案、総指揮執ってたのはコイツですし。

296 :携帯から失礼:2007/08/21(火) 02:22:38 ID:vUgwsxSZO
>293
檀道済と云えば三十六計と(現在伝わってるのとは内容は違うみたいですが)
後秦攻めでの活躍が超有名ですね。
>その直前に頭巾を地に叩きつけ、文帝を睨んで
>「すなわちまた万里の長城を壊すのは汝か!」と叫んだエピソードは有名。 これまた前にもカキコしましたが上島竜兵かと思っちゃうw
文帝もかなりのバカタレですね、自分で自分の首絞めてるし。
蕭道成もこの時は自分の曾孫がまさか同じ様なバカタレになるとは
夢にも思ってなかったでしょうね。

韋叡の後はベタですが東洋のべリサリウスこと(ちょっとオーバーか?)
陳慶之なんていかがでしょうか?


297 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/21(火) 20:29:21 ID:p9IA7/+v0
岩城さんはサイト作らないんですか?
それだけの分量あれば、作って残してもいいと思うのだが。
自分も、自サイト持ちつつ自分にとっての新発見をうれしそうに書き込んでるだけですし…
いずれ消えてしまう2ちゃんではもったいないような気がする。

298 :携帯から失礼:2007/08/21(火) 22:08:44 ID:vUgwsxSZO
>>295に追記
後仇池の楊難敵って強く勇ましいだけでなく、強かというか抜け目がない人物ですね。
劉曜に攻められ、前趙に帰順したと思いきや前趙が陳安を滅ぼしたと聞くと
今度は成漢へ使者を送って降伏を請うてみたり、
しかも前趙軍が引き上げるや否や、楊難敵は要害に據って成漢へ背く始末。  
梁州の張孟萇と弟の張援、成漢の李含と李稚を討ち破ったり
前趙が衰退すると仇池に拠った後に再び成漢に降ってたりするし…

(なんか真田昌幸に相い通じるものが…)
それと楊安って慕容垂と前秦に走った経緯がなんか似てる気がします。
苻堅も重宝してた様子ですし、仇池や成都を鎮めさせたりしてますね。

さて元寇にて范文虎を起用したのは水軍の大部分が元南宋の兵でしょ?、
なんか范文虎は矮小な人物みたいですし、
趙彝と一緒になってフビライに取り入った可能性はないですかね?
また董文炳は水上戦が得意で范文虎・張世傑を撃破したりしてますが
フビライの近臣となってまもなく死去してますからね。
(この意見には憶測がかなり入ってますが…)

299 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/21(火) 22:30:58 ID:p9IA7/+v0
横から失礼。

>>真田昌幸に相い通じるものが
という言葉につられて参上。

表裏比興の真田昌幸に比するなら、五代十国時代の荊南節度使・南平王の高従誨というのもいますよ。
真田が織田、上杉、武田、北条、徳川などなどのいわば連結点に位置した小国ならば、
荊南国も河南五代朝、蜀、楚、南唐の接点にある江陵を使府とした小国。

以下、五代潰瘍さんの著書から無断抜粋。
先方には申し訳ない、まだ完全に把握しきっていないのでご容赦を(と謝罪しておきます)。

「近隣諸国と修交する一方、領土拡張の欲が強く、隙あらばたびたび問題を起こす。
形勢不利になると身を低くしてすぐに和睦する。このような外交政策により人からは
無節操者として「高無頼」と呼ばれた」

四川での孟知祥の乱の間隙をぬって、前蜀の領土だった帰州を奪って、いくらかは
領土拡張しているあたりすごいもんがある。
孫光憲という、著名な文人がその宰相となっており、なかなかに調べ甲斐のある国ではある。

300 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/21(火) 23:31:42 ID:myo+3DIu0
>>297さん
俺は初心者だから(ネット初めて二年近く、いつまで初心者言ってるつもりだって感もありますが)
サイト作る力量がないんです。それに俺の紹介文は「こんな人いるよ」っていう自己満足の垂れ流しですし。
ともあれ今回もマイナー路線からこの人。のちの寧王の乱に少しだけ関わってるってことで挙げます。
韓雍(字は永熙。1422-1478)
 長洲の人。正統七年の進士で御史を授かる。剛毅果敢で謀略の才に長けた。江西の巡鞍となったとき、
貪官汚吏五十七人を討捕。盧陵、太和で盗賊が起こると、これを擒らえて誅殺した。
 十三年冬、処州の賊・葉宗留が福建から江西一帯を犯し、官軍を破った。韓雍は鎮守侍郎・楊寧とともに
軍民を率いて防戦、反撃に打って出て賊を投降させる。
 景泰二年広東副使に抜擢された。大学士・陳循の推薦で右僉都御史となり、楊寧に代わって江西巡撫となる。
この歳、秋の租税を免除することを奏す。また上奏して寧王の不法行為を弾劾して、王府の管理をことごとく
罷免に追い遣る。当時三十才。才望あり、彼が定めた措置はみな後の国法となった。
 天順初年、朝廷は天下の巡撫官を罷免し、改めて副使とした(巡撫の職は廃絶されたわけでなく、すぐ元に戻った)。
韓雍は山西副使。寧王は先年の恨みにより三品以上の官吏および才能あるものをことごとく下獄させ、韓雍も獄に
落とされた。ふたたび起用されて大理少卿となり、ついで右僉都御史に進められて、寇深を補佐して理院事となる。
石亨が誅されるとその罪を弾劾、劉敬らを擒らえて「朋党は国法を利して重きをなし、互いに手を取って朝政を乱す。
再び石亨のごときが出れば、大臣、悉くこれに靡く。それを挫かんがため、劉敬一人を挫く。何ぞ異議あるや?」と
言って劉敬ら朋党の首魁を誅戮した。母の死に遭って一旦官を辞し、のちふたたび官途についた。四年、宣府・大同の
巡撫使となる。七年、入観して皇上にその顔つきの勇壮なことを嘉され、兵部右侍郎とされた。
 憲宗の成化元年正月、朝廷は大いに兵を発し盗賊退治に乗り出す。韓雍は「才気無双」によって左僉都御史とされ、
軍務を司った。南京に馳せて諸将に戦略を謀り、広東の賊を駆逐し広西の囲みを解くため、大藤峡に屯してその出入りを扼し、
同時に彼らの巣窟を伐てば一、二年のうちに賊を滅ぼすことが出来ると提言、大学士・李賢はこれを善しとして兵力を分散、
それぞれ広東と広西を攻めるよう提示したが、韓雍は「兵力の分散は好ましくない」としてそれを斥けた。
 韓雍らは全州をゆき、途上陽峒で苗族が興安を掠めるのに遭遇、これを破る。桂林にいたり、賊将四人の首を落として
敵衆に示した。十六万の大兵力を五路に分かち、賊・修仁を破って力山に追い詰める。千二百余人を捕らえ、斬首七千三百級を
挙げて、茘浦を平定した。十月、潯州に至り、奇襲と伏兵をもって賊を破る。賊は大いに驚き、「韓公、天神なり」と懾れた。
 象州・武宣から賊の北面に、桂平・平南から賊の南面に出て、また水路からも進軍し、さらに別隊を派遣して格関を扼し、
敵の退路をことごとく截った。賊の首領・候大狗は驚き畏れ、財産を抱えて包囲を突破、桂州の横石塘に逃れる。しかるのち
南の山に柵を立て、官軍を拒んだ。十二月初日、韓雍は水陸の部隊を率いて候大狗を追い、途上賊の塞営を連破、敵を潰散
させる。横石塘および九層樓を囲み、激しく督戦して賊軍を撃破、一連の戦役で三百二十四の寨を抜き、候大狗とその朋党
七百八十人を擒らえ、賊兵一万五百余人を斬り大藤峡に飲まれて溺れ死んだもの無算という戦果を挙げて大藤峡を断藤峡と
改名した。賊の余衆を次々と下し、広東、広西の反乱を平定する。皇上はこれを大いに嘉し、韓雍を左副都御史、提督両広
軍務に任じた。
 五年、両広を賊が犯すと遊撃の馮昇と路を分かってこれを撃破、さらに八寨の蛮族および山中の瑶人を討った。九年、柳、
潯の蛮族を平定、ふたたび盗賊が跋扈したのでこれを攻めたが敗北、懐集県を奪われ、兵部から弾劾されて致仕した。
 韓雍は豪放闊達にして信義を重んじ、江西巡撫のときから文天祥の忠烈、謝枋得の文節(ともに諡号)を慕った。雄略あり、
よく物事を断じ、動きの中に機をわきまえた。戦に臨んで自ら矢石の険に挑み、片目が潰れたがそれを誇りとして三軍を景気
づけた。財・玉・帛を惜しみなく部下に分け与え、とはいえ軍中の法度は厳しく、民を秋毫も犯すところがなかった。両広の
人々は彼を悼み、祠を建てて韓雍を祀った。致仕して家にこもること五年で没。享年五十七歳。正徳年間、襄毅と謚された。
 ・・・次回は珍しくメジャーな王守仁か、もしくは彼の下で寧王の乱平定に活躍した人(伍文定とか)を挙げたいと思います。

301 :携帯から失礼:2007/08/22(水) 22:15:36 ID:v/gUL/+rO
ID:p9IA7/+v0さんへ
荊南の高季興とか呉の楊行密の話はここに投下した方がいい?
それとも古巣の方がいいですか?
(大した知識は無いですが…)

302 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/22(水) 22:46:00 ID:mIT2tcyT0
>>301
良将の話としてなら、ここで投下。
五代の話の延長なら向こうで、でいいんでない?
実際、十国連中はまだ全然わかってないので、どのような話をするのか、ガクブルもんです。

303 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/22(水) 23:18:58 ID:GlQ0wRhc0
 サプスから黒竜江つながりでこの人を投下。名前が卑猥とか言われそうですが。
マラ(瑪拉。?-1693)
 姓はナラ(那喇)。満州鑲白旗の人。尚書・ニカン(尼堪)の侄でニカンに子がなかったので
三等阿哈哈番を継ぐ。順治五年、英親王アジケ(阿済格)とともに叛将・姜[王+襄]を討ち、
大同にこれを囲み、蒙古兵を従えて攻めた。累遷して理潘院副理事官。康熙十四年、
察哈爾(チャハル)部のフルニ(布爾尼)が叛くと皇上の命により、信郡王・鄂扎(ゴチャ)
とともに軍を率いてこれを討つ。マラは自ら理潘院に蒙古の現状を述べ、軍の精鋭として
蒙古兵を組み入れるよう請うて、院外郎・スリン(色稜)よりホルチン(科爾沁)に赴き
兵馬を調達することを許された。帰還後、通政使に抜擢され、礼武侍郎に昇進する。
十六年、工部尚書に遷わった。内大臣ハタイ(喀岱)よりホルチンほか諸外藩の宣諭を
禁じられる。十九年、汚職を嫌い讒訴されて五秩に降格され、皇上の寛容によって官に
留まるも、同年尚書の職を奪われた。
 二十二年、ロシア軍がしばしば辺境を侵すに及んで、皇上はスォルン(索倫)、フェイ
アハ(飛牙喀)らの諸部とともにマラを黒竜江に集わせ、兵を合してロシア軍を討たせた。
マラはスォルンが軍事物資を着服しているのを知り上奏して弾劾したが、皇上は不問に付す。
また「ヤクサ(雅克薩)、ニプチュ(尼布楚)の二城は久しくロシアの拠するところであり、
わたくしが密かに探ったところヤクサは自給自足の体制が整っており、ニプチュは毎歳貂を
捕らえ、ハルハと交易して資金を得ております。まずハルハのジュチェン・ハン(車臣汗)に
ニプチュとの交易を禁止させ、しかるのち黒竜江将軍(サプス)が水陸併進してヤクサを攻め
取り、田の稲を悉く刈れば、ロシアの将はおのずと困窮することとなりましょう」と上奏。
皇上はこれを然りとした。二十四年、ホーチュンが都統として黒竜江に赴任、マラは副都統銜、
参賛軍務を授かりこれを補佐し、サプスとともに黒竜江に進軍した。蒙古兵三十人でヤクサ城を
探り、ロシア人七人を擒らえ、常駐の設備が整わぬうちに攻めてこれを破った。同年夏、ホー
チュンらとともにロシア兵を破り、駆逐。ことある毎に手柄を立てた。二十五年、黒竜江佐領・
ゴスゥ(鄂色)がロシア軍によって耕牛多数を斃され、農具を破壊され解任された。後任を求めて
上奏すると、マラ自身が黒竜江督理農務とされる。皇上の詔書に曰く「農事に関して軍を探るように、
命令厳しく衆を督し、力を合して種を撒くべし」この歳、収穫甚だ実る。二十七年、護軍統領に
進められた。
 二十九年、ガルダンのハルハ侵略に際し、都統エヘナ(額赫納)、前鋒統領ショガ(碩鼐)ら
とともに兵を率いてこれを討ち、内厩馬以行とされる。まもなくガルダンが烏珠穆沁を侵掠した
ので、裕親王・プークァン(福全)らと兵を合し、大軍で出塞、ガルダンを敗走させる。みたび
ガルダンが進行してきが、このときはアルハサイ(阿爾哈賽)まで至って掠め取ることなく撤退
した。かわりにトゥシェトゥ(土謝図)・汗、ジュチェン・汗が諸部を率いて来寇したので、
皇上は塞外に幸しマラはこれに扈従した。翻って都統ワタイ(瓦岱)らと兵を率いてトゥラ
(図拉)に赴きガルダンを偵察し、ケルレン(克魯倫)河でこれを撃破、その名は遠く塞外に轟き、
帰還後、西安将軍を授かる。
 三十二年、ジュンガルのオショ・プト(和碩特部)および台吉のハトゥル・エルケジン(巴図爾
額爾克済農)が降った。皇上はその人信ずるべからずと言ったが、マラは単身内地に赴き、直接語って
信用にたると確信、「ハトゥル・エルケジンは二千余人を養わねばならず、窮乏して投降したので
あって謀反気はありません」と上奏し、彼らを京師まで護送する。まもなく官途にあって没。
皇上は国葬を賜り、敏恪と謚した。
 ・・・大して名将じゃなかった? 地味に結構戦ってるし、敵を投降させる器も将才のうちだと思うのですが。
 次回はジョー・モドでガルダンを殺していながら手柄をフィヤングに奪われたアナンタを出そうと思います。
 その次は康熙末年〜雍正期の名将を出しますかね。候補としては岳鐘hの先輩、年羹堯がほぼ確定、その後は流動的で。

304 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/23(木) 21:04:33 ID:VOlsiP190
中央研究院 漢籍電子文獻
ttp://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3

305 :携帯から失礼:2007/08/23(木) 22:31:41 ID:bRJ/gu5WO
>>300
>・・・次回は珍しくメジャーな王守仁か〜
武将としての王守仁を知ったのは
三十六計の第二十計の『混水摸魚』「水を混ぜて魚を摸る(みずをかきまぜて、さかなをさぐる)」
を読んだのか切っ掛けなんです。
明代、寧王が朝廷に対して反乱を起こしすが
しかしこれを迎え撃つ王守仁には、まだ戦える段階ではなかった。
そこで寧王の腹心に「そちらの朝廷に対する忠義、いたく感心しました。
そこで寧王を騙して本拠地から切り離していただければ、事はなったも同然です」と手紙を書き、
それをわざと寧王に渡るようにした。
寧王は腹心が裏切ったのではないかと疑り、出陣を躊躇している間に王守仁は軍備を整えた。
彼は軍略に秀で、江西福建の賊乱、寧王の乱、広西瑤族の乱など幾多の反乱を平定し、
文臣としては明代を通じて武功一番と称された名将。
でも陽明学の祖としての方が有名ですかね。
陽明学と云えば孟子の性善説の影響されてる学問ですな。
自分は朱子学より陽明学の方が好きだし。
もし王守仁の紹介文挙げていただく機会があればwktkなのですが。
スレ違いな話題も入ってスマソ…

306 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/23(木) 23:38:09 ID:9VgNBVuF0
史書に名将列伝なんかあったら面白いのにな。

307 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/23(木) 23:55:05 ID:8I6Y3Uof0
先日の宣言どおり、韋叡を投下しやす。
韋叡(字は懐文。442-520)
 京兆杜陵の名門出身。劉宋、南斉に仕えた。蕭衍が挙兵すると兵二千、軍馬二百を持って筏ではせ参じ、
大いに喜ばれた。即日冠軍将軍、江夏太守、行郢府事とされる。はじめ郢城を守り、疫病が流行すると民を
賑恤して慕われた。
 梁が建国され蕭衍が即位すると、廷尉に遷され都梁子に封ぜられた。食邑三百戸。のち朝廷を出て豫州刺史。
天監三年、北魏の軍が辺境を侵すと豫州の兵を率いてこれを退けた。
 四年、王帥を率いて北伐、小峴城の戦いで輿に乗り(彼は生来病弱で馬に乗れなかった)、自ら最も高い場所
で督戦、激励して全軍を死戦させ、これを抜いた。勢いに乗って合肥に逼り、肥水を堰き止め水路に戦艦を浮かべる。
ついで合肥の東西にある小城二つを抜いた。北魏は将軍・楊霊胤に兵五万を授けて援護させたのを皮切りに、
次々合肥に増援を送る。諸将は北魏の兵力を恐れたが、韋叡は泰然自若として「用兵の法は奇をもって制すを貴ぶ。
しかして人数の衆寡にあらず」と言って懾れる色がなかった。
 北魏軍は懐静城を陥として1千余人を皆殺しにした。韋叡は怒りを発して輿に乗り、これを破り、肥水の堰を決壊
させて合肥を水攻めにした。四面から城を囲んでこれを攻める。水軍の備えがない北魏の援軍は梁の水軍の前に手も
足も出なかった。合肥の守将・杜元倫は城樓に上って督戦したが、石弓から発せられた矢に射抜かれて死す。ついに
合肥は陥ち、韋叡は万余の俘虜と数万の牛馬を得た。
 五年、北魏の中山王・元英が百万と號する大軍を率いて北徐州を襲い、徐州刺史・昌義之を鐘離城に囲む。武帝
(蕭衍)は曹景宗に二十万の大軍を授けて救援に向かわせた。曹景宗は邵陽洲に駐留し、営塞を築く。武帝は韋叡に
豫州の兵を率いて曹景宗の補佐を任せ、韋叡は合肥に直進、鐘離に向かう。曹景宗は総大将ながら年齢も実績も自分
より上の韋叡を常に立て、その言に従った。
 韋叡は曹景宗の陣から二十里のところに布陣し、夜、濠の溝を深め、鹿角を立てた。そして邵陽洲に急ごしらえの城を
建てる。翌日朝、元英は非常に驚き、「何ぞこれ神なるや?」と叫んだ。翌日朝、元英自らの挑戦に対し、韋叡はいつも
どおり輿に乗り如意(杖)を振るって督戦、一日数戦し、元英は梁兵の強さに驚いた。夜、魏軍は梁軍の陣営に夜襲をかけた
が、韋叡の適切な指揮により大事に至ることはなかった。
 開戦前、魏軍は邵陽洲の両岸に二つの浮橋を架け、淮河を跨ぎ超えて両岸を連結した。韋叡は馮道根らに水軍の大艦を率い
させ、膨張した淮水を直進させて、自らは彼らのために下がって道をあけた。戦艦は競うように河を馳せて北魏の塁寨を壊し、
小船に干草を載せて橋に突撃させ、そこに火をかけた。炎は風によってたちまち広がり、橋は燃えて煙が天を覆った。馮道根
らは勇力奮戦し、天地を揺るがす声をあげ、一をもって百に当たる奮戦ぶりを見せる。魏軍は大潰し、元英も橋が落ちたのを
見て遁走する。梁軍は水死者十余万、斬首もほぼ同数、俘虜数十万の大勝利をあげた。鐘離城の囲みが解かれると、昌義之は
「更生(生き返った)! 更生!」と喜んだ。韋叡は一連の戦いの総指揮を担った功績により、食邑七百戸を加増され、侯爵、
通直散騎常侍、右衛将軍とされた。
 七年、左衛将軍、安西長史、南軍太守とされ、俸禄二千石を授かる。司州刺史・馬仙碑が北伐の帰途で敵に囲まれるとこれを
救援するべく派遣され、元英の追撃から馬仙碑を守り、事のついでに邵陽を回復して帰還した。翌年、信武将軍、江州刺史。
九年、徴員外散騎常侍、右衛将軍(のち左衛湘軍)、太子・事、通直散騎常侍とされる。十三年、智武将軍、丹陽尹。理由は
定かでないが一事免官され、しかしまもなく中護軍に起用された。
 十五年、致仕を願って許され、徴散騎常侍、護軍将軍、楽隊一部を授かる。朝廷にいて奸臣に阿らず、武帝や文武百官より
尊敬を受けた。生来慈愛の心が強く、孤児を己の子のように慈んで育て、俸給はすべて親族に分け与えて家財は一切なかった
という。
 普通元年夏、召し返されて侍中、車騎将軍を授けられるも、病気によりこれを固辞した。八月、実家で没。享年七十九歳。
遺言で葬儀は質素に行われる。彼の死を聞いて武帝は痛哭し、銭十万、布二百匹、東園の秘蔵の宝物および朝服一揃いに
衣一襲を贈り、喪時の費用を給付、中書舎人監護を派遣して侍中、車騎将軍、開府儀同三司を追贈、厳と謚した。息子の
韋放も名将として名高い。
 ・・・明日は予定通り、清のアナンタをやりますか。次の南北朝はリク通り陳慶之で行くかな。

308 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/23(木) 23:56:43 ID:6gjDXT+D0
>>306
史記でもよめ

309 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/24(金) 00:12:05 ID:GHtp3MkT0
>>307追記。
韋叡が楊大眼を弩級隊二千で待ち受け、一斉掃射によりその左腕を射抜いて撤退に
追い込んだ、というエピソードは正史には載ってないんですよね。評伝書の中国
歴代軍事人物・続集と上海古籍出版社の梁書には当たり前のように載ってるんですが、
もしかしたらフィクションなのかもしれません。
 しかし王守仁は長いな〜。11ページある文章を1レスに圧縮するのはかなり削る必要がありそうです。
まぁ好きでやってることだし愚痴っても仕方ないので、明日の清朝・アナンタの項にしおり挿して今日は寝るとしますわ。

310 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/24(金) 08:08:54 ID:ZQDGmzeW0
陳舜臣の「中国の歴史」を王守仁の寧王討伐のくだりを
ずっと「聞いたことある名前だなぁ」と思いながら読み、
文中で王陽明のことだと書かれてあるのを読んで初めて
気づいた私はバカです
王守仁=王陽明であることくらい知ってたのに

311 :携帯から失礼:2007/08/24(金) 11:31:56 ID:zquvRPBSO
>>309
なんか気の毒になってきた。
王守仁の紹介文挙げていただくお願い取り下げます。

>>310
心配するな。自分も昔、王守仁=王陽明じゃないと思ってたし。
しばらくの間、別人だと思ってた…

312 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/24(金) 14:39:53 ID:eNSmX+QI0
康熙前半期の名将(なのかな?)図海は紹介してくれないのかなあ……

と無責任に呟いてみる。

313 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/24(金) 20:12:36 ID:uR/JaGPm0
自分ですれば?

314 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/24(金) 20:33:03 ID:eNSmX+QI0
よっしゃ、清史稿でも要約してみるか。
コテハンだけに任せるのは気の毒だし。

315 :携帯から失礼:2007/08/24(金) 22:11:36 ID:zquvRPBSO
図海(トゥハイ)はチャハルのブルニの乱や李来亨率いる農民軍を鎮圧したりしてますが、
呉三桂が三鎮の乱を起こした際に王屏藩・馬雄図・呉之茂らに平涼で図海を散々に打ち破られ、
その際、図海の馬に弾丸が命中、危うく討ち取られそうになったのを
王振標に救われてますね。
そして長武に撤退することに…
まあ、後に図海は畢力克図らと共に興安・漢中を奪い、四川を攻め、
三鎮の乱平定に大きく貢献したみたいですが。

316 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/24(金) 22:28:44 ID:ShS6whqr0
>>311携帯から失礼さん
ちょっと弱音がのぞいただけですんで、気の毒になったとか気にしなくていいですよ。
前にも書き込んだけど好きで自己満足(およびスレ興し)のためにやってるんですから。
明日はちゃんと王守仁挙げますんで、ご心配なく。
でも携帯から失礼さんは何気に知識広範ですよね。
いきなりトゥハイを聞かれたら「誰だっけ?」ですよ。王守仁のことも概要は知ってらっしゃるみたいだし。
>>314さん
そう言ってくれる日が来るのを待ってました。
スレ興しのためひたすら訳文投下してたのが報われた感じ。ぜひぜひ頑張っていただきたいです。

 で、今日は清朝のアナンタを投下。功績の多くをフィヤングに奪われた人です。

317 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/24(金) 22:35:48 ID:ShS6whqr0
アナンタ(阿南達。生没年不明)
 烏弥氏。蒙古正黄旗の人。ハタイ(哈岱)の次子。世襲によりはじめ一等侍衛兼領佐。康熙八年、オーバイ(鰲拝)
誅殺に連座して斬罪となるところを、康熙帝の寛容により許された。二十七年(1688)、ガルダンのハルハ侵略に
対して商南多爾済は勅命により兵を引き、ガルダンに遣いして入朝するか侵略するかの如何を問うた。二十九年、
ガルダンがハルハに侵行したので、皇上は尚書・アラニ(阿喇尼)、都統・エヘネ(額赫訥)らを前後して出撃
させた。アナンタは「ガルダンをトゥド・エルデニで打ち破るため、偵察を出して報せを持って帰るのを待ち
ましょう。アラニら二人はともに一騎の将ではありますが兵者は気を削るように慎重でなくてはならず、困窮する
ことが予想されます。願わくば兵を発してガルダンを伐たんことを」と上奏した。皇上はチャハル部の兵六百を
トゥラ(図拉)に赴かせ、援軍とする。アラニは兵を西路に移すことを請い、アナンタは兵を率いて瀚海を渡り、
大将軍・裕親王プークァン(福全)にしたがってウラン・プトゥンで賊軍を打ち破った。三十一年、マラ(瑪拉)
とともに寧夏に赴き、オショ・トプ(和碩特部)とハトゥル・エルケジン(巴図爾額爾克済農)を帰服させた功に
より正黄旗蒙古都統に抜擢される。三十二年、皇上はガルダンがハミ(哈密)の食糧を奪ったのを聞いてロータン
(郎坦)を昭武将軍に任じ、アナンタに代えた。
 三十五年、康熙帝のガルダン親征。アナンタはハルハ部の衆二十人ほどを率いての先導役を命じられた。皇上が
克魯倫河に到達する頃、ガルダンはトゥレルジ(特勒爾済)に逃走、アナンタはフィヤング(費揚古)とともに
トゥラに進み、ガルダンをジョー・モド(昭莫多)に追い詰めた。最先鋒を任されて賊軍をほしいままに破り、
乱戦の中それと知らずガルダンを殺す。アナンタはフィヤングの名で勝報を康熙帝に上奏し、皇上は「ガルダン至ると
聞いて親征したが、惜しくも逃した。わが兵は岐路に突然交戦し、斬・擒過半を数えるも死傷者無算。属下の人は降った
衆を多く怨み、朕はガルダンを捕らえそこなったことを悔やむ。フィヤングは胸を張って捷ちを報ずるべし。略言を特約しよう」
皇上は軍をアナンタたちが駐守する粛州に進め、軍を辺境に移してガルダンの痕跡を調べた。アナンタは兵を分かち、
クントリン(昆都倫)、エジネイ(額済内)に駐留させた。また提督・李林隆が大砲を以ってフロンジル(布隆吉爾)に
赴いたが、大砲は粛州に置いておいたほうが軍策として正しいということで甘州に還した。皇上はこの戦いの意義を議政
大臣たちに諮り、アナンタは防辺の功で官を進められた。
 ガルダンがジョー・モドで敗死したのち、ジュンガルの多くの部衆は離散する。ガルダン・ドルジとその妻の弟が
ジュンガルを支えた。アナンタはフロンジルに至り、甚だ多くの衆を擒らえ、投降を呼びかけ、遣いをつかわして内応させた。
アナンタはハミの回部に檄文を書かせ、「ガルダンの余衆、至ればこれを擒献せよ」と大書、それを聞いたガルダン・ドルジ
は「ガルダン、ハミに至り、且てば擒献される。ここはハミを援けるべし」と語った。まもなく、ガルダンの遺族がチンハイ
(青海)の諸台吉に通じているとの報せが清朝に届く。アナンタはフロンジルに赴いて偵察を出し、真偽を確かめてから兵を
動かす。スル(素爾)河でガルダンの一族とその使用人を擒らえた。
 三十六年、ハミの回部はガルダンの子、スポテン・ハルチュル(色卜騰巴爾珠爾)およびその従者、フイトホージャ(徽特和碩)
らを擒らえ、アナンタに送った。またアナンタは自分の部下・馬迪を殺害したエルト(厄魯特)部のトゥケチ・ハシハ(土克斉哈什哈)
を擒らえる。前後して彼らを京師に送った。また、エルトのジンハ・チェルパイ(晋巴徹爾貝)を降し、ガルダンの窮状を尋ねて
ガルダンはすでにジョー・モドで死んでいたことを知った。この歳、親征した皇上は林隆に二千の兵を与えてフロンジルから出撃させ、
ついでタル(塔爾)河から出征したが功なく、林隆に台吉・タンチラ(丹済拉)、将軍・ハリコン(巴里坤)を擒らえさせてさらに
ガルダンの従兄弟、ツェワン・アラプタンを追わせたが、及ばなかった。軍を還してフロンジルに駐する。タンチラは投降を請い、
アナンタは彼を保護して京師まで連れて行った。皇上に朝見し、ジョー・モドの功績により予拖沙喇哈番の世襲を許される。
勅命を奉じ兵を率いて西寧に駐留。四十年、没。国葬を賜る。康熙帝はジョー・モドでの功績のほとんどをフィヤングのものと考えて
いたためアナンタは生前ほとんど出世しなかったが、雍正帝の時代に復権した。雍正二年、恪敏と謚される。

318 :携帯から失礼:2007/08/24(金) 23:34:17 ID:zquvRPBSO
>>316
◆oOLAqFKRB.さん、まあいつもの戯言だと聞き流して下さい。
自分も弱音吐いたことあるし…
王守仁は思想家としても武将としても好きですから三十六計を読んだ時には、
戦略家としての彼に完全にやられましたからね。(老荘とか好きだし)
ちなみに名将百選に王守仁の紹介文を挙げたことあるんで、
そこそこは把握してます。
知識については百選時代に◆oOLAqFKRB.さんに触発されて猛勉強しましたから…(まだまだ未熟者ですが)
紹介文を以前の様に挙げることが無理な分、
マメにコメント投下させてもらってます。

319 :携帯から失礼:2007/08/25(土) 00:05:02 ID:jAFxCWMXO
今度は>>307についてコメント。
韋叡の息子の韋放も名将として名高いようですが、孫の韋載もなかなかの人物かと。
しかし韋叡・曹景宗・昌義之・陳慶之と名将揃いなのに、
梁の武帝はよくもまあ弟の臨川王蕭宏なんかを総大将としたもんですな。
(臨川王蕭宏が夜間の風雨に驚き、軍を捨てて江南に逃亡。
このため全軍潰乱し、撤退。愚将として有名?)
また亡命して来た、北魏の北海王を陳慶之に七千の兵で洛陽まで護衝させたり、
どう考えても正気じゃないよな。
まあ陳慶之は一応は洛陽を占拠するも、
すぐに爾朱栄にボコボコにされるのですが…
しかも撤退の際、追撃軍を十一度に渡り撃破、
建康へと帰還を果たすとはやっぱ凄いわ陳慶之。
宇宙大将軍こと侯景にも勝ってるし。
ベリサリウスも寡兵を率いてカルタゴやシチリアなどで勝利を収めていたり、
皇帝への愚直なまでの忠誠心など陳慶之と結構似てる様な気がします。


320 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/25(土) 01:56:47 ID:JeL5Pg/N0
よく言われるけど十一回撃退したのは撤退する前、
北中郎城を守ってるときじゃないの

北中郎城で三日で十一戦→爾朱栄が北海王を捕らえて洛陽陥落→陳慶之軍をまとめて撤退
→追撃されて軍が四散、僧形になって帰る

の流れだと思うけど

321 :携帯から失礼:2007/08/25(土) 10:36:35 ID:jAFxCWMXO
>>320
すいません。
ご指摘通り、十一回撃退したのは撤退する時ではなく北中郎城を守ってる時でした。
史書を持ってないのでWEBで確認し直したら、
梁書には
慶之渡河守北中郎城, 三日中十有一戰, 傷殺甚。 榮將退。
南史には
慶之渡河守北中郎城, 三日中十有一戰, 傷殺甚。 榮將退還。
と書かれてました。   

なにせ、アホがコメント投下してますのでご勘弁を…

322 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/25(土) 17:48:00 ID:0nWhF8OI0
>>309

>韋叡が楊大眼を弩級隊二千で待ち受け、一斉掃射によりその左腕を射抜いて撤退に
>追い込んだ、というエピソードは正史には載ってないんですよね。評伝書の中国
>歴代軍事人物・続集と上海古籍出版社の梁書には当たり前のように載ってるんですが、
>もしかしたらフィクションなのかもしれません。

資治通鑑にはのっているのでそれが出典かと。司馬光がなにを見てそれを採用したか
までは分かりませんが、かなりの信憑性はあると思います


323 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/25(土) 23:23:03 ID:W5jxXIzM0
>>322さん
ご教示有難うございます。資治通鑑も歴代紀事本末も持ってるのに、
ほったらかにしてすっかり正史万能主義の罠に嵌っておりました。
これはちゃんとこっちも調べろという啓示ですね。
でも俺の持ってる通鑑、武帝天監六年の部分だけなぜか酷い印刷ミスなのです。
店に持ってったら代えてくれるやろーか?
さておき、本日は携帯から失礼さんに約束した王守仁を投下します。
かなりの部分削ったんで「そこ違う」とか「ここが欠けてる」とかあるかと思いますが、平にご容赦を。

324 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/25(土) 23:31:46 ID:W5jxXIzM0
王守仁(字は伯安。1472-1528)
 餘姚の人。二十歳のとき郷試に受かり、兵を語るを好み騎射を善くした。弘治十二年、進士に及第。補兵部主事
となる。任侠を好み、正徳元年冬、悪吏・劉瑾から給事中御史・戴銑ら二十人を救おうとして擒らわれ、杖刑四十を
受け貴州・龍場駅の丞に左遷された。当地には苗族、僚族らが雑居していたが、王守仁は彼らを教化し彼らも
王守仁によくなついた。劉瑾失脚後、盧陵の県知事に遷る。朝見して南京刑部主事となり、抜擢されて南京太僕少卿、
さらに昇進して鴻臚卿となった。
 十一年八月、兵部尚書・王瓊に奇才を認められ、右僉都御史、南、贛州巡撫とされる。このとき南方で盗賊が蜂起し
府県を襲って略奪したので、王守仁は盗賊の動向を探ってその虚実を知り、福建、広東の兵を合して大帽山で賊を
討った。
 翌年正月、親兵を率いて上杭に屯し、賊の不意をついてこれを撃ち四十余の寨を抜き、七千余人を斬った。同年七月、
大庾に兵を進める。賊の巣窟の左右に四百人の伏兵を敷き、会戦、ついにこれを潰滅させた。勝ちに乗じて賊に奪われ
ていた諸郡県を回復した。さらに進軍して賊の水陣を撃破、四連勝して巣窟八十四を破り、六千人を斬る。翌年正月三日、
上、中、下の三浰を降して境内を完全に平定。桶岡の賊を滅ぼし、浰頭、広東の乱を平定。また、しばしば北虜の南進を
防いだ。右副都御史となり、副千戸に封ぜられる。
 十四年六月、福建の賊軍を監察に赴く途中、南昌に拠する寧王・朱宸濠が造反、豊城を攻める。王守仁はいそぎ吉安に走り、
伍文定とともに兵と食糧、武器と船とを徴発。寧王を弾劾する檄文を発し、各地の勤王の吏士を募った。他方寧王の腹心・
劉士実らに内応を匂わせる手紙を送り、寧王に疑心暗鬼を起こさせた。集まった諸将たちに「私は計をもって賊の東下を防ぎ、
患いを除こうと思う」と宣言。寧王が行動を躊躇する隙に兵を集め、間諜を発し、また檄文を諸郡県に発して再び募兵した。
そして都督・劉暉、桂勇にそれぞれ兵四万を授け、みずからは贛州から湖広、秦金、両広、楊旦を通って各地で兵を募り、
十六万の大兵力をもって南昌を直撃する。その間寧王は安慶を攻めていた。
王守仁は援軍八万を得て、総勢三十万と號す。守りの少ない南昌を攻め、伍文定を先鋒として豊城を攻めさせた。軍士が殺戮を
行ったのでかれらを脅し、宥めて士民を安心させ、寧王が安慶から慌てて南昌に戻ってくるのを迎撃。予め尭元を黄家渡に伏せ、
伍文定らを派遣して挑発、伏兵を発して賊を大いに破る。寧王は南康、九江などの兵を動員、再び戦いを挑んだ。退くものが
あると王守仁がそれを斬り棄てたので、将士はことさら奮戦し再び賊軍を破った。寧王は樵舎から湖上に逃れ、船を連結して
方陣をなした。王守仁はそこに火をつけた小船を当たらせ、寧王の船は炎に巻かれる。妻・婁氏以下悉く入水して死に、寧王は
擒らえられた。叛乱発生からわずかに三十五日。時に皇上が威武大将軍を自称し、寧王の乱に際して大軍を率いて南下。しかし
反乱はすでに王守仁によって平定されていた。奸臣たちはこれを妬み、一旦捕らえた寧王を釈放して皇上に捕らえさせようとする。
王守仁は再び兵を発し、寧王を擒らえた。同年冬、寧王は処刑され、葬儀が執り行われる。皇上は寧王を偲んで涙を流した。
王守仁は戦功により光禄大夫、柱国、新建伯の世襲を許される。しかし朝廷内で王守仁排斥運動が起こり、憤激。父の死に乗じて
郷里に帰った。のち兵部尚書、三辺総督、提督団営に強く推されたが、ついに任用されなかった。
 嘉靖六年、田州の土豪・盧蘇と王受が叛いたので出馬、敵衆三千に対し一千人でこれを破り、盧蘇らを降し、衆七万を慰撫した。
同年、用兵の害悪十篇と招撫の十善を上奏する。功により知州となり、軍事行動に関して、皇上は常に王守仁に諮問した。
 断藤峡の瑶族が八連の営を連ね、蛮洞に潜伏して数十年にわたり近隣を侵していた。王守仁はこれを平定することを欲し、十余の
寨を抜き、峡の賊を悉く鎮定する。仙台をはじめとして諸族を五連破。盧蘇、王受に命じて断藤峡の八営を破らせ、瑶族の乱を平定した。
 皇上は盧蘇・王受を帰順させた手腕を大いに謙称し、印璽と書簡で王守仁を讃えた。閣臣・楊一清には功績誇大と弾劾されたが、帝は
その意見を斥けて王守仁の功を嘉した。王守仁は多くの有為の人材を朝廷に推挙し、のち自ら第一線を退くことを請う。皇上はこれを容れ、
王守仁の兵権を解いた。まもなく病篤くなり、鄖陽の巡撫・林富を自分の後任に推薦して引退。帰郷途中、南安で没。享年57歳、新建公を追贈された。謚は文成。


325 :携帯から失礼:2007/08/26(日) 01:35:02 ID:fU+YpTRXO
>>314
ID:eNSmX+QI0さんのトゥハイの推薦文wktkなのですが…
要約の作業、難航してるのでしょうか?

>>324
◆oOLAqFKRB.さん 乙
自分が大好きな王守仁の紹介文、堪能させていただきました。
出来ましたら海山(カイシャン)リクしたいのですが。迷惑でしようか?
百選でかなりプッシュしてた人がいたのですが、
彼の実績がイマイチ、ピンときませんでした。
ハイシャンから二度に渡り防衛したぐらいとしか分からなかったし。
(ほとんど俺ばっかリクしてるけどいいのかな…)

326 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/26(日) 10:32:57 ID:wb0cGpDM0
>>324
これだけ実務に長けた人だと、その学問が「知行合一」なのも当然・・・
 というほど単純ではないか

327 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/26(日) 19:51:00 ID:3Coqqnw20
図海(トゥハイ、字は麟洲)?〜1681

満洲正黄旗の人、馬佳氏、穆哈達の子。
筆帖式から国史院侍読となったとき、南苑で順治帝の目に留まり抜擢される。
以後、拝他喇布勒哈番・弘文院大学士・議政大臣・刑部尚書に進む。
順治帝の遺言により、康熙帝即位後にも引き続き登用され正黄旗満洲都統となる。

康熙2年、定西将軍として禁旅を率い、湖広・四川で李自成の残党を撃破。
トゥハイは要害茅麓山に拠る李来享を包囲して自刃させ、残党を降伏させる。
また明の新楽王とその軍団を壊滅させて虜囚3000を得た。
康熙6年に都統を辞任しようとするが許されず、康熙9年に中和殿大学士兼礼部尚書。

康熙12年、三藩藩王らが引退を上奏したとき、それを許そうとする康熙帝に反対し、
失脚しそうになったが、呉三桂が挙兵すると戸部事務を委任され輸送任務を担当。

328 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/26(日) 19:53:38 ID:3Coqqnw20
(つづき)康熙14年、三藩に呼応しチャハル王ブルニが挙兵すると、
トゥハイは信郡王鄂札の副将として出陣。「チャハルは大元の末裔であり、
財宝は多い。これを撃てば大儲けだ」と士卒を鼓舞し、兵士一人で敵百人に当たった。
土黙特の兵を撃破した後、トゥハイは兵を分けて敵の騎馬400騎を退ける。
王ブルニは全軍を出撃させ火攻めを目論んだが、トゥハイはよく陣を守り、
つづいて各個撃破で大勝、1300戸を得た。
これによって王ブルニは敗走しチャハルは平定され、康熙帝は功績を称賛。

康熙15年、撫遠大将軍となり陝西に出陣。呉三桂に呼応した陝西提督王輔臣を、
策略を用いて降服させた。やがて康熙帝はトゥハイに命じて湖広に出陣させ、
呉三桂に対して睨みをきかせた。この後もトゥハイの軍勢は鎮圧戦に活躍したが、
康熙20年に病に倒れ、北京に帰還し、やがて卒した。諡文襄。

329 :314:2007/08/26(日) 19:59:04 ID:3Coqqnw20
土日で辞書引きながらトゥハイについて訳そうとしましたが、
固有名詞とか地名とかが「??」でギブアップです。
毎回投下されているコテさんの苦労が少しだけですが分かりました。

トゥハイはブルニの反乱でも三藩の乱でも大将軍・副将軍格式で活躍しており、
部下の建策をとりいれたり、負けらしい負け戦もないので、
まあ名将ではないかもしれませんが、代表的な将軍なのかなあ?

330 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/26(日) 20:03:19 ID:M6JjZANU0
元史とか訳そうとすると死ねる

331 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/26(日) 22:35:29 ID:F0uPkM9N0
携帯から失礼さん、カイシャンについてですが仮の即位までで勘弁してください。
なにぶんその後は皇帝・為政者としての側面ばかりが40ページほど(もっとか?)
書かれてまして、訳すのが極めて困難なのです。まぁ、実質自分で兵を率いたのは即位する
までなので、武勲については問題ないかと。
カイシャン(海山。1281-1311)
 武宗仁恵宣皇帝。順宗ダルマバラの長子。至元十八年七月十九日生まれ。
 成宗の大徳3年、寧遠王ゴゴチュが北方防備を怠ったので、勅命によりこれと代わった。
四年八月、ゴベリの地でハイドゥと戦い、これを破る。十二月、軍を動かしナイマンダイ
族を降す。五年八月初日、ダイクリグの地でふたたびハイドゥと交戦、これを壊滅させるも、
二日後、ヘラヘタでその衆をことごとく合したハイドゥと戦い利なく、カイシャンは自ら
前線に出て再戦、大いにこれを破り、その輜重を獲る。翌日再戦。官軍がわずかに退くと
ハイドゥはそれに乗じて力戦、カイシャンも力の限り督戦し、敵陣を突破しその後ろに出る。
全軍旋回した官軍の前にハイドゥは志果てたことを知り、逃げ去り、まもなく死んだ。
 大徳八年十月、懐寧王に封ぜられ、食邑六万五千戸を下賜される。十年七月、トクフシジャン
の按台山を越えて叛王・ウォルシを追撃、その妻子と輜重を奪い、さらに叛王・エスントクア
およびその附馬・バヤンを捕らえた。八月、エリデシの地でミンリ・テムル他の諸王を降す。
ハイドゥの子・チャバルがドゥワ部に逃げ込むとその営帳から家族をことごとく奪った。冬、
按台山に駐屯。王・トクチュイが再び叛くとこれを討ち、降して北辺をことごとく平定した。
 十一年春、成宗崩御。三月、按台山から和林に至る。諸王および皇室の姻戚たちはみな
アナンダかミンリ・テムルを擁立しようとし、胸中どちらにつくかの打算を抱えた。成宗は
不豫となる前、仁宗・アユルバルワダ(カイシャンの弟)と皇太后を懐州に遠ざけていた。
仁宗は成宗崩御の報せを聞き、二月、京師に到着、正月のうちに城に入っていた安西王・
アナンダとミンリ・テムルは左丞相にアフダイ、平章にバトゥバジン、前中書平章にバヤン、
中政院使・クイリを任じ、成宗の皇后・バヨウチェン氏を陰謀の盟主に推戴、アナンダがこれを
補佐する。仁宗は右丞相・ハラハスンと計って皇太后に説いた。「太祖、世祖の創業には艱難
辛苦があり、いまも聖上は崩ぜられ、太子・デショウも夭折なされ、諸王の結びつきは薄弱で
そのうえ懐寧王が北方にありまって苦難のときです。アナンダらは乱をなそうと暗躍し、早晩
にも政変がなされようとしておりますが、はたして懐寧王が到来したとき、どれほどの恐乱が
起きるか測ることができません。事変の前に手を打つべきかと」ついにバトゥバジン皇后は仁宗と
ともに計り、アフダイらを誅殺。京師にカイシャンを迎えるべく手筈を整えた。
 五月、カイシャン上都に到着。バヨウチェン氏を殺し、安西王・アナンダと諸王・ミンリ・テムルを
擒らえ、誅殺。連座したものすべて殺しつくし、上都で即位した。文武百官を大安閣で朝見し、大赦を行った。

 ・・・皇帝としてはさほど優れても劣ってもいなかった様子。特別やったことといえば在位中飢饉他の天災が多く、
しばしば減税して民衆の衆望をつなごうとしたことぐらいですか。

332 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/27(月) 13:47:03 ID:WYu4ELTx0
唐突ですけど、唐代に選ばれた名将選があったんで紹介してみます。

白起、韓信、諸葛亮、李靖、李勣、張良、 田穰苴、孫武、呉起、樂毅、范蠡、孫臏、
廉頗、王翦、曹參、周勃、李廣、霍去病、ケ禹、賈復、寇恂、馬援、皇甫嵩、張遼、關羽、謝玄、
慕容恪、檀道濟、王僧辯、慕容紹宗、宇文憲、韓擒虎、史萬歳、尉遲敬コ、蘇定方、張仁亶、王ラ、王孝傑、管仲、田單、趙奢、李牧、彭越、周亞夫、
衛青、趙充國、呉漢、馮異、耿弇、段熲、ケ艾、張飛、呂蒙、陸抗、杜預、陶侃、王猛、長孫嵩、王鎮惡、呉明徹、斛律光、于謹、韋孝ェ、楊素、賀若弼、
李孝恭、裴行儉、郭元振、張齊丘、郭子儀という錚々たる面子が選ばれてます。

どうやら君主だった人物は除外されてるみたいですね。

333 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/27(月) 14:04:34 ID:PZA14eY+0
それ誰だったかの廟堂に名将を配列しようって議論でしょ。
だから君主と裏切り者は出てこない

334 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/27(月) 23:42:56 ID:9S3T/5sP0
昨日のカイシャンをイレギュラーとすると今日は南北朝ですね。
それでは携帯から失礼さんのリクどおり、陳慶之を投下します。
・・・携帯から失礼さん以外の人もリク有ったらどんどんください。
可能な範囲で訳せる分はやるつもりなので。

335 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/27(月) 23:48:03 ID:9S3T/5sP0
陳慶之(字は子雲。484-539)
 義興国山の人。幼少より武帝・蕭衍に仕える。皇上は将棋(囲碁?)を好み、
毎晩子供達に相手をさせて止むことがなかった。同輩には疲れて眠るものが
多かったが、陳慶之だけは眠ることなく呼ばれればすぐに皇上の前に出たので、
甚だ重用された。
 普通年間、北魏の元法僧が彭城をもって梁に降ったとき、武威将軍として胡龍牙、
成景儁らを率いてこれを迎えた。軍を還し、宣猛将軍、文徳主帥とされて兵二千を率い、
豫章王・蕭綜を徐州まで護送する。魏は安豊王・元延明、臨淮王・元ケに兵二万を与えて
陳慶之の徐州入りを阻もうとしたが、陳慶之はその塁に逼って一鼓のもとにこれを抜く。
のち豫章王が軍を棄てて魏に奔り、余衆が壊散した際には彼らをまとめ、夜中城門を破って
撤退し、軍を保全した。
 普通七年、魏の安西将軍・元樹の寿春出征に従軍、仮節、総知軍事とされ実質上の司令官と
なる。魏からは豫州刺史・李憲がその子、李長鈞を遣わし、城を築いて陳慶之らの軍を阻もう
とするも、陳慶之はこれを攻めて李憲を降し、その城に拠した。関中候。
 大通元年、曹仲宗の渦陽討伐に従軍、魏の常山王・元昭らが十五万の兵を率いて渦陽救援に
駆けつけるも、陳慶之は韋放とともに先鋒となって敵の鋭鋒を挫く。「魏の兵は遠くから来て疲れ、
倦んでいる」として必勝を語り、二百騎を率いて再び敵の前軍を破って魏の衆を恐れさせた。
そのまま進軍して渦陽城を囲む。魏軍と対峙、春から冬まで数十百戦を経て、弱腰になる曹仲宗を
叱咤、魏の軍が築いた十三城のうち四を陥として渦陽城主・王緯を降し、残る九城もことごとく
抜いて魏軍を壊滅させた。城中の男女三万余人を獲る。
 大通のはじめ、魏の北海王・元が国内の政変により梁に亡命、魏の主に冊立してくれと求めた。
皇上はこれを容れ、陳慶之を仮節、飆勇将軍として兵七千を授け、魏への帰還に同行させた。
陳慶之は雎陽で丘大千の七万人を破り、その援軍にきた済陰王・元暉業率いる二万が考城に
進駐するとこの城を陥として元暉業を擒らえ、輜重車七千八百両を鹵獲する。魏は左僕射・楊c、
西阿王・元慶、撫軍将軍・元顕恭ら総勢七万で榮陽に拠り、陳慶之を拒む。城は堅く兵は精強で、
陳慶之といえども抜くことあたわず、さらに元天穆らの援軍が集まって三十万の大兵力となった。
陳慶之は「元天穆の衆、みなこれ仇讎なり」と説いて士卒を奮起させ、一鼓登城させてついに
これを陥とした。魏軍が野戦を挑むと三千人を率い城を背にし自ら逃げ場をなくして戦い、大いに
これを破る。元を洛陽に送り届け、車騎大将軍、左光禄大夫、万戸候とされた。魏の元天穆らが
二万で再び陳慶之を攻めたが、陳慶之はこれをたやすく粉砕する。陳慶之は全軍の将士に白袍を着せ、
向かうところ敵はなかったので、わらべ歌に「名帥大将自ら牢すなし、千兵万馬白袍を避く」と
謳われた。銍県から出発して洛陽に至るまで百四十日、白三十二を抜き、四十七戦して一度の負けも
なかった。元に志なく天柱将軍・爾朱榮が跋扈する形勢を見て、馬佛念ら腹心が北朝簒奪を勧めるが、
聞かず。元とともに洛陽を守ること六十五日、爾朱榮に攻められ、黄河を渡って北中郎城に逃げる。
三日間に十一回戦い、敵衆を殺すこと多数、これを撃退。しかし元が洛陽の守りを失い擒らえられると、
陣形を固めながら東に還る。爾朱榮はこれを追い、嵩高山で陳慶之の軍を粉砕、陳慶之は僧形に身をやつし、
兵卒にまぎれて梁に還った。帰還後、右衛将軍とされ永興県候に封ぜられる。のち持節、都督縁淮諸軍事、
奮武将軍、北兗州刺史とされた。当時妖術を善くす僧侶・僧強が帝を称し、土豪・蔡伯龍がこれに呼応して
三万余人の大勢力をなしたが、陳慶之は十二日でこれを平定した。
 大同二年、魏の候景が七万人を率いて楚州に来寇、刺史・桓和が陣没した。候景は淮一帯に進軍して陳慶之
に降伏の使者を送る。朝廷は湘潭候と右衛・夏候夔らを救援に送るが、彼らがたどりつく前に陳慶之は候景を
撃破していた。候景の輜重を奪って帰還。仁威将軍に進められる。同年、豫州が飢饉となったとき、官庫を
開いて州民を救い、感謝されて石碑を建てられた。大同五年、没。享年五十六歳。散騎常侍、左衛将軍、
楽隊一部を追贈される。謚は武候。皇上は詔を発して義興郡に五百人を派遣し、葬儀に参加させた。
 陳慶之は人となり謹慎、きらびやかな衣装や音楽を好まなかった。矢を射れば的をはずし馬術にも通じ
なかったが、よく軍士を御撫してかれらに死力を尽くさせた。

336 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/28(火) 00:14:23 ID:bpDV9dGL0
>矢を射れば的をはずし馬術にも通じ なかったが、

正史にここまで書かれるとは、よほどの運動音痴だったんだな。
とりあえず紹介乙。

337 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/28(火) 23:35:01 ID:Dkp9E1h20
今日は(俺の中で)清朝の日。というわけで有名かマイナーか微妙な年羹堯です。
年羹堯(字は工亮。?-1726)
 漢軍鑲黄旗の人。康熙四十八年、抜擢されて巡撫となる。斡偉、生番、羅都ら掠賊が寧番衛を侵すと、
遊撃・周玉麟とともにこれを撃った。この功により提督・岳昇龍の麾下に入る。岳昇龍は賊軍を討って
羅都を生け捕り、年羹堯は羅都がすでに擒らわれたと聞いて軍を還した。五十六年、越雋護らの乱を平定する。
 同年、ツェワン・アラプタン(策凌阿喇布坦)が将軍・ツェワン・トンプト(策凌敦布卜)を遣わして
チベットを攻め、ラツァン・ハン(拉蔵汗)を伐った。四川提督・健泰は兵を率いて黄勝関に出たが、
及ばず兵を還す。年羹堯は密書をもって康泰は兵の心を失い、用うるべからずと上奏、五十七年、年羹堯は
護軍統領・温感とともに裏塘に進駐し、打箭爈から裏塘の間に兵站の駅を設置し、四川防備のために増兵を
請うてすべて入れられた。皇上は年羹堯の事に当たって明敏なことを嘉し、四川総督兼管巡撫事を授けた。
五十八年、年羹堯はチベットの敵情を測り、備えを固める。朝廷は松潘諸路の軍事を重要視し、年羹堯に
出兵を命ずる。年羹堯は都統・法喇(ファラ)とともに軍を進め、ファラは副将・岳鐘hとともに裏塘、
巴塘を巡撫した。ファラが京師に召し戻され、年羹堯は軍を還す。
 五十九年、皇上は平逆将軍、延信に兵を授けて青海からチベットに侵入させ、年羹堯は総督としてこれに
呼応、ファラとともに打箭爈に駐軍した。しかし番族の酋長・巴桑を殺したことで弾劾され、麗江知府・
木興に逮捕されて雲南城に囚われた。八月、清軍はツェリン・トンプトを破り、チベットを平定する。のち
釈放された。
 六十年、入観し四川・陝西総督を授かるも辞して鎮に帰り、弓矢を下賜される。勅命によりガルピ
([口+葛]爾弼)とともにチベット駐留を命じられるが、ガルピが体調を崩して行軍不可能となったので
それを聞き入れた。岳鐘hとともにチベットに赴任、ともに朝敵、クオルケ(郭羅克)を破り、その寨
四十余を抜いて余衆を悉く降伏させる。
 六十一年、チベット駐留軍を解散。病床の康熙帝は陝西のために銀五十万を下賜し、崩御。雍正帝が
立つ。年羹堯は管理大将軍を拝し、雍正元年、二等阿達哈哈番の世襲を許されて大保とされた。チベット
防備の策を上奏して三等公とされ、世襲を許される。同年チンハイ(青海)の諸部討伐に出征、十月、
撫遠大将軍・延信を誣告して弾劾し、自らその職を奪った。先鋒統領・素丹、提督・岳鐘hらを率いて
青海のクオルケを平定、二等公爵に進む。
 年羹堯が西寧を守ると、ジュンガルのラピツァン・タンジン(羅卜蔵丹津)が土番と結んで来寇、堡塁を
毀し濠を埋めて城に迫った。年羹堯は城樓にのぼり、左右に数十人を座らせて計略があると見せかけ、賊軍
をわずかに引き下がらせる。苦戦するも岳鐘hの援軍が到来、大砲を放ってジュンガルの衆を大いに破り、
ラピツァン・タンジンを潰走させた。
 再び上下北塔の回部諸将とともにラピツァン・タンジン来寇、年羹堯は部下の馬忠孝に命じて下北塔を攻め
させ、その拠点を悉く殺戮させて余衆を悉く下した。チャハン・ダンジンは敗走、ラピツァン・ダンジンも
潰走した。功績により貝子に任ぜられる。
 二年、ラピツァン・テンジンの叛は宥めること不可とされ、岳鐘hが奮威将軍を授かって年羹堯の副将となる。
郭陸寺においてラピツァン・テンジンと交戦、年羹堯は岳鐘hと素丹を督してこれを討ち、嶺を三つ越え十の寨を
毀した。二月三月と立て続けに戦功を立て、論功において功一等と認められ一等公爵に進み、精奇尼哈番を授かる。
 年羹堯は才気人に過ぎ、自らの才能を恃んでしばしば戦功を立てたが、驕慢となり、部下を督するときも官名で
なく姓名を呼んだ。護衛の軍を侍らせ、前後の士卒を引き寄せては鞭を取り落馬させて、入観するときは当然の
ように送迎を出させた。京師において大臣に遇っても礼を施さず、辺境において蒙古諸王を引見しては皇帝のように
振る舞い、額附・阿宝を従者のように扱った。陝西布政使・胡期恒、四川巡撫・蔡挺らは反発したが、皇上はよく
有為の人材を抜擢すること、数十戦を経て挫敗することなしの将才に免じて一度は彼を許した。しかし雍正二年十二月、
あまりの驕慢としばしば人を陥れた罪により捕縛され、九十二の罪状を並べられて、雍正帝曰く「忍びないが」斬られた。
官爵を削られ、世襲権も剥奪される。

338 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/28(火) 23:45:00 ID:71csGcs60
三国篇 歴代名将譜
http://club.book.sina.com.cn/yuanchuang/chapter.php?id=227890

339 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/29(水) 11:13:38 ID:CeL7pLsA0
古典名将排行榜

不朽名将

1 孫武
 世界第一兵書『孫子兵法』の作者にして中国軍事学の父。

2 呉起
 亜聖、軍事政治両面における奇才で、戦国第一名将。
  
3 李靖
 唐初第一名将で騎兵戦の天才、『李衛公兵法』『唐太宗李靖問対』の作者。

340 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/29(水) 11:14:11 ID:CeL7pLsA0
半人半神的名将

4 韓信
 漢初第一名将にして西漢建国の最大の功労者、また古兵法を整理した。

5 李世民
 唐の事実上の開国皇帝で、有史以来最速で天下を統一した中国第一名君(但し部下の助力、晩節を汚した部分などあり)。

6 岳飛
 常勝の名称で、南宋の救った英雄。
  
7 劉秀
 東漢の開国皇帝で、昆陽の戦いの奇跡を引き起こすなど、数々の勝利を収めた。
    
8 曹操
 魏の事実上の開国皇帝で、『孟徳新書』の作者。勝利と共に敗北も少なくないが、輝かしい戦績を収める。

9 陳慶之
 南北朝第一名将で、田中芳樹氏強力推薦(中国でも有名なのか?w)

10 柴栄
 五代十国最高の英主で、天下統一の事実上の最大の功労者が、惜しくも短命。

341 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/29(水) 11:14:42 ID:CeL7pLsA0
天才的名将

11 項羽
 東方のハンニバル、最強の武将だが戦略頭脳に大きな問題があった。
  
12 霍去病
 中国騎兵戦三大天才の一人。

13 衛青
 中国騎兵戦三大天才の一人。

14 班超
 世界で最も早期の植民者の一人で、「夷を以て夷を制す」策の先駆者。

15 孫臏
 『孫臏兵法』の作者で、二度に渡って魏軍を破って斉を隆盛へ導いた戦略戦術の奇才。

16 韋睿
 南北朝第二名将で、鍾離の戦いにおける梁軍の事実上の指揮官。

342 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/29(水) 11:15:33 ID:CeL7pLsA0
儒将的典范

17 周瑜
 若くして優れた武将で、人望もあったが、惜しいことに短命だった。

18 徐達
 明初第一名将、北伐を成功させた。

19 郭子儀
 唐再興の功労者で、「不戦而屈人之兵」理論を最も実践した。
  
20 李牧
 戦国四大名将の筆頭。その戦いぶりは後世に多大な影響を与える。  

343 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/29(水) 11:16:06 ID:CeL7pLsA0
超群的名将

21 劉裕
 南朝宋の建国者、北伐で大きな戦績を収める。
  
22 戚継光
 岳飛に匹敵する名将だが、歴史への影響力は及ばず。
 
23 諸葛亮
 諸葛亮は第一には政治家であるが、軍事面での功績も多大である。
  
24 楽毅
 戦績は輝かしいが、五国を連合させれば敗北の可能性は少ない。

25 檀道済
 南宋の名将で、用兵の達人、北伐後の撤退の手際が鮮やか。


344 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/29(水) 11:16:53 ID:CeL7pLsA0
26 拓跋Z
 北魏皇帝で、華北を統一した。  

27 王猛
 政治軍事両面に優れていたことから諸葛亮に匹敵。

28 王陽明
 思想家で陽明学の開祖であると同時に用兵の達人で、寧王の乱を鎮圧。

29 陸遜
 その功績において周瑜に近く、夷陵の戦いで劉備を破った。  
  
30 袁崇煥
 明朝最後の名将で、大砲を実戦投入した。

345 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/29(水) 17:43:10 ID:k6bSH5HA0
南北朝第一名将は、南朝なら劉裕(獲得した領土を考えれば、他に選択肢はない)
北朝なら、個人的には韋孝寛かなあ

魏晋南北朝期の北伐名将から、祖逖、桓温、謝玄(+劉牢之)が抜けていて
劉裕、陳慶之が入っているのがよく分からん(実力差に各人そこまで大きな隔絶はない)
何よりも、最大の北伐成功者、徐達の評価の低さにorz
単純に書籍化されているか否かだけで決められているランクづけのような……

346 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/29(水) 17:54:26 ID:eV0X8+c60
>>340
うほっ! 柴栄が半人半神的名将に、李世民、劉秀と一緒に入っている。かなりビビっときますな、これは。
でも、曹操もいるぞ…?
ところで、田中ヨッシー効果はあるみたいですね。
しかし>>335などを見ると、普通にランキングすると思うな、陳慶之は。

347 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/29(水) 18:08:49 ID:k6bSH5HA0
>>346
名将には間違いないし、ランキング入りも異論はないが……
他の名将たちと比較してみると、過大評価すぎる気が

まあ、曹操の位置にもかなり違和感を感じるが、向こうでもだいぶ英雄評価が根付いてきたのかな?
「半人半神的名将」というフレーズは、何か面白いな

348 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/29(水) 18:19:38 ID:eV0X8+c60
>>347
最初見たときは「半人半獣」かと思って抹茶ふきかけた。

349 :携帯から失礼:2007/08/29(水) 19:25:22 ID:0uEy2OTlO
> 11 項羽
>東方のハンニバル、最強の武将だが戦略頭脳に大きな問題があった。
いくらなんでもハンニバルは持ち上げすぎだよ。
> 23 諸葛亮
>諸葛亮は第一には政治家であるが、軍事面での功績も多大である。
> 27 王猛
>政治軍事両面に優れていたことから諸葛亮に匹敵。
アンチ諸葛亮が暴れそうw

350 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/29(水) 19:44:09 ID:eV0X8+c60
>>349
○さんのレスでわかった。
これ、あれだ。
田中芳樹の武将列伝の影響をモロに受けてるわ。たぶん。
李靖が騎兵戦術の天才とか、なんかそんな気がするぞwwwwww
でも、田中氏は柴栄に関してはスルーなんだけどな…
(世宗なのに、世祖とかって間違ってたことあったしよ)

351 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/29(水) 22:46:27 ID:Wcs0wIPf0
>>340->>344
内紛時の魏軍に捷った陳慶之が南朝随一で元英のもと磐石の魏軍を破った韋叡が二位って・・・
まぁそれはいいんですが。
諸葛亮って軍事に多大な功績あったかな? 確かに堅実な用兵は評価できるかも知れんけど、
魏延の長安衝きの策を「リスクが大きい」って斥けたあたりそれ以上ではなかった気がする。
さておき、
今日は明朝。王守仁から少し後の人、・榮です。
・榮(字は仁甫。生没年不明)
 山海衛の人。嘉靖五年の進士。はじめ戸部主事を任され、郎中に遷る。大同で兵変が起こると兵を率いて急行し、
城中に入って総兵官・李瑾を殺した。総督・劉源清が大同城を囲み、まもなく降す。・榮は知略あり、よく変化に
応じた。叛軍の士卒が城中で略奪を働したが、・榮は一切略奪・暴行をしなかった。外からの攻撃が激しくなると
・榮は都指揮・紀振、遊撃・戴廉、鎮撫・王寧らと密約を交わし、ともに賊軍を討った。叛卒・馬昇と楊麟には
逆心がないのを見て劉源清に書面を送り、助命嘆願してやった。白金三千両を得て死兵を募る。劉源清が罷免され、
樊継祖が後任となったが、彼は二人の助命を受け容れた。許された馬昇、楊麟は心を結し、黄鎮ら九人を殺す。
・榮は城門を開き、樊継祖を迎え入れて、自ら二十六人を斬った。功により光録寺少卿に抜擢され、遷されて
太常寺少卿とされた。
 二十二年、甘粛の右僉都御史巡察安撫となる。甘州の魯迷が九十余人で貢使を送り、総兵官・楊信が北虜から
彼らを護送したが十中一人ほどが殺された。・榮は「彼らは好んでやってきて、しかして鋭鋒を用うる。これを
遠くに失えば人心を喪い、中国の弱を示すことなる」と言って旗幟鮮明に北虜との対決を謳った。詔により楊信
は官を奪われ、・榮は死者を収容して帰還する。・榮の言葉に万人感悦した。
 一年後、大同巡撫・趙錦と総兵官・周尚文は仲が険悪であったので、朝廷は趙錦と・榮の職を交代させた。
アルタンが数万騎を率いて侵略してきたが、・榮は周尚文とともにこれを黒山で破り、右副都御史に進んだ。
同年、ふたたびアルタンが大挙中路から攻め寄せ、参将・張鳳を陣没させる。・榮と周尚文、および総督・
翁万達は重装備の兵で陽和を守り、北虜の騎兵隊を截ってわずかに敵を殺傷した。アルタンは兵を退く。
代王府の奉国将軍・朱充灼が楊和で略奪を行ったので、・榮は上奏して彼の俸禄を奪った。主充灼らは小王子と
結び、謀略によって大同を奪う。・榮は周尚文に告訴してこれを擒らえ、彼らを罪により誅するよう上奏した。
大同を奪い返した・榮は大同には天険がないことを憂い、東に百三十八里ところに辺墻、さらに堡七つ、墩台
百五十四箇所を築いた。また辺境防備のため兵糧を買い集め、さらに辺境の弘賜等に三十一個の堡塁を建て、
五百余里にわたって防衛線を構築する。田地を肥沃にして年十万頃の収穫を得、士卒を募り、一年間租税と賦役を
免除してかわりに軍馬を徴発し、秋冬の北虜来寇に備えた。皇上もその言に従う。同年、北虜来寇。・榮は周尚文
とともに戦い、弥陀山で敵を破って酋長一人を捕らえ、斬った。
 反乱平定の功により、兵部右侍郎に進められる。また辺境防備を繕ったことにより褒賞を下賜された。ふたたび
召されて兵部事務とされ、さらに兵部左侍郎とされる。尚書・趙廷瑞が罷免されるとその職務を代行し、辺境防備
の十策を上奏した。のち翁万達が尚書となり、またそのとき母が死んだので、兵部事務の官を辞し、病と称して
郷里に帰る。皇上は怒り、彼の官を奪った。その二年後、没。
 ・榮が大同巡撫のとき、翁万達が総督、周尚文が総兵であって、三人とも雄略将才があり、賊はしばしば大同を
攻めたが陥とすことができなかった。こののちの後継者に彼らを越える将才の持ち主は現れず、しばしば賊が大同
を攻めたので人々はますます・榮のことを思慕した。明年、アルタンは京師に迫ったが翁万達も・榮もすでになく、
人はかの二人の存在は寇賊を未然に防ぐために不可欠であったと論じた。万暦中、・榮の孫の延が順天通判となり、
祖父の功を上奏したので、・榮は名誉回復され工部尚書を追贈された。
明日は南北朝。これまで檀道済、韋叡、陳慶之と南朝から出したから、今度は北朝から出したいですね。
具体的には段韶、斛律光、李弼、韋孝寛あたりですか。リクあったらよろしく。

352 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/29(水) 23:17:08 ID:k6bSH5HA0
>>351
北周に天下取りの可能性を見出させた、江陵奪取の立役者于謹か
もしくは個人的に中国史上最高の智将韋孝寛を希望(お世辞抜きで)
韋孝寛いなかったら隋の天下統一はかなり遅れたと思うんだけど、こういう人物ってなかなかおらんよね
攻めて善し、守って善し、謀略に長けていて軍事戦略に明るいなんて、どれほど有難いことやら

353 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/29(水) 23:29:37 ID:GNxcCY/Z0
年羹堯は、有名だが名将ってイメージはないなあ。
岳鐘hとか、雍正帝の弟のナントカの方が軍功はあげているんじゃないかな。

354 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/30(木) 22:42:19 ID:4La/M/pE0
>>353さん
 すいません、確かにぱっと見華がないのは確かですが、
 それでもやっぱり年羹堯落とします。
 とりあえず時代順に年羹堯→岳鐘h→フルダン→フーヘン
 の順に片付けて行こうと思うので。
(ツェリンは以前紹介したから除外ってことでひとつご勘弁を)

355 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/30(木) 22:48:07 ID:ZIF6b4Ot0
>>351
>>内紛時の魏軍に捷った陳慶之が南朝随一で元英のもと磐石の魏軍を破った韋叡が二位って・・・

その意見に別に反対するわけじゃないけど、北魏の鍾離の戦いでは誰かというと、鍾離城を固守した
昌義士がすごいと思うんですよね。
梁武帝の北伐の際、大将となった蕭宏のどアホのせいで、一方で韋叡が小ケンを抜き、合肥を降したのに
北魏が迎撃軍を強化しだすととたんに動かなくなり、北魏軍から巾幗を贈られるという恥辱も受けながら
嵐に怯えて遁走するという体たらく。
昌義士はそんな状態でも、後退しながら敵を防ぎ、鍾離に拠ったところで、固守する態勢になれたのです。
北伐軍は一転して防衛軍となり、梁武帝も昌義士に鍾離の固守を命令し、北魏迎撃軍として
曹景宗の出馬となりました。
このときも、最初は渇水期だったのが、鍾離の堅守に手間取り雨季に突入してしまい、
ついには水戦に持ち込まれて、北魏は敗退しています。
まぁ、西暦955年の後周VS南唐でも似たような展開となってますが、南唐は寿州の堅守をいい方向に
利用できなかったのが敗因でもありますねぇ…

その一方で、こういうのも。
鍾離の戦いに先立って、元英は西暦503年にあった北魏の南征の一環において、
義陽の戦いで梁の蔡道恭との虚実の名勝負を繰り広げました。
結局は、蔡道恭が病死してしまい、残された守備部隊は降伏してしまったのですが。
(この辺も、柴栄VS劉仁贍と酷似している気がする)


356 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/30(木) 22:49:44 ID:gKRUsI1f0
年羹堯(字は工亮。?-1726)
 漢軍鑲黄旗の人。康熙三十九年の進士で庶吉士とされ、僉討を授かる。四十八年、抜擢されて巡撫となった。
斡偉、生番、羅都ら掠賊が寧番衛を侵すと、遊撃・周玉麟とともにこれを撃つ。この功により提督・岳昇龍の
麾下に入った。岳昇龍は賊軍を討って羅都を生け捕り、年羹堯は羅都がすでに擒らわれたと聞いて軍を還した。
五十六年、越雋護らの乱発生、年羹堯は遊撃・張玉を派遣してこれを平らげる。
 同年、ツェワン・アラプタン(策凌阿喇布坦)が将軍・ツェワン・トンプト(策凌敦布卜)を遣わしてチベットを
攻め、ラツァン・ハン(拉蔵汗)を伐った。四川提督・健泰は兵を率いて黄勝関に出たが、及ばず兵を還した。
年羹堯は密書をもって康泰は兵の心を失い、用うるべからずと上奏、五十七年、年羹堯は護軍統領・温感と
ともに裏塘に進駐し、打箭爈から裏塘の間に兵站の駅を設置し、四川防備のために増兵を請うてすべて入れ
られた。皇上は年羹堯の事に当たって明敏なことを嘉し、四川総督兼管巡撫事を授ける。五十八年、年羹堯は
チベットの敵情を測り、備えを固める。朝廷は松潘諸路の軍事を重要視し、年羹堯に出兵を命じた。都統・
法喇(ファラ)とともに軍を進め、ファラは副将・岳鐘hとともに裏塘、巴塘を巡撫した。ファラが京師に
召し戻され、年羹堯は軍を還す。
 五十九年、皇上は平逆将軍、延信に兵を授けて青海からチベットに侵入させ、年羹堯は総督としてこれに呼応、
ファラとともに打箭爈に駐軍した。しかし番族の酋長・巴桑を殺したことで弾劾され、麗江知府・木興に逮捕
されて雲南城に囚われた。八月、清軍はツェリン・トンプトを破り、チベットを平定する。のち釈放された。
 六十年、入観し四川・陝西総督を授かるも辞して鎮に帰り、弓矢を下賜される。勅命によりガルピ([口+葛]爾弼)
とともにチベット駐留を命じられるが、ガルピが体調を崩して行軍不可能となったのでそれを聞き入れた。
岳鐘hとともにチベットに赴任、ともに朝敵、クオルケ(郭羅克)を破り、その寨四十余を抜いて余衆を悉く
降伏させる。
 六十一年、病床の康熙帝は陝西のために銀五十万を下賜し、崩御。雍正帝が立つ。年羹堯は管理大将軍を拝し、
雍正元年、二等阿達哈哈番の世襲を許されて大保とされた。チベット防備の策を上奏して三等公とされ、世襲を
許される。同年チンハイ(青海)の諸部討伐に出征、十月、撫遠大将軍・延信を誣告して弾劾し、自らその職を
奪った。先鋒統領・素丹、提督・岳鐘hらを率いて青海のクオルケを平定、二等公爵に進む。
 年羹堯が西寧を守ると、ジュンガルのラピツァン・タンジン(羅卜蔵丹津)が土番と結んで来寇、堡塁を毀し
濠を埋めて城に迫った。年羹堯は城樓にのぼり、左右に数十人を座らせて計略があると見せかけ、賊軍をわずか
に引き下がらせる。苦戦するも岳鐘hの援軍が到来、大砲を放ってジュンガルの衆を大いに破り、ラピツァン・
タンジンを潰走させた。
 再び上下北塔の回部諸将とともにラピツァン・タンジン来寇、年羹堯は部下の馬忠孝に命じて下北塔を攻めさせ、
その拠点を悉く殺戮させて余衆を下した。チャハン・ダンジンは敗走、ラピツァン・ダンジンも潰走した。功績に
より貝子に任ぜられる。
 二年、ラピツァン・テンジンの叛は宥めること不可とされ、岳鐘hが奮威将軍を授かって年羹堯の副将となる。
郭陸寺においてラピツァン・テンジンと交戦、年羹堯は岳鐘hと素丹を督してこれを討ち、嶺を三つ越え十の寨を
毀した。二月三月と立て続けに戦功を立て、論功において功一等と認められ一等公爵に進み、精奇尼哈番を授かる。
 年羹堯は才気人に過ぎ、自らの才能を恃んでしばしば戦功を立てたが、驕慢となり、部下を督するときも官名で
なく姓名を呼んだ。護衛の軍を侍らせ、前後の士卒を引き寄せては鞭を取り落馬させて、入観するときは当然の
ように送迎を出させた。京師において大臣に遇っても礼を施さず、辺境において蒙古諸王を引見しては皇帝のように
振る舞い、額附・阿宝を従者のように扱った。陝西布政使・胡期恒、四川巡撫・蔡挺らは反発したが、皇上は
よく有為の人材を抜擢すること、数十戦を経て挫敗することなしの将才に免じて一度は彼を許した。しかし
雍正二年十二月、あまりの驕慢としばしば人を陥れた罪により捕縛され、九十二の罪状を並べられて、
雍正帝曰く「忍びないが」斬られた。官爵を削られ、世襲権も剥奪される。

357 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/30(木) 23:43:06 ID:9Zn1yEGVO
>>356
とりあえず、年羹堯のことは分かった。

358 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/30(木) 23:57:26 ID:LmH6iTXv0
>>357さん
年羹堯は名将ではないかもしれませんが、
しょっちゅう人を貶めたり財貨を着服したりして、なかなか愉快な人なんです。
実際こんな人物と同僚だったらたまったもんじゃありませんが、
うちの職場にも人を悪く言って神経逆撫でするのが大の得意って人がいるから
似てるかもしれません。(まぁ彼は人を陥れるまではしませんが)
人間的には好きになれんけど功績もあるし、面白い人物ってことで紹介しました。

359 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/31(金) 00:13:18 ID:1r6uoMW20
年羹堯は漢軍鑲黄旗ってことは民族は漢人か。
年という姓もあるんだね。

360 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/31(金) 00:13:27 ID:QkP3Oqpw0
紹介も二度目なら

361 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/31(金) 02:25:09 ID:wS1/JRpDO
少しは上手に愛のメッセージ伝えたい

362 :携帯から失礼:2007/08/31(金) 02:38:26 ID:2WNSZy0+O
>>356>>358
何人かの方が指摘してますが年羹堯は>>337で既に紹介済みですよw

>>355
ん?五代十国に準えてる(引き合い)人が他にもいるとは珍しい。

363 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/31(金) 07:02:19 ID:X/RTXEI40
>>360さん >>362さん
うあぁ、本当やが。なんで忘れとったかな年羹堯。
しかも訳したの二度目なのに内容まったく一緒。10数ページあるんやから変化してもいいはずなのに・・・。
とにかく完全なド忘れ、凡ミスです。
今日明代の名将と一緒に岳鐘hもやっつけるんで、どうかそれでお赦しを。

364 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/31(金) 08:59:58 ID:RaKBDV1q0
>>362
いや、本人です…

365 :携帯から失礼:2007/08/31(金) 10:05:17 ID:2WNSZy0+O
>>363
>しかも訳したの二度目なのに内容まったく一緒。10数ページあるんやから変化してもいいはずなのに・・・。
>とにかく完全なド忘れ、凡ミスです。
どちらかというと二度も訳してる方にビックリ!!
てっきり保存してたのをコピヘして貼りつけただけだと思ってた。

>>364
こりゃあ失礼しゃした…


366 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/31(金) 10:38:42 ID:fzfs942a0
>>354
フルダンって、陣中にたくさんの槍立てて威嚇して、
岳鐘hか誰かから「こんな大将じゃアカンわ」と言われた、
無能じゃなかったか。

宮崎翁の「雍正帝」のエピソードだと思ったが、
もしかするとそれ以外は有能だったのかな。


367 :携帯から失礼:2007/08/31(金) 14:19:04 ID:2WNSZy0+O
>>336
・フルダンはホトンノールの地で数万の敵の包囲を受け大敗。
前線基地のコブド(科布多)に帰り着いたのはわずか二千余りという惨敗ぶり。
・ツェリンがエルデニジョーでジューンガル軍を大いに打ち破る際も
敗走する敵を効果的に追撃することが出来なかった。
・また賞罰や命令が一貫しない、兵士を愛さないなどの理由で
ついに将軍を解職される。
・後に岳鐘キと共に復帰して金川への出兵で再び四川提督として起用される。

以前にも投下いたしましたがフルダンはこんな感じでポカが多いですね。
岳鐘キの足引っ張ってる様な気ガス…

368 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/31(金) 15:51:14 ID:fzfs942a0
うーん・・・w
これは愚将ですね。
とくに>また賞罰や命令が一貫しない、兵士を愛さない

369 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/31(金) 21:08:40 ID:9CmC2cmX0
携帯から失礼さん、>>368さん
フルダンは愚将ではない、といいたいところですが・・・
兵士一万で千五百人しか倒せず、しかも八千人と将軍五人を死なせ、
軽挙妄動が多く岳鐘hから「大将、謀を恃まず勇を恃めば、敗れるなり」
と辛辣な評価を受けているあたり、名将とは言えませんね。
でも清史稿読むと軍規は厳明なイメージなんですが。
敗戦も極端に制限された兵力しか与えられずにやむなく負けた、が多いし。
(晩年、ジュンガルの大軍を抵御せよとして与えられた兵力は三千人でした)
ともあれ別の候補探さんとなー。フーヘン以前で誰がおるやら。
とりあえず今日は・榮と一緒に北賊と戦った周尚文を挙げたいというか、
すでに訳してるので投下したいと思います。あと岳鐘hも今日中に落とす予定。

370 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/31(金) 21:15:13 ID:9CmC2cmX0
とりあえず周尚文です。次は曾銑、張経、胡宗憲の順で。
周尚文(字は彦章。1414−1548)
 西安後衛の人。幼いころより読書を好み、その概要に通じた。謀りごと多く騎射に長ずる。十六歳のとき世襲により父の官爵を
継ぎ、指揮同知となった。しばしば塞外に討って出ては戦い、功あり、指揮使に昇任する。
 寞潘が叛くと周尚文は黄河の渡しでこれを迎撃、賊将・丁広らを擒らえ、推挙されて掌衛事となる。関内の回族発起し南山に
割拠するとこれを平定した。御史・劉天和が寥堂に忌まれ、弾劾されて獄に落とされると、連座して獄に落とされる。拷問を受けた
が二人とも寥堂の言いなりにはならず、長期にわたる獄中生活ののち釈放された。のち階州を守る。反逆した諸番を擒らえるための
戦略を画策し、諸部指揮僉事、甘粛遊撃将軍とされた。嘉靖元年、改めて寧夏参将となる。まもなく指揮同知に昇進、涼州総兵の任につく。
 九年、署部督僉事に昇進、寧夏総兵官にあてられる。王瓊が長城を修築すると、周尚文はそれを督した。同時に大規模な屯田を
起こし、軍民の利益とする。北虜が西海を犯し、寧夏を過ぎた。巡撫・楊志学は兵を発して征討すべしと解いたが、周尚文は無用と
答えた。ために弾劾され、職を解かれる。しばらくのちまた再起用され、山西副総兵となる。北虜が偏頭関から岢嵐に急行すると、
周尚文は迎えて戦うこと三百里、これを破った。周尚文の子、周君佐も創を負いながら奮戦し、銀幣を賜る。まもなく総兵官とし
て延絳に鎮した。北虜が紅山墩を犯すと、力戦してこれを退けて褒賞を受ける。
 周尚文は優れた将才の持ち主だが、気位が高く容易に他人と馴れ合わず、それで文吏と争い弾劾されることも多々あった。北虜の
チシェン(吉襄)が大挙入関し、固原に到る。総兵官・劉天和はひたすら固守し、周尚文は激励の声を飛ばして功を立てた。職に
復した周尚文は黒水苑で北虜の軍と交戦、吉襄の息子・小十王を殺して自ら首級130余を挙げた。功により都督同知。
 二十一年、推薦により東官順聴征総兵官兼僉後府事となる。礼部尚書・厳崇の息子が非常に傲慢だったので、周尚文は面と向かって
これを痛罵した。また弾劾されるところだったが、厳崇は非を認めて自ら免職した。同年秋、総兵官として大同に鎮す。チシェンが
万余の騎兵を引き連れて前衛を犯すと黒山で迎え撃ち、大いに破る。チシェンの子・マンチャタイ(満罕歹)を殺し、涼城まで追撃
した。斬首無算、功により右都督とされる。まもなく北虜の軍が宣府に逼ると、周尚文は塞を出て北上し、北虜の軍に一撃を喰らわせ、
俘虜数万を得た。北虜の軍は再度大挙して南進し、鵓鴿谷を取って南下する。周尚文は楊和で敵軍に備え、四方に騎兵を伏せて敵が
到るや一斉に発たせた。北虜は逃げ散り、周尚文は皇上から宝物とねぎらいの言葉を賜った。
 総督、翁万達は長城修築を提議、宣府から楊和を通って大同の開山口までの二百里の工程監督を周尚文にゆだねた。周尚文はつつが
なくこなし、これによって長城は400里の長さで塞外の民を阻むことになる。また大同で屯田を興し、4万頃を拓いて、兵士1万
3千人を増した。その功により左都督に進み、太子太保を加えられた。のち大保。総兵官の身で三公にのぼったのは、明朝一代を通し
て周尚文一人だけである。
 はじめ、アルタンとチシェンの諸子が強盛を誇り、辺境各部は毎歳災禍を蒙った。大同はその最たるものだったが、周尚文が赴任して
からは民衆は安寧を教授できるようになり、一方で北虜の勢いは日に日に弱まって行った。二十七年八月、アルタンが五堡に伏兵を敷き、
指揮・顧相を弥陀山に誘い出して囲んだ。周尚文は塞を出て救援に赴き、囲みを解くべく督戦したが、指揮の周奉、千戸の呂ト、郝經ら
が陣没するという大苦戦。転戦して野口に到ると伏兵が発ち、囲まれ窮地に陥りつつも死戦して酋長の一人を斬った。数ヶ月が過ぎ、
北虜はようやく軍を還す。周尚文は敵軍の殿に逆撃を加えようと画策、アルタンが帰路、万騎で宣府を犯す構えを見せると、曹家荘で
敵を大敗させた。同年没。太傳を追贈され、武襄と謚された。
 周尚文は倹約家で士卒を愛し、その死力を尽くさせることが出来た。間諜を巧みに用いて敵の動向を知り、しかるのちに戦うのでよく
勝利を獲た。宿将の王效、馬永、梁震らが死んだのち、アルタンに抵抗できるのは彼一人しかなく、威名は大いに盛んとなった。


371 :携帯から失礼:2007/08/31(金) 22:07:29 ID:2WNSZy0+O
>>352
韋孝寛は>>203で紹介されてますが、もし>>203氏=>>352氏なら聞き流して下さい。
>>353
乾隆帝の義弟とは博恒(ハクカン?)のことでしょうか?
四川地方に起こった反乱を、岳鐘キと共に助け合って鎮圧に成功し、またジュンガル部の反乱も鎮めたとのこと。
この功績により中央の重職にも就き軍機大臣も勤めるも、
政治に対しては慎重で、権力を笠に着て干渉することも無く、
しかも部下や兵士たちを大切にしていたらしく、
フルダンとは全く正反対の人物のようですね。
>>368
清の愚将には崇綸・楊芳・博勤恭武(ポチンコンウ)←ネタじゃないよw
つーのもいますね。

ちなみに雍正帝の頃の蒙古八旗は蒙古語が話せなくなっていたらしく、
翻訳科挙が実施され試験の項目には弓と剣もあったそうな。
また1756年に台湾での秘密結社「天地会」による反乱では、
満州八旗が惨敗し、八旗漢軍に任せる羽目になりほど弱体化してたそうで…


372 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/31(金) 22:25:11 ID:fzfs942a0
>博恒(ハクカン?)

傅恒。「博」ではないですよ。
姉(乾隆帝の奥さん)の七光り・・・?

373 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/31(金) 22:28:19 ID:fzfs942a0
あ、>>353は自分だけど雍正帝の弟は撫遠大将軍胤ダイ(示+題)だった。

宮崎市定「雍正帝」によれば康熙帝の若い頃に似ていて、康熙帝が偏愛してたみたい。


374 :携帯から失礼:2007/08/31(金) 22:37:37 ID:2WNSZy0+O
>>372
ありがd ちなみに傅恒はハクカンであってる?
>>373
これまたありがd なんか義弟とか弟やらややこしいのがいるねw

◆oOLAqFKRB.さん、明亮か額森特なんていかがてしょうか?
百選で明亮をプッシュした時、阿桂か額森特の方が功績が上だって言われたのですが
額森特に関しては知識が皆無でして…


375 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/31(金) 22:55:21 ID:fzfs942a0
傳は「フ」じゃない? 司馬懿の就いた名誉職が「太傳(タイフ)」だったし。

明亮はガイエも推してるし、アジア歴史事典で読めるしなあ。
額森特ってのは初めて聞いたな。

376 : ◆oOLAqFKRB. :2007/08/31(金) 23:18:31 ID:QqwI2VJa0
>>374、携帯から失礼さん
その傳恒が次の翻訳候補、フーヘンなんです。
皇帝からの賜り物はすべてスルー、そして
姉である皇后からのご下賜品は大事に取っておくという、ちょっとシスコンな人でした。
将才は十二分、清廉で部下を可愛がり、名将の名に相応しいかと。
ミンリャンかエリント、ですか。名将には違いないけどフーヘンより後の人だからなぁ。
じきに訳すときが来るだろうけど、
今は対ジュンガル、および大小金川の乱で活躍したフーヘン以前の将をもう一人ぐらい挙げたいのです。
まぁ、じっくり考えるとして。
エリントはフーヘンのビルマ遠征における用兵を研究、
乾隆中期に再び活発化した大小金川の乱を鎮めた名将です。
ハイランチャとともに先駆けて敵陣を陥とし、“墨爾根巴図魯”の称号を授かりました。

377 : ◆oOLAqFKRB. :2007/09/01(土) 00:10:49 ID:+efjCaET0
昨日はすいませんでした、ということで岳鐘hです。
岳鐘h(字は東美。1686-1754)
 四川成都の人。はじめ同知。のち武職に改められ松潘鎮遊撃となる。還えられて四川の永寧協の副将となった。康熙五十八年、ジュンガルの
ツェワン・アラプタンおよびツェリン・ドンドプがチベットを襲うと都統・ファラ(法喇)とともに現地に赴き、裏塘・巴塘の衆を御撫した。
五十九年、定辺将軍ガルピ(葛爾弼)がラリ(拉里)に入るとその先駆けとなり、洛隆宗に至ってジュンガルの使いを斬り、番族を驚服せしめた。
ジュンガルが至るに及んで岳鐘hは策を弄し、ジュンガル軍到着前にラサを急襲、チベット兵を大破し、ツェリン・ドンドプを敗走させてチベット
を平定した。六十年、軍を還して左都督、四川提督、孔雀翎を授かる。グルコ(郭羅克)の番族討伐を命ぜられて松潘から出撃、四十六の寨を抜いて
グルコ三部を平定、喇布勒哈番の世襲を許される。六十一年、南坪営において羊峒の番族を討った。
 雍正元年、年羹堯の参賛軍事としてチンハイ(青海)を討ち、上・下寺のトンツェブ(東策卜)番部、南塞外のグミ(郭密)、チェンク(呈庫)、
フルグ(活爾賈)ら諸番の居巣に侵入、ことごとく平定した。二年、奮威将軍を授かる。郭隆寺のラマ僧に呼応してルプチャン・ダンジン(羅卜蔵丹津)
が乱を起こすと、諸軍と合して寺を毀し、ルプチャンの宗族をことごとく殺し、転戦してその衆八万を斬り、乱の関係者をみな捕らえた。チンハイを
平定し、三等公に封ぜられ、黄帯を下賜された。
 塞外の番民・チャンラン(荘浪)が卓子山、碁子山の二山に拠して乱をなすと、年羹堯の命を受けてこれを討伐、五十日にして平定してのけた。
三年、甘粛巡撫を兼ねる。四月、年羹堯が兵権を解かれると改めて杭州将軍、川陝総督とされ、金川方面の諸軍を督す。
 同年、謀反の疑いをかけられるも、皇上は書簡に「聖祖六十余年の厚恩を君と君の父が受けたこと、衆はみな知る」と書き送り、信任を揺るがせに
しなかった。六年、靖州の諸生・曾静に造反をそそのかされたが断固として固辞、これを斬って献じ、皇上は岳鐘hの忠義を褒め称えた。ときにルプチャン・
ダンジンは敗走してジュンガルに投じ、ツェワン・アラプタンの麾下に納まった。ツェワン・アラプタン死後、ガルダン・ツェリンが立ち、しばしば
ハルハ諸部を圧迫するので、皇上は岳鐘hを寧遠大将軍、フルダン(傳爾丹)を靖辺大将軍に任じてこれを討たせた。八年五月、二人の大将軍は
作戦方略を示し合わせて出陣、岳鐘hは各地で勝利したが少なからず将を失い、安西に彼らを祀る慰霊碑を立てた。勝利を重ねながらもジュンガルの
バルクル(巴爾庫爾)急襲に反応できず、拠点を失う。九年十二月、帰還後官爵を奪われ、兵部に拘禁された。十一年、かわってサロア(査郎阿)が
大将軍となる。郭鐘hはその驕慢なることを上奏して皇上を諌めたが、斥けられた。十二年、バルクル陥落の責として斬首と決まった。しかし折りよく
雍正帝崩御。乾隆帝が立ったので死を免れた。乾隆二年、釈放される。
 三年三月、四川提督を授かり孔雀翎を下賜される。経略大学士・ネキン(訥親)、四川総督諸軍事・張広泗のもと大金川攻略に参加、レイウェイ
(勒烏囲)に拠す台酋長・シャルベン(莎羅奔)およびガラノン(葛拉依)に拠すその息子・ランカ(郎卡)を攻めるが成果あがらず、皇上に「張広泗は
土番のリャンルジ(良爾吉)、ワンキ(王秋)らを信用していますが、彼らこそ獅子心中の虫です」と上奏。皇上は「番族を信じて騙され、兵を無駄に
死なせた」罪でネンキと張広泗を捕らえ、フーヘンをネンキの、岳鐘hを張広泗の後任に据える。フーヘンはよく岳鐘hの意見を聴き、その意見を採用した。
岳鐘hはフーヘンと示し合わせ、精鋭三万五千の兵を率いて水陸陵路で進発、レイウェイを囲み、前後してガラノンを攻めて、最後には十三騎でレイウェイの
守りを開き、約一年をかけてシャルベンとランカを擒らえた。帰国後、太子少保を加えられ、三等公に封ぜられて、威信の號を下賜された。十九年、重慶の
民・陳琨の乱を平定。京師に戻る途上、資州で病に倒れ没した。国葬を賜り、襄勤と謚される。
 岳鐘hは物静かで知略を内に秘め、士卒を統率するに厳しかったが彼らと艱難辛苦をともにして慕われた。清朝一代を通して漢人でよく満人を統御することが
できたのは彼一人であったという。乾隆帝の五功臣として、「三朝武臣の巨擘(巨頭)」と言われる。
明日は南北朝。韋孝寛はすでに挙がってるし、于謹は100選スレで書いたし、他には李弼、楊忠、王軌あたりですかね。あと段韶、斛律光。相変わらずリク募集中です。

378 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/01(土) 00:24:39 ID:S6AVvNDh0
紹介乙です。

>年羹堯が兵権を解かれると改めて杭州将軍、川陝総督とされ、
>金川方面の諸軍を督す。

原文見てないけど、年羹堯が兵権を解かれて杭州将軍になり、
代わりに岳鐘hが川陝総督になった、という意味では?
杭州って浙江省じゃなかったっけ。
それともチベットにそういう地名があるのかな??

379 :携帯から失礼:2007/09/01(土) 00:35:15 ID:aFKJJ+YGO
フーヘンについてちょっと調べて見たのですが、
フーヘンはビルマの降伏革命政権を討ち、
樹立した新ビルマ王朝が、中国国境付近の民族を脅し、納税を強制しているのに対し、
乾隆帝が満州人の明瑞にビルマ征討を命じるも、
明瑞は敗死、乾隆帝は次にフーヘンを総大将に任命。
フーヘンは国都の近くまで迫りながら決戦を行うことが出来ずにいたが、
ビルマ王が降伏をして来たのを許して兵を引き揚げ、
また金川の族長、莎羅奔(サラベン)を降伏させてますね。 岳鐘キの時もコイツは降伏してる様な…もしかして同時期?
ちなみに孝賢皇后は満州族の富察(フチャ)氏出身とのこと。
フーヘンもかなりのエリートなんでしょうか?

個人的には李弼をリクしたいです。
最後になりましたがID:fzfs942a0さん、◆oOLAqFKRB.さん、なんどもありがd
そして紹介文乙です。

380 :携帯から失礼:2007/09/01(土) 00:49:49 ID:aFKJJ+YGO
>>378
康熙五十八年(1719)、都統法喇に従ってチベットに入り、ジュンガル兵を駆逐。
功により四川提督に抜擢される。
青海のロブザンダンジンの乱の平定に参加し、功により三等公に任ぜらる。
その後、川陜総督となり、年羮堯に代わって寧遠大将軍・主持西路軍事となった。
となってます。自分も原文を見てませんから、
あってるかどうかは自信がないのですが…

381 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/01(土) 10:45:32 ID:pGKDe0gT0
スレ違いかも知れないので恐縮だが、
韓信や項羽が東洋のハンニバルは持ち上げすぎと時々言われるが、この二人がハンニバルに
到底およばないなら、東洋の武将は西洋の武将に決定的に劣るということか?

近代以降はともかく、少なくとも中世まではそんなに差はないと思うのだが、
「孫子」ほどすぐれた兵法書は西洋にはなかったし、
西洋の方がシステムが優れているというだけで西洋>東洋と決めつけるのは
どうかと思う。モンゴル相手にも東洋の方が善戦していたような気がするが

382 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/01(土) 11:11:29 ID:kFqIcxie0
>>381
韓信を東洋のハンニバルなんて呼ぶ例は見たことないな、少なくともこのスレではなかったようだけど
韓信なら、ハンニバルとどっちが優れているかは人それぞれなんじゃないか?

項羽は名将と呼んでふさわしいかどうか、人によって意見が異なるだろう
個人的には項羽はカリスマ性はともかく、戦術的にはハンニバルに遠く及ばないので、
東洋のハンニバルという呼び方はふさわしくないと思う

383 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/01(土) 11:40:58 ID:XuO5ymub0
おれはむしろハンニバルが持ち上がれすぎと思うが

384 :携帯から失礼:2007/09/01(土) 12:23:33 ID:aFKJJ+YGO
>>381
韓信はともかく項羽を東洋のハンニバルとは言い難いな。
パワーで押す戦術が特徴的だから言ってるだけに思えてならない。>項羽
自分はシステム云々は東西そんなに差はないと思うし、
世界史板の人は古代ローマの方が優れてると思い込んでんでしょ?

>>382
この板で似たような意見ならあるよw
以前アンチ孔明スレで韓信はハンニバルに匹敵するってカキコしたら速攻で、
専制国家氏かって言われた…
つーか専制国家氏のこと知らないんだけど…
韓信スレでもハンニバルと韓信が戦ったらどっちが勝つ?
ってレスに答えたこともあるし。


385 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/01(土) 13:54:53 ID:n8ElYltI0
待て、項羽のどこがパワー押しの武将なんだ?
機動力をフル活用した(騎兵だけが機動戦なわけでない)、強力な突撃力の発揮こそが持ち味だぜ
城攻めも苛烈にこなすす、野戦は言うまでもない

戦術能力が高くなければ、急造の反秦の義勇軍で、秦正規兵を率いる王離を撃破したり
あるいは城攻めで、関東の秦側の郡県をあれだけ陥落させるのは難しいと思うんだが
諸兄は、どこらへんで項羽の戦術能力が低いと判断される?

386 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/01(土) 19:19:52 ID:wJ/ZFy/a0
>>384
>>速攻で、 専制国家氏かって言われた…

言ったの自分かもしれんwwwwwww
いやぁ、専制国家氏の香ばしさにいろいろと関わってましたんで。
曹操と韓信とハンニバル至上主義で、あとの連中皆糞と公言してはばからない御仁でしたね。
(ああ、あとアレキサンダーもうんたら言ってたか)
知識的に悪い人でもないし、魏晋の貴族制のありかたとかも教えを受けたりしたんですよね。
全体的に釣りっぽい人でしたよ。
自分は基本的に、唐宋変革期を主体に調べている立場上、古代中世だけの人で
あとの時代すべてを超越したような書き方、持ち上げ方を否定したんです。
いろいろと勉強になった人で、今どうしているのかわかりませんわ。

それもあってか、自分は多少、ハンニバル持ち上げ論にはいささか否定的なところがあります。
あと、韓信、というか劉邦期の前漢王朝についても、やや過小評価な傾向にありますね。
漢の栄誉は、後に続く賢帝にこそ正当な評価があると思ってますから。

387 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/01(土) 20:13:02 ID:1mTLDvSM0
専制国家氏って今もこの板来てるのかな?

388 :携帯から失礼:2007/09/01(土) 21:10:58 ID:aFKJJ+YGO
>>385
機動力をフル活用した強力な突撃力の発揮こそが持ち味の核になってるのが、
項羽の武とカリスマ性にあると個人的には思ってる。
(古代ではこの要素は結構重要だし)
ハンニバルの包囲殲滅戦法と項羽の機動力をフル活用した強力な突撃力が
(パワーで押す戦術が特徴的とはこれを示したつもりなのだが)
類似点とされてるのかな?と思ったから意見を述べた訳で、
別に項羽の戦術能力が低いと言ったつもりはないんだけど…

>>386
うーん、そうなの?結構小馬鹿な言い方されたんだけど…(別に気にはしてませんが)
劉邦期の前漢王朝の評価とかの話を聞くとウズウズしちゃうけど、
スレ違なんで止めときますw
>>387
自分はあちこち覗いてるけど見たこと無いようなキガス。

389 : ◆oOLAqFKRB. :2007/09/01(土) 22:34:51 ID:S4fZwr0g0
なにやら面白そうな議論があったようですがさておき、南北朝・北周からご指示どおり、李弼です。
李弼(字は景和。493-557)
 遼東襄平の人。幼い頃より大志を抱き、膂力は衆人に過ぎた。北魏の宗室が騒乱の様を呈すると身近な人々に
「丈夫として生まれたからにはすべからく峰刀を履き、寇難を平らげて社稷を安んじ功名を取るべきだ。碌々と
命を安んじるより、功績を立てて栄位を求めるべきではないか?」と説く。北魏の永安元年、爾朱天光に引き立て
られて別将となり、天光に従って西征、蜀の赤水を取った。功により征虜将軍とされ、石門県伯とされて食邑
五百戸を下賜された。また賀抜岳とともに万俟醜奴、万俟道洛、王慶雲らを討ち、ことごとくこれを破った。
李弼は常に先駆けて陣を陥とし、向かうところ敵なし。賊はみな恐れをなし、「李将軍の前には出たくない」と
語り合った。
 爾朱天光が斛斯椿に殺されると候莫陳悦に隷属、大都督を授けられ、通直散騎常侍を加えられた。太昌の初め、清水郡守、
恒州大中正となる。まもなく南秦州刺史。候莫陳悦の征討に従い、しばしば戦って捷ちを挙げた。候莫陳悦が賀抜岳を殺す
におよび、隴に兵を止める。このとき宇文泰が平涼から候莫陳悦を伐ちに現れたので、李弼は候莫陳悦に「公が賀抜岳を罪
なくして斬ったことでもはや部衆の心は去りました。宇文夏州(泰)は彼らを収めてよく用い、死力を尽くさせるでしょう。
彼らは公を主将の仇として狙い、その決意は堅く、小さくありません。今兵を解いてこれに謝すればよし、しからずば必ず
災禍を受けるでしょう」と諫言を呈した。候莫陳悦は恐れ戦き方策なく、李弼は候莫陳悦の必敗を知って自ら率いる部衆に
「宇文夏州は才略当世に冠し、仁義に厚く衆人に讃えられている。しかるに候莫陳悦は智慧なく謀ばかり大きく、自らを保つ
も危うい。吾らは自らの保全のため、彼を恐れる者たちと賊滅をともにしようではないか」と説く。宇文泰の軍が迫ると
候莫陳悦は李弼らを棄てて秦州の南に逃れ、天険に拠して自らを固める。翌日、李弼は密使を遣わして宇文泰と通じ、候莫陳
悦を見限って投降した。夜、候莫陳悦に棄てられた諸部の兵を迎えに行くも、候莫陳悦の妻の妹を娶りながら背いたことを
糾弾され、諸部の兵は解散して秦州城に逃れる。李弼は先駆けて秦州に向かい、諸部の兵を慰撫し改めて宇文泰に降った。
宇文泰は「公と吾とが心を一つにすれば、天下を平らぐに不足はない」と彼の才知を讃え、ともに候莫陳悦を破る。金宝、
奴婢を得て、ことごとくそれを必要とするものに分け与える。李弼は原州に鎮守することになり、まもなく秦州刺史を拝した。
 宇文泰が兵を率いて東下すると、李弼は大都督・領右軍として従軍、潼関と廻洛城を攻め落とす。大統の初め、儀同三司に
進められ、雍州刺史となる。まもなく驃騎大将軍、開府儀同三司。宇文泰の竇泰討伐に従い、先鋒となって敵陣を陥とし、甚だ
多くを斬り、擒らえる。宇文泰は李弼に竇泰の甲冑を授けた。また弘農平定にも従軍。高歓と沙苑で戦い、軍を左右に分けて
進軍、左軍が敵に撃たれると自ら六十騎を率い、横から突撃。奮戦して賊軍を破る。功をもって特進、趙郡公とされ食邑一千戸
を加増された。また賀抜勝に河東で捷ち、汾・絳を攻略した。太昌四年、宇文泰の洛陽討伐に従軍、先鋒となり、東魏の将・
莫多婁貸文を破ってその首を斬る。翌日、河橋の戦いでは敵陣深く突入し、七つの創を負いながら敵陣を陥とした。が、囲まれた上
重症で昏倒する。誰かが馬に乗せて彼を救ったので、かろうじて命を拾った。五年、司空。六年、候景が荊州に割拠すると独孤信
とともに防禦に当たり、候景を退けた。九年、邙山の戦いで功を立て、大尉となる。十三年、韓軌に囲まれた候景を下命により救う。
十四年、稽胡の乱を平定し、太保、柱国大将軍となった。魏の廃帝元年、徒河氏の姓を授かり、太傳、大司徒を拝す。晋公・宇文護
が政務を壟断すると于謹とともに参議にのぼった。孝閔帝が即位すると太帥、趙国公とされ、食邑万戸を下賜される。前後して
もらった賞物は数え切れないほどになっていた。
 李弼はしばしば征討に従い、朝に命令を受ければ夕方にはもう出発していた。家のことに関わらず、国を憂いてわが身を忘れる
ような人柄で、また物静かにして雄健、深い見識を持ち、その最後まで功名を汚すことがなかった。孝閔帝元年十月、任上にて没す。
享年六十四歳。のち世宗は彼を哀悼し、大きな御車と龍紋の旗を贈り、墓所に兵卒を並べる。武と謚し、魏国公に追封して
太祖(宇文泰)の祭廟に合祀した。
・・・なんか最近忙しくなってきたので、今後毎日書き込みは出来なくなるかもしれませんがよろしく(予防線)。

390 : ◆oOLAqFKRB. :2007/09/03(月) 01:37:12 ID:SRn7Ehso0
曾銑(字は子重。?-1548)
 江都の人。嘉靖八年の進士で長楽の知県を授かり、召しいれられて御史、遼東巡安となる。遼陽で兵変が起こると汚職都御史・呂経が
動かなかったので、曾銑は金州、復州に檄を飛ばし、副総兵・李鑑に要請してこの兵変を鎮めた。変後、呂経は罷免され、広寧に赴いて、
そこで凶悍な士卒・于蛮児らに擒らえられた。同月、撫順の守将、指揮の劉雄が死んだ。朝廷が派遣した侍郎・林庭昴によると乱を恐れる
あまりのショック死であったという。遼陽の首謀者・趙劓児は広寧に赴いて于蛮児とともに謀り、衆を集めふたたび乱を起こすべく画策した
が、総兵官・劉淮の知るところとなって計画は頓挫した。同日の内に曾銑は趙劓児を擒らえ、「甘粛、大同の兵変に比べれば軽いものだが」
処刑した。
 抜擢されて大理寺丞とされ、また遷えられて僉都御史、山東巡撫とされた。アルタンがしばしば内地を侵すので、曾銑は臨清に外城を築く。
竣工後、副都御史。在任三年で山西巡撫に遷えられ、一年の間、北虜が南進してくることはなかった。朝廷はそれを功として、曾銑を兵部侍郎、
山西巡撫とする。
 二十五年夏、陝西三辺軍務となる。北賊が十余万の大軍で寧塞営に入り、延安と慶陽の間で大いに略奪を働くと、曾銑は兵数千を率いて塞門に
駐し、参将・李珍を馬梁山に派遣してその巣窟を攻めさせた。数百人が殺されたと聞いて北賊は遁走、捷ちを奏して銀幣を下賜される。こののち
北賊はまた来寇し、遊撃・高極が戦死し副総兵・蕭漢も敗北した。曾銑は各将の罪を法によって裁く。時に、北賊は塞に近付いて放牧し、馬にも
乗らず辺境を往来していたが、辺境に住む民はあえてこれに当たろうとはしなかった。曾銑は寨を築き民の憂いを慮り、精鋭を選び、率いてこれ
を撃った。北賊は北に還ったが残党がまだ軽騎で境界を侵すので、諸軍を率いて北賊の軍を遠くに駆逐した。論功で参将・李珍と韓欽が功績最多
とされ、曾銑は俸禄一級と銀幣を加増された。
 曾銑は功名を立てるを喜び、皇上の知遇を得てからはますますその恩に報いようと力を増した。北賊が河套に割拠し、これは明の側からすると
非常にわずらわしいことだった。上奏して曰く「願わくば臣に六万の精兵と山東の槍の名手二千を授け、五十日分の兵粮を持たせて水陸両路から
進軍させてください。北賊の巣窟を直撃し、矢と大砲を射掛ければ北賊も支えることは出来ません」さらに進軍における八条の議を提出する。
皇上はこれを読みその意気の壮なることを讃えたが、他の将が今までついに果たせなかったという理由で曾銑の北伐を握りつぶした。曾銑は怒り、
皇上の前を辞す。
 ある大臣が宰輔のもとに曾銑を連れて行き、「今日、河套の賊を駆逐したとしてそれは恒久的な安寧に繋がるか? 士兵の兵粮は十分か? 
この挙に踏み切ったとして成功の目算は立っているのか? 一人曾銑が道を違えれば、無辜の百姓が害悪を受けるのだぞ」と問うた。間違いは
ありませんと曾銑が答えると宰輔・夏言はこれぞ大功と喜び、曾銑の策を支持することに決めた。しかし皇上はすべてのことを自分で裁決せねば
気が済まず、また一度決定した事柄を変更することを好まなかった。曾銑は逮捕され、死一等を免じて獄につながれる。夏言は厳嵩と仲が悪く、
その腹心、仇鸞は獄中の曾銑に虚偽の敗戦記録を被せる等、しばしば讒訴した。仇鸞死後出獄。曾銑死後、宰輔・夏言も連座して殺される。
 曾銑は胆略あり用兵に長け、年に一度、唐突に諸将の諸将の備えを調べた。時に塞上に警告なく、諸将が酒を飲んでほしいままに振舞っている
とき、鈴の音を聞いて妾のものだと知り、夜半三更に鎧を着けて出陣、北賊を追いこれを破った。翌日慶賀の使者が前日のことを問うと、笑って
「鳥の羽音が聞こえたのですよ」と答え、皆を敬服させた。曾銑は清廉で通り、没後、家財は一切なかった。
 のち軍費着服の冤罪で再び獄に落とされ、拷問をに耐え極刑に処されて死んだ。享年は不詳。まもなくアルタンが来寇、皇上は「あのとき曾銑に
北のことを任せればよかった。今賊がここに来たのは報復のためだろうか」と詠嘆したが、及ばなかった。
 隆慶年間、給事中・辛自修と御史・王好問は曾銑の志と功績を述べ、極刑にあってもみずからの意思を曲げなかった人として彼の忠心と功績を追悼し、
官職と謚を追贈するべきである、と隆慶帝に説いた。皇上は兵部尚書を追贈し、襄愍と謚する。のち万暦中、従御史・周磐の要請で陝西に祠が建てられた。 


391 : ◆oOLAqFKRB. :2007/09/03(月) 01:57:05 ID:SRn7Ehso0
お待たせしました。会社に泊まって仕事しろという命令を振り切って帰って来ました。
で、ちょいと雑感。
明朝は本当に名将を自分で殺してるんですよね。
この曾銑がそうだし、張経もそう。胡宗憲も獄死だから似たようなもんです。
自分の意見と違うからって投獄すんなよ嘉靖帝、って感じですが。
それに比べると戚継光あたりは失脚はしたけど人生を全うして、
振り返れば幸運だったのではと思います。
だからこそ曾銑とか張経の悲劇の人生に惹かれるのかもしれませんが、
本人にとっては国に尽くしたのに何で殺されにゃならんのかと言いたいところだったでしょうね。
とにかく明朝は忠心でありながら不幸な最期を遂げた人物が多くて、
だからこそ彼らがお気に入りだったりします。戚継光より張経が好きだったり。
まぁ、人生を全うして栄達した名将もいて、彼らも好きなんですけどね。周尚文とか馬永とか馬芳とか。
(周尚文も馬永も馬芳も対倭寇じゃなくて対北虜の名将ですが)
戚継光と並び称される兪大猷は一度投獄されてるけどどーなんかな。
詳しく調べてないんで人生全うしたのかどうかわかりません。一度獄につながれた時点で幸福ではなかったでしょうが。
ではこのへんで。駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

392 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/03(月) 04:32:38 ID:s89fsDHS0
袁崇煥モナー

393 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/03(月) 17:38:00 ID:3MPrM//t0
まあそうやってスグに首が切られるから新しい人材が活躍できたとも言えるですよ

394 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/04(火) 02:58:27 ID:ePs2a5X10
兪大猷って、戚継光たちと比較されて枝葉の部分では彼らに劣るけど総合すればアンタが一番と
評された人でしたっけ?

395 : ◆oOLAqFKRB. :2007/09/05(水) 02:08:13 ID:XRERo7Sg0
>>394さん
 その通りです。潭論から「節制精明において公は私に及ばず、信賞必罰において戚継光に及ばす、
精悍疾駆することでは劉顕に及ばない。しかしこれらは小知に過ぎず、大事を担うにおいては誰も
貴方に及ばない」と讃えられました。
 で、今日は時間がないので清史稿から文面短いけど活躍した人を紹介。
ストゥ(素圖。?-1731)
 フチャ氏、満州鑲黄旗の人。初名は福列だったが二等阿達哈哈番を世襲して改名した。護軍参領を
授かる。康熙五十四年、ツェワン・アラプタンがハミ(哈密)を侵すとストゥは都統・新泰とともに
ウラ(烏拉)部の兵を率い、アルタイ(阿爾泰)に屯した。五十九年、征西大将軍・キリデ(祁里徳)
に従いブルハン(布勒罕)から出撃、敵中深く切り込んで首級四百余級を挙げる。ついでその宰桑・
シャブテン(色布騰)が山に割拠して清軍を拒むと兵を督して奮撃、大いにこれを破り、シャブテン
以下二千人を降した。六十年、ハルコル(巴爾庫爾)に軍を移し、トルファンに城を建てて屯田を興す。
雍正元年、副将軍アラナ(阿喇納)に従いプロンギルに進駐。二年、ジュンガルが辺境を侵すと総兵・
孫継宗らとともにこれを撃ち、敵を敗走させてフロンギルに還った。また副都統・ダディン(達鼐)に
従いラプツァン・ダンジンを花海子に駆逐し、ダンジンの妻子を擒らえガリ(葛斯)ら諸台吉を降した。
皇上は草木も凍る冬空に王師を率いて奮躍遠征するために詔を下し、ストゥを左翼副都統に抜擢した。
時に父・スダン(素丹)が寧夏将軍となったが老齢をもって固辞したので、皇上は代わってストゥを
協理将軍に任じる。のち君命により西安の満兵二千を率い、フルダンに従いその北路を任された。
参賛大臣を授かる。コリトゥ(庫列圖)嶺の戦いでストゥは副都統・(岱豪)とともに敵衆四百余を
殺す。軍をヘトゥン・フルハヌルに移し、ディンショウ(定寿)、チャンル(常禄)とともに山梁の
東に割拠、敵の大軍が至るとディンショウ、チャンルおよび帰化城の副都統・馬爾斉らとともに力戦、
抵禦したが衆寡敵せず、戦陣に散る。侍郎・グヨン(永国)、副都統・ギョロハイラン(覚羅海蘭)、
ダイホー(岱豪)らも帳中で自ら縊死した。戦後、敗戦責任を負ってフルダンは弾劾され、戦死者達は
みなそれぞれ昇格され、ストゥも死後旧職に留められて三等阿思哈尼哈番の世襲権を贈られた。
・・・今後また会社に泊り込みで四、五日書き込みが滞る予定ですが、まぁ長い目で見てやってください。


396 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/05(水) 20:51:28 ID:+GofSSLE0
>>395
紹介乙。
でもうーん、名将というわけではないみたいですね。

397 : ◆oOLAqFKRB. :2007/09/10(月) 00:13:14 ID:10XkhIHt0
ようやく編集部から帰ってきました。寝袋って相変わらず寝心地悪いです。
なんか俺の書き込みが止まった途端、
スレの流れが止まってしまったようで申し訳ないです。
今日は疲れてるんでさすがに書き込み無理ですが、
明日からはまた書き込んでいく予定なんでみなさん戻ってきてください。
いやホント、戻ってきて。頼んますから。
自分ひとりしか居ないスレで孤軍奮闘するのは寂しいのですよ。

398 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 16:17:29 ID:hNVQN7jE0
寂しいんならやめれば?
あなたのチラ裏スレだからみんな遠慮してるのかもよ

399 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 19:07:32 ID:Oj2yVHKs0
>>398はツンデレ

400 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 20:09:22 ID:WMtMyvQJ0
なるほど
>>398

「さ、寂しそうなアンタなんて見てらんないわよ!
みんな何にも言わないけど、アンタの事、すごいって思ってるんだからっ・・・!

・・・辛いなら、お休みしていいのよ・・・」

って事か

泣か〜せやがって、このや〜ろぉおぉ〜♪

401 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 20:37:35 ID:hNVQN7jE0
そうきたか

402 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 21:16:17 ID:Oj2yVHKs0
ま、楽しみにしてる人もいるってこと。

403 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 21:42:26 ID:4UcMPLkZO
>>397は心配し杉
見てる奴はちゃんと見てるから安心しなよ

404 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 00:02:37 ID:b+bx/aoj0
見てるだけじゃなくて自分でも書こうって奴はおらんのかな

405 : ◆oOLAqFKRB. :2007/09/11(火) 00:30:04 ID:LTeVG8Dt0
ちょいと眠ってたら十二時過ぎ。やっぱ疲れとるんかな。
さておき、明朝から張経、行きます。この人の次は兪大猷で、
その後は名将揃いの211巻、212巻から三、四人出す予定。
では投下します。

406 : ◆oOLAqFKRB. :2007/09/11(火) 00:35:04 ID:LTeVG8Dt0
張経(字は廷彝。?-1555)
 候官の人。はじめ蔡姓を名乗り、のちもとに復す。正徳十二年の進士で嘉興県の知事を任される。嘉靖四年、召されて吏科給事中、
戸科都給事中を歴官するもしばしば弾劾を受け、張、桂の党と呼ばれる。吏部尚書が張経の行い品行方正であると進言したので、張経は
罪に問われることがなかった。のち太僕少卿、右副都御史、理事院の協助を歴官する。
 十六年、兵部右侍郎、総督両広軍務となった。断藤峡で候公丁が乱を起こすと御史・鄒堯臣らと計りごとを定め、誘い出して軍事
属副使・翁文達とともに候公丁を擒らえた。逃れた賊衆を追撃し、計略を持ってこれを破る。朝廷は捷報を聞き、張経を左侍郎として
官位を一級進めた。
 三十二年、南京戸部尚書とされ、改められて兵部尚書に遷る。翌年五月、倭寇が猖獗、総督大臣が置かれ、張経は兵部尚書を解かれ
ぬまま総督江南・江北・浙江・山東・福建・湖広諸軍とされた。兵を募り、両広土着の兵卒に倭寇の動向を聴く。同年十一月、朝廷は
張経を右御史兼兵部侍郎に落とし、討賊を専らにせよと下命した。倭寇二万余は柘林の河沙窪に割拠し、その朋党を待つ。張経は連日
練兵し、賊の拠点を衝いた。江、浙、山東でしばしば敵を破り、土着の兵が到達して大挙攻勢に出る戦機を待つ。翌年三月、田州・瓦氏
の兵が到着、速戦即決を提言するが、張経は同意しなかった。まもなく東蘭各部の土兵が相次いで到着。張経は瓦氏の兵を総兵官・
兪大猷に、東蘭・那地・南丹部の土兵を遊撃・鄒継芳に、帰順と思恩・東莞の土兵を参将・湯克寛にそれぞれ統御させ、金山衛、閔港、
乍浦にそれぞれ駐屯させて賊を三面から牽制させた。永順・保靖の軍が集まり、侍郎・趙文華は海神を祀って全身、浙江巡按・胡宗憲が
これに続こうとしてしばしば張経に出兵を呼びかけるも、張経は「賊は狡猾で勢いも盛んである。ここは永・保の両軍が揃うのを待ち、
しかるのち攻撃を仕掛ける。これ万全の計なり」としてこの時点での会戦を拒んだ。趙文華の再三の要請にも耳を貸さなかったため、
趙文華は密かに張経が民を害し、軍費を着服し、賊を懼れて機を失い、倭寇がみずから飽きて去るのを待っていると弾劾した。皇上は
厳嵩に問い、厳嵩は趙文華の言うとおりであって蘇・松の人々は張経を怨んでいると讒訴。皇上は怒り、すぐさま詔を発して張経を捕ら
えさせた。時に三十四年五月。
 趙文華が上奏するのとほぼ時を同じくして、永・保の両軍が浙江に到着し、その日のうちに石塘湾で捷ちを得た。五月初日、倭寇は
嘉興を急襲し、張経の使わした参将・盧鏜は保靖の兵を援けて督戦、兪大猷も永順の兵を督して平望を直撃し、湯克寛も水軍を率いて
進軍途中の倭寇を衝いた。各路の軍も王江で会戦し、斬首千九百、焼け死んだもの溺死したもの無算という戦果を挙げた。これは明朝
の対倭寇戦の中でも類を見ない大功だった。給仕中・李用敬、閻望雲らが「王帥大捷、倭寇は気勢を喪いました。しかし主帥を遷えたのは
よろしくなかったのではないでしょうか」と進言、皇上は大いに怒り、「張経は妄りに欺いて不忠をなし、趙文華に弾劾されて杖刑に処
されたのだ。李用敬の徒党、汝らも奸臣なるか」として彼らを杖刑五十回の計に処し、庶民に落とした。厳嵩に問いただし、厳嵩は「浙江
の人はみな、張経の言うを守り、寇を養って(利して)戦おうとしませんでした。趙文華・胡宗憲の両名は謀を同じくして倭寇の巣を伐ち、
張経が冒険とした功を成功させたのです」と言って趙文華、胡宗憲両名の忠義を讃えた。張経は京師到着後、皇上に「わたくしは総督として
出任すること半年、その間に倭寇五千余人を殺し、また捕らえました。願わくば皇上の寛恕あらんことを」と語る。しかし皇上は聞き入れず、
張経を死罪として獄に落とし、同年十月、巡撫・李天寵とともに首を斬った。天下の人々はみな彼らの冤罪を思い、落涙したという。
 張経に代わって応城の周[王+充]、衡州の楊宜らが立ったが、彼らの軍は統制が取れず、しばしば略奪や放火をした。ために東南の人々は
倭寇以上に彼らを恐れ、苦しんだ。隆慶初年、張経は名誉回復され、襄愍と謚された。

407 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 03:26:57 ID:Y+9YhFGxO
>>404
ではまずはアンタがが手本見せてくれ
俺は以前に紹介文投下してたが、
◆oOLAqFKRB.さんみたいにいっぱい史書持ってないからもう無理…


408 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 16:22:40 ID:S1Wy06bd0
>>407
いや、俺も何度か投下してる

409 : ◆oOLAqFKRB. :2007/09/11(火) 21:09:31 ID:b5zCbdqA0
段韶(字は孝先。?-571)
 高歓の妻、武明皇后の姉の子。幼い頃から騎射に巧みで、将帥の才略があった。ことのほか愛され常に高歓の左右に侍る。
高歓義起のはじめ、広阿の役で爾朱兆を破る。ついで鄴において劉誕を破り、韓陵の戦いで先鋒となり、敵陣を陥とした。
まもなく、高歓が晋陽より出て爾朱兆を赤[谷+共]嶺に追うと、これを平定した。軍功をもって下洛県男に封ぜられる。また
征戦に従い、斛律弥娥突を擒らえ、竜驤将軍、諫議大夫を加えられ、累功により武衛将軍となった。興和四年、高歓に従い
邙山で西魏の宇文泰を抵禦。高歓の隊伍の間から西魏の将・賀抜勝を認め、それが鋭鋒をもって突撃してくるのを見た。段韶は
馬を引いて馳せ、弓を射て一箭のもとに敵の先鋒を射倒す。単騎賀抜勝の軍を追撃すると、あえて前に出るものはいなかった。
西魏の軍は退却し、段韶は朝廷より駿馬と黄金、そして公爵の爵位を授かる。武定四年、玉壁征伐に従軍、しかし当時高歓は病に
臥せり、城を攻めることが出来なかった。これに先んじて高歓は斛律金、劉豊らを病床に呼び、「吾はいつも段韶と兵を論じて
きたが、彼はことに英略あり、思えば常にその謀を用い、また彼の謀がなければ今日の労苦もなかったであろう。吾が病篤くなり
危篤となったのち、鄴都のことを段韶に任せたいと望むのだが、どうであろうか?」と語った。また高澄を呼び、「段韶は忠義と
仁義に厚く、知勇兼備して、親族の中でただ一人、軍旅の大事を托せるものだ。よくともにこれと籌れ」と言い残し、五年春、
晋陽にて薨じた。喪は秘密にされたが、ひそかに高歓の死を知った候景は乱を起こす。
 文襄帝(高澄)は鄴都に戻り、段韶を晋陽に残した。皇上は鄴都に帰ると段韶のために女楽十数人、金十斤、帛を贈り、長楽郡公に
封じる。天保三年、冀州刺史、六州大都督を拝す。晋陽の主として恵政を敷き、吏民の心を得た。四年十二月、梁の東方白額が宿預に
攻め入ると辺民を使って長史を殺害する。五年二月、梁の将・厳超達らの軍を州で撃ち、また陳の武帝(陳覇先)が衆を率いて広陵
を攻める構えを見せると、刺史・王敬宝を遣わして危急を告げた。さらに陳軍の尹思令が衆万余を率いて吁胎を囲むと、三軍みな恐れ
たが段韶は一人悠然として恐慌する兵を鎮める。自ら兵士数千を率い、州を経て吁胎に出た。尹思令は風に怯えて北に逃げる。さら
に前進して厳超達と戦い、大いにこれを破って、戦艦や武器を鹵獲した。将士達に陳覇先は必ず逃げると予言、広陵に目をやるとその
とおりで、陳覇先はすでに遁走していた。文宣帝(高洋)は即位すると段韶の功を嘉し、平原郡王に封じた。皇建元年、太子太帥に任
ぜられる。大寧二年、并州刺史。のち太傳に遷される。并州の任上、政事の大綱を閃き、甚だ民の和を得た。十二月、周の武帝が羌夷、
突厥と軍を合して晋陽に逼ると、皇上は鄴都から救援に赴いた。段韶は雪の降る日にこれと対決して、大いにこれを破り、敵の先鋒
(突厥)を尽く倒した。皇上は段韶の戦功を嘉し、官を進めて太帥とする。ときに周の執政・宇文護は突厥と結び、しばしば北斉を攻
めた。段韶は塞下に軍を駐留し、しばしば突厥を破る。宇文護は尉遅迵らに洛陽を攻めさせ、皇上は蘭陵王・高長恭と大将軍・斛律光
を遣わしてこれを撃たしめ、蘭陵王らは邙山で北周軍と対峙した。突厥を手痛く痛めつけた段韶も邙山の戦いに参加、左軍を任される。
ひたすらに宇文護を追い、立ちはだかる敵を尽く打ち破って北周軍を撃破、蘭陵王が洛陽の囲みを解くと段韶も入城し、将士の日頃の
労苦をねぎらった。功により大宰を授かる。天統三年、左丞相となった。武平二年二月、周軍来攻、段韶は斛律光、蘭陵王とともにこれ
を防ぐ。三月、西境に赴き、柏谷城に到ってこれを攻める。一鼓にしてこれを抜き、城を潰し、斬首・俘虜多数を上げた。北周がふた
たび辺境の突厥と結んで北斉を攻めさせたので、右丞相・斛律光とともに壮士を選抜して北賊を破った。姚襄城下で北周軍と戦い、大
いにこれを破って儀同・若干顕宝を擒らえた。六月、定陽が囲まれたのを受けて救援に向かい、北周軍の後背を衝いてほしいままに北
周軍を蹂躙した。七月、段韶は病を得て蘭陵王に任を引き継ぐ。同年、病篤くなり、先に軍を還してついに薨じた。皇上は喪儀千段、
温明秘器、轀輬車を贈り、軍校の士を平恩の墓地に並べて守らせた。さらに黄鉞、持節、都督朔・并・定・趙・冀・滄・斉・兗・梁・
晋・建十二州諸軍事、相国、太尉、録尚書事、朔州刺史を追贈、忠武と謚した。

410 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 21:18:46 ID:Y+9YhFGxO
段韶は百選で推薦文挙げたことあるけど、
それより、遥かに詳しい紹介文乙

411 : ◆oOLAqFKRB. :2007/09/11(火) 21:22:21 ID:b5zCbdqA0
>>409
なんか、田中○樹氏の名将百選では突厥と組んで北斉に攻め入った
北周軍を破ったのは斛律光と蘭陵王、って書いてあるんですが。蘭陵王は
確か北狄とは戦っていないはず。(文譲六子の短い文面ではよく分かりませんが)
実際やったのが確認されてるのは段韶と斛律光です。
多分蘭陵王を持ち上げたい田中氏が意図的に筆を曲げたのではないかと。
ところで蘭陵王は「姓は高、名は長恭。別名を孝瓘」とされていますが、実名は
孝瓘なのではと思います。なんでかっつーとあの六兄弟、全員名前に「孝」の
一字が入ってるから。だから本当は「姓は高、名は孝瓘、字長恭」なんやないかなと
勝手に思ってます。まぁ、細かいことですが。
次回は簒奪者・楊堅の父親で八上柱国の一人、楊忠でもやろうかなと画策中。

412 : ◆oOLAqFKRB. :2007/09/11(火) 23:54:21 ID:jHO0WS6z0
連投やけど三時間空いてるからまぁいいでしょ。
>>410さん
段韶、挙げられてたんですね。前スレの記憶がほとんどない(スブタイ
のデータもゴミ箱に入れて無くしたらしいぐらいで。これは痴呆なんかな。)
ので、すっかり忘れてました。尊顔に泥を塗るような真似をしてすみません。

413 : ◆oOLAqFKRB. :2007/09/12(水) 22:51:57 ID:wvqoJhlm0
一日経っても人が来ないのは寂しいものがありますね。
でもまぁ、とりあえず見てくれる人はいると思って投下します。
フーヘンたちより一世代前の将帥から、多分一番戦功があった人物かと。
楊天縦(字は景聖。生没年不明)
 陝西渭南の人。十七歳のとき父母を相次いで亡くし、兵卒として軍に投じた。勇略将軍趙良棟に従って雲南を下し、
その途上矢石の険を冒して重症を負う。のち四川提標把総、のち峩辺営千総となった。康熙三十九年、打箭爐のチベ
ット営官・ダオハチャン・チェジリ(喋吧昌側集烈)が乱をなし、楊天縦は提督・唐希順に従いこれを撃った。しば
しば敵中とその外を往来し、唐希順は彼の計を入れて賊軍を破る。四十年、二道水、磨岡、岡西面など諸地の敵を集
め、打箭爐でこれを打ち破った。功により遊撃銜を加えられ、浙江処州都司を授かった。みたび遷せられて山東沂州
副将とされる。
 五十七年、貴州・定広副将を授かり入観、皇上より総兵銜を加えられ、沂州へ駐留するよう命ぜられた。山東の塩賊
の勢いが盛んになるのを見て取った楊天縦は費県に赴き、遠方から声を轟かして賊の勢いをそぐ。翌日朝、騎兵を路傍
に伏せ、賊をひきつけて一挙伏兵を発す。驚嘆して逃げる賊を逐い、柱子村でその首魁を擒らえ俘虜百人を得た。また
余衆を蒙陰、泰安に撃ち、ことごとく解散させた。五十九年、広東・雷州副将となり、山東巡撫・李樹徳に沂州の険阻
をもって交代を請われ、受け容れる。都督僉事を加えられた。
 雍正元年、雲南・臨元の総兵に遷る。魯魁、倮夷、方景明が険を恃んで衆を聚め、近隣を劫掠すると、楊天縦は布政使
・李衛を率いて賊討捕に向かい、これをことごとく殲滅すした。四年、貴州総督に任ぜられる。五年、軍政の千総、把総
の優劣が曖昧であると上奏、皇上はこれを容れ、両職を合して千把総とした。
 総督・ゴルタイ(鄂爾泰)は長寨の仲苗を討ち平らげたが、その地の東西南はみな生苗であって狡猾かつ凶悍、約束を
守らず、内地の仲苗を藪に逃がした。楊天縦はゴルタイに従って苗族を按撫し、参将・劉成謨を遣わして苗族の頭人に誠
勤を諭した。楊天縦は生苗に薙髪令を強要し、衣冠酒食も満族のそれに教化する。百四十八寨を砕き、五千六百余戸を降
した。功により拖沙喇哈番の世襲を許される。
 四川巡撫・張広泗が苗彊に悩まされると上奏してこう言った。「旧来の大砲は重いうえに威力も遠くまで及びませんで
した。わたくしが新たに創意した新型の大砲、通称・靖蛮大砲はよく数理の距離を飛び、あるものは過山鳥と称して、遠
地を攻め捷つに大変便利です。兵を選び張広泗どのの行営にこれを聴用し、安籠、安南、大定、黔西、長寨諸営の兵に大
砲を装備させ一路凱里を赴き、そこから兵を分かって進行すべきです」皇上は楊天縦の謀が理に適うとして、大いにこれ
を嘉した。七年、前任の署巡撫・祖秉圭はこれを弾劾して張広泗の敗北を予言したが、皇上は取り合わず、「生苗は必ず
懲創を受け、辺境は安寧を得る。朕は君を勝任せず、すでに罷免して退けた。この類の情事になお朕を監察して逃れさせ
ないつもりか?」として退ける。祖秉圭の予言どおり張広泗は戦術のミスで敗北したが、楊天縦の戦術眼は間違いではな
かったということで罪に問われなかった。九年、老衰を持って致仕。太子太保を加えられる。十年、戸籍を四川成都に移
した。没年不明。国葬を賜り、襄壮と謚された。
 次は満を持してフーヘンの予定。その次はフーヘンの弟フーシン、あとバンデイ、フカンガ、アリゴン、アゲイ、
ミンリャンなどを翻訳候補に挙げております。実のところフーヘンとフーシンの兄弟までは翻訳完了してたりするんですが。

414 : ◆oOLAqFKRB. :2007/09/13(木) 01:22:14 ID:VF/lsML60
追記。ブログはじめました。アドレスは
http://iwakitakayuki.blog119.fc2.com/blog-entry-7.html
です。今のところここで紹介してきた将帥たちを向こうでも紹介している
だけですが、いずれはこっちを追い抜けたらなぁ、と思っております。

415 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 01:45:16 ID:3B+w9XgI0
>鄂爾泰

読み方は多分オルタイ。

416 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 02:40:57 ID:MIIAPg170
>>414
お、ついにブログを始められましたか。
これからちょくちょく覗かせてもらいますw
期待してますよ。

417 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 05:07:50 ID:hFuXlTyUO
>>414
ブログ立ち上げ乙
早速、拝見してきたよ。

418 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 09:19:54 ID:/OWYmfxH0
>>414
ブログ乙。
やっぱもったいなかったですからね。
せっかくつくったヤツも削除してたとか言ってたし…

419 : ◆oOLAqFKRB. :2007/09/13(木) 21:23:08 ID:EkffDNBP0
211巻-01馬永(字は天錫。生没年不明)
 遷安の人。生来魁偉で勇猛にして謀に長け、兵法に習熟して《左氏春秋》を好んだ。金吾左衛指揮使を世襲する。
正徳帝のとき、陸完に従って北賊を討った功により都指揮同知に進む。江彬が皇宮の西で練兵しているのを見てそ
れに隷属したが、江彬は病と称してこれを避けた。やむなく遵化守衛となり寇敵を馬蘭峪で阻む。参将・陳乾に弾
劾されるも馬永に代わる人材はなく、よって免職されることもなかった。柏崖、白羊峪で北賊と戦い、立て続けに
大功を立てる。十三年、都督僉事に進み、総兵官を充てられて薊州を鎮守した。老朽化した営塞を尽く淘汰し、農
民・商人から資材を買い上げ壮士に給与を出して寨を築かせる。武宗は喜峰口に至り塞を出んと欲したが、馬永が
馬を摑んで諌めたので、皇上は馬永をしげしげと注視したのち笑って出塞をとりやめた。ときに中路から敵が擦崖
を衝く。城に備えなく堡塁もなく、寇賊は遊牧民達から掠略した。馬永は各自に一か月分の食糧を与えると崖の表
に営塞を築き、その内側に城樓を築く。城郭が完成すると北賊は逃げ去り、その功績により馬永は都督同知とされ
た。
 嘉靖元年、金山で北賊が猖獗し、皇上は指揮・康雄を遣わしてこの鎮定に向かわせる。しかし賊はダヤン・ハル
スンと結び、康雄を退け辺境を掠めた。馬永は洪山口で敵を迎撃し、伏兵を敷いて敵の退路を断ち、斬獲多数をあ
げて右都督に進められる。驍将ハルスンの扱いに対して、生かしておいては大同の兵変の二の舞なると説く張文錦
と、殺さずこれを撫して明朝に取り込もうと考える桂勇とで朝廷の意見は二つに分かれる。馬永は「逆法を犯した
賊を朝廷が赦せば、恩徳最も厚いでしょう。しかし、顧みて猶、抗う力はないはずですが、これを殺さず春になっ
て北寇南賊にかれらを当てれば、彼らはこれと連結してすぐに大きな禍害をなすでしょう。そこで彼らを(私の鎮
の)隣に鎮させ、期限を区切ってその城を攻め、士卒に利害を通暁させ功を立てたものに破格の懸賞を与えれば兵
の訓練にもなり、賊を朝廷でこれを斬るより利が大きいと思われます。敵を倒すより元凶を除くことのほうが難し
いものです」と言上した。容れられ、乱を平定して鎮に帰る。
 馬永は上奏して事ある毎に賄賂を求める悪吏・陸官の交代を請うた。しかし陸官は先に馬永の罪を上奏し、皇上
は怒って馬永の官爵を奪い、寄録南京後府に貶める。巡撫御史・丘養浩が皇上に「馬永は仁義をもって兵を賑恤し、
清廉をもって己を律し、堅く辺境を防備して強敵を退け、軍民を安堵させること長城の如しです。そんな彼が不正
を働くでしょうか?」と説き、さらに大同の軍が再び兵変を起こしたので、閉門読書していた馬永は再び召されて
旧職に服した。乱を慰撫し、南京に還る。
 十四年、遼東で兵変が起こる。馬永は免官となったもと総兵官・劉淮に代わって遼東に入り、大清堡の守将・徐
と泰寧衛八人の都合九人を誘い、斬り殺した。部長・ハトゥンガが大怒して辺境を侵したので、馬永はこれを撃
って斬った。その部族ハスンおよびダヤンは馬永に敵討ちを挑んだが、馬永はこの両名の軍をも蹴散らす。まもな
くまた北賊が遼東に来寇し、宦官・王永を敗ったので馬永は敗戦に連座し、功を持って罪を購えと厳命された。遼
東の兵変後、首魁を誅殺したと言えども法網から逃れた小物は多く、彼らは剽悍な士卒を恐れず、党をなして大呼
小叫し、懐中には再び反乱を起こさんという志を立てていた。広寧の賊・佟伏と張鑑が旱に乗じて乱を起こすも、
諸営の軍は賊を懼れて馬永に注進するものなし。佟伏らは城樓に登り、太鼓を鳴らし、馬永の営に討ち入った。千
戸の張斌が殺され、馬永も力戦したが戦死した。皇上は馬永に左都督を追贈する。
 馬永は百人の士卒を養った。それぞれが驍勇善戦の勇者であり対北虜の最精鋭であった。はじめ遼東の兵変が起
きたとき、皇上は李時になぜ馬永を推薦したのかと聞いた。李時は「その家の衆が用うるに足ると思いましたので」
と応える。また、御史の王廷が言った。「馬永は用兵を善くし、かつ清廉潔白。よろしく薊鎮に用いれば、京師の
藩屏となるでしょう」霊柩が薊州を通ると、州人で涙を流さぬものはいなかった。遼東、薊州の二箇所に祠を建て
られ、祭られた。
 馬永は人となり寛厚、よく間諜を使い、敵の虚実を知ってしかるのちに戦ったので、戦う毎に必ず勝った。人を
使うのが非常に上手く、士卒校官、後世の大帥に至るまで彼を讃えた。尚書・鄭暁より「馬永と梁震には古の良将
の風格がある」と評される。

420 : ◆oOLAqFKRB. :2007/09/13(木) 21:35:41 ID:EkffDNBP0
追記。
>>416さん、>>417さん、>>418さん
あんまし期待かけられても困りますよ。
概ねこのスレに投下したデータをブログに挙げてるだけだし、目新しくはないです。
「タグってなんや? スクリプトは?」ってな感じでアクセスカウンターすらつけられない始末。
でもまぁ、あっちは字数制限ないから長文派には楽なんですよね。
今回もこっちだと余白がないからこーやって連投になるし。いっそブログに移転しようかな。

421 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 21:47:51 ID:hFuXlTyUO
>>419-420
左氏春秋って名将になるためのバイブル?
杜預なんかは左氏癖ありって自ら言ってたし。

あと出来ればもう少し改行の位置を変えた方がいいのでは?
(ブログとは改行の位置がちょっと異なるのでしょうか?)
例えば
>正徳帝のとき、陸完に従って北賊を討った功により都指揮同知に進む。
>江彬が皇宮の西で練兵しているのを見てそれに隷属したが、
>江彬は病と称してこれを避けた。
こんな感じで。

>いっそブログに移転しようかな。
その判断は岩城さんにお任せしますわ。
仮にブログに移転しても今まで通り支援しますよ。


422 : ◆oOLAqFKRB. :2007/09/14(金) 18:31:57 ID:0Ytn0iAN0
予め作り置してた分だから今回早いです。ちなみにブログでは昨日先んじて公開しました。
魯広達(字は遍覧。梁の中期?〜隋の最初期)
 呉州刺史・魯悉達の弟。慷慨にして大志あり、功名を立てるを志し、無心に士卒を愛して、賓客があれば譬え
遠くでも迎えに行った。時に江表の将帥は各自部曲を領し、千人単位で動いて魯氏が最も多かった。はじめ梁の
邵陵王の国右常侍となり、のち当陽公の府中兵参軍に遷った。候景の乱に際して兄とともに衆を聚め新蔡を守る。
元帝はそれを受けて魯広達に仮節、壮武将軍、晋州刺史を授けた。王僧辦が候景を討つと魯広達は境内に出て
それを出迎え、軍の資本品を奉じた。王僧辦が沈炯に語って「魯晋州、まさにこれ王帥の東道の主人なり」と言った。
そこで王僧辦の麾下に入り、候景を平らげて員外散騎常侍を加えられた。
 陳覇先が受禅すると員外散騎常侍、仮節、信武将軍、北蔡州太守を授かる。呉明徹の周迪討伐に従軍、戦う毎に
最著の戦功を立てる。兄に代わって呉州刺史に任ぜられ、中宿県候、食邑五百戸に封じられた。
 光大元年、通直散騎常侍、都督南豫州諸軍事、南豫州刺史を授かる。華皎が叛を興すと皇上は司空・淳于量に兵を
与えて討伐に向かわせた。夏口に到達したが華皎の水軍は精強で、敢て進むものが無かった。魯広達は驍勇の士を
率いて真っ先に突撃し、賊軍を直撃する。戦艦が交戦を始めると魯広達は大呼して敵艦に飛び乗り、艦樓に登って
兵士達を督戦した。急な風によって舟が揺らされると魯広達は足を滑らせて艦樓から水中に滑り落ち、溺れ死ぬ者
多数の状況だったがかろうじて救われ、一命を取り留める。華皎平定後再び昇任。持節を授かる。
 太建元年、魯広達と儀同・章昭達は峡口に入り、開拓した安蜀の地を按撫し各州を鎮めた。時に周氏が江左を図り、
蜀の地で舟を造って青泥に糧を運んだ。魯広達と銭道戢は兵を率いてこれを襲い、縦に火を焚き舟を焼いた。功績に
より食邑二千戸を加増され、本鎮に還る。魯広達は為政者としては政事を簡素化して後のことは部下に任せ、これが
吏民らの助けになった。任期満了ののちも皆に留まるよう請われ、さらに二年間現地に留まる。太建五年、軍を率いて
北伐。淮南の旧地を攻略し、北斉の軍と大峴で遭遇してこれを大いに破った。北斉の敷城王・張元範を斬り、斬首・
俘虜は無算。さらに進んで北徐州で克ち、ここにおいて都督北徐州諸軍事、北徐州刺史を授かり散騎常侍、右衛将軍を
加えられる。八年、北兗州刺史となり、晋州刺史に遷された。十年、使持節、都督合・霍二州諸軍事、仁威将軍、
合州刺史を授かる。十一年、北周の将軍・梁士彦が寿春を囲むと詔によって派遣される。中領軍・樊毅、左衛将軍・任忠らは
部を分かって陽平、秦軍に趨り、魯広達は衆を率いて淮に入った。三者掎角の勢をなし、敵を撃つ。北周軍が今度は
豫・霍州を攻めると、南兗州・北兗州・晋州は自ら北周に降り、諸将は功なくして還る。淮南を失った責めを負い、
魯広達は免官され、爵位も剥奪された。十二年、豫州刺史・樊毅とともに衆を率いて北伐、郭黙城を抜く。使持節、
平西将軍、都督郢州以上十週諸軍事を授かり、水軍四万を率いて江夏を治める。北周の安州総管・元景が江外を寇すと、
魯広達は偏将たちに命じてこれを走らせた。
 後主が即位すると魯広達は安左将軍を授けられた。引き続き平南将軍、南豫州刺史を兼任する。至徳二年、安南将軍を
授かり侍中を拝す。改めて綏越郡公、食邑二千五百戸に封ぜられた。まもなく中軍を領し、鐘山から進軍してくる賀若弼ら
に対し、兵を率いて白土崗南面に布陣、これを阻む。甲冑をまとい手には鼓を持って、士卒たちにあえてここで死ねと命じ、
自らも刀槍の前を冒して督戦した。隋軍は退走し、魯広達は北の営塞にこれを逐って甚だ多くの敵を斬った。しかし賀若弼らの
本隊に敗れ、賀若弼らは勝ちに乗じて宮城に逼り、北掖門を焼く。魯広達はなおも残兵を率いて督戦し、苦戦やむことなく、
数十百人を斬り、擒らえた。日暮れに至り鎧を脱いで、慟哭して曰く「わが身は国を救うあたわず、敗北の罪深し」衆人みな
涙した。ここにおいて擒らわれる。禎明三年のことで、ここより隋の治世が始まる。
 魯広達は陳朝が覆る様を見て悄然と気を落とし、病にかかって、ついに悲憤慷慨して死んだ。享年五十九歳。


423 : ◆oOLAqFKRB. :2007/09/14(金) 18:42:52 ID:0Ytn0iAN0
とりあえずブログに移行する前提で、その前に清朝からこの兄弟を挙げときます。前に書き込むって明言したし。
フーヘン(傳恒。?-1769)
 字は春和、フチャ氏、満州鑲黄旗の人。孝賢純皇后の弟。乾隆十年六月、命を受けて軍機処走行となる。
十二年、抜擢されて戸部尚書に。十三年三月、巡幸途中の徳州で孝賢純皇后が身罷ると随行していた
フーヘンが葬儀を主催した。四月、その勤恪を賞され、太子太保を授かる。時に金川の乱に着手していた
吏部尚書・ネキン(訥親)が尚書の任を解かれ、フーヘンが戸部と吏部の尚書を兼ねた。九月、ネキンに功なく、
代わってフーヘンが川陝総督とされ、軍務の経略を命ぜられた。満族、漢族の兵三万五千を率いて京師を出立、
陝西道を往き、十一月、四川の境に入る。フーヘンの軍は行動迅速にして規律厳明、川、陝総督・尹継善の報告
によりそれを知った皇上は太子太傳、太保を賜るも、フーヘンは固く辞した。成都を発し天赦山を経て徒歩で
行軍すること七十里、駅に至る。皇上は隻眼孔雀翎を賜ろうとしたが、これも固辞した。
 はじめ、小金川の土豪・リャンルジ(良爾吉)とその兄・ツェワン(澤旺)はシャルベン(莎羅奔)に附き、
兄嫁・アコウ(阿扣)とともにシャルベンに従い清の辺境を侵した。のち偽って清に降り、賊の間諜となる。
張広泗が奸民・ワンキ(王秋)の言を入れ軍を動かしたが、その挙動はすべて賊の知るところであった。フーヘンは
リャンルジらの離反を知って尹継善に彼らを誅すことを請い、邦[口+葛]山に彼らを呼びつけてリャンルジらの
一味をことごとく殺した。皇上はその明断を嘉し、隻眼孔雀翎を下賜しようとしたがフーヘンはまたも断った。
 十月、卡撒に至り、軍を隘路に屯して賊と互いの姿を望む。番民が市に雑居して勝手気ままに振舞うのを見て
フーヘンは古い堡塁に軍を進め、総兵・治大雄に残した営塁の管理を任せた。十四年正月、「四月までに敵を
下します」と上奏。孝聖憲皇后より一等忠勇公に封ぜられ、宝石の頂、四団龍の補服を下賜された。
 フーヘンと提督・岳鐘hは策を決して深く突入し、シャルベンの遣わした頭人(酋長)を降し、軍門に
縛り付ける。シャルベンはまたチャオシジャ((綽斯甲)らを岳鐘hに当たらせたが、岳鐘hは十三騎を率いて
レイウェイに突入、シャルベンとその子、ランカ(郎卡)を擒らえた。ついにフーヘンはシャルベン親子を降す。
これに近隣諸番を侵さぬこと、犯した地を返還すること、諸土匪とともに賦役をこなすこと、諸酋長の中に反抗する
ものがあればこれを捕らえて献じること、略奪した内地の民馬を返還すること、武器や大砲をすべて清朝に納めること
の六条を飲ませて二人の罪を許した。皇上は功臣エイトウの故事に倣ってフーヘンのために宗廟を建て、
曽祖父・ハシトゥン(哈什屯)から父・リロンバオ(李栄保)までを祀らせた。
 十九年、ジュンガルが内乱を起こす。二十年、フーヘンはイリで勝利してタワチ(達瓦斉)を捕らえ、還って再び
一等公に封ぜられる。固辞したが泣きつかれ、承諾した。功臣として紫光閣に図を描かれる。二十一年四月、
将軍・ツェレン(策楞)がアムルサナを追うも、擒らえられず。皇上はフーヘンに出馬を促し、フーヘンはエリンハ・
ビルガ(額林哈畢爾葛)に赴き、蒙古の諸台吉を集めてジュンガルの地に侵入、深く突入して功を立てるが、
また召されて軍を還した。
 三十三年、将軍ミンシュイ(明瑞)がビルマ(緬甸)を征伐して敗れ、二月、フーヘンにビルマ経略の命が下る。
船を造って準備を整え、アリゴン(阿里袞)、アゲイ(阿桂)を副将に、三十四年二月、満兵・蒙兵一万三千を率いて出征。
まず自ら九千三百人を率いて夏鳩からビルマに渡り、七月、残りの四千人が騰越からビルマに渡った。メンゴン(猛拱)の
頭人・トメンウメン(脱猛烏猛)、ヘビン(賀丙)とその衆を降し、メンゴンとハンチ(渾覚)をも降した。皇上は大いに
喜んでフーヘンに三眼孔雀翎を授けたが、フーヘンはまたも固辞する。各地でビルマ軍を破ったが疫病が蔓延し、アリコンが
病死、自らも病に倒れて、アゲイを後任に帰国する。三十四年三月、皇上の天津巡幸に随行するが、病重くなり七月、没した。
享年五十歳。鎮国公を送られ、文忠と謚された。その功績と忠誠により「社稷の臣」と呼ばれる。
嘉慶帝の時代、息子フカンガ(福安康)の功績により貝子を追贈された。

424 : ◆oOLAqFKRB. :2007/09/14(金) 18:50:37 ID:0Ytn0iAN0
ここでの書き込みはこれでラスト、次からはブログメインでやりたいと思います。
フーシン(傳清。?-1750)
 フチャ氏、満州鑲黄旗の人。フーヘンの弟。雍正年間、侍衛を授かり、乾隆中、直隷天津総兵とされた。
乾隆十一年、「チベットの辺境は西はジュンガルと接し、北はチンハイに通じて、四川の西南に隙を作っています。
これを防ぐために堤防を修築してはどうでしょうか」と上奏した。十二年、チベットの郡王・ポルナイ(頗羅鼐)が
没し、その次子・チュルム・トナムチャレ(珠爾黙特那木札勒)が郡王を嗣いだ。皇上はフーシンに諭して曰く
「ポルナイは反覆常なかったが、それでも中国は治まった。チュルム・トナムチャレはまだ幼く、君がこれを留意して
チュルム・トナムチャレの思慮の及ばぬところを指示してやればよい」フーシンはこれに対し「ポルナイ在りしとき、
長子公チュルム・トツェプトン(珠爾黙特策布登)がアリクシャ(阿里克夏)に出駐し、テンケリノル(騰格里諾爾)、
ハラウス(喀喇烏蘇)などから軍を出駐させていたものです。今チュルム・トツェプトンはアリクシャにあって、
命令とは別にテンケリノル、ハラウスに宰桑を遣わし、諸処に軍を駐留させています。油断は出来ません」と上奏した。
またジュンガルがチベットに来寇したので、増援を請い兵を各路に分かって防禦した。皇上はチュルム・トナムチャレに
命じて交易の独占権を求める。十三年、天津総兵の任をラプトゥンと交代、帰還して天津鎮総兵を授かり、古北口・固原提督に
遷された。チュルム・トナムチャレは各地のチベット兵を留め置くことを請い、皇上はこれを容れた。同年、ラブトゥンは
副都統・紀山に代えられる。
 十四年、紀山はチュルム・トナムチャレとダライ・ラマの間が親密なのを見て、皇上にダライ・ラマを泰寧に移すことを請う。
皇上はチュルム・トナムチャレが乱を為そうとしているのを知り、チベットに大臣二人を置くことにした。フーシンは
都統銜とされ、固原とチベットの間を往復することになる。紀山はまたチュルム・トナムチャレがその兄チュルム・
トツェプトンとともに兵を挙げ、攻め寄せてくると上奏。皇上はフーシンにその虚実を問い、フーシンは「チュルム・
トツェプトンは未だかつて兵を構えたことはなく、チュルム・トナムチャレに妄言を吹き込んだに過ぎません。この際兄の
相続した土地を奪うべきでしょう。わたくしはチベットに赴き、チュルム・トナムチャレを懲らしめようと思います」と答えた。
このとき皇上は虚言を弄したとして紀山を侍郎・ラプトゥンに代えたが、フーシンが現地を調査したところチュルム・トナムチャレは
実際叛乱を起こすべく計を謀り気が熟すのを待っていた。密かに現地の情勢を上奏する。
 十五年、フーシンとラプトゥンは前後してチベットに入り、チュルム・トナムチャレを追いその兄チュルム・トツェプトンを殺し
その子を逐った。しかしチュルム・トツェプトンの息子はジュンガルに使者を送って援軍を請い、ために叛乱の火はますます盛んとなる。
皇上は副都統・バンデイをチベットに赴かせてフーシン、ラプトゥンとともに叛族を止める任務を与え、一方でフーシンらに軽発を控える
よう詔を下し、同時に彼らの兵備を整えるため、四川総督ツェレン(策楞)を現地に送る密書を下した。チュルム・トナムチャレは謀を棄て、
堤防を破棄し軍書が届くのを待たずに急進、再び叛乱を起こす。フーシンらはツェレンが現地に向かっていることを知らず、先走って
「チュルム・トナムチャレは叛いていたずらに人を屠り、乱を為しました。わが軍がここで進まずばチベットを棄てることになります。
ここは先発するに如かず、死すといえども乱を定めるを易くしましょう」と上奏した。十月、チュルム・トナムチャレは通司岡に駐留して
チベットの大臣を集め、城樓に登る。フーシンは現地に急行、チュルム・トナムチャレを追って通司岡の城樓に登り、不退転の決意で梯子を
外させる。詔によって罪状を読み上げるとチュルム・トナムチャレは拝跪して罪を謝したが、フーシンはその首を斬り落とした。ここで賊の
朋党・ラプツァン・チャシ(羅卜蔵札什)が衆を率いて城樓を数重に囲み、大砲を連射。フーシンは三箇所に重傷を負ったが屈さず、自刎して
果てる。ラプトゥンもまた城下で戦死した。主だった部下たちもみな自殺、あるいは戦死する。千総二人、兵卒四十九人、商民七十七人が
彼らの後を追って自殺した。このことを聞いて皇上は「揆の勢を審判し、計を決して謀を定めたのは心苦しかっただろうが、功績は大であった」
と彼らの勇戦を讃えた。フーシンを一等伯に追封、襄烈と謚し、通司岡に祠を立てて英霊を祀らせた。

425 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 19:18:16 ID:P3xrNsxIO
バイバーイ(-_-)/~~~

426 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 00:27:48 ID:Y9zve+/X0
◆oOLAqFKRB.さんはもうこのスレには来てくれないのかな?

427 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 22:59:17 ID:JwZ1JDIzO
向こうのブログ行けばいいじゃない

428 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 00:39:23 ID:HwTWfJFn0
長文野郎の取り巻きが、一般客を排除しといて、
その長文野郎が巣に引き込んじゃったよ…

取り巻き野郎は責任を持ってこのスレを何とかしろよな。

429 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 01:37:21 ID:dJjROADNO
過疎スレに長文さんが取り憑いてただけで
これが本来の姿ではないかと

430 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/11(木) 21:35:42 ID:OsT5nbLV0
一番尻が締まったのが王守仁

431 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 16:03:34 ID:F1GwxNTQ0
弔文野郎がウザかったけどいなくなったのか
これからはまたーり語れるな


432 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 16:40:24 ID:BZPoljhQ0
関羽VS李靖 夢のドリームマッチ
勝つのはどっちは?!

433 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 19:29:01 ID:ALfN4gkE0
>>431
長文氏がいなくなると、語れる人はいないということが判明したわけだが…?

434 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 19:49:55 ID:dXTzll8E0
長文野郎にうんざりして離れていったやつがたくさんいるから
元に戻ってくるまで時間かかりそうだな

435 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 20:01:50 ID:gXBY8BMqO
ま、長文をウザがってんのは>>428=>>431=>>434の一人きりなんだけどな。

436 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 21:45:09 ID:vWDKhCqs0
長文氏は知識は多かったかも知れんが自分の言葉で語れなかったからなぁ

ま、自分と違った意見を全て自演とする愚は犯すまい犯すまい

437 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 21:48:19 ID:xG4yg6kW0
簡潔にまとめる力が欲しい。

438 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 23:04:05 ID:ALfN4gkE0
史書の直訳はあんなもんだからな。
ま、自分はおもしろおかしく書くスタイルではあるが。

439 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/14(日) 00:16:15 ID:BsvOi/650
直訳したのは史書じゃなくてどっかの本じゃなかったっけ?

440 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/14(日) 10:03:13 ID:1//RzDLY0
>>439
《中国歴代軍事人物辞典》と《二十四史》のコンボだよ。
たしか、正史の記述が長いと、訳するのに時間かかるから
ラクしたんだ、と言っていた。

それなりに有名人なら、そういった本に伝も上げられているだろうけど
時代自体がマイナーだと、まともに名前があがっていないという…
とはいえ、日本のそういう列伝本なら、だいたい三国時代で終ってるから参考にもならんがw

441 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/14(日) 17:28:21 ID:i6ch00ei0
【政治】政府、"お金をつくる"造幣局や印刷局など独立法人20以上を民営化へ−機密性の保持も絡み様々な意見も★4
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1191932873/

【民営化】造幣局・印刷局など、独立行政法人20以上を民営化へ:政府方針 [07/10/07]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1191727281/


政府は6日、現在進めている独立行政法人(独法)の整理合理化に関連し、
101ある独法のうち、予算に占める国からの財政支出の割合(財政依存度)が低い
20法人以上の民営化を目指す方針を固めた。

2007年末に整理合理化計画を策定し、閣議決定する予定だ。
民営化の対象には、造幣局や国立印刷局、日本万国博覧会記念機構などがあがっている。
今後、独法の民営化推進を目指す渡辺行政改革相らの方針に対し、
事業の公共性の高さなどを主張する関係省庁の巻き返しが本格化しそうだ。

貨幣や紙幣を造る造幣局や国立印刷局については、機密性の保持なども絡み、
是非をめぐって様々な意見が出そうだ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071007-00000002-yom-pol


442 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/14(日) 21:49:19 ID:CMpEq7Qf0
ブログ見てきたけど、長文氏の気合入ってない冒頭の部分とかがいい感じに面白かった。
あれを膨らませて色々と考察してくれたらいいのになあ

443 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 13:53:27 ID:cQj5pozK0
確かにあのブログは人物の列伝(すごくためになるけど)よりもブログ主の人物評のが面白いw

444 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 23:00:25 ID:PClwPpjIO
人物を紹介した文章をサイトにアップ。
その人物に対しての短評をココに投下。
なんてやり方をしたら面白いかもね。






と無責任に言ってみた。

445 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/31(水) 02:22:12 ID:272CmYthO
宣伝乙としか言いようがない

446 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/31(水) 02:35:16 ID:jomJefP50
詳しい紹介は熱意ある初心者と好事家だけで十分。
俺みたいに中途半端なのは彼のような物知りの上澄みの部分だけ聞きたいもんだ。
韓信が人間的に好きになれないというだけで孟キョウより下というのは
如何にも彼の好みが出ているようで面白い。

447 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/31(水) 07:25:03 ID:GEX3wHmDO
オイオイ、ブログの短評会かよw

448 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/31(水) 17:02:14 ID:qlylxNsl0
そうだな、そういうのは現地に書き込んでやったほうがうれしいと思うぞ。
ここでは自重しる。

449 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/03(土) 15:06:44 ID:pT1F0k3a0
別にいいんじゃない?
批判的なことは書いて欲しくないだろうし。
応援はあそこで、批判はここで。
◆oOLAqFKRB氏の文章は楽しみにしていたので少し寂しいが。
ただ、本人も>>431>>434みたいなレスを見てショックを受けたと言っていたし。
こういうのは論外だな。自分はあの十分の一も翻訳も文章も書けない。
ただ、力の差に絶望するばかり。

ただ、◆oOLAqFKRBは好みが激しいのは認める。あれほどの文章と見識がある人が。
関羽を虚名と切り捨てているのは不満。(演義のは誇大だが)
于禁との戦歴がある以上、別に張遼、曹仁、徐晃、張コウ、夏侯淵、呂蒙、張飛らと
それほど遜色があるとは思えない。上下をつけられるほどの差ではないと思うのだが。
(もちろん、于禁も。関羽>于禁だから、関羽がずば抜けているという意見も決して、論外ではない)
結果論者かな?と思う。
>>351
>諸葛亮って軍事に多大な功績あったかな? 確かに堅実な用兵は評価できるかも知れんけど
これも不満
真偽は不明とはいえ、兵法書を残し、八陣を後代に伝え、
創作が多いとはいえ、講談という形で後代に兵法の醍醐味を初心者にでも
分かりやすく伝える材料をくれた功績を考えれば、名将三十選にはいっても
おかしくないと思う。
(入るべきと言っているのではなく、そういう見方もあってよいという意味)

自分が蜀びいきなのは認めるが、
◆oOLAqFKRBはアンチ蜀史観に陥っているような気がする。
まあ、叩かれるかもしれんけど。

あと、>>339からの評価は関羽、張飛、張遼、尉遅敬徳、秦叔宝が抜けているから
そこまでひどいとは思えない。孟キョウが抜けているのが不満だが。

450 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/03(土) 17:00:34 ID:0sAT5eOS0
蜀の人材は圧倒的不利な中でよくがんばったとは思うんだけどね、
でも結局は本流から外れた地方政権にしか過ぎないわけよね。
『三国志』(演義じゃないよ)なんて見事な宣伝があったものだからどうしても大きく見えちゃうのは仕方ないんだけど。

陳寿さえいなければ、蜀とか呉なんてよくたって『魏書』(拓跋魏の『魏書』と区別するために『前魏書』とかなってたのかな)の中に
劉備載記(孫策載記)とか蜀世系(呉世系)とかが取られたぐらいなんじゃない?
それも袁紹兄弟や公孫氏と同列になって。

451 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/03(土) 18:34:59 ID:71MHH7E80
諸葛亮は名将三十選っていうか名将百選にすら選ばれるのは難しいと思うよ。
兵法書や八陣を後世に残したっていうけど、どこまでが真実か良く分かんないし。
軍事に関する実績だけ見ていけば諸葛亮より上っていう人物はかなりいるしね。
三国志から誰か名将三十選に入れるなら曹操が精一杯だろうな。

452 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/03(土) 21:19:52 ID:RBxIqJIT0
曹操ねぇ…

453 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/03(土) 21:43:49 ID:4cBRgtw40
ID:RBxIqJIT0はうざいねぇ…

454 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/03(土) 23:13:13 ID:75ZMgT260
曹操は中国史で50位くらいの傑物

455 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/03(土) 23:55:21 ID:Kh22Ytl/0
>>449
岩城氏の諸葛亮批評は、自分も反論するところだけど、基本的に名将スレの評価基準を
かの人は踏襲しているものと思えるので、その評価が間違ってばかりいるとも思えない。
なんといっても、「どこそこの敵を破って領土を広げる」だの
「よく寡兵をもって大軍を撃滅する」だのといった、軍事ロマンチズムを満足させる基準が
あのスレの根幹だったから。
当然、そういうのは好きだが。
しかし諸葛亮を語るとき、そういう意味での「将」を語るのではなく、統率者としての「将」を
語らねばならない。
一戦場や方面に身をゆだねた将ではなく、一国の指導者としての堅実さをこそ評価する。
純粋に勝ち負けでいうと負けでしかなかったけど、主力が壊滅することもなく、
また数度に渡って遠征できたというところが、驚嘆できるところでしょう。
だから、名将というものの基準によっては、入らない場合が多い。ということ。

…とはいえ、連年の大遠征って、柴栄もやってるよな…
しかも、遠征中にも内政改革やったりして国力向上させ、あげく領土は広げ、
率いた軍隊は当時の中華最強部隊ときては。
まぁ、蜀漢には「風」が吹かなかったのだろう(と、ありきたりなことを言ってみる)。


456 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/06(火) 11:55:20 ID:8vJBNs4J0
諸葛亮は魏より兵力で劣っていたのに、魏と互角以上に戦い、名将と言われた張コウを
討ち取っているから、そこそこの名将とは言えるんじゃないかな。

457 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 10:45:44 ID:jQJdFBWLO
久しぶりに見にきたが地味〜にスレ進行してるな…

458 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 16:20:12 ID:r3lZr0Sk0

社会】 「ナイフを捨てろ、捨てんと撃つぞ」 コンビニ強盗、警告無視して警官襲う→撃たれて死亡…京都★3


1   2007/11/16(金) 14:15:02 ID:???0
★警察官が発砲、包丁で切りつけた男死亡 京都

・16日午前1時すぎ、京都市山科区東野八反畑町のコンビニ店「セブンイレブン山科東野店」で、
 包丁を持った男が男性客(67)と男性店員(53)に切りつけて逃走し、店に駆けつけようとした
 警察官(44)にも路上でけがを負わせた。約10分後、別の警察官数人が同店から約400
 メートルで男を確認。抵抗したため拳銃を1発発砲し、弾は左太ももに命中した。
 山科署は殺人未遂と公務執行妨害の疑いで現行犯逮捕したが、男は病院で約1時間後に
 死亡した。

 山科署によると、男は40歳ぐらい。警察官が「ナイフを捨てろ、捨てんと撃つぞ」と警告したが、
 同僚の警察官に切りつけてきたため発砲したという。包丁で切りつけられた男性客ら3人は
 軽いけがという。福多亘副署長は「現段階で判明している事実によれば、適正な拳銃の
 使用だと考えている」とのコメントを出した。
 http://www.asahi.com/national/update/1116/TKY200711160034.html

・調べでは、この約10分前、現場の北約350メートルにあるコンビニエンスストアで
 強盗傷害事件が発生。男が大声を上げながら男性客の背中を切った後、店員の
 顔などを切り、たばこ1箱を奪った。切られた2人は軽傷。巡査部長らはこの店に
 向かう途中だった。
 死亡したのは同区音羽千本町、無職、崔正秀容疑者(42)。(抜粋)
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071116-00000024-mai-soci

※前:http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1195182783/



459 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/04(金) 13:49:11 ID:DENV+nWT0


クソスレage



460 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/04(金) 23:26:43 ID:Q/RZPfC/0
馬援は凄いと思う

461 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 00:06:07 ID:HxKczxSmO
曹操が凄いのは軍事だけじゃなく政治も(ともにハイレベルで)行えるところにあると思う。
なかなか両方こなせる人って居そうで居ないんじゃないか?

462 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 02:29:18 ID:pMohaaew0
政治すごいか?

463 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 04:35:16 ID:Au9wkitOO
>>461
イヤ、曹操レベルなら、唐太宗を筆頭に上回ってる人物はいる。

464 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 12:26:43 ID:n7YQmShyO
>>461が無知なだけw

465 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 14:22:48 ID:UtcxmyrK0
なんで?

466 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 14:51:56 ID:x0sOB4WM0
曹操は政治あんまり凄くないぞ。
領内では反乱起きまくってるし、
戦乱で荒廃するのを手をこまねいて見てた。
屯田制ぐらいのもんじゃないか、
曹操の政策で評価すべきなのは。

467 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 17:37:22 ID:Wv99sMyP0
中国一の名将などの企画でよくあがるのは

(春秋戦国)孫武
(前漢)  韓信、霍去病
(後漢)  劉秀、曹操
(三国両晋)
(南北朝) 陳慶之
(隋唐)  李世民、李靖
(五代北宋)
(遼金南宋)岳飛、孟キョウ
(明清)  朱元璋、徐達

モンゴル・元の奴らは外すとこのへんかな? 曹操、陳慶之はさすがに中国一はやりすぎなので、外すとして
残り十一人から、霍去病、岳飛、朱元璋をお好みにいれかえるぐらいが世間的に最も支持される
中華名将ベスト10かな

468 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 19:20:43 ID:U6kj7g9M0
>>467
三国両晋は石勒の一択だな、慕容垂ら凄い連中はいるものの
覇権確立の過程で、あれほど最悪な条件で立志した人物は他にいないし
(奴隷売却、文盲ということで朱元璋よりも2翻上を行っている)
前政権、あるいは地方軍閥の軍組織(正規兵部隊)を踏襲せずに
ほぼ自前で兵力をかき集め、軍団を形成した点はかなり評価できる。

南北朝は、個人的には韋孝寛が頭ひとつ抜け出していると思う。
と言うよりも、陳慶之が代表的武将に挙げられるのは、違和感が……。
(劉裕、檀道済を差し置いて挙げるほどの人物かなあ)

469 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 19:27:04 ID:n7YQmShyO
>>467
陳慶之よりの檀道済か韋叡の方が上かな。
韋叔裕も捨てがたいけどね。

>>465
以前も他で論争になったんだけど
曹操は決して戦上手ではないよ。
後漢〜三国期でならトップクラスかも知れないけど
他の時代には曹操クラスはイッパイいるんだし。
それに曹操は政治家としてもずば抜けているとは思えないし。
それになんでって言うけど>>461は三国志しか知らないと思うよ。
そうじゃないとあんなこと堂々と主張出来ないよw
だから無知と言ったのさ。

470 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 19:58:15 ID:FupaB0is0
>>467
よく考えれば、残りは10人だなw
陳慶之は小説のおかげだろうね。(これは自分があげたものじゃないから)
どうせ異論はあるだろうが、軍事実績、能力、名声、後の時代への功績を自分なりに考慮して、

S 孫武、韓信、劉秀、李世民、李靖、孟キョウ、徐達
A 霍去病、石勒、劉裕、岳飛、朱元璋などベスト10候補

こんなところ? 曹操、陳慶之はBかCってところだろうな
五代北宋と清代はどんぐりの背比べという感じで該当者はいない気がする

曹操は中国史に多少詳しい人でも、支持する人は多いみたい。
春秋戦国は統一できてないし、秦は国力差。韓信、劉秀は敵が弱かった印象がぬぐえない。
霍去病は匈奴に大打撃を与えるより、烏丸を滅ぼした曹操の方が強いという評価

基本的に三国志で終わっている人が多いので、中国一の名将に曹操をあげる人は結構いるようだね
印象操作に過ぎないと思うけど

471 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 20:40:34 ID:UtcxmyrK0
>>470
しかし本当の真実は闇の中にある。
妄想は出来るけど・・・


472 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 20:45:47 ID:uH4DYbj80
柴栄はどのくらい?

473 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 21:39:04 ID:n7YQmShyO
>>472
貴方がこのクラスだと思うところでいいんジャマイカ?
無理に優劣や順位を決める事はないんだし。
>>470はあくまで個人的な発表なだけなんだし。

474 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 21:59:37 ID:Cr+zcsi30
「○○如き他の時代には掃いて捨てるほどいる」って言説には猛烈な違和感を感じざるを得ない

475 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 22:21:59 ID:DWZdsv2D0
曹操ってほぼ独力で半分切り取って首都圏を押さえてるのに
何でこんな評価低いの?
こいつの問題は韓信李靖徐達みたいな
残り半分を切り取ってくれる部下が
いなかったことだと思うのだが。

476 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 22:43:35 ID:n7YQmShyO
>>474
「○○如き他の時代には掃いて捨てるほどいる」
なんて誰が言ってるの?
俺は曹操レベルなら他の時代には結構いると思ってるのたが
ただ、それだけの話。
そんなにカッカするほどの事でもない。
納得出来ないならスルーすればいいだけの事なんだし。

>>475
>曹操ってほぼ独力で半分切り取って首都圏を押さえてる
彼の裁量ではない罠。
有能な配下に支えられた印象が凄く強いんだけど・・・つーか曹操はあまりにもミスが多すぎるのと
赤壁と漢中攻略での失敗が評価に響いていると思われ。
また、韓信李靖徐達みたいな有能な武将が仮にいたとしても彼らの主人の様に
思う存分な働きをさせれたかは疑問。
また、劉備がその役割的人材とよく言われてるけど、劉備には逃げられたw
プレーンの進言を何度も無視して死にそうになってるんだし・・・

477 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 22:53:48 ID:U6kj7g9M0
>>475
曹操の場合は、父祖以来築いてきた政界での基盤、買官からも伺われる資産階級
教養や軍事常識等、恵まれた教育環境(本人の資質、知識欲が大きいが)
ヘタすると、劉秀よりも恵まれた環境があったからねえ

李靖や韓信を得られなかったと言うよりは
ハナッからそんな軍権与えるつもり無いだろ、曹操の場合
親征ばっかやってるから、自分とこにそれなりの兵力を揃えなきゃいけなくなる
結局、寿春、襄陽、漢中いずれの前線もその煽りを喰らう
普通、予備兵力(タスクフォース)として運用されるべきものが
逆に体裁を整えるために、第一線部隊を圧迫してるんだから
だいたい、第一線に自主裁量の余地が、韓信ほどあったかと言えば……

478 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 23:00:51 ID:XoptUfl/0
無様な負けが多すぎるし、官渡意外は相手がしょぼいか自滅した印象

479 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 23:01:32 ID:ADd0xyKy0
>>477
>>第一線に自主裁量の余地が、韓信ほどあったかと言えば

まぁそれは時代背景によるわな。
第一線に立たねばならない状況ってのもあるわけだし。
曹操のときがそうかというのは、どうかは知らんが。

480 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 23:04:52 ID:k3fHqCOC0
>>478
というか官渡こそ相手の自滅だしなあ

481 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 00:31:44 ID:bDJJmWAcO
王翦親子って挙がらないんですね
いえ詳しくは無いのですが

482 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 00:44:35 ID:glyRzI0T0
王センは用兵よりも処世の達人って感じ

483 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 01:08:13 ID:yZnN/nGW0
>>476
カッカしてるんじゃなくて見方変えたら?ということ。
時代が変われば状況も変わるし、実績だけで判断するのは無理なんだよ。
三国時代は分裂と縮小の時代であって、どんな名将がいたって統一は無理だったろうね。
それを「統一しなかったから二流」ってのはあまりに乱暴な括りだね、と。
それから、「納得できないならスルー」なんていったらチラシの裏と変わらんぞw


484 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 01:16:11 ID:glyRzI0T0
石ロクは統一しなかったけど一流扱いだね。
何が違うんだろうか。

485 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 01:18:05 ID:WOhKexnk0
>>484
スタートライン

486 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 01:20:43 ID:yZnN/nGW0
曹操は近年の高評価の反動じゃないかな?
特に2chは既成の権威が嫌われる傾向にあるし。

487 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 01:56:09 ID:oQumrIJn0
劉裕はもっと評価されてもいい
軍事に関してなら曹操や石勒よりも上

488 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 02:16:36 ID:LY+WKCaM0
どうして、ここで項羽の名前があがらないんだ。
強敵や圧倒的兵力差を引っ繰り返して、勝ちまくってるのに。

489 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 07:09:47 ID:eMyo3oat0
>>481
王翦、王賁、李信らの遠征は確かに評価されるべき

蕭何が得た秦の行政文書や国勢調査の中には、間違いなく
この当時の遠征の兵站計画とかが存在しただろう
そうでなければ、あんな短期間で後方支援のスペシャリストになれんよ

490 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 09:08:31 ID:pBXfY69xO
叩かれる承知で投下するけど、
王翦親子や項羽の名前が挙がらないってぼやいてる人いるけど、
>>460-461のレスがあるまでどんだけ過疎ってたか知ってて言ってんのか。
俺もそうだけど曹操の話題に食い付いてレス増えただけだろ?
あの武将が挙がってないとか不満を漏らすなら、
自分で挙げるなり、話題を振ればいいだけの話。
ここはそう言う場所だ。

491 :470:2008/01/06(日) 09:23:39 ID:WyY/vw070
確かに個人的な発表だな。中国という概念も漠然だし。
>>472
確かに、五代北宋で選べば、彼だよね。活躍期間が短いので外したが、曹操よりは自分の
評価はかなり高い。時代ごとのバランス重視派のために彼もAでいいだろう
同じように清もヌルハチをAにいれておくか。こっちは塞外なんて関係ないから
呉起の兵法書は孫武に比べだいぶ劣るが、一応、その功績と名声も考えて入れるか
モンゴル・元は中国かどうか微妙なので外すとこれでいいだろ
また、ほとんど失点のない孫武、李靖、孟キョウは別格でいいと思う

SS孫武、李靖、孟キョウ
S 韓信、劉秀、李世民、徐達
A 呉起、霍去病、石勒、劉裕、柴栄、岳飛、朱元璋、ヌルハチ

しょせん、妄想だが、Sの七人+Aから好みの三人がベスト10で順当だろうな

B以下をつくると、もめるからしないが、
曹操については、石勒、劉裕も似たようなミスをしているが、スタートラインが劉秀どころか
下手をすれば李世民より高いのと、荊州が戦わず降伏し、赤壁で勝っていれば天下統一できたのだから
時代のせいばかりもできない。石勒よりも条件がよい。
また、敗北は兵家の常だけども、圧倒的大勢力がせっかく得た荊州南部を失っているのはかなり失点
だと思う。劉裕も同じだけど自分が敗北したわけではない。
(これも戦略的には微妙だが。だから、自分なら、劉裕をベスト10にはいれない)

項羽は中国一にあげている人はいないからね。戦術だけではなく、戦略とか謀略に強いことや、人望も
名将の一条件だからだろう。王翦は国力差からかな? 始皇帝の厚いサポートがあったからだろう。
李牧を正面からうち破ったら、中国一にあげる人もいたかもしれない。


492 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 10:23:44 ID:eMyo3oat0
>>491
軍事手腕は本当に場合によって評価が難しいからねえ
攻勢では敵無しでも、防御や退却では脆さを見せる人物もいるし
逆に、防衛戦、引き籠もりは上手でも領土を切り取れなかったやつもいる
寡兵で大暴れできても、大軍を指揮できないとかってのも普通だし
部門別で評価した方が良くねえ?

水上戦(あるいは水上機動の活用)
攻城戦(籠城戦)
機動戦、電撃戦
野戦における騎兵戦
野戦における一大決戦(総兵力10万前後クラスでの激突)
戦力差の大逆転
謀略戦、情報戦

ぐらいで

493 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 10:26:37 ID:XFNh2S1o0
>>492
ふつうの歴史好き程度ではついていけんぞ、それ。

494 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 10:46:17 ID:eMyo3oat0
>>493
全時代網羅できるやついないもんね、普通
時代による軍事環境の変化も、一概に比較できるもんでもないし

孫武は、確かに別格にしないとちょっとややこしいことになるが
李靖あたりは、李牧、韓信、衛霍二将、明北伐組らと比較してもいいと思うけどね
つーか、韓信も別格に近い気が

495 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 11:25:39 ID:pBXfY69xO
>>494
孫武は文句なしに別格だろうね。
韓信も李靖もほぼ別格扱いでいいんじゃないかな?
李靖のどこへ行っても常勝つーのは凄いと思うし。
しかも政治家としての能力も兼ね備えていると来たもんだ。
李牧は楽毅と同等扱いでいいのでは?
(戦国時代を代表するトップクラスの名将と言うことで)

496 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 11:49:00 ID:f8f4QKdN0
>>491
くどいようなんだけど曹操についてさ、
曹操が頭角を現してきたときには中国の人口がすでに十分の一近くにまで落ち込んでいた時期。
そんな人口で旧来の領土を継承維持できたとしたらそれこそ他者を隔絶した大天才だと思うんだけどどうだろう
ちなみにスタートだってかなり悲惨なもんだぞ。まあ石勒には及ばんがw

497 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 12:41:16 ID:7lrOD1ox0
>>491
スタートラインで曹操を低くするのなら、他の武将たちも考慮してほしいね。

498 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 12:51:58 ID:WOhKexnk0
>>496
スタートがいつを指すのかわかんないけど、私兵を養って以来と考えると、独力でいきなり兵を5千集めたり、曹洪や曹仁も別に兵を持っていたりと、悲惨はないと思うよ
あと人口減は戸籍上だけで実際にはそこまでじゃあないけど、どっちにしても旧来の領土の7割前後だからね、平定できたのって
全国を平定したんだったら文句は言われないけれど
それに他の人も言っているように重要な局面での失敗が多い

>>497
考慮してそうなってんじゃないの?


499 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 12:53:15 ID:pBXfY69xO
491氏のランキングに不満がある人は、
自分なりのランキングを発表すれば?
あのランキングは491氏、個人の基準に依る評価に過ぎないんだし。
別に縛られる必要はないと思うけど。
10人いれば10通りの意見があるだろうし、もう少しマターリすれば?
ここは別に名将百選ではないのだから・・・

500 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 13:00:10 ID:eMyo3oat0
>>496
石勒の奴隷階級ってのは、西アジアとかであった軍人奴隷(マムルーク)ではなく
一般農民の家内奴隷だからな
重度の障害を持った人物を除けば、世界史上最も劣悪な環境からのスタートだ
だからこそ、本人が韓信、劉秀に匹敵すると自分の才能を豪語したのにも頷ける

それに比べると、曹操は政界では相当の実力者の子弟であったわけだから
スタートラインが悲惨っつーわれても、理解は得られないと思うぞ

501 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 13:09:03 ID:eMyo3oat0
>>498
戸籍人口の減少の一番の問題は、徴兵制によって成立していた
軍制が立ち行かなくなってしまったことにあると思う
高度にシステム化されていた軍事体系は一度喪失されれば
復帰するのに数十年程度を擁すると言われている(平時の自衛隊でさえ)
スペインも三十年戦争で熟練歩兵の大部分を喪失し、軍事的優勢を
ついに快復することができないまま、退場してしまった
それほど、軍事システムの構築は難しいことであるし
生来の部族制、国民皆兵的な北方遊牧民族が精強なのも理解できると思う

曹操に関しては、過渡期の軍政家としては有能だと思う、政治家としては落第点だが
民衆を苦しめすぎだ、簒奪されて喜ばれるっつーのも然もありなん

502 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 13:13:19 ID:XFNh2S1o0
>>492
ついでに言えば、同じ将であっても条件かわれば、負けることも多い。
ある戦いでは、韓信や李靖にすら為しえない快勝をもたらしても
ある戦いでは、あっけなく負けた、とかね。
そのときの、勢力自体の勢いや支持、兵たちの士気などといったものが
いろいろ作用するから、優劣つけるのはむちゃくちゃ研究しないと形にもならない。

生涯常勝というのは、そういう意味ではすばらしい。
ただし、その時代、その時だけ、だけどね。
これをもって、全時代に通じる名将とか、たまに言う人いるけど、可能性はあるにせよ
妄想の域を出ない。
孫子の兵法書は、ゲームの攻略書じゃなく、心構えとか視点とか、そういったもので
利用する側にそれを応用する知恵が要求されているもの(と思っている)。
それを著した孫武は偉大だが、だからといってどの時代にタイムワープしても
百戦百勝したかと言えば、わかるはずもない。

503 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 13:15:09 ID:WOhKexnk0
>>501
あのころの徴兵制は後漢初期以来スカッスカだからねえ
曹操は兵戸や異民族兵士などの中央が支配する半奴隷兵士への切り替えを上手くやった点は特筆すべきだけど、名将と言っていいのかどうかだなあ

504 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 13:17:54 ID:pBXfY69xO
>>500
確かに石勒のスタートは最悪だね。
しかも曹操の様に基盤、看板、カバンなども無く、
全くの裸一貫からのスタートだしね。
下手すりゃマイナスからのスタートと言っても言い過ぎで無いと思う。
それに対して曹操は基盤、看板、カバンも揃ってる訳だし、
決して悲惨な状況からのスタートとは言い難いね。
曹操がそれらの比較的、恵まれた状況を自分の物として、
上手く吸収したことは配慮してもいいとは思う。
しかし如何せ、ん曹操は重要な局面でのミスが多い。
これが評価に響くのは仕方ないんじゃないかな?
(この指摘は自分だけじゃないからなぁー)

505 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 14:24:24 ID:u/vyd3gX0
>>414のブログで、李靖に匹敵すると評価されてる楊素は中国史トップ10に入るだろうか

506 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 15:04:30 ID:uWcNU/ji0
>>505
韋叔裕(孝寛)の方が、功績的には上じゃねえか?
戦闘指揮、情報戦略、作戦立案、全てにおいて非の打ち所が無い
誰にも(当時最強の高歓をしても)陥落せなかったという実績は
孟キョウに次ぐ、あるいは比類すると言っても過言じゃないだろう

507 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 15:10:15 ID:vDKH13aY0
名将についての話で李靖とかが上位なのに石勒が奴隷スタートなのが何の評価対象になるんんだろう
軍事的能力の話なんだから石虎や慕容垂、劉裕だって十六国南北朝の代表として石勒に劣るものではない

508 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 16:33:38 ID:uWcNU/ji0
>>507
明確に劣るだろ
石勒はそれら三名のやっていない、「ゼロ」(既存の組織を用いない)からの
軍閥化を成し遂げている
一時は、周辺の他勢力が強すぎるから、江南に割拠しようとしたぐらいだったが
あえて死中に活を求めて、襄国に拠って河北に覇権を確立した
幽州軍閥(王浚+鮮卑段部)、山東軍閥(王弥→曹嶷)
并州軍閥?(劉琨+拓跋部)、加えて乞活集団(華北の武装難民集団)
これらと、抗争を繰り広げながら関東を平定してしまったんだから
歴史的に見れば、同じことやっているのは韓信ぐらいじゃね?

まあ、石勒自身敗戦が非常に多いが
最後まで生き残って、あれだけ領土広げたんだから、むしろ
あれだけ負けて、戦死、捕縛されなかった悪運を褒めてやってもいいくらいかもしれん

509 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 16:43:47 ID:f8f4QKdN0
>>504
石勒よりは恵まれてるのは認めてるだろw
問題は>>491が劉秀やら李世民よりもスタートラインが高かったって言ってることだよ。
曹操の場合高官の息子ったって宦官の養子のどら息子って評判はよくなかったし、
地元じゃ軍集められないからって遠くまで募兵に派遣しなきゃいけなかったり、そこまで恵まれたスタートとも思えんのだが

510 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 17:01:10 ID:pBXfY69xO
>>509
個人的には石勒は別にヨイショとかで這い上がって来たのではなく
腕一本で最下層の更にマイナスな所から
あれだけの結果だしたんだから、
これは純粋な軍事的能力として評価してもいいと思うね。
曹操は宦官の養子のどら息子って評判悪くても
結局は祖父の看板とカバンを利用出来たよね?
兄弟や夏侯氏も自分の周りにいた点も有利な方だと思うよ。
言うほど決して不利な状況とは思えないよ。
あと、石虎や慕容垂、劉裕も石勒よりスタートの条件がかなり有利だと思うし。
劉裕の場合は石勒より比較的マシとは思うけど
石勒ほど不利な状況からのスタートではないよね。

511 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 17:08:24 ID:pBXfY69xO
スマソ>>510
個人的には石勒は別にヨイショとか云々はスルーしといて下さい・・・

512 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 17:09:49 ID:vDKH13aY0
スタートが不利だろうと敗戦してるんだから、それはそれでマイナスをしなければならないだろ
慕容垂なんて無敗もいいところですよ?

513 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 17:28:31 ID:f8f4QKdN0
「石勒と比較しているんじゃない」といっても石勒石勒言ってるようなヘンな人には言っても無駄だと思うのです

514 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 17:51:03 ID:vDKH13aY0
曹操に関して言えば、人口の落ち込みは単純に国が把握出来なくなったからで
流民は豪族に流れていった訳だからマイナスではない。宦官の孫というデメリットも
その爺さんが残した財産を考えれば大きく落ち込むという訳でもない
普通の地方豪族+劉姓の劉秀とトントンぐらいか

李世民はものごっつ有利だと思うけど。八柱国の家柄で、ついこないだ楊家が周を乗っ取った
という時勢だし地の利も得ていた

しかして、スタートラインが良いからといって李世民の軍事的功績が減点されるわけでもない
逆に石勒がスタートラインが悪かったコトは加点対象にはなっても、それで全体の功績が倍増しになるわけでない
そして、普通に赤壁をやらかしてしまった曹操がスタートラインがどうこうであろうと、減点されるのは一緒

しかしなんで孫武が最高ランクなんだろうか?

515 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 17:52:30 ID:9NVg5vS50
石勒が三国志
曹操が五胡の時代に生まれていたら・・・?
モロ出自が影響すると思う

516 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 17:59:45 ID:ZBTm5dGcO
中国史の不幸自慢じゃねえんだから、境遇で優劣決めてもしょうがなくね?
ま、面白いから良いけど。

朱元璋も境遇が悲惨で、逆境を跳ね返してるけど、武将となると人生の後半、楽してるよな。
配下に名将がいるから、表に出なくて良いんだけど、その辺は物足りないよね。

自身でガンガン先頭に立ったら、天下なんか穫れないけど。

517 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 18:03:21 ID:WOhKexnk0
>>516
劉邦は自分が先頭に立って項羽と戦って天下を取ったけど、時代が違うわな

518 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 18:06:16 ID:WOOmFMJy0
出自も時代背景も全く同じ人なんていないんだから
優劣やランクや枠に囚われて論じる事など愚かでしかない
そのせいで相方のスレは廃れたんだから

519 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 18:16:55 ID:pBXfY69xO
>>514
只の素浪人が新進の呉を最強の軍団に仕立て上げ
しかも自身が何処へ出陣しても負け知らず。
陸戦は言うに及ばず水軍を率いても最高レベル。
卓越した戦術、戦略能力を兼ね備えているし。
楚軍を完膚なきまでに叩きのめし、首都まで攻め込んで王を逃亡させてる。
また楚だけでなく斉や晋を脅かしたんだから
これを最高レベルに置いても罰は当たらないと思うよ。
孫武のマイナス面と言えば自身の功績に対する記録があまりにも少ない点ぐらいかな。
(記録があるにはあるけど探しだすのが凄く困難)

520 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 18:19:31 ID:uWcNU/ji0
>>514
李世民が中原の統一だけにとどまっていたならば、出自に恵まれたという評価で
済んでいたかもしれないが、その後の対突厥戦線に向けての兵の鍛え方、幕僚の招聘
を考えると、絶対に出自に胡坐をかいていたボンボンじゃないと思うけどね
ひとりで、漢の韓信、文、景、武帝を兼ねてるようなもんだぜ
堕落しないあの自制心、冷静な決断力は全時代通じてピカイチだろ
(南北朝期の暗黒君主、簒奪者たちと比べればいっそう際立つ)

521 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 18:37:26 ID:obsTWK0M0
例えとして他時代の人物出すならいいけど
比較はやめようぜ
厨臭い

522 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 18:38:35 ID:2psj/qcm0
李成民程の英雄はいない

523 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 18:39:38 ID:pBXfY69xO
自分も論争に参加してるから
あまり偉そうな事言えた義理じゃないけど
不満なら自分なりのランキング発表したらいいだけなのにそれもしない。
(各人のランキングを発表してはの件は何度かカキコした)
これってどうなの?
まああれこれ話合う事、自体は反対しないけど・・・

>>520
なんか、 ひとりで、漢の韓信、文、景、武帝を兼ねてるとか
堕落しないあの自制心、冷静な決断力云々の部分は
名将と関係ないってレスが来そうな悪寒が・・・

524 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 18:44:02 ID:obsTWK0M0
>>523
ランキングや比較で討論したいならこちらでどうぞ

【推薦】 中国名将百選 其ノ五 【選考】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1183105131/

525 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 18:47:37 ID:u/vyd3gX0
また過疎るようなことを…

526 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 18:50:43 ID:uWcNU/ji0
>>523
そのレスは重々承知、でも、突厥を軍事的に打倒しようと
強兵政策を採り、有能な軍司令官を採用し
その結果、突厥帝国を屈服させてしまったんだから
やはり、李世民の軍事センスは結構なものであったと思うんだがね
勝算を弾いたという点は、このスレ的にはどんな評価になるんだ?

527 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 18:58:14 ID:4qwYWYY90
このスレ的もくそもおまえさんが評価するならそれでいいじゃないか
それより具体的な軍事的功績をどんどん挙げてってくれ

528 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 19:08:58 ID:XFNh2S1o0
>>526
李世民、および劉秀の戦術はかなり有効だったんだろう。
軽騎による展開の速度と、待ち、ができる忍耐力。

負けたことがあったとしても、後にそれを克服していれば
そうマイナスというほどでもないと思う。
負ける、にも軍としての核を損なわないような負け方と
中枢部が破壊されるような負け方とがあり
前者ならリベンジして勝つこともあり、後者なら滅びの道を進むこともあり。

529 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 19:36:52 ID:Uu/IY8nt0
なんか、かなりレスがついているな。やっぱ、こういうのは人の気をひくのか。
話が盛り上がるなら別にいいけど。
100選スレにはいかない。あそこは過疎っていてもあそこのルールがある。これとは関係ない
選び方も異なる。名声や後世への功績も自分なりに考慮したい。
初めの人選も自分が選んだわけではない。書籍やらサイトやらから中国一といえれた名将を集めてきただけ。
あくまでもそれを参考に個人的に選んだだけだから、あまり気にすることもない
三国両晋は代表として石勒、南北朝は代表として劉裕にしただけ。
基本的に領土を自分の力で切り取ったものが代表にふさわしいと思ったから。

韓信を別格にしなかったのは、韓信の活躍の期間が数年に限られ、活躍地域も比較的限定されているから。
匈奴を撃破するか、項羽が南方に逃れて、すかさす撃破できたら、SSだったけどね。
あと、劉邦にも問題あるだろうけど、戦略的理由以外で主君の出兵を拒否するのは、
名『将』としてはどうかと。個人的には韓信は過大評価されていると思う。

曹操は現在、曹操シンパではそういう理由が統一できない原因と思われているんだ。
曹操は個人的には実力はCで、孫子兵法の注釈の功績と日本における彼の名声を考慮して、
Bのドンジリくらいと思っているけど。

本当は比較は難しいんだが、歴史を超えて比較できないものと同時に、比較できるもの
もあるんじゃないかな。どうせ細かく検証もできないし、あいまいでいいんじゃない?

530 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 19:54:28 ID:u/vyd3gX0
曹操と信長の比較とかよりかはだいぶ意義があると思う

531 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 20:07:22 ID:hCnFBDuD0
ランク分けとか厨臭いんだよな

532 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 20:07:32 ID:2psj/qcm0
>>530
同意


533 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 20:12:16 ID:ScEh8SKe0
勝手にルール決める仕切り屋が現れ、スレが荒れはじめ、最後に廃れる

文明の興亡を見ているようだ

534 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 20:36:58 ID:mBVH1SjF0
誰も仕切ってないし。

無駄に煽るのはやめたまえ。

535 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 20:49:33 ID:pBXfY69xO
厨臭いとか文句しか言わない人は無理に参加しなくていいんじゃねーの?
自分はID:Uu/IY8nt0氏の個人的なランキングに対し
賛同出来る部分には賛同し、自分と異なる部分についつは
自分の意見を述べてるだけに過ぎない。
だから不満があれば自分なりのランキングを発表すればと何度もレスした。
AとBの人の評価とかが食い違っても、それはそれでいいんじゃないか?
それにルールなんて定める気もさらさらない。
大半の人は投下されたレスに対してアレコレ言ってるだけだと思うがね。
あと、530氏のレスにある様に今の流れは
曹操と信長の比較とかより、遥かに有意義だと思う。

536 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 21:13:59 ID:mBVH1SjF0
君が仕切るというのか?

まあそれもまたよし。

537 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 21:22:47 ID:pBXfY69xO
>>536
おいw
仕切るつもりなどさらさらないつーの。
感想を述べただけですよ。

538 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 21:24:46 ID:5pXPx5q90
曹操と信長の比較なんか最初から誰もしてないし、スレを潰そうとする意図しか見えない

そもそも人間の優劣の判断は同時代ならともかく、主観による個人差が大きい
否定された当人のプライドが傷つけられ荒れる元となるだけだ
このスレでランク分けなどする必要はない

539 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 21:40:15 ID:z5roHFA/0
S 関羽
A 岳飛
B 韓信

E 項羽曹操

540 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 21:47:36 ID:5l5YcAPc0
厨の流れに身を任せて傍観するのもまた一興
俺も成長したなあw

541 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 21:51:09 ID:69/b2S+y0
語りたい人が好きに語ればいい。
変に枠を狭めるようなことはしなくていいんじゃなかろうか。

542 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 22:04:27 ID:D/IUfxXy0
枠とかに囚われて語るのが嫌だから
元々そういう意義で建てられたんでしょこのスレ。
百選の住人がこっちに流れてきたんじゃなかろうか。
向こうが過疎化した原因かわかってないらしい。こっちも過疎化させる気かね。

543 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 22:10:28 ID:B6CaTeX+0
このスレも長文氏が消えてから過疎化してたじゃん。
都合のいいときだけ現れて偉そうに大したご身分だな。

結局、人はランク付けするのが大好きなんだよ。
自分が対象にされたらたまったもんじゃないけどなw

544 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 22:24:30 ID:uWcNU/ji0
若干遅レスだが>>518

個人的には、名将(まあ、有能な軍司令官ぐらいの意味合いかな)の役割に
精強な軍団の育成も含まれるべきだと思うんだよな
出自、スタートラインが違えば、軍団の育成にも大きな差が生じる
そういう意味で、やっぱり農民出身だった劉邦は凄いと思うし、武川鎮軍閥に生まれながら
打倒突厥を目指して、さらに軍団の強化を断行した李世民は傑物だと認めざるを得ない

あと、長文氏って基本的に翻訳してるんだよね?
石虎が前趙に降ったとかって記述があってビビッた覚えがある(ネタもとが間違ってるんだな、ありゃ)

545 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 22:30:35 ID:pBXfY69xO
>>542
なんにしても気に入らないって叩く連中は現れるのさ。
曹操についてのレスが投下をきっかけにレス付き始めただけで
どんだけ過疎ってたんだよ。
それに意義で建てられたスレって殆ど活用なんてしてなかったのに今更なにを・・・
しかも、盛り上げてたあの人を追い出しといて調子よすぎでねーか?

>>543-544
悪いが長文氏って言い方はやめた方がいいよ。
あの人に失礼だよ。

546 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 22:53:32 ID:ztfZ5JDM0
なんで、そこまで言われるのか。よく分からないが。
一般的に受け入れやすいベスト10を出そうとしただけで、ランク分けするつもりはもともと
なかったのだが。分かりやすくしたかっただけだ
(あと、曹操は過大評価だと思っているので除外したかった)

気に入らんなら、特に大きな反論もないことだし自己ベスト10を決めてしまおう
ここに書いたのは話題をただ振って、意見を聞いただけ。
孫武、李靖、孟キョウ
韓信、劉秀、李世民、徐達
呉起、霍去病、石勒、劉裕、柴栄、岳飛、朱元璋、ヌルハチ

この中から十名。上段の三名は確定。中段もほぼ確定。下段は霍去病、石勒、朱元璋。
とりあえず、今のところこれでいいや。

>>543
全面同意するよ。大体、人というものは基本的に既知のものとの比較からしか考えられないように
できているのだから、ランク分けやあまり意味のない比較論が好きなのはむしろ当然。

大体、長文氏が紹介文を書いていた時、話題がちゃんとできたか。長文氏もレスを欲しがっていた。
540や542がその時レスをしてやったか。過疎ってた時に話題をふったか。
あっちのスレが過疎ったのは選ぶ定義でもめて収拾がつかなくなり、荒れたからだろ。
少しレスがついたら、こいつらのような高みにたった、一見まっとうに見える連中に
潰されるのはこの板のパターン。
荒れてもいない段階で先回りして荒れるだけといわれてもな。
無視すればいいじゃん。今まで、長文氏の紹介を無視してたようになw

>決めよう、語ろう、自由にやろう。
1に書いてるじゃん。どこがルール違反だ。

547 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 23:01:42 ID:NHABAAeQ0
>>546
あんたスレ潰したり、自治厨ってよく言われるだろ?

548 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 23:06:18 ID:f8f4QKdN0
>>546
SSとかSとかAとかの縦のラインをコピペし忘れてますよ

549 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 23:07:51 ID:X9JHUTtV0
叩いてるの単発IDばっかじゃん無視無視
ランク分けどんどんやっていこうぜw

とりあえず





関羽は別格

550 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 23:08:02 ID:Goumgtkj0
>>546
孟珙はやっぱり、やや過大評価すぎるのでは?

モンゴルは対宋戦に全力を注いでいたわけではないし。
下段の者たちと比べて突出しているというのはやや疑問。

551 :これまでのまとめ:2008/01/06(日) 23:10:49 ID:X9JHUTtV0
SSS+++ 関羽
SS 孫武、李靖、孟珙
S 韓信、劉秀、李世民、徐達
A 呉起、霍去病、石勒、劉裕、柴栄、岳飛、朱元璋、ヌルハチ

E 曹操

552 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 23:32:53 ID:mpUQOjTK0
まあこんなもんでしょ

SS 孫武、李靖
S 孟珙、韓信、劉秀、李世民、徐達
A 楽毅、呉起、石勒、劉裕、柴栄、朱元璋、ヌルハチ
B 項羽、白起、霍去病、曹操、岳飛
C 劉邦、関羽、諸葛亮

項羽、白起あたりは純粋な戦術面だけならもっと評価上だろうけど。
てか曹操と項羽並べるのも無理があるなw

553 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 23:43:29 ID:69/b2S+y0
意外と永楽帝の名前が出ないな

554 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 23:49:16 ID:mpUQOjTK0
永楽帝は簒奪の動機が汚くて嫌いなのであえて外した

555 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 23:59:06 ID:vDKH13aY0
>>519
その軍事功績とスタートラインで李靖(永楽帝はドコだろう?)、孟キョウ(←最高レベル?)に並び、韓信や徐達を抜くと
ふーん……そうやって並べると韓信・徐達と大差ないスタート・功績に見えるけど、
孫子兵法が下駄をはかせてるのかね?

>>520
突厥さんとは李家が反隋を明らかにしたときに兵隊を借りた間柄なんだけどね
建成とのラインで繋がってたから敵対する必然性があったのだろうか?
元々後継者じゃない彼は別に胡座を書いてても李元吉になったダケだからね
李淵にとってみれば思わぬ儲けもの、李建成からしてみれば思わぬ邪魔者。
最後は自分から高句麗に挑んで負け、息子に残したのは長孫無忌らの門閥政治なんで
韓信+文帝+景帝+武帝なんてのは言い過ぎじゃないかね?大唐帝国は武則天あってこそだよ

まあスレ的には政治がどうであっても減点対象ではないけどね

556 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 00:00:05 ID:N8wZ4P+D0
>>554
李世民のクーデターは綺麗なクーデターですかw

557 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 00:17:47 ID:sTA09yzZ0
純粋な用兵能力じゃなくて人格とかも考慮しなきゃいけないの?

558 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 00:30:46 ID:MX55+V700
546だが、
>>545
確かに、長文氏ってのは失礼だな。あの人も気にしていた。その点は訂正する
>>553
すまん。永楽帝。素で忘れていた・・。
(嫌いな人が多いせいか、中国一にあげている人がいなかったのだが)
確かに、朱棣はベスト10に入るな。名声はともかく、人格は考慮しないので、
明が三人は大杉なので、朱元璋out 朱棣inにする

>>550
孟珙は確かに、微妙かもしれない。本気でないのはしっていたが、相手が地上最強のモンゴル帝国
であったから、過大評価かも
>>555
孫武は、確かに現代でも通用するような兵法書を書いたという後世への影響とその名声で
評価に下駄をはかせている。100選スレとは評価方法が違う。


559 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 01:10:39 ID:GrORzS1oO
人格を考慮するって人気投票になりかねんな

560 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 01:10:40 ID:qIJknGp60
研究と臨床の違いみたいなもんだろ。
その意味で孫子と李衛公は別格。
あと呉起も鬼だな。あいつに足りないのは人間性だけ。
俺は魏武も総合で五位以内に入っても不思議ではないと思うが。
まあ人の感想などどうでもいいか。自分の思い思いの思惟を垂れ流すのみだ。

561 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 03:08:31 ID:mDmRqCS6O
孟キョウは過大評価されすぎ。あの当時のモンゴルは、南宋を歯牙にもかけてない。
だからあの当時、西にも勢力を延ばしているだろ?
だから防げていただけで、孟キョウの功績が最大とは言い難い。
孟キョウがそこまで評価されるのであれば、宋沢あたりも評価されて良いんじゃないか?

562 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 09:43:44 ID:myJ6ZWnN0
袁崇煥は歯牙にもかからないのか
敵軍が当時最強クラスなのに

563 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 10:12:10 ID:he0IeryD0
中華名将ベスト3は
孫武、李靖、韓信でしょ

特に孫武、韓信は外国の評価も高い

564 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 10:17:36 ID:a4X0X2LQO
>>562
袁崇煥がヌルハチ・ホンタイジを撃破出来たのは
紅夷砲に拠る部分が大きくないかい?

565 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 10:20:25 ID:he0IeryD0
あと朱元璋はB以下でしょ
劉基の功績も含めるなら別だけど

566 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 10:23:22 ID:he0IeryD0
>>564
それを言ったら地形や堅城に頼るところも大きいぞ
人以外なら全部含めてアリじゃない?

567 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 10:46:23 ID:qIJknGp60
滅Q族が中国史どころか世界史でもぶっちぎりのナンバーワンという説を聞いたことがあるんだけど。
俺はいくらなんでも一番は無理だろと思って、何故なのか問うてみたら、
「彼の幕僚たちは用兵の才知に欠けていて、その創業はほとんど彼一個人の実力による所が大きいからだ」
と即答された。ちょうど石ロクのスーパー版ということかな。
劉基についても聞いてみたけど、その手柄は虚像の一人歩きだってさ。
そいつの説ではハンニバルとかナポレオンとかよりも滅Q族は上らしい。
ちなみにそいつは信者どころか完璧なアンチ。
「軍人としては評価せざるをえないが、明が蒙古の反動政権に過ぎ無いのはこいつの責任」と批判しまくってた。

568 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 11:03:46 ID:D3Zu6OnC0
滅Q族って何?

569 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 11:11:17 ID:LMwwDLO00
そういうのは「説」とは呼ばん

570 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 11:54:59 ID:sXmrlfLZ0
テンプレ

S+ 孫武 李靖
S
A+
A
B+
B
C
D
E

どんどん埋めていってください

571 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 17:13:55 ID:70mSnkSl0
いっつも思うのだが、なんでか、名前ばっかりでランクわけしようとして
「おれが思う、ここがスゲー」
は、あまり書きたがらないよね。
なんか、周知のように扱ってさ。

李靖の何がすごくて、どこの、なんの戦いの勝ちっぷりにしびれた、とかないかな。
いや、自分は他スレで李靖や李孝恭をよいしょしてはいるが。
ようするに、もっと文章にしようぜ、ってことなんだが。

ってなこというと、マニアックすぎるか?
なんつうか、いち戦争、戦役にかぎった話というのも、あってもいいかな、と。
で、個人的には「名将」だけにこだわらなくても、戦場でそれぞれの活躍とか
みれたらいいなぁ、とか思ってるんだよね。


572 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 17:36:24 ID:N8wZ4P+D0
何故に朱元璋がB以下なのか説明する気皆無だからな
子供がピーマン嫌いっていうレベル以下の理不尽さ
子供だってピーマンは苦いからぐらいは言えるからな

573 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 18:28:17 ID:a4X0X2LQO
>>571
例えば○○の武将のあそこに痺れた、
あの戦いのあの活躍振りにガツンと衝撃を喰らったとかレスしようにも、
唐〜五代に詳しい貴方の様に語たりたくても、
語れるほどの知識が無いんですよ(´・ω・`)

574 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 18:37:15 ID:70mSnkSl0
>>573
でも、なにかしらの魅力を感じるからこそ、なんじゃないの?
まぁ、細かい戦いの記録を挙げるのは難しいにしても、ただ名前の羅列というのは
味気も色気もないと、思うのだよね。
それに、その名前を見て、尋ねることができる人は、答えがあれば、それでいいけど
なんか、知ってなくちゃいけない、あるいは常識レベル
みたいな雰囲気を、勝手に感じ取ってしまうと、聞けないでしょ。
そういうのをなくしていけば、読んでて楽しいと思うのだけどなぁ。

そこまでは興味ないのかもしれんが。
そういえば、滅Q族のことをしつこく尋ねて、熱く語ってくれた人がいたけど
あのときはワクワクしたもんだ(いや、九族誅殺を嬉々として語ったわけじゃなく)。



575 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 19:16:20 ID:sTA09yzZ0
歯茎って生涯無敗だし寡兵で大軍を破る戦もしてるし韓信とか李靖クラスじゃ駄目なの?
やっぱり敵が弱い?

576 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 20:33:42 ID:70mSnkSl0
>>555

>>敵対する必然性があったのだろうか?
ちょいウロ覚えで申し訳ないが、たしか河北に割拠した劉武周というのが
突厥の支援を受けて、太原を陥落させてたはずなんだ。
太原を守っていたのは、武勇のある李元吉で、大敗して長安に逃げた。
そのあと、唐から討伐軍が出撃したけど、これも負けてしまい
秦王・李世民の出動となった。
まぁ、尉遅恭と秦瓊の一騎討ち、とかで盛り上がる戦いとして知られているわけだけど。
中国内地の独立勢力でも、盟約というものがいつまでも守られる
という例は結構稀じゃないか?

まぁそれに、ちょうど目の上の瘤が、政治的分裂して隙ができていた、ということもあって
対突厥に乗り出したのだろうし。
高句麗遠征は終ってます。
李靖ももっと強く、反対すれば良かったのだろうけど、任務を受けないということで
その意思を表明しても、無駄だったというわけですな。

>>言い過ぎじゃないかね?
言いすぎだろうね。
まぁ、秦王時代では、韓信を越えた戦果を挙げてはいるが。

577 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 21:53:26 ID:a4X0X2LQO
>>575
すいません。歯茎ってどの時代の武将なんですか?
ご教授願えると有り難いのですが・・

578 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 21:56:32 ID:NoMKAXU80
このスレもなんだかんだランク分けがなくなって、このまま過疎るのだろうけど。
好きな武将のすごさを羅列しても、「へーそー」って感じでレスもなく、
自分のオナニーだけに終わるからな。
100選スレも盛り上がったのはやはり比較があったからだと思うし。
岩城氏の紹介文にもレスもなかった。正直、なんかあまり読む気もおきなかったしな。

>>575
歯茎って誰? 分からん

579 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 22:03:14 ID:qIJknGp60
それ向こうでやってくれよ。枠と定義関係なしで「へーそう」をやりたい

>歯茎
白起のことだろ

580 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 22:05:34 ID:a4X0X2LQO
>>575
自分で調べて見たんだけど 歯茎=牽招子経?

581 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 22:24:02 ID:70mSnkSl0
>>579
それ、気付かなかった。
「しけい」でちょっと探してあきらめた…

582 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 22:33:27 ID:a4X0X2LQO
>>579
確かに歯茎=白起だわw

取り敢えず、牽招子経(けんしょう しけい)を紹介。
安平郡観津出身。
袁紹から督軍従事に任命され、烏丸突騎を兼任した。
袁紹が敗れると、曹操に帰順して従事に任命され、
累進して都督青・徐州諸軍事となる。
明帝(曹叡)が即位すると、関内侯の爵位を賜る。
12年間雁門に在任し、威風は辺境まで達し、
大いに治績を上げた。
田豫の友人で「魏書」では満寵・郭淮に比肩する武将という
扱いになっている。

583 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 16:55:37 ID:814I5nB60
中国史上最高の名将は李靖で異存なし?
孫武は謎も多いしね

584 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 18:04:26 ID:akmhfvm+O
孫武は謎が多いのではなく、功績があまり知られてないだけでないの?
あちこちの史書から探し出さなきゃならないぐらい
本人の列伝には詳しいことが記載されてないし。

585 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 19:26:12 ID:9ce2Jklj0
>>582
牽招子経って名前はなんか記憶にあって、南北朝の人? と思ってたら
そうだ、三國志11に登場してたな(ゲームかよ!)。
烏丸突騎というと、後漢初の若きエース・耿弇を連想するな。
韓信とかとも、似たような成果をあげてると思うのだが。

586 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 21:19:31 ID:r1jvqMwS0
>>575
白起は項羽と同様、戦術に偏った武将だからね。范ショがあらわれるまでは、戦略を無視した戦闘で
いたずらに敵兵を殺すばかりで、領土獲得の効果をあげていなかった。
趙括に代えさせる謀略も范ショの力によるものらしいし。国力差もあったし。
自分的には自力で秦を滅亡させた項羽よりもかなり評価が低い。
ランクはもういいが、自分なら曹操や項羽より格下にする

しかし、孟珙が戦ったいた時、モンゴルはどこまで本気だったんだ?
資料はウィキと岩城氏のブログしかないが・・。宋書を全て、真にうけるのもな。
かといって、モンゴル史観の連中の言うこともあてにならないし。
モンゴルも南宋の違約に怒っていたはずだし、孟珙が強すぎたため、攻める方向を
変えたとかは考えられないのかな?


587 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 21:36:36 ID:M9eTQYFU0
李靖を越える逸材はいないのか

588 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 21:42:37 ID:akmhfvm+O
>>585
騎兵を率いての活躍は灌嬰のイメージが強いけど韓信もそうなの?
耿[合廾]と韓信って、どちらも兵法に深く通じていて
戦いの際には自分の思うように敵を操作し
自軍の有利な立場に誘い出こんで殲滅するとこが
共通点だと個人的には思ってるんだけど。

589 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 22:07:48 ID:di4v5RHF0
天下統一戦に貢献し、強大な騎馬民族を打ち破り、
宰相としても活躍し、しかも主君に疎まれることなく
終わりを全うした、なんて武将は李靖以外に思いつかんもんなあ。

590 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 22:08:07 ID:sFwszm6X0
戦争だけがべらぼうに強いやつと(項羽白起霍去病)
戦争はそんなに強くないけど政治や文学までそれなりに網羅してる万能タイプ(曹操)
って単純に比較できないな

する必要ないけど

591 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 22:25:00 ID:kVp0/6dk0
永楽帝

592 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 22:32:56 ID:V86G1gYT0
関羽は>?

593 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 22:35:45 ID:9ce2Jklj0
>>588
そうだと思うよ。
ただ、表面に現れた事象だけでみると、韓信と耿弇も
似たような成果をあげているな、と思っただけ。
騎兵戦術がどうとか、というのは、牽招のところで烏丸突騎に反応したわけ。
上谷の耿家も、烏丸突騎を率いていたから。

594 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 22:44:40 ID:EqcddxBn0
李靖が最高評価なのは仕方ないよ
同時代に比較できる李世民が韓信や劉秀と同格かそれ以上の武功をあげているし
李勣だって歴代の統一王朝創業の臣の中でも屈指の武功をあげている

この二人を抑えている上に、仮託かも知れんが、『李衛公問対』があるんじゃ、
生き返らせて戦いでもさせない限り、評価はくりがえりにくいしょ。


595 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 23:00:51 ID:zUN0Du0R0
李靖は東洋のベリサリウス

596 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 23:25:02 ID:kVp0/6dk0
唐という時代が一番輝かしい時代みたいな錯覚が中国人にあって
さらに見栄っ張りの李世民が自分マンセーの本を残したもんだから
唐代で李世民配下として活躍した李靖が一番みたいな錯覚を得てしまうのは
ある意味仕方ないコトなのかも知れない

597 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 00:04:28 ID:Nq+aUtLm0
俺は中国人じゃないけど李靖が一番と思うのはやっぱり錯覚なのかねえ。

まあ事あるごとに「李靖が別格の名将」と連呼されると
皮肉を言いたくなる気持ちもわからんではないが。

598 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 00:15:05 ID:+08JOYw2O
ただすべての武将が、南北で戦うことのできる環境におかれたわけではなく、
李靖以外の何人たりとも、それに成功した人物がいないわけでもない。
ましてや宰相としての貢献度なんて、たいして高いとは思えない。
宰相云々など、李世民マンセーのガイエのデムパに、影響されまくってるとしか思えない。
ふつう一般的に、同時代の政治家として、李靖の名をあげる人はいないと思うんだが。

嫌いだ、嫌いだと言う割に、2ちゃんは田中史観に毒されている。

599 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 00:17:49 ID:RAGETQlC0
李靖信仰が始まってしまいましたか。
こういう流れは、極端マンセーと極端アンチが生み出されて、面白くなくなるんだよな。

とはいえ、なんでいきなり全時代の中で一番、って肩書きを付けたがるのかね。
彼の生きた時代では、一番には違いないと思うが、それでは満足できない?


600 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 00:21:53 ID:dYFnP6tS0
>>596
アンチ李世民の人?
政治については、あなたのいうのも一理あるかも知れないが、軍功においては李世民は揺るぎないだろうね
唐創業最大の危機、ヘイ州陥落は明らかに李淵、李元吉のミスで
李世民が尻ぬぐいをしたおかげで逃れることができた。
残り二大勢力、竇建徳・王世充を一戦で破り、滅ぼしたのも間違いない。

あと、唐が最も輝かしいかはおいても、その領有地の広さはあの時代では間違いなく、史上最高。
これに関しては武照の力というのは無理がある。李世民の力が大きいだろう。
武功が領地を切り取るという面を無視できない以上、
李靖や李世民、李勣を高く評価するのはむしろ当然だと思うが

601 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 00:25:15 ID:XLRHazIj0
ベスト10でも考えてみようかってネタフリがあったからいきなりって事もないんじゃないの

602 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 00:29:05 ID:RAGETQlC0
>>601
そうかぁ。どうしても時代を超えて比較したくなるわけか。
別に、李靖でさほど異論はないけど、おそれるのは上記のこと…
両極端にだけは走ってはいけない。

603 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 00:35:36 ID:usrczzOV0
関羽はどれくらい?

604 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 00:48:23 ID:MFYxBi/j0
以前も挙げたけど楊素は李靖に匹敵する功績を残してると思うんだけどな。
北周に仕えていたときは北斉平定に貢献し、後隋に仕えてからは
陳の平定・大小様々な反乱の鎮圧・突厥征伐等北や南で数々の輝かしい戦績を残してる。
ちなみに楊素は李靖と面識があったらしく、李靖のことを高く評価してたらしい。
人格の面では李靖に遥かに劣るけど軍功に関しては決して引けをとらないと思う。

605 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 01:01:05 ID:fiTmLimc0
南北両方で戦える人間も、外征で成功した人間も別に李靖一人じゃないからな。軍功挙げた人が宰相になるのも
さらに領土でいえば清の方が広大だし、っていうか唐の領土が最大値になったのは則天武后時代だしな
同じ李勣つかって高句麗下したのも、裴行倹や薛仁貴が東西両突厥下したのも高宗・武照時代のコト
そして結構、気むずかしい性格してるんだよな李靖。李孝恭の大らかさあってこそな感じで

神格化出来るほどベストではないよ李靖。ベターだけどさ

606 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 01:08:25 ID:oX7Hwf+BO
李世民はバージョンアップ版曹操なイメージ
スタートラインや軍事>政治な才野比率とか

607 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 01:13:52 ID:eyc93Gua0
曹操は歴代皇帝の中で詩才は群を抜いているところが好きだな。
芸術面で彼に張り合えるのは徽宗ぐらいじゃあるまいかw

まあ名将とは関係の無いお話で失礼

608 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 01:18:48 ID:XLRHazIj0
人民共和国の偉大なる指導者を忘れていやしませんかw


609 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 01:27:24 ID:fiTmLimc0
厳密にいえば皇帝じゃないんだけども……
個人的に言えば息子の曹丕の詩の方が好きだな

芸術皇帝といえば李mなんかも真っ先に思い浮かぶが
生粋の芸術肌じゃなくても、文才を感じる人は多いね。劉秀なんかその類だし、劉邦も詩を残してるし
まあそういうインテリとは真逆をゆく、字をでっかく書く劉裕も好きだけどさ

610 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 01:36:18 ID:dNn4ak2h0
芸術肌の皇帝といえば『煬』三人組もそうだよな

611 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 02:31:31 ID:E6Yw7GGzO
岳飛はインテリだし項羽も辞世の詩を遺しましたな

612 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 03:05:21 ID:oT+ERFXs0
王陽明みたいに戦功以外で功績がデカイ人物は名将の類には含めづらいな

613 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 06:25:53 ID:fiTmLimc0
孫武入ってるじゃん

614 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 12:06:11 ID:qwG0OnLs0
孫武は兵法書だし戦争に関係あるじゃん

615 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 18:03:43 ID:7nHvcAdJ0
岳飛がインテリ? どのへんが?

616 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 18:42:31 ID:RAGETQlC0
字と詩と出師の表を残している。

617 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 18:57:24 ID:y77FxVGo0
インテリ皇帝と言えば梁の武帝でしょう
詩も残してるし、仏教の講義も行ってるしで南朝屈指の教養人ですよ

618 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/10(木) 12:22:33 ID:d+0sZ4+EO
それなら徽宗も。
公人としては問題だが。

619 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 00:15:29 ID:wEL0cshm0
某スレでは「一発屋」扱いだったが、東晋の謝玄は結構凄いヤツの気もする。
李衛公問対ではダメだしされているが気にしない。

まず、たいていの人は淝水の戦いの結果を知っているから
「前秦軍は大軍といえど、所詮寄り合い所帯」、「慕容垂、姚萇は叛乱の機を常々窺っていた。」
「兵(特に漢人)の士気は低かった。」等々、納得させられる理由を列挙できるが、
実際に、前秦軍に対峙した謝石、謝玄らには、敵情なんて見える範囲内でしか判断できない
ものであっただろうし、何より、野戦において前秦軍を撃破しなければ大軍逼迫のプレッシャーによって
戦線が(討呉戦役のように)崩壊して行った可能性のほうがはるかに高かったはずである。
籠城、防勢作戦では、100万もの大軍を運用できる前秦相手には分が悪すぎるのである。
(382年末から383年10月までの間、これだけ大規模な部隊運用を、最終的に破綻したとは言え、
前秦は実践できていたのだから、その兵站能力、指揮系統は強靭であったと言わねばなるまい。)

前秦は淝水の戦いの終始を通じて、東晋軍を過大評価していた感は否めないものの
(過大評価と言うよりも、消極策、決戦回避的志向か)
それは、379年の謝玄率いる北府軍の反撃が、苻堅にとっては手強いという印象を抱かせるのに
十分なものだったことに他ならず、決して妄想によるものではなかった。
あるいは、東晋を降す際に必要以上に苛烈な戦闘を行なえば、あらぬ遺恨を残してしまう可能性
があったのを懼れてのことだったのかもかもしれない。

短期決戦、かつ相対戦闘力10倍の敵の撃破、時間制限あり
こういう苛酷な状況で大番狂わせを演じた謝玄は稀代の一発屋と呼んで差し支えないと思う。
と言うか、100万の大軍と対峙した名将たちって、何人ぐらいいるんだろう?

620 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 00:56:21 ID:JBR8dN0u0
>慕容垂、姚萇は叛乱の機を常々窺っていた


この二人さ、シ肥水の戦い以前の経歴みるととてもじゃないけどそういう叛意のある人間には見えないんだよね(とくに垂)
前秦から抜けた後も苻堅に対する好意的な発言をしてて、この時代の人間の複雑さを感じさせる

621 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 02:50:27 ID:HqAJN10FO
>>619
そもそも100万って数字が水増しな数字だと思うけど・・・
確か、前秦軍は実数30万ぐらいだと思ったけど・・・
更に言わせてもらうと謝玄だけが大番狂わせを演じた訳じゃないんだけどね。
元東晋の降将朱序が苻堅に対して甘い囁きを行っている訳だし
これが前秦軍の敗走に大きく関わってる。
まあ、謝安が朱序の提案に乗ると判断したことはもちろん考慮してるし
謝安は名将だとは思ってる。
別に謝安の戦績はシ肥水だけな訳じゃないんだし。

622 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 03:25:08 ID:VQnWDGcK0
せっかく、話が李靖の話になったのであえてマンセーしてみる
某スレでは隋唐時代の話はあっさりと終わったし、世界史板でもあまり盛り上がったことはないので
もっとも、別に誰も李靖が『全時代最高の名将』と断言しているわけではないと思うよ
『あえていえば』と言っているだけだと思う。また、他時代に生まれていればと言ってもいない。

まず、李靖と楊素とでは功績に大きく差があると思う。
(この二人は活躍した時代も近いから比較していいだろう)
楊素の北斉、陳との功績は一武将のものに過ぎないし、尉遅迥討伐にしても、韋孝寛の傘下での活躍
陳平定戦は実質的な大将で功績はでかいが、賀若弼、韓擒虎の活躍は無視できない。
反乱鎮圧は統一王朝のものだし、突厥も撃退しただけに過ぎない。
漢王平定は見事だが、蕭銑か輔公拓討伐程度の軍功だと思う。
個々の実績を見ると匹敵するかもしれないが、総合すると大きな差がある。

対するに、李靖は、李孝恭の力は無視できないが、蕭銑と輔公拓の鮮やかな討伐と、
突厥・吐谷渾を降伏させた功績はやはり大きいし、
その後も李靖の兵法は後世に伝わった(『李衛公問対』は仮託かも知れないが)
また、六花陣の作者とも伝えられ、神格化され、托塔天王になり、ナタクの父にまでなっている。
(おかげで『封神演義』ではヘタレ親父にされてしまったが)
とくに、人格が当時、慕われたわけではなく、戦の武功だけでここまで称えれた人物も珍しい。
領土の広さは高宗時代が最大だけど、李靖が突厥・吐谷渾が下し、脅威をなくしたのがその大きな要因だしね。

また、領土は清の方が広いけど、輸送能力・人口が増えたあまりにも後代。単純に比較できない。
それよりも、後漢末から長い間、統一政権が長い間維持できず、中唐以降、宋代まで
あれほどの領土を持った政権ができなかった点を留意したい。

李靖は絶対にベストとはいわんが、神格化されてもおかしくない人物だと思う。

623 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 03:32:22 ID:JBR8dN0u0
お前空気読めよ
もうとっくに李靖の話題は終わってるのが見えないのか?

624 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 07:48:11 ID:HqAJN10FO
>>621で謝玄を謝安と堂々と間違えて書いてるな・・・orz

625 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 21:01:29 ID:HkIeLMaP0
>>619
謝玄は所詮、貴族のボンボンだしな。しょせん、お飾りで、劉牢之とかの力が大きかったのかも知れない
北府軍は謝玄が鍛えたというのは本当かな?
消極論をとらず、前秦の先鋒部隊と戦う判断、どこまで彼の指揮か分からないにしても
その戦いでの勝利は評価できるけど。
そのあと、前秦が崩壊しているのに、それに乗じることができなかったからな。良将程度だったかも

626 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 21:09:23 ID:uWvgotkK0
五胡16国はぼ用水でFA?

627 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 21:58:44 ID:HqAJN10FO
慕容恪≧慕容垂

628 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 22:12:10 ID:Qhx7LhDv0
>>626
侵攻戦:石勒(次点で慕容恪か)
防衛戦:謝艾、慕容垂、謝玄
騎兵戦:慕容恪
謀略戦:石勒、王猛、甲乙つけがたい

垂は必勝不敗の良将だが、将を束ねる総司令官としては疑問符がつく
桓温にしろ、拓跋珪にしろ、第一撃を許してしまう姿勢はちょっとなあ
初めからお前が出張れよ、としか言いようがない(少なくとも兄貴は積極的だった)


629 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 22:28:17 ID:Qhx7LhDv0
>>625
謝玄赴任前から北府軍は精強だよ(祖逖、希鑑、蘇峻らの系列だ、惰弱なわけがない)
前秦との決戦に向けて、防衛施策の見直し、配備変更を行なったと見るのが妥当だろう
確かに貴族の末席ではあったが、謝氏自体は謝安が40過ぎに政界にデビューする時期には
かなり衰退していたはず(ニートが実家の生活が苦しくなったから働き始めるのに似ている)

630 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 22:32:55 ID:hcExRhhy0
まあ、これも多少、時代がずれるのが決定はできないのだが、

軍閥形成能力を加えれば、石勒
軍事能力だけなら、慕容恪
でこの二人が両晋十六国では頭が抜けている気がする。
バックアップがないことを考慮にいれれば、石勒が一番高く評価できるような・・

慕容垂は群雄としての、スタートラインがいいのに、石勒よりも領土を獲得できなかったからな
しかも、拓跋珪みたいな強敵を生かしたままなのは失敗だろう。年齢だけの問題にはできない。
後秦も敵対しながら、滅ぼせなかったし。戦術はよいが戦略が甘いと思う。
直接対決は負けたけど、拓跋珪の方が評価できるかも。

631 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 23:23:24 ID:z+SqzGqa0
>>629
>>赴任前から北府軍は精強

そのせいで、最初は謝玄に、簡単には従わなかった、なんてことはない?

632 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 23:38:27 ID:HqAJN10FO
個人的には石勒のゾンビ並みのしぶとさを加味して
石勒≧慕容恪にしとくわ

633 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 23:39:41 ID:ayKcbTpz0
韋孝寛最強説

634 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 00:03:51 ID:mV45vPS4O
環境の違いで優劣を決めるのは、個人的には好きじゃないんだよね。
条件的に良かったのはしょうがないじゃん。
じゃあナニかい?いちど大敗して無に帰し、1から出直せばいいのか!?
でも、そうなったらそうなったで、その大敗のせいで評価を落とすんだろ?
じゃ、恵まれた環境にいる人物にはチャンスがないじゃん。

個人的にランク付けは嫌いじゃない。ランクを付けることで、その人の名将感(その基準)がわかる。
それが面白い。誰が誰より上だとする根拠が面白い。そのチョイスに興味がある。

さすがに李靖信者の、李靖信者による、李靖信者のためのマンセーをしたいがため、
李靖の北方での戦いでの、参加した武将の質にはふれず、
楊素の南方での戦いでは、部下に恵まれたなんてヌカすのは、
いくらナンでも無理がありすぎだが。

国家規模のプロジェクトで、ベストの面子揃えるのは、上に立つ者の最低限のつとめ。
李靖は部下に恵まれてなかったとでも言うのか!?

いくらナンでも、説得力を持たせよ。「あえて」とか言っても無理だから。
本心は違いますよ。ただ、ただですよ。違います、私は信者じゃありません。
でも、こういう考えもアリですよね?っていう根拠が、穴だらけだとサブい。

635 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 00:14:28 ID:Llq1XKqG0
>>632
たしか、一度敗れた相手への雪辱戦で負けてないんだっけか?
名将スレの上位陣の中では、相当負け数が多い方だよな

>>633
韋孝寛最強説は、俺も支持したい
総合力という意味では、うだつの上がらなかった李靖や韓信よりもずっと上だと思う
(この両名は、それぞれの主君に巡りあえなかったら、刑死しててもおかしくなかったし)

636 :632:2008/01/12(土) 00:24:44 ID:3aa/+1QQO
>>634
まあ、モチツキましょうよ。
○○が一番って凝り固まってる人はたまにいますよ。

>>635
だから個人的って言ってますやんw
名将スレ云々は考慮に入れてません。
(そんなの考慮に入れる必要性も感じられないし)
あくまで好みに依るの部分も大きいです。
慕容恪・慕容垂そして石勒が大好きですから・・・
ただ、それだけです・・・

637 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 00:30:51 ID:Jp9gOCSXO
>>635

> 韋孝寛最強説は、俺も支持したい
> 総合力という意味では、うだつの上がらなかった李靖や韓信よりもずっと上だと思う
> (この両名は、それぞれの主君に巡りあえなかったら、刑死しててもおかしくなかったし)


でも結果論としては刑死しなかったし、二人とも戦場では最大限の活躍をした。
それは無視できない。平和な時代に生まれたがゆえ、
その才能を生かせなかった人も中にはいるだろう。
でも、それを言ったら意味がなくね!?

現実と仮定なら、現実を優先しないと評価がブレるよ。

638 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 02:10:55 ID:QZIVQPaM0
>>634
いいよ。別に信者で。ただ、あなたの言っている論理はさっぱり理解できない。チャンスがどう? なんだそりゃ?
こんなもん適当だろうが。
反論はできるが、あなたみたいなタイプはどうせあーだ、こーだと論争に勝つために理屈をこねくり回すだろ
面倒くせえ。

>>636
別に気にしなくていいんじゃない? 635氏だって韋孝寛最強っていっているし。

639 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 05:07:11 ID:Jp9gOCSXO
>>638
他人に文句つけるなら先に、なぜ楊素が部下に恵まれたと言いながら、
李靖のときには部下云々は考慮しないんだ?

俺は、その人物が自身のおかれた立場で、最大限の功績を上げたのなら、同等の評価をするってだけ。
AとBを比べるときに、Aのときには適用した条件(>>622の場合なら配下の武将の質)を、
Bには適用しないのはフェアじゃないってだけ。
楊素は李靖と比べても遜色ないと思う。どちらが上とするかは好みの問題だ。

俺は、楊素の姦臣的なところが好きになれない。
生き残るためには仕方がなかったのかもしれない。
李靖が世に出るきっかけだって、ホントは忠心をアピールしただけだったのかもしれない。
そうした方が生き残り、かつ、その後のチャンスに繋がるといった打算があったかもしれない
でも、俺は楊素を好きになれない。強い立場の人間は、保身に走って欲しくない。
自分がその立場になって、正義を貫けるか自信はない。
でも、それができる人間に憧れるし、その逆だとガッカリする。

>>622は途中までは納得してて、賛同してたが故に、その後の論理の滅茶苦茶さについていけなかっただけ。
それを不快に思ったのなら謝るよ。ごめん。
ただ、あの比較の仕方はフェアじゃないよ。

640 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 08:39:57 ID:0e2CkE9u0
慕容垂が足が重いっていうか、政治的な理由で重くならざる得ないと思うが
戦争だけやってればいい恪にいやんに比べてそれこそ"スタートラインが悪い"

641 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 16:27:38 ID:gOtG61Ms0
苦境から這い上がって逆境を跳ね除けてきた武将にこそ名将の資格がある
エリート?何ソレ

642 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 17:09:26 ID:24W9zlwR0
なんだかんだいって関羽に勝てそうなのが居ない件

643 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 19:17:58 ID:a6Wtq86R0
そういやよく霍去病は精鋭を率いてたから……みたいな意見を聞くが
突厥と戦ったときの李靖とかも精鋭を率いてたんじゃないの?

644 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 19:27:56 ID:/PVAVw850
>>643
李世民が気合入れまくって、精兵を鍛えてた
精強な万卒こそ乱世においては得がたい、軍事の基本だな

645 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 20:49:42 ID:6OJFg6o70
義勇軍のような部隊を率いた人物と
正規軍を率いた人物では同じ勝利といっても
断然に質は違うと思う。
義勇軍なんか一人でも「もうだめじゃー!!」って
逃げ出したらそれだけで一気に壊滅する可能性があるだろうし
軍律を守らすのも一苦労だろうし・・・

646 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 21:16:38 ID:CiyLDWM60
朱元璋

647 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 22:06:08 ID:zL0sRflh0
目的が明確な場合、訓練されてる正規軍よりされてない義勇軍のほうが粘り強いことがある。
とくに、王朝末期にはそれが顕著だわな。
兵の士気というのは、統率者の有能無能と、目的がしっかりしているかどうかによっても、ずいぶん違う。
本来、それらが絶妙に交じり合ったものを精鋭と呼ぶのじゃないかな。
その場合、あんまり正規軍とか雜軍とか、関係ない気もするな。

>>軍律を守らすのも一苦労だろうし
軍律を重視せず、思うままにさせてる場合もあるが、そういうのは早かれ崩壊するわな。
でも、地方勢力のような雜軍でも、中核がしっかりしていれば、まわりはそんな有象無象でも
結構強い軍隊である場合がある。



648 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 22:28:03 ID:/PVAVw850
大軍を動員して、敵にを威圧するのは十分に効果があるし
敵地に居座るだけで、敵勢力の食糧生産や諸産業、治安に大打撃を与えることができる
ただし、大軍を運用するのには、一定水準の指揮系統、人員掌握のシステムと
それを支えられるだけの、後方計画が成立している場合に限るが
(特に後者が破綻していたおかげで、遠征軍が敵地で飢えるなんてことは珍しくもない)

呉とか陳は、凄い勢いで瓦解したが、逆に東晋や梁は持ちこたえた
将帥の能力差か、軍兵の質の差か、単純に国力差か、俺には判断しかねる

649 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 22:51:16 ID:CiyLDWM60
>>645
民衆を率いる反乱軍の場合、宗教的信条による結束力を求めるほうが効果が高い。
もちろん穀倉地帯の確保も必要。
そして天下を目の前にして、自軍内部の古参・ナンバー2以下の粛清。
これでおk。

650 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 01:20:52 ID:v09QyaWr0
レストンクス
確かにこうして考えてみると.>>647のいうように
目的意識、そしてそれを兵士個々人が
どれだけ骨身にしみて分かっているかで精兵かどうかってのは
変わってくるんだろうね。王朝末期の農民反乱や黄巾党なんかが
強かったりするのは宗教の力や追い詰められた末なんかにそういうのが
一致するんだろう。防衛する側が一般的に有利というのも地形なんかの
条件のみならずその辺も一因としてありそう。
どれだけしっかりそういった物を植えつけられるかで名将か凡将かの
境目になってくるんだろうなー

651 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 03:44:41 ID:+ytfZ6hW0
しかし農民や賊は目的意識はあっても目的意志がないので
一所に留まるとあっという間に瓦解する

652 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 13:03:48 ID:bIhraCoG0
食料確保は移動しつつ略奪しかないな

653 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 16:27:19 ID:YBtj4Uv70
軍の統率の話題を遮ってすいませんが、ハンニバルのカンネーの戦いのような
戦術の教本みたいな戦いって中国だとどんなのがありますかね?
ヌルハチのサルフの戦いが典型的な各個撃破だという話を以前聞いたような気もしますが……。

654 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 16:43:37 ID:bIhraCoG0
こことか戦略図付きで面白い

ttp://www.h4.dion.ne.jp/~kosak/chinese.htm

655 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 17:12:24 ID:cIFGjtOK0
食糧確保は軍の最優先事項だが、
李密などは食料無限蔵の洛口倉に拘りすぎたのは失敗だな。
さっさと長安を衝けば天下を取れた。

656 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 17:23:46 ID:1ObKZn8XO
>>653
西洋ならナポレオンやフリードリッヒU世とかがいるんだけどね。
中国なら誰だろ? 蒙古軍や島津は中国じゃないしなぁ〜w

657 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 19:32:07 ID:g3d1jFAt0
「信者だから○○最強!理由は〜〜だから!」ってのは個人の自由でいいんだ。好きにやってくれ。
問題は××はそれに比べてダメ、なぜならこの辺りが〜とやってくること。そういうことをされ
たら××の信者からはそりゃ反論反感をくらうわな。
特にダメだしの理由が、その人物を引き摺り下ろすための条件になっていることだと。

658 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 22:33:31 ID:Sft4JezN0
>>657
特に否定とか下にしたいために、欠点や失敗だけをあげつらう場合も多いね。
中立的な評価するなら、実のところマンセー意見もアンチ意見も両方駆使できなければならない。
それができずに、どちらかの論法しか主張できないなら、偏見というしかないわな。
そしてそれは、ただ単に視野や認識を狭めるだけ。


659 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 23:04:51 ID:99aZabuf0
>>635
李靖の場合は、うだつがあがらなかったと言うほどでもないと思うんだが。
有能な官僚と、ある程度認められていたからこその李淵のお目付け役だったわけですし。
不遇時代があったということを強く印象付けることで、それを抜擢した李成民は名君!
というイメージ操作に一役買ってるような気がしないでもない。
韓信の場合は、もう項羽との戦術理論の不一致以外に不遇の理由がないね。
項羽は、敵の進出する地域を見定めたら、とりあえず決戦を仕掛けるタイプ。
そこには、決戦を仕掛ける主導性は存在するが、戦場の概定は敵にも主導性を
発揮させる可能性が残されてしまう。
韓信は、戦場の概定においてこそ主導性を発揮すべきだと主張するタイプ。
自分に有利な戦場を用意してしまえば、敵に決戦を挑まれても、如何ようにも
対処は可能だと算段ができている。
項羽は疾さ、烈しさを追求するからこそ、韓信の戦術上、戦略上の立案の
用意周到さをまどろっこしいと考えていたとしても不思議じゃない。

660 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 23:13:49 ID:vptIhwVkO
それだから信者なんだろ?
反論されたらファビョる。何故ってそれが信者だから。
信者認定されたら開き直る。何故ってそれこそが信者だから。

いま現在、信者が暴れてないんだから良くね?名将について語ろうや。

石勒のゴキブリなみの生命力って凄くないか?
拠点を失い、流浪し続けながらも皇帝になった人物や、
大敗を喫し、身の回りに数えるほどしか仲間がいないのに、
そっから『俺が死んでないからおk』といわんばかりに、不死鳥のごとく蘇り、
大事をなした英傑だっているから、最強とは言わんが。

661 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 23:15:25 ID:NKAImD+g0
関羽に勝る名将っているの?

662 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 23:21:10 ID:lQ5V4FvzO
陸遜

663 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 23:22:03 ID:fzGmVhyc0
>>661
関羽に劣る名将がいるのかどうかを聞きたい。

664 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 23:23:51 ID:NKAImD+g0
全部

665 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 23:31:29 ID:99aZabuf0
>>660
いや、石勒は稀代の名将には違いないけど、別にこのスレではそんなに
批難されてないんだから、そこまで声高に主張しなくてもいいんじゃない?

このスレで無条件に諸手を挙げて賞賛されている人物はいないでしょ。
完全無欠の名将は、少なくとも今のところ存在はしていないと言うことが
できるんじゃないかな?
その中から、ある者は騎兵戦の能力では他を圧倒すると評価され、
またある者は、籠城線においては当代一の鉄壁振りを語り継がれる。

総合的な戦闘能力でもっとも秀でているものが最強なのか、
それとも、侵攻能力において他の追随を許さないものが最強なのかは
あとは、もう個々人の判断じゃないかな?

666 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 23:43:11 ID:NeAOZ0Ca0
守勢における名将について語ろうか

667 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 23:43:50 ID:fzGmVhyc0
戚継光はどうだろうか?
精鋭数千人を自ら編成して、
東の倭寇にも、北の北虜にも負け知らず。
強勢期の倭寇を破ったのは大きいと思う。

668 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 23:48:04 ID:THIJ2bJb0
守勢といえば李光弼

669 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/14(月) 00:09:29 ID:zYrtTqNi0
守勢といえば田単

と頭に過ぎったところで楽毅を思い出したが、
ある意味、中国史上におけるターニングポイント的な名将だよな。
その功績が、歴史的に重要な意味を持っているという点では、
右に並ぶものがいないんじゃないかな。

※1 一回滅亡した中小国家でも、富国強兵策を推し進めれば、大国にも
  勝てるよ、の先駆け。
※2 占領統治が不味くなければ、列強といえども併呑できるよ、を体現しかけて
  それまでの国家間のパワーバランスを崩壊させた。
この人がいなくても、秦の天下統一は成ったことだろうが
この人がいたからこそ、劉邦が軍人として奮起したって側面もあると思う。
まあ、先人たちが「楽毅論」を著述しまくってきたわけだから、今更感もあるんだが。

670 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/14(月) 00:15:26 ID:yt3xXnOp0
>>660
なんか、一人ボケ、一人つっこみだな

671 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/14(月) 20:36:26 ID:TlpdgLnb0
>>660
逆境に負けない、精神的なタフネスさがあったんだろうなぁ。
軍の中核が損なわれないような敗戦であれば、復活もするけど
精神力が貧弱だったりすると、自暴自棄に陥ったりして、自ら
死期を早めたり、ドツボにおちたりする例があるよね。

672 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/14(月) 23:21:51 ID:QFPSxEJT0
>>639
すまん。すまん。レスが遅れた
だが、あなたの

>さすがに李靖信者の、李靖信者による、李靖信者のためのマンセーをしたいがため、
>李靖の北方での戦いでの、参加した武将の質にはふれず、
>楊素の南方での戦いでは、部下に恵まれたなんてヌカすのは、
>いくらナンでも無理がありすぎだが。

>いくらナンでも、説得力を持たせよ。「あえて」とか言っても無理だから。
>本心は違いますよ。ただ、ただですよ。違います、私は信者じゃありません。
>でも、こういう考えもアリですよね?っていう根拠が、穴だらけだとサブい。

こんな言い方されて、腹が立たず、会話したいなんて思う人がいるか?
いくら、2ちゃんねるといっても、せめて、一回、意味を問うてから決めつけるべきだろう。
自分のは比較論がアンフェアだったとしても、あなたは人間としてアンフェアだ。
比較はもうやめろといわれているので、この話はここまでにするが
(楊素は江南征伐では全権任されたわけではないという意味だったが)
それに660かあなたか? だとすれば、すごい粘着だな(違ってたなら、謝る)

>楊素は李靖と比べても遜色ないと思う。どちらが上とするかは好みの問題だ。

ここまで決めつけたら、乱暴だろう。優劣はともかく、軍事実績や軍功はある程度比較できると思うぞ。
622の自分のレスだって、楊素の欠点をあげつらってないだろ?

比較することで分かりやすく話せると考えるので、今の展開は面白くない。
しばらく来ない。それじゃ。


673 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 00:20:37 ID:+i5oYzacO
ジョジョのAA使いたくなるような、凄まじい捨て台詞。
自身に来た反論には答えず、一方的に非難して逃げ帰る様は、
きっと蹂躙するだけして、機を見て撤退する北方騎馬民族をリスペクトしてるに違いない。

674 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 00:54:35 ID:DiEhokQ60
いちいち煽るなよ。

675 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 01:19:04 ID:vf8X4oUH0
パルティアンショットかよ

676 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 01:26:53 ID:QMio7hkI0
三戦坂ってDQN生息率高いよな。
だからこそ研究所って感じがするが。

677 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 08:50:18 ID:7dCblMDa0
北伐の名将っていうと誰が思い浮かぶ?実績からすると実際に統一した明の将軍たちに
なるんだけど、個人的には面白いエピソードが多いというそれ名将と関係無いじゃん!
な理由で桓温を推します。

678 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 09:34:23 ID:cBrM3JyjO
守勢の名将は孟キョウだと思う
俺の中では李靖と並ぶ中国名将の双璧だな

679 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 13:36:48 ID:fw+oglH60
>>667
戚継光の嫁>>>>>(越えられない壁)>>>>>戚継光

というのは冗談だが
全く異なる地勢で活躍できるのは凄いな

680 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 15:06:19 ID:Rrv1HqJp0
エセン・ハンを撃退した于謙

681 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 18:05:54 ID:RALq4poR0
守勢の定義がよくわからんが岳飛も入るのか

682 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 18:47:25 ID:/YMt8icAO
しゅせい【守勢】
相手の攻撃を防ぎ守る態勢。

定義も何もないと思うが・・・

683 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 19:22:17 ID:IgKcmGIe0
単純に篭城戦だけに限定してるのか

強国に抵抗する弱小国の戦争すべてを含めているのか

684 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 19:30:28 ID:IGSGc1Rm0
http://tmp7.2ch.net/test/read.cgi/download/1198177941/
http://2ch.ru/beta/v/kareha.pl/1191659130/

685 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 22:33:52 ID:P7bKU3rB0
孟きょうは2ch評価高いな。
本国ではさほど評価されてないような気がするが。

686 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 23:30:42 ID:0ihHXK9t0
>>680
于謙って武将か?

687 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 23:49:15 ID:LUGytEr50
と言い出したらそもそも武将ってなによ?ってなる。

688 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 23:50:41 ID:vf8X4oUH0
本来は武将じゃないかもしれんが
国が滅亡するかどうかってときに、そうもいってられまい
誰かれ言わず有能な人間が指揮をとる
それでいいじゃまいか

689 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/16(水) 21:26:07 ID:zqexL9do0
少し一発屋っぽいんだけど
守勢といったら謝玄を押したい
あれだけの戦力比を覆したのは
やっぱり半端ないと思う

690 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/16(水) 23:09:47 ID:sJT7GHpo0
淝水の戦いは謝玄がどうこうより苻堅がやらかしただけの感があるが

691 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/16(水) 23:31:10 ID:CrsJUhk90
好機をしっかりと物にするからこそ名将なのぞ

692 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/16(水) 23:38:19 ID:lh9WvGzo0
勝ちに不思議の勝ちあり
負けに不思議の負けなし

693 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/18(金) 20:51:48 ID:ELUzN2Zc0
三国志の孫堅は長生きしたらもっと名を馳せたはず

694 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/18(金) 22:50:20 ID:ZszgiFiF0
>>692
意識してなかったけど確かにw
名言だなあ

695 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/19(土) 00:21:42 ID:5o4Kmgsw0
>>694
ノムさんの言葉だよな。
名将の言葉は重みが違うわ〜

696 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/19(土) 17:28:45 ID:GVyPRacw0
>>695
松浦静山

697 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/19(土) 18:00:04 ID:+1PbJXdP0
ノムさんで合ってるよ

698 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/19(土) 19:15:34 ID:b+FOFsUb0
名将・野村克也が中国に生まれてたら?
一軍の将って感じではないな。参謀か。

699 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/20(日) 19:26:22 ID:A2CZJTj4O
イヤイヤながらも皆から擁立されて
帝位に付きそうだな

700 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/20(日) 20:01:11 ID:KogKGLIqO
ノムさんが皇帝だと皇后がなぁ・・・

外戚・女人の禍ありそう

701 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/20(日) 20:55:39 ID:H0remXTv0
沙知代wwwww

中国三大悪女で名を残しそうだwwwwww

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