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河北の覇者・袁紹

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 13:31:48 ID:r2t43b9l0
河北の雄、袁紹、字は本初。

堂々とした威厳のある風貌で、
名門なのにも関わらず身分にこだわらず下手に出たので大勢の人間が彼の下に集まってきた。
官渡で敗れたものの、四州を支配したその実力は本物。
また彼の治世は後世にいたるまで領民に称えられた。
漢と長年敵対していた匈奴や烏丸の異民族を見事に手なずけた外交手腕も持つ。

三国志前半の最大の実力者であり、中華統一への可能性が最も高いであろう英雄。
最近、評価されつつあるとはいえ、その評判は以前、芳しくない。
ここで彼のことを大いに論議し、その価値を高めていこうではないか!

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 13:44:42 ID:kUQs2Tdn0
 後漢時代に四代に渡って三公を輩出した名門袁家の出身であり、その存在自体が周囲に影響力を持って
いた。
 袁術は袁逢の子で、袁紹はその兄(袁成)の子とされるが、『魏書』(王沈撰)や『後漢書』(袁山松撰)によ
れば袁紹は袁術の異母兄弟であるという。
 王沈らの説に基づけば袁紹は袁逢の庶子で、伯父の袁成の養子となって後を継いだ。袁逢・袁隗の次の
世代の袁氏宗族の長は袁紹と袁術の何れか(あるいは袁基)であると思われており、都に居た地方の豪族
子弟はこぞって両家に赴いたが、袁紹が袁術よりも名望高く、例えば何伯求や許子遠の如きは袁術の門に
赴かず、袁術はこれが面白くなかったようで、袁紹を嫌っていた。
 叔父に袁隗がおり、異母兄には袁基(袁術と同母兄弟)がいる。

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 14:52:27 ID:r2t43b9l0
関連スレ
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1165238829/

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 15:10:41 ID:qdnyFtU70
袁紹のここがスゴイ!

・何進が十常侍に殺害されたときに宮廷に乗り込んで宦官の粛正を行った決断力。
・董卓が献帝廃立をほのめかした時に毅然と立ち向かった度胸、
・ほぼ無血で冀州を得た謀略。
・戦略に優れ、圧倒的機動力と武力を誇る白馬義従による戦術を得意とした
公孫サンを滅ぼす。
・不落の城、易京城を落とす。
・領地を荒廃させることなく戦力を増大させた。
その結果、大戦に際し大軍と膨大な物資を用意することが出来た。
曹操は血で血を洗う戦を重ね、領地が荒廃し、領民に恨みを買い、準備できた軍事力と物資もすくなかった。
・天子奉戴をした曹操は宮廷内の陰謀に悩まされたが、袁紹にはそのようなことはなかった。
・外交に優れ、曹操陣営を次々切り崩し、包囲網形成。おかげで
曹操は軍の大半を官渡に振り向けられなかった。
・官渡後、領土に起こった反乱を粘り強く鎮圧(その直後病死)。
・後世にいたるまでその政治を領民に称えられる(袁譚の治めていた青州は別)。
・イケメン

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 23:58:30 ID:XaHGx6iU0
嫁泥棒は本当の話か?

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 14:07:54 ID:17GBGVst0
四代に渡って三公を輩出した名門袁家ということだけど、
この袁氏の隆盛は、後漢代に入ってからだよね。
それ以前も、地方の豪族として存在していたのかな?

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 23:46:32 ID:oC9Op4Pf0
袁氏の祖先はどのへんまでたどれるのかな

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/09(火) 16:09:09 ID:4+a9Ykwc0
 中国の全ての袁氏の遠祖は五帝のひとり、舜に遡るとされる。歴史書に伝えられる伝説によれば、舜
の子孫である胡公満という人物が周の武王によって河南に封建されて成立した陳国の公族、轅濤塗が陽
夏(現在の太康)に領土を与えられ、その子孫が祖にちなんで袁を姓としたのに始まるという。轅濤塗
以来の由来を誇る袁氏は、発祥地の陽夏が陳郡に属したことから普通には陳郡袁氏と呼ばれる。

 袁姓の人々が歴史上で数多く活躍し始めるのは前漢の頃からである。前漢の袁盎は名丞相として諸国を
周り、後に起きた呉楚七国の乱の鎮圧に一役買った。漢代には、陳郡の隣の汝南郡を本拠地とし、陳郡袁
氏の同族を称する汝南袁氏が台頭する。汝南袁氏は中央政界の名門として4世代で5人の三公を輩出したが、
後漢末の動乱で一族の高官が次々に非業の死を遂げ、さらに地方で群雄として台頭していた袁紹、袁術が
相次いで没落するに及んで歴史の表舞台から姿を消した(但し、袁術の子孫は孫権に仕えた)。一方の陳
郡袁氏は陽夏、扶楽など複数の家々に分かれて有力な貴族家門として着実に成長し、六朝時代から唐代末
の9世紀頃まで名門貴族として繁栄した。

 その後も宋代の記録で約26万人、明代の記録で約53万人と着実に拡大し、現在では台湾まで含めて中国
の各地に広がっている。


9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/10(水) 00:54:52 ID:4ARK+MNj0
>>7
イブまで。

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/10(水) 16:07:44 ID:tu5YB08B0
>>8
>六朝時代から唐代末の9世紀頃まで名門貴族として繁栄した。

最期は、黄河の濁流に消えたのかな。


11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/10(水) 18:23:02 ID:r9ilOngKO
最後のひと光り、袁世凱?

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/16(火) 23:53:41 ID:bfRcKxn80
袁世凱も清朝において高官や将軍を輩出した、わりと名門の家の出身。
古代の袁氏と関係あるのかは知らないけど。

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 15:08:07 ID:/dny6RAj0
袁紹と劉表がしっかりと連携を取って、曹操を挟み撃ちにできていれば、
曹操を打ち破り、覇権を打ち立てることができたかな。

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 15:30:26 ID:3U9AujMN0
敵の背後の勢力と手を結んで、挟み撃ちって、
理屈では分かりやすいけど、
実際に緊密に連携してやるのって結構大変だよ。

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 23:41:27 ID:5pQWJ/5H0
せめて携帯電話があれば、なんとかなったんだけどね。

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/22(月) 23:58:12 ID:eGqDZe1f0
袁紹と袁術が仲良しだったらどうかな?

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/24(水) 22:29:35 ID:dbFG1Tvc0
>>16
一番ドラスティックな分岐としては
孫堅を先頭に洛陽に突入した連合軍は献帝を奪還!
だろうね


18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/27(土) 14:33:08 ID:gbUr/f3P0
献帝を無事に救出し、董卓を討ったとなると、
やっぱり袁紹の功績が一番ということになるのかな。

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/29(月) 23:49:10 ID:MqGkT5ux0
袁紹だけもてはやされても、戦いに参加した他の武将たちが納得しない。
曹操だって、おとなしく袁紹に従うような男じゃないし。
結局、ごたごたは続く。

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/01(木) 23:59:53 ID:ek/UqHS30
袁氏は一族同士でも揉めているぐらいだからな。

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 14:09:35 ID:V8ym/v3J0
>>19
反董卓連合の前後からして大人しく袁紹のパシリをしていたんだが。>曹操
運命とでも言うべき怒涛の連戦に勝ち抜き、天下を狙える位置に来たからこそ
袁紹と戦う決意をしたんだろう。

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 11:31:34 ID:OEelsb+50
袁術も劉虞(或いは他の誰か)擁立路線だったなら、というIFは駄目なんだろうか。
袁氏によるもう一人の劉性の皇帝を東に立てて、董卓with献帝に対抗する。
まあ曹操とかにきっぱり拒否の手紙を送られたり、劉虞自身に拒否されてたいるけど。

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 15:48:38 ID:0qadWPfZ0
もう一人皇帝を立てて、東漢と西漢に分裂したりなんかしたら、
面白いことになったかもね。



24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 18:05:43 ID:vPnRdLOT0
袁紹は劉虞に即位させてそうしようとしてたが失敗した

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/05(月) 16:50:55 ID:RV485A5a0
もし劉虞が即位したら袁術、公孫サン、陶謙あたりは董卓に着きそうだな。

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 20:20:57 ID:ak/jyub/0
このスレ、袁紹家臣団について語ってもOK?

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 20:27:49 ID:Zl3lejos0
いいんじゃね?
袁紹の栄枯盛衰を語る上で家臣団というか従った人間たちの内訌は外す事が出来ないし

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 09:06:54 ID:PAvX4eiH0
田豊:時代を見据えた名宰相
沮授:執政の神
法逢:主君を立てる名士

審配:世が世なら周瑜に匹敵する軍師

顔良:闇討ちで死んだ当代最強武将の一人
文醜:顔良と同じく当代最強武将の一人
張合β:兵を率いれば敵なしの名武将
淳于瓊:酒を愛するムードメーカー



29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 10:16:22 ID:dN02ELam0
サルという字が「猿」とか「猴」とかあるけど
名門袁家がいたから遠慮して「猿」の字は使いにくかったんだろうな


30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 18:40:33 ID:Kez+90Og0
麹義の演義での扱いは酷いな
正史では袁紹軍で随一の武将なのに

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 23:28:55 ID:ssf0OTB90
カクトを忘れないであげてください。

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 23:52:16 ID:HMRdiYRy0
法逢って誰?

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 01:29:29 ID:9ghvqUlgO
許攸…。

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 21:49:16 ID:zEx8Ty9u0
逢紀のことじゃないかな

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/19(月) 21:01:15 ID:SSFIMzvM0
田豊にせよ沮授にせよ当時第一級の智謀の持ち主だから先は見えていたはずだ。
なのにさっさと袁紹を見限った荀ケや郭嘉と違い袁家に殉じたのはなぜだろう?
郷土愛ゆえか、あるいは袁紹個人にそれだけの魅力があったのか?

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/19(月) 21:42:39 ID:LSWdKNo/0
沮授は袁紹の他の参謀陣と比べてもずば抜けてるな。

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/20(火) 03:13:07 ID:SVanGlJW0
荀ケの袁紹軍の人材をけなした文にも入ってないしね
けちの付け所がなかったということにしておこう

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/22(木) 16:10:19 ID:8/r9TOOJ0
確か遣隋使だか遣唐使の時代に日本に帰化した袁姓の人も居るね。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/23(金) 05:11:01 ID:7f+oWf4U0
袁紹ってなんか今川義元に似てるなあwww

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 00:39:52 ID:iKQ4D+ac0
そう言われると咄嗟に反論できないのが痛いところだw
しかも、両者を比較すると、
義元には「その後」はなかったが、
袁紹はチャンスがあったのに倉亭でも負けてるからなあ。
俺はよく知らんのだが、史実の倉亭の戦いってどんな感じだったのかな?

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 18:06:48 ID:Z8+/XHRm0
倉亭の戦いの存在自体が怪しい

42 :i220-99-255-77.s30.a048.ap.plala.or.jp:2007/02/27(火) 16:51:45 ID:CRUVYt9G0


43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 17:15:41 ID:Ne2OBOel0
>>41
詳しく

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 22:39:03 ID:m1u0cA5R0
>>35
先が見えていたから袁紹に付いたんだよ。
荀ケは妻が宦官の娘だか何だかで立場的に袁紹は登用し辛いし、
郭嘉は素行が悪いから人材豊富な袁紹陣営で冷や飯食わせられるのがオチ。
結果、最後の最後で曹操が勝ったとは言え、最後の最後になるまでは負け必至だったから
(田豊らが)見る目がないなんてとても言えんよ。

45 :35:2007/02/28(水) 01:41:03 ID:dX1KCHJt0
>>44
荀ケの妻が宦官なのは初耳だけど、言われてみればその通りだな。
自分は袁紹も家臣団も好きなんだけど、袁紹の評価は一般的には
高いとはいえないから、こういう書き方をしてしまった。
申し訳ない。
たぶん、当時の下馬評も圧倒的に袁紹のほうに傾いていただろうしな。

また、その視点で見ると、袁家の内紛が理解しやすくなるかもな、て思う。
外敵そっちのけで内輪揉めなんて客観的に見たら愚行でしかないが、
「自分たちは圧倒的強者の家に仕えている」
という意識が強ければ、その中でいかに権勢を高めるかが
最重要課題となり、結果的に外敵を軽んじてしまうのかもしれないな。
ちょっと違うかも知れんが蒋介石の内憂外患論みたいなもんか。
ただ、田豊、沮授に関しては決してその種の視野狭窄に陥るような人物ではなかった
ろう。審配は個人的に好きだが「独断的で計画性がない」という荀ケの
指摘どおりの欠点を持っていた。王修はなんとか内紛を収めようとしたけど
どうにもならかった。
古今東西どこにでもよくある話だと言ってしまえばそれまでだが、
袁家には名門の光と影が端的に表れているな。

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 00:18:36 ID:9KO4vRhY0
族弟と仲が良ければ…

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 06:25:15 ID:Pz5RiZmF0
袁紹の圧倒的物量を生かした厚みのある官渡の城攻めは
負けはしたが美しくすらある。

名門とはいえたいした地盤をもっていなかったのを
地道に時をかけて大勢力を練り上げた袁紹の
人格をあらわしているような気がするな。

それに対する曹操の大逆転も、阿瞞と呼ばれた曹操らしい
戦いぶりで興味深い。


48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 22:31:21 ID:1CxXHcLm0
袁紹は袁紹らしく、曹操は曹操らしく戦った上での決着だから、まああれでいいんではないかな。
ただ、袁紹陣営が烏巣急襲に際して正攻法的な対処をとらなかったのが惜しい。
せっかく真っ当な正攻法に徹して後一歩というところまで曹操を追い詰めていたのに。

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 19:15:27 ID:Q/qX78Mm0
良スレage

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 23:11:20 ID:LkTD/Fea0
官渡の戦い、許攸の進言したキ許都急襲を採用していれば
どうなっていたかな?

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/14(水) 01:01:48 ID:F8OedlFx0
黄河の北岸から許昌までは結構、距離あるぞ。
どれほどの防備があったか記録からはわからんのだが、
然るべき拠点も無しに無茶はしないだろう。
で、然るべき拠点となると南では汝南で、
つまり劉備を派遣してるから、強襲ではないが
同様のことをやって失敗したと見て良いと思うのだが。

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/14(水) 02:25:38 ID:Q9v0aX9LO
まぁ成功するかどうかは置いといて、許攸が離反する可能性は低くなるよな。
となれば烏巣襲撃も無くなるから曹操は戦争継続が不可能になるだろう。

結果論だが許攸さえ寝返らせなければ袁紹の勝利は確実だったと思う。


53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 01:13:32 ID:eYprflML0
歴史ってのは英雄が一人でどうにかできるほど安っぽくもなければ
凡人の行動で大きく流転したりするものだな……。

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 19:30:30 ID:uGNYAR/I0
献帝奉戴に関しては、結果的には曹操の先見の明すげー
てことになるんだろうけど、あの時点での袁紹陣営での判断としては、
決して間違ってはいなかったと思うがどうだろう?
それに劉グ擁立という策も帝位の価値を相対化することのできるなかなかの
良策だったと思うが。劉グは評判もよく、人格的にも高潔なため、
この策がうまくいっていたら献帝は誰からも見向きもされなくなっていたかも
しれないな


55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 23:38:02 ID:xGzfb26L0
袁紹ってもし皇帝になるとしたら、国号は何にしたんだろうか?

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 23:59:20 ID:3tfBqVXV0
袁氏の本拠って鄴だろ?
だったら曹操と同じ魏なんじゃないの

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 20:59:58 ID:TDiGAKe30
袁紹ってそれなりに魅力あったのかな?
張コウだの沮授だの中々有力な部下が多くて意外に思ってたんだけど・・

>>56
何か袁紹で魏ってのも面白いなw

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 21:43:40 ID:gNVRXXPnO
次男の袁熙が後を継ぎ、皇帝に・・・甄氏を皇后に・・・もう最高!!

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 22:24:40 ID:hzu8kHQx0
袁熙は最初から跡継ぎリストに入ってない

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 10:27:53 ID:LDLh3wiz0
袁熙…物凄い勝手な個人的見解だが、とっても気の良さそうな人に感じる。
何故だ。

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 15:28:20 ID:qP2KjsPjO
>>60
同意。
あと、
首斬られる時の言動が格好良い。袁熙の首が曹操の元へ贈られた時の甄氏の心中はいかに・・・OTL

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 19:29:16 ID:2gRjAVGv0
>>57
もともと清流派士大夫からの支持も強く
(中常寺連中に恐れられるほど)、
つい先だってまで西園八校尉や司隷校尉の職にあって
中央軍を指揮する立場にあり、
大将軍の幕僚として中央政界の世論をリードし、
一方の状況を作り上げていた
というのが、その頃までの袁紹の評価。

董卓は首都圏を制圧したものの、自身が任命した地方官の多くが
後に反董卓の側に附いたように、士大夫連中からの支持は
あまり得られなかったと思われる。

この状況で袁紹に期待する人は少ないということはないと思います。
が、なんだかんだ言って、その後、勢力を確立するまで苦労をしてる
というのもまた事実ですが。

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/03(火) 11:10:48 ID:i7JLTXfF0
>>62
なるほど。袁紹に決断力と行動力があったら曹操にも負けてなかったかなぁ。

まぁあれだ、公孫賛打ち破ってくれたからいいべw

64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/03(火) 18:28:24 ID:qzGUIFRRO
袁煕さん。譚や尚のようにへたな自己アピールはせず、それでも本初さんの危機にはいち早く駆け付ける… 慎みの深い仁者だったのかな?それとも単に次男キャラ?


65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/03(火) 18:41:58 ID:m26eVHKO0
袁氏の本領を引き継いだのは袁術なんだよね。
袁紹は董卓と敵対して、僻地の渤海に左遷されるも
そこから自力で領土拡大
最大勢力に躍り出た。

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/03(火) 18:44:02 ID:m26eVHKO0
界橋の戦いって赤壁や官渡並みの大勝利ですよね
当時の公孫瓚は幽州、冀州、青州、徐州を傘下に収める大勢力。

袁紹は韓馥からなんとか領地を奪ったばかりで地盤が磐石でなく
さらに董卓からの妨害を受けまくっていた

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 10:25:25 ID:4YMPFf4T0
>>61
おお、どんな事を言ってたのですか?よければ教えてください。

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 13:12:04 ID:budX8zKf0
麴義は名将。

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 19:37:46 ID:2Ns7fSNd0
>>66
うんうん。
騎馬の利を殺す辺り当時の人間としては中々妙策ですな。
白馬大好きっ子な公孫瓚ざまぁっすw

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 21:26:19 ID:9dfRWpgCO
公孫康へ訪れた熙・尚は凍った地面に連座させられ、
袁尚が蓆(むしろ)を求めた時、袁熙は尚をたしなめて、
袁熙「わが首がまさに万里の旅に出ようという時に、何をいまさら蓆などいるものか」
と言い・・・OTL

71 :七資産1970:2007/04/04(水) 23:22:27 ID:2mw0ZkrC0
演義の袁紹と日本の総理とは
どことなく似ている

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 23:32:37 ID:fWYfI4Xy0
三国志二十四大英雄
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1175545567/


73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 23:33:12 ID:QeWtMT8h0
袁紹って演義だと結構酷い扱いだよな
良い所が全部省かれてる

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 18:37:37 ID:zA3ZxK2w0
曹操や孫堅は攻めの人、袁紹は孫権や劉表のように守りの人だったのだと思う。
国力は曹操よりはるかにあったし領地もしっかり治めてた、異民族とも良好だったしね。
でも戦に限って見てみると配下の活躍は目覚ましいが本人が指揮した戦は少ない、ましてや官渡では今までにない大軍を繰り出した訳だしね。
官渡や倉亭での戦いに負けたとしても領土は失わなっかたし反乱した豪族の討伐とか往年の決断力を取り戻して素早く動いた。
袁紹は鄴と黎陽、そして遊軍の三角関係の防衛線を引いたと言われてる(もっともこれは黎陽の袁譚がおとりにはまり戦わずして落城、これが原因で袁紹の病に止めをさしたとも。)
袁紹が負けた最大の理由はすべてが予定通りに進んできたからではないだろうか?一度でも完敗していればもっと用心深くなっていたと思う。

>>56
鄴なら司馬氏と同じ晋では?

75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 19:07:18 ID:Vet7iZ4RO
この人って

過小評価されてるだろ!って言われて過大評価される人物だよね

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 20:40:05 ID:1GdeZQGs0
>>75
それだけファンの多い、魅力溢れる人物ともいえる。

>>70
で、そのあと曹操軍に引き渡されたと…あれ、意外と剛の人だな。

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 21:06:12 ID:3VrpTrw60
南北朝期の高歓が袁紹、宇文泰が曹操に例えられることがある。
この場合、比較の理由は国力や軍事力が
袁紹・高歓>曹操・宇文泰 ってことなんだけど。

もう一個、似てると思ったのが、曹(夏侯)氏と宇文氏は有能な人が多く、
彼ら皇族・皇族縁者が軍事を担ってる部分が大きいんだな。
一方、袁紹軍閥と高歓軍閥(その後の北斉朝)は
重臣達の押さえが利かない傾向がある。

これは曹家と宇文家のDNAの話じゃなくて、皇族が前線に立たざるを得ない
皇族以外の有力者が少ない状況が両者に長く続いたことによると思うんだな。
ただし、曹操や宇文泰が独断で手広くいろいろと行動できた。
一方、袁紹と高歓は有力者である仲間・同志を引き連れて行動してたから、
彼らを含めた政府機構というものが早くに確立してしまった。
袁家や高家の人間だけでは国家運営を独占できないことになった。
袁紹の優柔不断(曹操と比べて)の原因はこういうことじゃないかと思ったりして。

曹家と宇文家、袁家と高家の滅亡の理由もなんか似てるしな。

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 21:22:58 ID:rdz/CtzoO
>>76
そうなんですよ。袁熙の首が・・・甄氏は本当に強い御方ですね。
曹丕の野郎、簡単に甄氏に死を賜るとは許せんな・・・OTL

格好良さは断然、
袁熙>>超えられない壁>>曹丕の野郎
なんだか。

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 21:23:21 ID:XArJ+6cH0
袁一門は袁紹と袁術との間でバラバラになってる(むしろ袁術が一門を抱え込んでる)からな。
身一つで渤海へ飛ばされた為に名士らの力無しでは勢力を築く事ができず、
結果彼らの発言力を強化させてしまった。

こんな例を出すとまた三戦板へ帰れとか言われるが、
有力豪族からなる合議制により無用な戦ばかり強いられた武田家と似たようなもんだね。

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 21:25:41 ID:obJvc6RP0
代々袁氏の本拠だった汝南は袁術が相続したからな

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 23:51:21 ID:c7Rcs4L/0
袁術が大人しく袁紹に従っていれば・・・
って無理な話しか。。

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 22:20:33 ID:S6qZDH9s0
>>81
でももし二人が協力できていたら、曹操やら孫権やら劉備の出る幕は皆無だったろうね。

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 00:23:55 ID:tDiWoUYZ0
光栄によって出れば負け軍師などと不名誉な言われ方をする郭図。
(表に出ている)採用された策がことごとくはずれたから、と言われているが

実は却下されたとはいえ曹操と同じ頃かむしろ早い時期に献帝奉戴を進言していたらしい。
ところが袁紹はこれを退けた。
珍しく、郭図の意見が採用されなかったが為に結果損をした事柄である。

ちなみに郭図って穎川の出で、荀ケと同郷。なにか妄想のネタになりそうです。

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 01:20:18 ID:HNEf6eWQO
郭図は郭嘉と同姓同郷

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 11:14:21 ID:l0M7pGjZ0
>>83
献帝推戴を進言したのは田豊じゃなかったっけ?

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 16:24:54 ID:M760p9Z60
>>83
>>85
資料によって異なるが、
確か沮授は一貫して献帝奉戴を主張している。
一方郭図は資料によって奉戴に賛成したり、淳ウケイとともに反対したり。
真相はどちらなんだろうね。

87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 15:24:07 ID:lLyfkJDL0
良スレage

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 15:30:22 ID:wVDyjaAi0
>>83
献帝推戴を進言したのは田豊じゃないか?

89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 15:31:34 ID:wVDyjaAi0
間違えた、沮授だった・・・

90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 17:39:53 ID:1sjY2uS70
袁紹も名門意識さえなければ油断せずに天下取れたのかもしれないのにね。
張郃を重用しなかったことが悔やまれるな、顔良と文醜の上にまとめ役として置いておけば良かったのだが。


91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/10(火) 00:28:36 ID:LiQYUd2s0
張癰を顔良・文醜の上に置いたら、
内部分裂で崩壊しそう。

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/10(火) 21:14:28 ID:sho163sz0
張郃もその頃は若かったんじゃ?二人と肩を並べるには経験が足りない気がする。

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/10(火) 22:00:50 ID:XwCEjoKe0
とりあえずあれだな。
関羽強い。

94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/10(火) 22:29:06 ID:DoqCcg2b0
>>93
たしかに強いが顔良の件を言っているなら分らんぞ?
一刀のもとに切り倒したってのは演義の話だからな。
事実は不意打ちの可能性もあるからな、劉備が味方にいるのだから関羽を見かけたら勘違いもするだろうさ。

95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/10(火) 22:48:39 ID:S/5f4AyQ0
>>劉備が味方にいるのだから関羽を見かけたら勘違いもするだろうさ

前々から思ってたんだけど、関羽と顔良って面識あるんだろうか?
衣装や馬に「関羽」とか書いてあるわけないだろうし。
高級指揮官の一人だとはわかるかもしれないけど、
誰かまでは、ちょっと「?」な感じ。
ヒゲは生やすのが当然の時代だしなあ

96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/11(水) 00:02:12 ID:iL2e3hOX0
不意打ちだからとかそういう問題じゃないでしょ。強い弱いったって、鉄の体をもつワケじゃあるまいし
そんなのはどうでもいいというか。ようするに胆力が凄いって話で

97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/11(水) 00:03:19 ID:9KYrRIMk0
>>95
不意打ちの話には続きがあって劉備は袁紹軍の武将たちに関羽の情報があったら自分に伝えてほしいって言って回ったらしい。
そのとき何らかの特徴を教えたんじゃないか?それに昔の武将は他とは違う鎧や服装をしてて戦う前に名乗りあいそれから正々堂々勝負するってのがあったからな武将たちの間だけで。

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/11(水) 11:03:42 ID:VbWB9jFo0
馬鹿でかい青龍円月刀持ってたんじゃないの?
正史だと青龍円月等も無し??

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/11(水) 15:55:29 ID:Mm08oETXO
>>98
正史だと、ってか当時そんな武器を製造する技術がないはず。

100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/11(水) 16:17:27 ID:YT5LphXb0
確か宋代の武器だっけか。
槍は三国時代だっけ?最初に作ったのは例の人という説もあるが。

101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 02:32:00 ID:tQyM0qkjO
あの宰相兼発明家の人か

102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/13(金) 02:03:38 ID:pSQ8PCEtO
ドクター中松か

103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/13(金) 02:31:51 ID:cFB8ik510
中松は発明よりもプレゼン上手。

104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/13(金) 12:08:33 ID:YrWDDG87O
久しぶりに無双4をやった



袁紹いいね^^

105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/13(金) 17:21:38 ID:GyvOKFBbO
>>103
いやいや、ドクターのことだ、きっとプレゼン上手になる発明をしたんだよ
だからやっぱり発明上手

んで発明上手になる発明もしたんだろう






あれ?

106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/13(金) 18:40:40 ID:49zpbT5g0
>>95
高級指揮官?
偏将軍でか?
そんなバナナ
偏将軍は高級指揮官どころか現場監督ですらないぞ

107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/14(土) 10:50:33 ID:/qjavTvr0
兵馬の権限のない名誉職らしいな。
しかし身なりはキチっとしてただろう、って事を言いたいのでは?

108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/19(木) 14:04:54 ID:QRbhrnPU0
Kackt:河北の上杉謙信

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/23(月) 19:32:45 ID:wTYsmcgZ0
袁紹は好きな武将の一人。横光でもゲームでも顔もカッコいいし。
でも無双では微妙に黄色い衣装で敵と見分けがつかない。


110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/23(月) 19:47:49 ID:AxBHJ8dI0
地味な色してるよね。キャラとしてはいいけど。

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/23(月) 20:05:23 ID:XP0MM5oG0
でもイメージは豪華な色だから黄色以外あまり思い浮かばないんだが。

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/23(月) 20:16:43 ID:J1fGY8Vm0
黄色は皇帝の色。
つまり…

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/24(火) 21:14:07 ID:EsbwCguP0
黄袍をまとえ

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/25(水) 13:25:42 ID:0CheXeFI0
皇帝は紫。

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/25(水) 22:51:28 ID:55fAxJLZO
そりゃローマだ

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/26(木) 00:32:22 ID:JWmIKQTG0
紫は坊さんの最高位だぞ

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/26(木) 13:26:03 ID:MlaEg2fc0
中国は黄色だねえ。
朝鮮の王は紅色。

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/26(木) 18:47:58 ID:jZMNeoMc0
日本はサムライブルー(笑)

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/27(金) 11:53:53 ID:T35um6Hm0
サムライブルー・・・
思わずドイツ大会の惨敗を思い出しちまったよ。

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/27(金) 22:11:35 ID:y3j0IL/F0
袁家@wiki
http://www23.atwiki.jp/yuanjia/pages/1.html

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/28(土) 06:09:21 ID:C/pxkiN70
無双の袁紹は、百式みたいに戦場でキラキラてかってても良いと思うんだ。
無双モードになると、黄金のオーラで周囲にフィールドを作るとかさ。
そんなんだったら爆笑する。

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/16(水) 01:47:47 ID:+q5rYEU+0
曹操は攻め、つまり積極的だったのに対して、
袁紹は守り、つまり消極的だったように思う。

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/16(水) 09:32:48 ID:H8bDMueA0
>>122
攻めたのは袁紹じゃないのか?
曹操が攻めに転じることができたのは、袁紹が死んだからだと思うな。

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/16(水) 20:31:21 ID:K8teGEVe0
曹操と袁紹の力関係そのものが官渡まで歴然たる差があるしな。

袁紹

・ほぼ無傷の状態の華北を抑えている。善政と名士の協力で支配も安定
・鳥桓も従え、後顧の憂い無し。安心して黄河を渡河出来る。華北を抑え然る後に南下するのは戦略の王道である
・更に強兵産地の二つ(幽州騎兵と冀州強弩)を握っている圧倒的勢力
・軍団の戦闘力だけなら最強の公孫瓚を最終的に撃破した軍事・戦略の才
・曹操があそこまで台頭しなければ、困難はあれども(袁家は漢室の栄光によって成り立つ名家の為)新たな統一王朝を築けたであろう第一級の英雄
・馬鹿な長男と野心的な三男が悩みの種

曹操

・一応献帝を擁しては居る
・でも徐州虐殺やら何やらで名士どもは彼に面従腹背している状況。民心も不安定。劉備(漢の御輿になり得る男)にもソッポを向かれた
・後ろに劉表と孫策が居る。降伏した張繍も前科があるので信用出来ない。よって全兵力を袁紹に向けられない
・屯田制である程度の財源を確保したが、本来豊かな中原は戦争の連続で疲弊している
・孫子の兵法を完成させ、青州黄巾・呂布・袁術らとの血みどろの戦いを制した当代最高の兵法家、苦労を重ねた不世出の英雄

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/16(水) 21:20:17 ID:H8bDMueA0
袁紹にしろ、劉表にしろ、当時の最大軍閥を曹操が打倒したのは後継争いにつけこんでのことで、その死後だったというのが、なんかラッキーさを印象付ける。

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/17(木) 19:59:20 ID:0x9gInOq0
三国時代の英雄たちの生年月日がわかれば占ってみたい。

127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 17:38:20 ID:RGAjykif0
生年は兎も角、月日は記録には載っていないだろうな。
当時は数え年で、生まれた年の1月1日を誕生日にしていたからな。

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 17:40:53 ID:wpgDuemV0
袁紹は、曹操がいなければ天下統一していた。
ただ曹操が化け物だったから負けただけ。

129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 19:14:04 ID:UIzURTIe0
>>127
そうですか。残念です。宿曜とかで見れば袁紹と曹操の関係で
面白い結果になりそうな予感がしたのですが。

それにしても袁紹って、不思議な魅力があります。憎めないし、
記述でも横山でも無双でもかっこいいという貴重な人物だと思います。


130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 23:44:03 ID:wpnb0huo0
曹操どころか魏だって統一できなかったのに、そう簡単にいくのか?

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/22(火) 00:01:30 ID:OBdRl8j9O
予州の名士達や朱霊やらに見限られた袁紹がそんな簡単に天下統一出来るとは思えない。

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/22(火) 00:13:54 ID:e89HN2570
曹操陣営から袁紹陣営に下った人って有名どころではいないよね。
これは実際にいなかったのではなく、書かれていないだけという妄想もとい推察は可能?

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/22(火) 00:26:13 ID:vVmeMSvC0
劉備は下ったわけではないか…

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/22(火) 00:28:07 ID:ujmm56JTO
応劭とか

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/22(火) 20:54:27 ID:pES7f5PKO
>>132
官渡後に袁紹陣営への内通文書がたくさん出てきたってのは演義の話だっけ?自分は、袁紹は結果的に負けたから史書にかかれていないだけで、袁紹陣営に寝返った人間は結構いると思う。

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 14:06:30 ID:WLaYqyx20
内通文書を読まずにすべて焼却して赦した話は史料にも書かれているよ。
あんまり指摘されないんだけど
このエピソードは曹操陣営の機密情報は袁紹陣営にだだ漏れだったことを示しているんだな。


137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 16:01:24 ID:+mCN+aB00
>>136
でも袁紹陣営から寝返った奴が重大機密もって投降したんじゃなかったっけ?
つまりどっちの陣営からも寝返った奴が居て、どっちの情報も漏洩してたってことかい?

138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 20:11:10 ID:WLaYqyx20
そういう事。

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 23:01:08 ID:+mCN+aB00
なるほど。長期戦なんかにはよくありそうだね。
戦のはじめは情報戦かっ。

140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 23:46:19 ID:5nf7n0cq0
お互い漏れてた情報を曹操のほうが上手く拾い上げて利用し
紙一重の勝利を掴んだ、というところだな

袁紹ってケチをつけるがそんなにないけど、歴史の変革を自らリードする
みたいな印象があんまりないな
エキセントリックな公孫賛や曹操と対照的に

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 23:50:34 ID:qTj1eE+nO
>>140
宦官を殺したり漢の皇帝の権威を否定したり当時最大の過激派

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/24(木) 18:59:17 ID:JsGfZNiB0
>>141
表現にワロタw

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/06(水) 23:00:46 ID:QXYmkP8U0
黄巾の乱の起こったところって、袁氏の本拠地あたりじゃないの?

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/07(木) 02:05:14 ID:a5+e2Mbz0
袁氏の本拠地は汝南だろ。黄巾いたっけ?

145 :劉辟:2007/06/07(木) 12:29:07 ID:d8mHFJtY0
オレオレ

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/07(木) 16:51:44 ID:EA5OeueVO
>>144
何故、汝南が出てきたのか知りたい…
袁紹の根拠地は冀州(ギョウ)
その前は渤海。
黄巾の乱は、河北から河南は長江辺りまで紛争がおきているので、汝南ももちろん含まれているけど。
反乱の拠点は河北。

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/07(木) 19:04:56 ID:AMj0We8w0
>>146
>>144は「袁氏」の本拠地って言ってるよ。
>>143が勘違いしてるんだと思われ。

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/07(木) 20:16:00 ID:EA5OeueVO
>>147
ありがとう、自分も勘違いしてた。
袁氏は汝南だ…

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/08(金) 18:43:12 ID:n5uyeExAO
官渡時にその本拠に劉備を派遣した袁紹の思惑はいかに?凡将には任せられない気がする。あるいは親袁勢力の力が強いから凡将でも十分と考えたのか?



150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/08(金) 20:03:05 ID:DtzqtOhsO
>>149
劉備が豫州牧だから

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/08(金) 22:30:41 ID:Axm1JnBb0
汝南も元黄巾の劉壁が劉備を逃がすために篭城して曹操に殺されてなかったっけ
篭城できるってことはそれなりに地盤あったんじゃね

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/08(金) 23:05:30 ID:DtzqtOhsO
劉備を逃がすためは物語なので根拠にならないけど、劉備は曹操自ら攻めてくるまでは曹操派遣の将を破ってるし、袁氏にくみする奴も多かったんだろう

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 23:53:35 ID:NloGP38r0
劉辟は2度死ぬ

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/18(月) 11:05:23 ID:Gix3TUNd0
張コウは3度(ry

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/19(火) 23:43:45 ID:XZd57zT30
袁術が滅びた後、その配下で袁紹の下へ行ったのっている?

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/09(月) 10:52:43 ID:UqzWgn9j0
>>155
袁術本人が行こうとしてた

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/26(木) 10:38:12 ID:Qrncy8dn0
>>83
そもそも、郭図の進言は結構成功してるんだが……。
例えば緒戦に白馬津を攻めた時は、
顔良こそ討たれたが、郭図・淳于瓊が関羽・張遼を破って白馬津を奪取してる。
そこで延津を渡っていた曹操軍は孤立を恐れて引き上げるハメに。
追撃に出た文醜こそ死んだが、袁紹軍はその後も勝利を重ねて官渡に曹操を追い詰めてる。

郭図は短期決戦を勧めただけじゃなくて、それで勝つための策もちゃんと用意していたようだ。

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 12:12:22 ID:m2qnapye0
もし袁紹が勝利して政権を樹立していたら、
劉備はちゃっかりその幹部に収まっていたんだろうか?

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 12:21:53 ID:CiSihPp50
劉備は何がやりたかったのかイマイチ理解できない

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 12:46:32 ID:ztmNXIOC0
命綱の烏巣が切れかかってるのに、
落とせるかわからん官渡を無理攻めするセンスが理解できん。
拙速にもほどがあるよなあ。

161 :草中の豎子:2007/07/30(月) 13:24:43 ID:A06jMSzE0
>>160
一応、郭図の進言で烏巣にも軽装騎兵を援軍として向かわせたよ。
官渡の無理攻めを執拗に進言してたのも郭図だけど


162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 01:41:47 ID:CF6u4RIb0
出ると負け軍師。

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 01:59:16 ID:suR8iouT0
張コウ・高覧が自発的に裏切ったから袁紹軍が負けたっぽいのだが。

そうなると郭図がホントに讒言してたかはビミョー。

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 23:24:51 ID:QVK6oC/50
袁紹はかなりできる男だぞ。
官渡も許攸というドブネズミが不幸にも自軍内に居たため敗戦。
このドブネズミのお陰で、統一が長引き多くの民が戦火に喘いだ。

名門といえど、冀州領有までは身一つ。が冀州豪族、沮授のような
曹操における荀ケ以上の同盟者(沮授は唯一後漢の官位を持つ袁紹軍豪族)
を従える事に成功。 名門といっても汝南の袁氏はせいぜい3代程度で
浅い家柄なので、乱世になり強力な軍事能力を発揮できるほど熟成期間
がなかった。 

袁紹は貴族と親交をもつより、豪族や能力ある人間と親交を持った。

戦争屋の公孫瓚を、外交を駆使し破ったのは決して幸運ではなく、彼の
軍事能力と外交手腕を物語っている。袁煕は外交をやったらしい。

本家の本拠汝南に居る袁術が袁紹よりはるかに優位にも関わらず袁紹ほど
強大な勢力を築けなかった事を見ても、4州を自力で獲得した袁紹・・
並の男じゃねぇ。 イケメン といっても過言ではない。

200年地点では、彼の能力は、劉備、孫策以上と言える。対等なのは
曹操だけだっただろう。

郭図は中央サイドの人間だから、豪族系とは思考の系列が違う。
これが軋轢を生んだんだろう。

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/01(水) 00:13:06 ID:eYZeOu4U0
郭図が讒言は捏造じゃないかと思うぜ。郭図は中央寄り、言ってみれば
荀ケのような系列と言えるかもしれない。そういう人間が魏書の側から
見て袁紹の配下にいる事の不具合。
袁紹関係への偏った評価は当時からあったのかもしれない。
自称作家孫盛以前に。
 
同じような荀ケの一族荀ェに至っては、存在そのものがオミットされて
いる。 郭図の最後や行動を見ると比較的正統的な考えをもつ人間だった
ことが想像できる。 
連投スマン。もう書きません>Q<

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/01(水) 00:20:49 ID:5Oq2HY+90
>>165
そもそも、讒言っていっても沮授の件と張コウの件だけだしな。
しかも「(冀州豪族の)沮授が軍権を独占してるのは危険です」ってのは
正当な進言だから讒言とは言えないだろうし、
張コウの件については存在したのかすら怪しい。
俺も郭図は讒言なんかしてないと思うぜ。

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/12(日) 11:41:47 ID:fscLEIf10
つか張コウも張繍も自分を売り込むタイミングが凄すぎるんだよ

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/12(日) 12:25:45 ID:/N51pFqp0
勝ち組てことなんだろうな。 沮授に関しても袁紹軍団で異質の存在
だから、軍の権力関係で袁紹との間に軋轢が存在してても不思議
じゃない。沮授個人との問題である証拠に沮授の一族はその後も
城主等重用されている。  

袁紹は歴史の敗者だからしかたないが、官渡も長期戦に持ち込む必要は
なく許攸が裏切らなければ勝っていたのでif論としてじゃなく戦術面では
曹操軍の兵站などから見ても正しかった。

袁紹としては自身の寿命と後継者という問題がある以上、勝算が立つなら
早期に決着をつける必要があったんだろう。

ただ運も実力、結果が全てなので敗者の袁紹は曹操には及ばないとは
言うしかない。

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/17(金) 06:00:18 ID:3zaXxjrC0
張コウなんか、どう考えてもやった事は小早川秀秋と同じ穴の狢なのに、そういう評価は無いよな。
演義や正史で「郭図に讒言された」とあるのが免罪符となっている。

張繍は一代の梟雄として凄まじいので、あんまり非難する気持ちはおきねぇなぁ。
劉表が本気で助けに来たなら裏切らなかったと思うし。

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/19(日) 13:03:46 ID:mKZlvVpO0
あとあとの仕事がよかったからじゃね?

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/19(日) 13:58:40 ID:NO/Jf3Hj0
終わりよければ全て良し。か。

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/19(日) 18:16:24 ID:4qBQgpQw0
袁紹軍の崩壊を象徴する人物だからってのもあるだろうな、こいつだけならともかく
一連の戦闘で離脱した奴が多すぎた。
しかも旧袁家の人材は優秀な奴が多かったのも大きい。

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/31(金) 23:18:43 ID:PRiP/qaE0
何気に光武帝劉秀と同じような地域に勢力を張ったんだな、袁紹って。
ちょっと目標とか、参考として意識していたかな。

174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/31(金) 23:57:14 ID:Ul5OtoKiO
もしかしたら、官渡で曹操を破った暁には、味方の内応文書を読みもせず焼くつもりだったかもしれない、って、そんな分けないか。


175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/01(土) 08:46:56 ID:wJ/ZFy/a0
劉秀はいろんな意味で、後代の群雄の指標だったみたいね。
袁紹は知らんが、曹操も諸葛亮も、はたまたハカイダー朱温も。

176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/01(土) 23:10:48 ID:nRxV66/60
少なくとも三国志の時代の群雄にとっては、
一番直接的に参考になるね、光武帝の天下統一の過程は。

177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/02(日) 23:01:25 ID:a6Wt6TFa0
なんで対曹操戦では焦ってたんだろ。
やっぱ献帝擁立されて、逆賊扱いされるのが嫌だったんかな?
荀ケが離れて行かなければなぁ。

178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/02(日) 23:40:40 ID:TSf6JEZC0
子供の頃からの知り合いらしいし、途中までは部下のような
感じ。それがいつの間にか自分に挑もうという勢力になり、
皇帝まで抱え込んでいる。
公孫サンとかには抱かないような感情があってもおかしくはない。

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/03(月) 11:46:45 ID:w1R2efXV0
>>164
名門袁氏というものが強調されすぎているきらいがあるね。

180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 04:36:18 ID:NMFeSnxh0
なんか誤解してる人が多いと思うんだけど、
烏巣の戦いは官渡の勝敗と全然関係ないよ。
官渡で勝敗を決めたのは張高の寝返り。

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 05:02:33 ID:NMFeSnxh0
と思ったけど俺の脳内資料だったかもしれん。忘れてくれww

182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 22:22:50 ID:mIsQUBVR0
袁氏の台頭は袁安からだしね。

183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/12(水) 01:25:43 ID:WFEuRny00
>>180
そこで張コウのせいにするような集団だから負けた。
てことなんじゃね?

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/12(水) 10:56:21 ID:Kfrtre2q0
曹操と比べて部下の統率・扱いが下手だったのが敗因ってよく書かれるよな。
実際は知らんが。

185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/12(水) 11:55:06 ID:zbYh5XhV0
とある論文では、袁紹の君主権力は弱く、曹操の君主権力は強かったから負けたのだ。
と説明されてるわけだが、

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/12(水) 12:32:31 ID:d2EY/LPc0
袁紹の君主権力が弱かったのは事実だが、
同様に君主権力が弱い孫権が赤壁で勝ってるんだから勝敗とは無関係だと思う。

孫権が赤壁で魯粛と結託して君主権力を取り戻したのと同じように、
袁紹は官渡で郭図と結託して君主権力を取り戻してるよね。

187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/12(水) 19:52:18 ID:Q6P6SAof0
その意見は妥当ではない。官渡と赤壁では状況等がまるで違う。
官渡と赤壁での人物構成、軍隊構成、地形等を詳細に調べ上げて、比較検討した上でじゃないと。
自分が読んだ論文ではあくまでカントの戦いについてだけ。

188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 08:09:50 ID:Lgnz+O8z0
その論文あげてみろよ

189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 11:29:01 ID:VuST+g590
確かに官渡以前の袁紹は君主権力が弱かったけど、
官渡大戦は郭図のおかげで君主権力を取り戻してるだろ。

いままで要職を占領していた田豊・沮授らの豪族を追い落とし、
淳于瓊・郭図ら袁紹が呼び寄せた名士が大活躍する戦だった。
君主権力が弱かったから負けたってのは妥当ではないと思う。

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 12:18:37 ID:e8u8hoCY0
>>185のレスだけじゃ、はしょられすぎて判断が出来ないな

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 12:31:05 ID:Uq7dPAKG0
185ですが、私が読んだ論文というのはこれ。
渡邉義浩『三国政権前史―袁紹と公孫サン―』



192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 12:40:24 ID:7LzcQhVM0
>>187
その論文のタイトルか、要旨くらいでも紹介してくれないと、
こっちの論文に書いてるから、だけじゃ対話にならないよ。
内容を全く知らされてないのに、その意見は不当と言われる身にもなってよ。
別に反駁するわけじゃないから、せめて手順くらいは踏んで。

193 :192:2007/09/13(木) 12:41:06 ID:7LzcQhVM0
うえ、行きちがいだったか。>>191乙。

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 03:34:42 ID:+UvLZgUN0
まあ研究者はあれやこれやと理由を付けたがるけど、実際には運と計略によって勝てたってのが実際だろう。
先に挙げた君主権力云々も、史料上から伺えることに過ぎないわけだし。

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/19(水) 21:34:03 ID:0aYV/JU60
>>189
ただ、いかにもタイミングが悪かったかもね。
河北平定までは今までの体制でうまくいってたのに、官渡前に
がらりと変えてしまった。その結果敗北。
でも、体制を変えずに戦いに臨み、
それで負けたら負けたで、「袁紹は旧体制に固執するあまり、
組織改革を怠ったので負けた」とか言われそうだし。
難しいところだ

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/19(水) 23:20:54 ID:09hLZNXC0
>>195
郭図や淳于瓊は闇雲に短期決戦論を主張していたわけじゃなくて、
白馬津で関羽・張遼を敗走させて渡河拠点奪取したり、
曹操軍のゲリラ戦を虱潰しにして官渡まで追い込んだりと、
勝算を持って短期決戦に挑んでいたようだったけどね。

駄目を打ち続けて負けたようなイメージだけど、
顔良・文醜のような小粒の将が落命してるだけで
全体的に袁紹軍のイケイケムードだったはず。

197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/20(木) 13:24:14 ID:QhyCpx0Z0
顔・文が小粒だと・・・?

198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/20(木) 16:58:00 ID:8ZZ0+gIi0
武帝紀や荀イク伝によると顔文には名将の誉れがあったそうだが、
現存する史料にそれを裏付ける記録はないよ。麹義程度の記録すらない。
曹操や荀イクを称揚するために好敵手として理想化されている疑いもあるね。
どっちにしても本陣付きの中堅部将で、曹操軍でいうと于禁クラスだよ。

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/20(木) 19:45:22 ID:KovWsCYz0
于禁が落ち目となるのは10年以上後の話で、
官渡の頃の于禁は敵兵数万を投降させ敵将42、3人を捕縛するなど神がかってるからなぁ。

顔文を曹操軍の人となぞらえるなら朱霊とか牛金あたりじゃないかね。

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/20(木) 22:44:42 ID:XzFwBkbj0
朱霊は張遼・徐晃・張コウと同格だし実績もあるからなあ。

董卓軍の華雄とか、曹操軍の(曹操の時代じゃないが)王双あたりじゃないか?
実績ないけど、演義のイメージのまま強将の印象が抜け切ってない。

201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 01:45:24 ID:gZal1VXq0
つまり、趙雲。

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 14:04:06 ID:wX8H2+ch0
>>201が的確すぎて吹いた

203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 17:17:48 ID:D/urPWA90
顔良、文醜が中堅だったとすると袁紹陣営では誰が武官のトップ?
大軍を率いるに実力・実績共に高いのは誰だったんだろう。

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 19:32:29 ID:4MiE6tfx0
>>203
沮授・郭図・淳于瓊

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 19:34:38 ID:UoRWCDy50
先鋒に雑魚が出てくるわけないじゃん
蜀で言うなら孟エン

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 19:48:56 ID:4MiE6tfx0
白馬攻めには郭図・淳于瓊もいたじゃん。そして勝ってる。

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 20:47:29 ID:bZK4d3C+0
>>199
198だけど、おれが言ってるのは身分のことね。書き方まずくてすまん。
顔・文にどれくらい能力があったかは史料に記録されてないが、
かりに有能だったとしても、本陣を固める大勢のなかの一人に過ぎなくて、
一方面軍を全権委任されてるような大物じゃないよ、みたいな意味ですわ。

当時の袁紹軍で方面軍司令クラスと言えるのは、刺史やってる兄弟と、
あとは沮授・田豊・審配と、郭図・淳于瓊らへんじゃないかな。
田豊・審配は軍権を持たされてた記録がないんで微妙かも。
生きてりゃ麹義も文句なしで入ってくるんだが。

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 21:50:08 ID:LoiZrGh50
そういえば、孔子の弟子の顔回の子孫とかどっかの本で読んだが

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 22:00:16 ID:bZK4d3C+0
顔氏家訓だね。でもあれが顔良を同族だと言ってるとは限らない罠。

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/22(土) 17:59:28 ID:VT8DtSdk0
軍権だと圧倒的に沮授だろ。沮授ははっきり言って権力的には主人
袁敞と同格に近いほど大権もってる。審配ら豪族系とは決定的な違いを
付けてるな。田豊は沮授とはそういう意味では大きな差がある。
沮授、淳于瓊て感じじゃないの。

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/22(土) 19:22:56 ID:Yihgp++o0
沮授の権力は官渡のあたりから斜陽にかかってくるんだが、
それを考慮しても、敗戦で曹操に捕らえられたって、ものすごいインパクトだよな。

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/23(日) 11:59:09 ID:POCrpo3Z0
官渡直前まで袁紹軍のトップだった男が捕らえられた挙句に死亡、
沮授と同格の地位に上がったばかりの郭図・淳于瓊のうち一方も死亡。
残った郭図は主流派から離脱して長男坊の元へ。

これで滅びないってのはありえないな

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/23(日) 13:23:34 ID:Q97N1uN/0
郭図は袁尚を支持することができなかったからな。
袁尚の治めていたのは「豪族組」の本拠地・冀州だったわけで、
袁尚を支持したらまた豪族が勢力を盛り返して元の木阿弥だし。

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/23(日) 16:17:27 ID:CvsX0Aze0
というよりはまぁ郭図が当時おかれていた立場は石田三成のそれに近いわけで。
自ら敵に回した相手のところには二度とは戻れん。

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/23(日) 16:32:37 ID:PQqgJgvz0
袁尚が冀州を治めたってのは誤解では?

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 02:03:48 ID:iMNUDUvK0
所謂正史の鉄則、つまり、”王朝の創始者は良く書かれる”という暗黙の原則がある。
『三国志』の場合、その対象は曹操であり、袁紹は徹底的に曹操の引き立て役だ。
それら正史に現れる誤差を修正したら、或は本当の袁紹像が見えてくるのではないか。。。。

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 11:50:30 ID:huSzPGSJ0
それは正しいのですが、過大評価しようとするアホが後を絶たないんです

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 12:46:24 ID:bhyxiVyY0
漢末から三国にかけては史料が少なすぎて修正の術がないんだよな。
ただ史料を読むときに形容詞を無視するだけで大分見えるものが違ってくるよ。

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 00:09:25 ID:MXA4hUqm0
 

220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 06:27:07 ID:O31cThYt0
袁紹=高歓

221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 07:35:30 ID:fiZxDCCR0
199年
曹操が袁紹の南下を防ぐために黎陽に出陣。
河内、黎陽、延津を拠点に渡河の阻止を図り、臧霸に袁紹の後方を撹乱させる。
曹操が張繍の降伏や董承の造反の対応で黎陽から許〜官渡に移動。

200年
曹操が徐州の劉備を討伐。
その為に対袁紹の兵力が減り、于禁、楽進は袁紹との交戦を避けて延津から河内に撤退。
黎陽に袁紹が入城。
郭図、淳于瓊、顔良を派遣して白馬を包囲させる。
劉備を一蹴した曹操は延津で袁紹と対峙するふりをして、白馬に急行。
援軍の関羽、張遼が顔良を斬るも郭図、淳于瓊らに白馬を制圧され、為す術なく撤退。
延津でも追撃してきた文醜を返り討ちにするが、官渡までずるずると後退。
袁紹は陽武で郭図、淳于瓊と合流。この頃、沮授は罷免されその手勢は郭図に与えられる。
そのまま前進して砂丘を占領、官渡の曹操に対して包囲網を敷く。
曹操は派兵してそれを妨害するが失敗。
袁紹の猛攻が始まり、しかも兵糧がやばくなる。
並行して袁紹は汝南の劉辟、劉備を動かして、
許を衝かせようとするが曹仁が何とか防ぐ。
この頃、田豊は投獄される。

官渡で100日あまり対峙。
曹操の所領の人民は次々と袁紹に帰服していた。
降伏者があまりにも多く、袁紹は淳于瓊に命じて自国から兵糧を搬出させる。
烏巣に兵糧庫を設置。
袁紹が大軍でも兵站が揺るがないのに、曹操は寡兵にも関わらず兵糧不足に苦しんでいる。
曹操は顔良、文醜の二将を殺した以外、袁紹の軍隊に何らの痛撃を与えていないで連戦連敗。

許を強襲する進言を却下され、一族を処刑された許攸が袁紹に愛想を尽かして曹操に投降。
曹操は自ら兵五千を率いて烏巣を襲撃。
袁紹は報告を受けて曹洪が留守を守る官渡に張郃、高覧を攻撃させ、
騎兵を派遣して曹操を挟撃する。曹操絶体絶命。
しかし、「背兵の陣」で死力を尽くして戦う曹操に淳于瓊は捕殺され烏巣陥落。
そして張郃、高覧が寝返る。
今まで萎縮した反動か、狂的な勢いに乗った曹操軍は最後の力で陽武の本陣を攻撃。
あまりの急展開に袁紹の軍隊は一気に恐慌状態に陥り崩壊。
袁紹は僅かな側近を連れて本拠に逃げ帰る。

戦後、曹操は袁紹軍の捕虜数万を坑殺する。
また陽武で捕らえられた沮授は曹操に仕えるのを肯んぜず逃亡を図って殺された。
投獄されていた田豊は逢紀の讒言で袁紹に殺された。

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 07:45:47 ID:fiZxDCCR0
率直に言えば田豊、沮授は優秀なのは分かるが、結果論で持ち上げられすぎ。
というよりも郭図、淳于瓊、許攸が過小評価。
許攸の投降と烏巣陥落が無ければ袁紹の圧勝で終わってるだろ。
それがあっても、張郃、高覧を烏巣に向かわせ、郭図に官渡を攻撃させればまだ勝算はあった。
戦略云々よりも無神経な人事のミスが戦局を左右したと言える。

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 08:28:57 ID:U50XVH+10
田豊や沮授は冀州の名士で、地元に親類縁者が多い。
曹操が、冀州を本拠地にしたので地元の先賢として偶像化したんだろう。
東晋が孫呉を美化したのと同じ構図。

張コウ伝を見ると、袁紹がヘマやったように見えるが、烏巣に軽騎兵を派遣している。
その軽騎兵でさえ曹操軍の背後に到達できなかった。重装歩兵を送り出した訳ではない。
張コウの進言をちゃんと聞いて、意見を採用している訳。
重装歩兵と軽騎兵とを分けたんだから分散による戦力低下もないし、
袁紹の判断に間違いがあったとは思えない。

224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 08:59:56 ID:2OKIw4X90
軍事機密を知る高級士官の家族を戦場で処分するのはアホ

225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 14:11:19 ID:xehVCDaf0
>曹操の所領の人民は次々と袁紹に帰服していた。
両陣営から主君を見限って寝返り合戦になってたんじゃなかったっけ?
つまりどっちも人望を失ってた

226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 15:11:50 ID:L+WzKi5/0
>>223
>袁紹の判断に間違いがあったとは思えない。
郭図の官渡攻略案を退け、烏巣救援を提案した張コウに官渡攻略を任せたのが判断ミス。
張コウが官渡攻略を真面目にやるわけがない。
官渡陥としちゃったら、自分の献策の誤りが証明されちゃうんだから。

227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 15:48:31 ID:xehVCDaf0
かといって現場指揮官としての張コウは外せないし、知識人階層の
郭図に騎兵の指揮なんてできるわけない。他に袁紹軍で名の知られた
将はよりによって烏巣にいる淳于瓊、難しい局面だね。

228 :227:2007/10/06(土) 15:54:52 ID:xehVCDaf0
あれ?
もしかして、烏巣が落ちた時点で政治闘争に負けた張コウの寝返りが確定するんじゃね?
そうなるとなおさら袁紹の判断ミスが目立つな

229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 10:23:54 ID:UDZ62q+L0
なんで烏巣が落ちたら張コウが政治闘争に負けたことになるの?
よく分からないので説明して。


230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 11:52:23 ID:8+p4mrFA0
官渡を無理に落として補給がつながらなければそれで終わり。
両方とも飢えた時、寡兵でも自国で戦ってる曹操と敵地で大軍を養わなければならない袁紹では後者の方が相対的に不利。
そもそも張郃は弐臣の降将で外様。
袁紹政権の派閥争いなんて関係ないだろうが、それ故に先の見えた袁紹に仕える義理は無い。
あの時点での寝返りは曹操にとって最高の手土産になったしな。

231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 12:22:30 ID:JYZ7/E8g0
官渡を落としても烏巣の兵糧は戻らないと考えると最悪だな

232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 13:29:13 ID:UDZ62q+L0
>>230 張コウの郷里がどこであるかを忘れてるっしょ。

233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 20:56:10 ID:xtRRN2Oj0
河間郡です。

234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 00:34:56 ID:ppv7v1jv0
>>232
新宿2丁目

235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 01:09:12 ID:j8QsNE/Q0
で、仮に烏巣陥落と引き換えに曹操本陣を落とした場合
どういう展開になるの?

236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 01:26:05 ID:Dp2Od4/s0
>>235
とりあえず許まで進軍して献帝拉致
補給問題から本軍は帰還
曹操は逃げていたとしても献帝を失うので袁術のような末路をたどる

237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 12:03:59 ID:j8QsNE/Q0
>>236
兵糧を失った直後に更に進撃するのはいくらなんでも無茶苦茶じゃね?

238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 12:06:09 ID:dQjDaICMO
そもそも烏巣に全ての兵糧があったのか?

239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 12:15:11 ID:j8QsNE/Q0
>>238
兵糧が残り少ないので淳于瓊に輸送させたんだから、相当量があったと思う。
だから烏巣が落ちたからといっていきなりゼロになるってのもありえない。
ただ攻勢に出るためには物資が必要で、それをやられたんだから先へは進めなかったと思うよ。

240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 12:23:24 ID:dQjDaICMO
>>238
なるほど
烏巣陥落して張コウが裏切らなければ、撤退するんだろうね
ただ曹操も兵糧不足に悩まされていたようだし、汝南方面の不安は消えないし、追撃して大勝というシナリオにはならないで仕切り直しかな

曹操は献帝拉致の時の徐晃といいこの時の張コウといい、将の裏切りでかなり助かってるね
黄蓋に引っ掛かったのはそれまでの成功体験のせいかもな

241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 12:25:24 ID:dQjDaICMO
安価間違いスマヌ

242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/11(木) 00:14:29 ID:FRX9mOI80
結局 内部政争の悪いとこが一気にでちゃったんだな。

しかし袁紹はこういう派閥の政争をどう考えてたんだろうー

1.兵隊を持たない状態から一気に勢力伸張するために派閥争いによる
家臣内緊張すらも敢えて利用しそして結果短期間での勢力拡大に成功させた。
袁紹にすれば勢力拡大において戦略の一環として考えていた。
ここまでは彼のコンセプトどおりだった。 が勢力規模が一定を超えると
このモデルは難しくなることが想定外であった。

2.袁紹としては元来縁のない土地でどうにも彼らに依存する部分があり
それなりのところで折り合いを付けていた。勢力が拡大するにつれ
手にあまるようになってきた。 これはヤバイと沮授を削ってみたり
したが大事な決戦で派閥争いの負が最悪の形となった。

どっちだろ

243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/11(木) 00:47:51 ID:ZmK02eZZ0
>>242
基本2だと思う。
前漢のように中央政府が大規模な動員力を持たず、豪族が私兵や物資を抱え込む時代ではある程度はそういった政権運営が不可欠。
晋が空中分解したのもそこに大きな原因があるとも言えると思う。
言いようによっては、袁紹は中世的な政権運営の苦労を先取りして味わったとも言える・・・かも

244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/11(木) 23:28:23 ID:Z03SBR6x0
そういえば袁紹は保守的、曹操が革新的という話をよく見るけど、
それはむしろ逆だっていう意見もあるよね。
私は知識が少なすぎてどうとも判断付かない。

245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/12(金) 02:07:23 ID:MMVzox7FO
曹操の唯才も漢初に復古するということだからな
曹操は王莽に並ぶ復古主義者だよ

246 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/14(日) 19:18:45 ID:56z74mMB0
九州復古もあるね。
改革は復古の名目で行われるので復古を唱えたからといって保守的とは限らない。
明治維新なんかも王政復古なんて言ってたね。建武の新政もそうだし。

247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/16(火) 17:51:09 ID:D4D8PHDw0
>>244
袁紹は早すぎたから負けたと。
袁術はさらに時代を先取りしてたからさらに早く負けた、って何かの本に書いてたな。


248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 01:44:11 ID:d+Js+Cjd0
エンショウって何歳で身まかったんだっけ?

249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 19:47:15 ID:RFm0K+SE0
生年は不明だったんじゃなかったっけ?

250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/18(木) 09:14:34 ID:GZVUfLPO0
生年不明、没年202年。
曹操と同年代だとするなら50ちょっと前、
少し年上なら50を超える感じかな?

251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/18(木) 12:20:52 ID:XDRYR/NzO
経歴考えると曹操よりは年上だと思う

252 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/18(木) 13:05:04 ID:ctQGuGZqO
幽州の荒野を制した白馬将軍の力受けて見るがよい!

253 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 00:16:24 ID:lfOiP5p50
袁紹ってそういや、夏侯一族とか曹一族みたいな親族の連中が
あんま表に出てこないな。息子とか高幹とか近親者のみ。
袁一族に切れ者とかいなかったっけ?

254 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 00:26:08 ID:hZwHCzDM0
袁術

255 :253:2007/10/19(金) 00:29:48 ID:lfOiP5p50
来ると思ったわ

256 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 01:43:20 ID:BfoxopkM0
袁家の連中は殆ど袁術に従ってるからなあ。

袁術が嫡流だし、地盤の汝南近辺にいたのも袁術だし。

257 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 01:49:30 ID:T0KaZ3Ty0
袁術”様”と呼べ!

258 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 11:01:59 ID:lfOiP5p50
基盤になるような一族の補佐がない時点で負け始めたら
破綻するのは目に見えてたな。

259 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 19:12:39 ID:HfNuwWm70
まあ、袁術様と不仲になった時点でアウトだったな。
彼等が仲良くやっていれば、おそらくは、、、、、、

260 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 00:51:30 ID:7roEAqHc0
仲よかったら河北に行かないで
地元に居たんじゃないかな。

261 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 18:49:23 ID:r+rNpI8r0
\e

262 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/05(月) 15:10:10 ID:Wsr0ttZr0
袁紹が後10年長生きしていたら

263 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/05(月) 16:04:13 ID:PqgMQ4rw0
陣営は当時曹軍以上に人材が揃ってたのにねえ・・
袁紹を除いて一人強力なまとめ役がいれば・・


264 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/05(月) 18:36:24 ID:bD3ELO+30
そのソ授を排除してしまったのがほかならぬ袁紹自身だしなぁ。

265 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/05(月) 19:02:28 ID:+NqShLYh0
排除して然るべきじゃね?>沮授 ついでに田豊も。

266 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/05(月) 23:45:42 ID:DwJa+HNF0
いやいや
そもそも強力すぎる沮授ら冀州派の権力を弱めるために郭図らを取り立てて軍を三つに分けたりしてるんでそ?

267 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/06(火) 00:42:04 ID:AAQ9OQAu0
秀吉を思い出した。

268 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/06(火) 02:13:43 ID:bnA+hBG60
組織のために良かれと思ってやったことが裏目に出るのは良くあること。
沮授や田豊を排除したら今度は審配や逢紀といった新しい冀州派が台頭しただけというオチ。

269 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/06(火) 06:32:52 ID:h3QSJns20
>>268
逢紀は冀州豪族じゃなかったと思うよ。

結局袁紹が勝者になれなかったのは常に自身の権力≦周りの権力だったことだよね。
>>263の言うまとめ役ってのは本来トップである袁紹がまずなるべきだったのにそれができなかった

270 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/06(火) 07:15:12 ID:PBGricm20
>>269
それでも生きていれば袁紹本人が豪族間のまとめ役として君臨し続け、空中分解は防げたと思うし、曹操に再戦できたと思うよ。
次第に権力を土着勢力から奪って名士たちに与えつつあったんだし。
結局自身の寿命が最大の敗因だと思う。

271 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/06(火) 07:38:57 ID:NQDKQVhk0
でもよほど官渡の敗戦が響いたのか201年の黎陽の戦いではあっさり負けてる。
そのままでは息子たちより気骨を見せるだろうけど、袁氏の滅亡は免れないだろう。
袁紹が長生きしたとして、事態を打開するには対曹操に消極的な劉表から劉備に政権交代し、
南北から曹操を挟撃するくらいの荒業が必要。
この場合袁紹⇔曹操⇔劉備⇔孫権の四角関係になるが、どうなるだろうか。

本命:袁紹、曹操
対抗:劉表(劉備)、孫権
大穴:公孫氏、韓遂、馬騰、張魯、劉璋、士燮

272 :sage:2007/11/06(火) 14:35:51 ID:6jZ30rZY0
大穴 士燮に一票

273 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/06(火) 23:32:53 ID:1oZEHPdT0
「俺って光武帝の再来? ふふん」とか思ってたのか知らん

274 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 00:07:44 ID:8v0RX+kk0
>>271
淳于瓊と沮授が死亡し、田豊もぶっ殺しちゃったもんね。
許攸も裏切って軍上層部がごっそり抜けてるのに勝てると思うほうが間違い。
ましてや現場指揮官も戦死したり裏切ったりした奴が出てる始末。

つかこんな状況で田豊殺すわ袁紹存命時から内ゲバ起こすわ終わってる……

275 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 19:30:17 ID:1MUIEfUW0
袁氏の首脳部がその数人だけだと思ってるの?

276 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 22:10:54 ID:8v0RX+kk0
>>275
軍の最上位指揮官である沮授・郭図・淳于瓊のうち二名が死亡し、
前線指揮官である張コウ・高覧が離反、騎兵指揮官の文醜も戦死。
幕僚の許攸も離反し、生き残った兵の大半が曹操に降伏し処刑される。
加えて有力な幕僚であった田豊も戦後に粛清。

これを1年で回復するのはいくらなんでも無理があるし、この状況下で
いきなり権力闘争を始める幕僚団はマジ終わってるだろ。

277 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 22:18:19 ID:4fOnZi/D0
>>276
幕僚の権力闘争といっても冀州豪族系を外来の名士が乗っ取るという図式だから、袁紹さえ健在なら一段落したら袁紹の権力は強化されるかもしれない
(あくまでも権力で兵力・勢力の減少は補いようがないが)
袁紹死後に冀州系と外来名士に分裂したが曹操は滅ぼすまで何年もかかってるから、袁紹が健在でリーダーシップを発揮していれば少なくとも曹操といい勝負はできるでしょう

278 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 22:35:23 ID:+bMc6wWg0
>>276
田豊の粛清は妥当だと思う。
折角郭図や淳于瓊のおかげで君主権力取り戻したのに、
田豊復職させたら元の木阿弥だし。

青州人だった(可能性が高い)淳于瓊が存命なら、
袁紹死後も淳于瓊・郭図が袁譚を中心に勢力を盛り立てていけたんじゃないかな。

279 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 22:43:34 ID:8v0RX+kk0
>>277
そんな簡単なもんかなあ。外来名士も冀州に残ってる奴は残ってたわけだし、
袁譚を根拠地ではない青州に置いたのが致命傷だったと思う。

>>278
いや田豊は君主権力とは関係ないって、普通の名士だし。何より冀州出身でない。
沮授とは違って不仲から来る粛清でしょ。時期が最悪に悪かったわけだけど。

280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 22:52:50 ID:4fOnZi/D0
>>279
田豊、鉅鹿の人なら冀州出身でしょ
まあ異説があるけど

むしろまだ混乱していたであろう青州に後継者を送り込んで袁紹にとって自分の直轄領的な場所を作ろうとしたのではないかと思うなあ
冀州はその地の豪族兼名士である連中の力が強すぎるのだろうから
そうなると、致命傷はむしろ袁尚を冀州に置いていたことかもしれないな

281 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 22:55:28 ID:+bMc6wWg0
>>279
田豊って鉅鹿(或いは勃海)の出身でしょ? 両方冀州の郡だよ。

282 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 22:55:51 ID:8v0RX+kk0
やべマジだ、すまん。

283 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 23:30:42 ID:+bMc6wWg0
逢紀と審配が巧く立ち回った印象を受けるな。
逢紀は出身地不明だが、袁紹の賓客(郭図・辛評・淳于瓊らと同様)。
対して審配は冀州豪族(魏郡の人)。

審配は冀州豪族だったけど官渡で積極策に乗ったおかげで立場を守ることができたし、
逢紀は賓客だったけど郭図・辛評らとは同調せずに冀州で袁尚を支持した。
審配に至っては最期がカッコよかったおかげで演義でも立派な忠臣扱い。
傲慢・奢侈って自業自得な理由で袁譚から憎まれてたのにw

284 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 23:38:33 ID:E7hnyYrl0
袁譚の青州での政治政策はかなり酷い物だった事を考えると、
土地を豊かにして私腹を肥やしてた2者へのその指摘は、嫉妬から発する物だと思っちまうけどね。

285 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 23:42:40 ID:4fOnZi/D0
>>283
審配は袁紹とは終始うまくやってくことで外来種台頭の中でも地位を維持し、袁紹死後は冀州閥の実質トップとしてキングメーカーとなった。
官渡での冀州人排除は、審配にとっては冀州閥内部でのライバル排除でウマーだったんじゃなかろうか
袁氏をも利用して地位を作ったからには、地位を守るには袁氏にこだわるしかなかったんだな

286 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 23:49:07 ID:4fOnZi/D0
>>284
青州での袁譚って、実際はどうだったんだろうね
酷吏がことさらに悪く扱われるのと似た感じを受けるのは俺だけなんだろうけど・・・

一角を泰山諸将が陣取っていたり、支配体制がガタガタだったように見える割には袁譚はそれなりに青州をまとめ上げたようにも思えるんだよな
言いすぎかもしれんけどな

287 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 23:52:37 ID:+bMc6wWg0
曹操が後に冀州に本拠を置いて冀州閥を積極的に登用したから、
対立していた青州閥及び袁譚が悪し様に書かれているのかも。

288 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 23:54:49 ID:4fOnZi/D0
>>287
プラス、辛ピみたいに袁譚を裏切った奴の方が魏で有力者になってるから
辛ピ完全に二股膏薬だよね

289 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/08(木) 00:02:25 ID:+bMc6wWg0
>>288
袁譚が信任した人間も散々な言われようだからな。
華彦・孔順が「邪悪な小人」で、王脩が「ただ官職に就いているだけ」とかw

実際のところ、袁譚が官渡大戦に参加してることから考えても、
袁譚は袁紹に可愛がられてたんじゃないかと思う。

290 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/08(木) 12:33:41 ID:rRJk3jrX0
後継者を明確にしてないってだけで、ここまで無残になるもんなんだな。

291 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/08(木) 12:39:42 ID:L3Tscc3SO
袁紹的には明確だったんだけど袁尚擁立派が捏造して横紙破りしたんじゃまいか

292 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/08(木) 13:00:02 ID:/hMCAnxo0
逢紀・審配は
「後継が袁譚になると困るから遺言を偽造して袁尚を後継にした」わけだから、
彼等が余計なことしなかったら袁譚が後継だったのかな……とは思うな。

293 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/08(木) 13:16:56 ID:rRJk3jrX0
袁尚を冀州においていたから担がれた。でも誰かしら置かないと抑えられない。
沮授が袁譚の青州行きに反対したのが、ある意味では当たってたのか。

294 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/08(木) 14:49:42 ID:kbq7u38j0
袁紹を美化するために粛清を正当化する袁紹信者がキモいw

粛清がもたらした結果を見れば、権力掌握の方法論としても最悪のシナリオだったということは定説

295 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/08(木) 15:45:25 ID:mj0vuBl00
あーあ、”信者”とか言っちゃったw
せっかく殺伐としたいい流れだったのに。

296 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/08(木) 16:37:53 ID:3lUvz8530
そもそも戦陣の最中で一致団結せずに、内訌しているというのが、袁氏勢力の団結力のなさを意味する。
それが必ずしも袁紹の指導力の無さを示すとは思えないけど。

まあ猟犬を煮るにしても早すぎるわな。
袁紹の問題は判断力の欠如とその間違った方向に邁進する決断力に尽きるだろう。
光武帝をロールモデルとして意識してた節があるけど、中身がまるで伴っていない。

297 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/08(木) 16:47:32 ID:/hMCAnxo0
>>296
むしろ実権を握っている冀州閥を追い落とすために戦を利用したのかも。
赤壁における孫権みたいに。

まあ、郭図の官渡速攻案を冀州派の張コウに実行させてるあたり、
やはり袁紹の決断は要所要所で誤ってたわけだが。

298 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/08(木) 20:10:24 ID:rRJk3jrX0
麹義に沮授に田豊に、官渡以前に実績があった武官は失脚してるからね。
家臣が裏切る下地を作りすぎてる

299 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/09(金) 01:21:51 ID:SIHljiDh0
内訌が起こって一方が潰されると結果的に中央の権力が強化されるんだけどね。
袁紹の優劣じゃなくて、その事件が提起した意味を読みとらなきゃ駄目。


300 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/09(金) 03:06:36 ID:7jgt9iDP0
派閥以外の要素で語れよwwwww

301 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/09(金) 06:40:31 ID:jINbGphL0
ソースが無いといわざるを得ない>派閥争い以外の要素

302 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/09(金) 16:25:34 ID:sbC+4GPJ0
>>299
一方どころか皆バラバラなんだけど。
何時も名前が挙がる面々はおろか、一族の袁煕や高幹が動いたのだって自分の尻に火が付いてからだし

303 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/09(金) 17:16:49 ID:SIHljiDh0
>>302
いや、>>294>>296が内訌が起こったこと自体を否定的に評価してるんでね。
袁氏が中央集権化に成功したとは俺言ってないよ。


304 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/09(金) 19:08:50 ID:sbC+4GPJ0
>>303
まあ家臣団が対立したり分裂したりするのはどこでも当たり前かあ、
袁紹の場合は時と場合と面子が悪すぎるのがなあ。

305 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 00:38:24 ID:yA+sirtf0
いや、袁紹の場合は結果がまずかったんでぼろくそに言われてるだけでしょ。
もしあれで部下の意思統一ができてれば、逆に大絶賛されてたんじゃないかと思うよ。
曹操だって同じようなことはしてるけど勝者だから美化される。

306 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 00:49:49 ID:Zxvx+yjP0
つっても負けた以上は言われて当然。
沮授と郭図を比較して、後者のほうが優秀だとは流石にいえないだろ?

307 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 01:04:49 ID:fYM0gySf0
>>306
言えるだろ。
自らは何らミスを犯すことなく曹操を後一歩まで追い詰めた郭図と、
土俵にすら上がれなかった沮授。
官渡に限定して言えば郭図のほうが優秀だと思うが。

308 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 01:13:04 ID:Zxvx+yjP0
>>307
すっごい予想通りの返答。
顔良や文醜の戦死、烏巣の防備の薄さは全部袁紹の責任で、
他方官渡戦の優勢は郭図の手柄ですかそうですか。

あんま過大評価するのはどうかと思うよ。烏巣での後手後手の対応は
確かだし、それ自体沮授が事前に指摘していたものだし。
何より困ったことにその後何も軍功ないし(官渡後は軍の最上位にいたであろうにも関わらず)

309 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 01:39:48 ID:yA+sirtf0
>>306
言われて当然ではないよ。というか、言うこと自体に意味がないと思う。
遠い時代の異国のできごとなんで袁紹の資質をうんぬんするのは無意味だよ。
それよりも>>299で言ったけど、その事件の提起する意味の方が重要。

310 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 01:57:29 ID:Zxvx+yjP0
>>309
だがそれでも負けたのは袁紹なんだよ。
曹操陣営も瓦解しかかっていたのは裏切りの多発から明らかだが、
それでも勝ったのは曹操なんだよ。
両者を比較すれば曹操が上に行き、袁紹が下に付く。

無意味かもしれんが、前提条件として考えておくべきだと思うよ。

311 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 03:10:00 ID:fYM0gySf0
>>308
顔良・文醜の戦死はどうでもいい話。
袁紹軍は要所要所で勝利を収め、曹操を官渡まで追い詰めた。
その最中で顔良・文醜が死んだだけで、袁紹軍が負けてたわけではない。

烏巣に関しては、軍権を分割した淳于瓊が守ってたんだから防備薄くはないでしょ。

俺は官渡大戦に関して「郭図>沮授」を主張しただけで、郭図を過大評価してるつもりはない。
むしろ、貴方が沮授を過大評価しているように見える。

312 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 08:23:36 ID:yA+sirtf0
>>310
どっちが上で下かなんてどうでもいいよ。
それに官渡の結末はとても必然的なものとは言えないんだから何かの前提にもならないよ。

313 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 10:41:06 ID:k5B6/l0Q0
>その最中で顔良・文醜が死んだだけ

これは無理すぎるだろw

白馬では郭図も敗軍の将に名が上げられてるしな
敗軍と書いたのは曹操の軍が余りも少なすぎて撃破目的でなく救出目的であること。
んで曹操はこれを達成して顔良を斬って包囲を破ってるんだから局地的目的を達成したのは曹操。
それに顔良郭図は2ヶ月かけても白馬を落としてないんだぜ・・・

しかも延津では5000〜6000の騎兵を出して負けてる
5000の騎兵といえば大戦力だ。
それが600の騎兵に負けて曹操を取り逃がしている。
一気に頭を落とす機会を逃したどころか10分の1の敵に負けたんだから士気も下がっただろうな。
ようは渡河地点を奪ったが、守将も兵も撃破するどころかマンマと撤退成功させてるわけ。



>袁紹軍は要所要所で勝利を収め

顔良vs曹操    勝者:曹操
文醜vs曹操    勝者:曹操
袁紹vs曹操    勝者:袁紹←官渡まで撤退させただけで戦局は何も変わってない
劉辟劉備vs曹仁 勝者:曹仁
韓荀vs徐晃    勝者:徐晃
淳于瓊vs曹操  勝者:曹操
張コウvs曹洪    勝者:曹洪
袁紹vs曹操    勝者:曹操

どうみても「要所」で勝ってるのは曹操です。
「要所要所で勝利」を収めてる袁紹が負けた説明を聞こうかw?



314 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 10:58:24 ID:c5m3YWiJ0
局地戦ではしばしば勝利してるけど曹操は次々と要地を放棄し拠点から撤退して官渡まで撤退してるじゃん
エン州は程イクが少ない兵力で袁紹をスルーさせることしかできず、豫州にも袁紹に与する勢力がはびこった
最大の要所官渡やそのきっかけの烏巣で袁紹が負けたのは事実だけど、それまでは曹操が圧倒されていたようにしか思えないけど

顔・文の敗死は白馬攻略の中の出来事だけど、白馬攻略には成功してる
官渡まで撤退させた「だけ」って、その官渡が抜かれればオシマイなんだから、普通は曹操が追い込まれたって表現しないか?
まあ確かに曹操劣勢という戦局に変わりはなかったとは言えるけどさ

313は魏書の公式見解そのままだけど、例えれば「曹操の荊州侵攻は全て劉備優位の元に進んだ」、と言うようなもので、結果勝ったからといってそれまでも全て勝者側が正しかったと後付けで何もかも説明するようなもの

315 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 11:13:56 ID:fYM0gySf0
>>313
そもそも、顔良や文醜をメインに捉えてるから勝者:曹操なんて言えるんだよ。
例えば劉備は益州を奪う戦闘においてホウ統を失ったけど、益州は奪取しただろ?
これを負けとは言わない。

白馬戦は 郭図・淳于瓊・顔良vs関羽・張遼。
顔良は討たれたものの、郭図・淳于瓊は関羽・張遼を追い返し白馬を奪取。
関羽・張遼が派遣された目的が「白馬救援」なら、奪取されたので曹操の負け。

でもって陽動のために延津から渡河していた曹操は、
白馬が奪われたので南岸に引き返さなくてはならなくなった。孤立しちゃうし。
追撃の文醜を撃破したから「討たれなくて済んだ」けど、
結局官渡まで追い詰められているんだから曹操は勝ったとは言えない。逃げ切っただけ。
文醜との戦闘レベルなら勝利を収めたと言えるけど、袁紹軍との戦略レベルなら負け。

官渡に追い詰められてから曹操はゲリラ戦を行なおうとするんだけど、これも袁紹軍に潰される。
袁紹が劉辟・劉備を派遣するがコレは防いだ。まあ、引分か。

どうみても曹操軍が終始追い詰められている。

316 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 11:39:52 ID:fYM0gySf0
ちゅうか、「要所」って場所の話をしているのに、
顔良vs曹操って将の名前で勝敗を計ってるのがおかしい。

白馬 関羽が顔良を斬るが、結局郭図・淳于瓊を撃破できず城を放棄→袁紹軍の勝ち
延津 荀攸が文醜を討つが、南岸への撤退を余儀なくされる→袁紹軍の勝ち
陽武 曹操、反撃に出るが効果なく、官渡に引き篭もる→袁紹軍の勝ち
許昌 劉備・劉辟が許都を襲撃するも、曹仁がよく防ぐ→曹操軍の勝ち

許攸が降って来る前まではざっとこんなカンジ。
許昌の勝利は事態の好転には繋がってないので、袁紹軍の優勢であったことがわかる。

>>313は曹操が好きみたいだが、
曹操軍は勝つべくして勝ったんじゃなくて、この圧倒的不利な状況から逆転勝利した。
……そう考えたほうがカッコよくね?

317 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 11:51:47 ID:J0rdS1g/0
空気読まずにレス。
張コウ、高覧が裏切って、大混乱した将兵が降伏し、于禁に皆殺されたのが転機だと思うぜ。

318 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 11:59:23 ID:fYM0gySf0
>>317
張コウ・高覧の寝返りは、どういう思惑があったのか気になるところだよな。

郭図に讒言された話は張コウ伝にしか乗ってなくて、
武帝紀や袁紹伝なんかでは自発的に裏切り、それが袁紹軍崩壊に繋がったと書かれている。
伝は本人を美化する記述が多いので、多分「自発的に裏切った」が真相だとは思うんだが……。

319 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 12:35:44 ID:k5B6/l0Q0
>>314


>白馬攻略に成功してる

おーい、2月に白馬を攻めて曹操が救援に向かったのが4月だ。
つまり曹操が来た時点で落ちてない訳。
そして顔良が斬られた時点で一度白馬の包囲は解かれてる。
延津に一度陽動してる事実を考えるに曹操はハナから白馬を死守しようとしたとは思えないけど?
どうみても支城の守将兵を見捨てない(士気を下げない・降伏させない)ためのレスキュー部隊。

つまり袁紹の視点からすると結局渡河地点を得るには得たが、正攻法では落とせず勇将を失った。
曹操からすると渡河地点は失ったが元から死守するつもりはなかったし(2ヶ月も放置してる)
救出自体には成功してる(オマケに有力部将を討ち取って)。

贔屓目に見ても痛み分けのイーブンか、やや曹操に軍配が上がると思うんだが。

>官渡まで撤退してるじゃん

同意。曹操は成す術なかったみたいね。>313でもそう書いてる

>豫州にも袁紹に与する勢力がはびこった

青州にもゾウハが蔓延ったからイーブンじゃないの?

>その官渡が抜かれればオシマイなんだから
抜けなかったもんね。


320 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 12:47:30 ID:c5m3YWiJ0
>>319
正直、最初から支える気がなかったのなら、曹操が白馬に行く必要があったんだろうか
まずそこが疑問
白馬で南下をとどめることができればこれ以上攻められないんだから、本気で防衛に出たんじゃないんだろうか

>青州にもゾウハが蔓延ったからイーブンじゃないの?
豫州は曹操の本拠、青州とは比較できないでしょう

>抜けなかったもんね。
それは結果論ですがな


321 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 12:48:40 ID:k5B6/l0Q0
>>315

>白馬戦は 郭図・淳于瓊・顔良vs関羽・張遼。
>顔良は討たれたものの、郭図・淳于瓊は関羽・張遼を追い返し白馬を奪取。
>関羽・張遼が派遣された目的が「白馬救援」なら、奪取されたので曹操の負け。

>>319参照

>でもって陽動のために延津から渡河していた曹操は、
>白馬が奪われたので南岸に引き返さなくてはならなくなった。孤立しちゃうし。
>追撃の文醜を撃破したから「討たれなくて済んだ」けど、
>結局官渡まで追い詰められているんだから曹操は勝ったとは言えない。逃げ切っただけ。

モノは言い様。結局袁紹は少数軍勢の曹操を取り逃がしたどころか、追い銭まで渡してるw
「討たれなくて済んだ」って貴方、騎兵5000が負けるって大敗でしょ。素直に認めなさいよ。

>文醜との戦闘レベルなら勝利を収めたと言えるけど、袁紹軍との戦略レベルなら負け。

どこが戦略レベルとするのかよく判らないが、袁紹の戦略レベルが「渡河地点を確保して南下する」というのは戦術レベルじゃないかい?
戦略レベルというのは許都を落とすという事でしょ?
戦術レベルでは袁紹は渡河地点を確保して黄河南に軍を進めて兵站を確保できた。
しかし、官渡城を落とせぬまま戦略目的を果たせず、挙句に大敗して逃げ帰った。

貴方が顔良文醜を些細なことにしたいのはわかるけど、渡河して官渡まで進めたということも戦の目的からすると些細なことだよ。

322 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 12:51:59 ID:k5B6/l0Q0
>>320

本気で白馬で南下を止めるんならもっと兵置いてるし救援も早いでしょ。
曹操は2ヶ月放置し、いざ出陣となっても漁る限り比較的少ない兵で行ってる。

白馬は絶対防衛ラインではなかった。黄河を渡らせるのは想定の範囲内であったことが推定される。

323 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 12:57:28 ID:c5m3YWiJ0
>>322
それなら曹操みずから行かずに放棄しちゃえば良かったのに

まあそれはいいとして、
>黄河を渡らせるのは想定の範囲内であったことが推定される
というのを裏付ける当事者たちの発言がないとな
想定の範囲内だと曹操や参謀が言ってたら、「思ってた通りだったぜー!」とばかりに魏書に大書されてるとこでしょうなJK

324 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 13:06:28 ID:fYM0gySf0
>>319>>322
白馬をガチで死守しようとしてないなら、それこそ駄目を打ってる気がするんだが。
白馬城を死守して袁紹軍の渡河を防ぐべき場面だろ。
守るべき城を放棄してるのに「救出成功」とはこれ如何に。
劉延や兵士をつれて帰るだけが目的なら、明らかな判断ミス。

>>321
>素直に認めなさいよ。
文醜個人がとんでもない負け方をしたことは認めてるっての。
でも、曹操が文醜を討ったことにどれだけの価値があるのか。

>戦術レベルじゃないかい?
そうかも。

>挙句に大敗して逃げ帰った。
今は「官渡包囲」に至るまでの袁紹の優勢を論じてるだけで、
「大敗して逃げ帰った」ってまではまだ至ってないです。そう焦らない。

325 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 13:12:24 ID:fYM0gySf0
オマケ
>渡河して官渡まで進めたということも戦の目的からすると些細なことだよ。
顔良文醜の討死よりはよっぽど大きなことだけどね。
不等号は一箇所にしか使えないわけじゃないよ。
 顔・文の討死<官渡包囲<大戦の勝敗
こんな使い方だってできるんだから。

326 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 13:24:45 ID:fYM0gySf0
国語の問題にするとわかりやすいかな。

「曹操軍は顔良・文醜を討ちました」でも「袁紹軍は曹操を官渡まで追い詰めました」
=顔文討死<官渡包囲

「袁紹軍は曹操軍を官渡まで追い詰めました」でも「曹操軍は官渡大戦に勝ちました」
=官渡包囲<大戦決着

こんな。

327 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 13:36:39 ID:k5B6/l0Q0
>>324
放棄してるけど兵は回収してるでしょ。
曹操は支城を見捨てないということを周知させただけで効果山盛りだし。
あっさり見捨てたら、その後袁紹に囲まれたら降伏する城が出てくるじゃん。
公孫サンの失敗をよく見てるじゃない?

顔文がどれだけの価値って・・・袁紹が別働隊にその後消極的になったのを見ると効果はあったようだが?
何度もクドイように言うが、騎兵5000がその10分の1に敗れるということは敵の士気をボカーンと上げちゃうの。
逆にいうけど曹操を絶体絶命まで追い詰めて取り逃がした意味を貴方は理解してないようだな。

さっきからだけど袁紹の優勢については同意してるでしょ。
ただ、あなたがフリーハンドで袁紹の絶対優位を述べてるのに対し、
私は曹操の効果的な反撃を書いてるの。
そして要所では曹操は失敗してない。




328 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 13:45:43 ID:c5m3YWiJ0
>>327
そうだね、官渡に至るまでの曹操は劣勢な中でも明らかな失着は無く、良手も少なくなかった
文醜を討ったことも撤退の連続という士気が下がる中で士気をすこしは回復しただろうね

ただ、白馬を見捨てなくても豫州やエン州では袁紹に与した城や豪族が多数あったようだし、「効果山盛り」は言いすぎかな。
そもそも最初から城を放棄してしまってれば被害なく撤退できたんじゃないかと思うなあ

あと、
>想定の範囲内
説についてソースよろ


329 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 13:49:31 ID:k5B6/l0Q0
ああ、やっと理解した。
ID:fYM0gySf0は黄河がすげー川幅広い難所だと思ってるのかな?
延津と白馬津を奪取したから(被害が出たとはいえ)作戦自体は成功だから曹操の負け、と。

残念だけど、兵に皮袋(ウキワw)を与えて渡らせている事実からして、長江のように対外までkm単位の難所ではないのね。
問題ではあるだろうけど、渡河そのものは大した問題じゃないの(確かに大規模渡河中に叩かれたら一大事、だから先遣隊で渡河先を確保しようとした)。
どうやら江陵や夏口みたいな軍港城塞を奪取したと思ってるらしいけど、違うから。



330 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 13:58:27 ID:c5m3YWiJ0
>>329
えええええええ

まあ兵は浮き輪で渡れるとして、物資の輸送は?
黄河は「津」という渡し場がないと兵にしろ物資にしろ大量輸送がままならないものだと思ってた
その意味で、延津と白馬津を奪うことは黄河の南側に侵攻する袁紹にとっては荊州における江陵以上の重要拠点だとばかり
(もちろん曹操にとっても、津を取らせなければ侵攻されないんだから超重要なはず。「想定の範囲内」なら別だが)

ああ、やっと理解した。
ID:k5B6/l0Q0は黄河はどこからでも自由に行き来できる浅瀬だと思っry

331 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 14:12:11 ID:fYM0gySf0
>>327
白馬制圧後に袁紹に与した河南勢力がいたところ見ると、
「支城を見捨てないデモンストレーション」は大失敗だね。

士気がボカーンと上がって、延津城を維持できたらカッコよかったのに……。
結局大勢に影響を与えるほどの大きな戦闘ではなかったでしょ?
むしろ君主が絶体絶命まで追い詰められるって事態をまず避けなきゃ。

曹操軍が要所で被害を最小限に抑えているのは認める。そこそこ良い攻撃を繰り出してたのも。
でも、負けてるんだよ。あれを「要所で勝ってる」とは言わない。

332 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 14:16:31 ID:k5B6/l0Q0
>>330

確かに物資の補給は津を取らないと無理だね。
でも江陵みたいな長江沿岸の城とは重要度は月とすっぽんくらい違うよ。黄河には水軍がないしね。


で、あなたはその後を考えたことある?
袁紹にとっては継続的な補給の拠点だけど、曹操にしたら大した価値はない。
何故なら大規模渡河をさせないで膠着したとして、四方に敵がいる曹操と南下するだけの袁紹どっちが有利?
曹操は袁紹を渡河させずに北岸に貼り付け、戦線を膠着したとしても全然メリットがない。
メリットが無いどころか、沮授が言う戦略を実行させてしまうだけ。

曹操からしたら渡河させて自領に踏み込んでもらうほうが有利なんじゃない?



333 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 14:19:59 ID:c5m3YWiJ0
>>332
実際には大規模渡河させた上で他方(豫・エン州)からも攻められてたけどね、曹操
それなら大規模渡河させないでおいた方が良かったんじゃない?

あとソースよろ

334 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 14:22:15 ID:k5B6/l0Q0
だからさっきから、いってるじゃん
最初から渡河させないつもりで死守するならもっと兵置いてるって。

曹操が袁紹に事実上の宣戦布告したの何時だとおもってるの?

335 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 14:31:30 ID:c5m3YWiJ0
>>334
白馬戦の前年、袁紹の官位を否定しているあたりかね
どうせ勝てそうにないからと初めから放棄するための時間も、兵力を増強するための時間もありそうな気がするけどね
まあ兵力自体がそうなかったということだろうけど、それならどうして分不相応な守備をした上で救援しなければならなかったのかということになる

336 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 14:53:44 ID:yA+sirtf0
なんかヒートアップしてるね。

337 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 14:55:03 ID:fYM0gySf0
袁紹に渡河させるのは想定の範囲内という前提がまずおかしい。

白馬戦の前の話になるが、
精鋭を率いた臧覇を青州に派遣し、曹操自身は黎陽で袁紹と対峙した。
黎陽ってのは黄河北岸に位置する。つまり、当時曹操は北岸を占領していたということ。
(だから河内を陥とすことができたし、于禁に延津を守らせることもできた)
臧覇に青州を牽制させ、袁紹軍の渡河を防いでいる(199年)。

でも、翌年(200年)劉備・董承の謀反やらがあったので曹操は引き上げ。
楽進を派遣し、于禁・楽進が北岸を守るものの、
彼等は延津城を放棄し南西に向って袁紹軍の陣を攻撃しながら逃走。
河内軍に合流している。

袁紹の白馬津攻撃はここから繋がったものだ。
「袁紹に渡河させるのは想定の範囲内」であったら、
何のために臧覇に牽制をさせたのか。何のために楽進を派遣したのか。

338 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 14:56:58 ID:fYM0gySf0
あ、ちょっと違うな。于禁と楽進は官渡に帰還してるんだ。

339 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 15:17:07 ID:k5B6/l0Q0
>>337

「占領」していたもなにも、射犬近辺はもともと曹操の物だが・・・
それが袁紹に寝返った(2月)ので取り返し(5月)、黎陽に報復(8月)しにいったんじゃない?
帰還したのが9月。

白馬攻撃は翌2月だから、継続的な戦闘なのか?

ゾウハは青州だから官渡方面とは関係ないし。


340 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 15:19:57 ID:yA+sirtf0
袁紹軍5000人が曹操軍500人に負けたって認識には問題がなくもないね。
曹操軍の斥候が報告してるように袁紹軍の先鋒は500騎程度。文醜はその隊長。
残りの4500人(以上)はその後ろを縦並びで行軍。「前後して」というのはそういう意味。
曹操が輜重隊を餌にして先頭500人と後続の連絡を混乱させる。
(輜重隊にかぶりついたのは先頭ではなく後続部隊)
曹操軍が600騎に突撃させてほぼ同数の文醜隊を撃破。文醜が戦死。
ただし後続の4500人は無傷。曹操軍600騎もどれだけ損害を抑えたか不明。
袁紹軍の侵攻を食いとめることはできず。
曹操・荀攸が文醜を後続と切りはなした手腕は高く評価できるけど、
トータルで見れば、撤退途中の衝突で追撃包囲側に若干の損失がでた程度だね。

何百人を破ったとか誰を斬ったとかいう記述しか見ないで
戦況全体をつかまないと、大本営発表に足元救われちゃうよ。
(10機落とされて拠点を失ったの隠して、3機を撃墜する大勝利とか言っちゃうんだから)

341 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 15:50:10 ID:k5B6/l0Q0
>>340
私の視点が違うだけかもしれないけど
このスレの殆どの人が白馬・延を確保したという「大本営発表」を重視している気がするんだよね。
でも曹操は兵を失ってないし将も失ってない。(むしろ失ったとあるのは黄河戦線撤退後)
寡兵を守備として置いといて、どうみても「死守」するような様子もない。
ただサッと救出してサッと撤退。

そもそも黎陽攻撃後に兵を纏めたのは官渡。
どうしても渡らせたくないなら自分が渡河した延津と、黎陽の対岸の白馬津に大防衛戦線を築くはずだがどの記述にもそういう節がない。

199年の2月に射犬の寝返り事件が起きて、4月に袁紹の官位剥奪が起こってる。
つまりは1年の準備時間があったにも関わらず、曹操が黄河両岸でしたことといえば、意味不明な黎陽攻撃だけ。
黎陽撤退後こそ守りを固めないといけないのに、何故かそれは津ではなく、黄河から離れた官渡。

こういう状況証拠からすると、津を得たというのは戦術上の利ではあったが、曹操からすると折込済みであったように見えるんだ・・・


勿論、予め官渡で迎撃予定というのは出来すぎて虫がいい話。どんだけ曹操好きでも、そう思う馬鹿はいないだろうし、
史書にも神懸かったナントカとか書かれてるでしょw
実際は酸棗〜陽武〜官渡のどこかで反撃しようと思ったら、袁紹が強すぎて結局官渡まで押し込まれ、そこで膠着したんだと思う。




342 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 15:53:45 ID:c5m3YWiJ0
>>339
ちょっとそれは揚げ足取りがひどくないかな

臧覇は337自身が「牽制」と言ってるんだし、射犬を占領していたのも事実なんだし言葉尻を捕らえて難癖つけてるだけじゃないかな、それは

343 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 16:03:25 ID:fYM0gySf0
>>339
青州刺史・袁譚が官渡敗北直後の袁紹と行動を共にしていたことから、
袁譚が官渡に参戦していたことがわかる。
淳于瓊も姓から青州人である可能性が高い。

青州から官渡へ物資や兵の提供も行なっていたと考えれば、
臧覇の青州への牽制はそんなに関係ない話でもない。
(渡河拠点を巡る防衛線には直接参加してこないが、牽制の役割は果たすだろう)

344 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 16:41:44 ID:yA+sirtf0
>>341
最初から白馬を放棄するつもりなら郡都でもない城に劉延入れたりする必要ないし、
文醜を迎撃したりしないでさっさと官渡へ向った方がいい。
(あ、あと文醜を攻撃したのが600騎ってだけで曹操本隊はもっと大勢いたからね)

おそらく曹操は199年の段階でかなりの攻勢を考えていて、
延津に于禁、白馬(黎陽津)に劉延を入れ、河内、青州とともに一斉に河北に侵攻する構えだった。
しかし劉備が徐州を挙げて反乱したため、曹操みずからが鎮圧に急行、
その隙を突いて袁紹軍が南下したため、ほとんど防備がく後手に回ったんだと思う。
袁紹と劉備が東西で呼応して曹操を翻弄したわけ。

345 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 16:52:50 ID:c5m3YWiJ0
>>344
俺は劉備を先に討ったのは本当に英断だったのかな、と思うことがあるなあ
まあ、袁紹南下が迫るからこそ徐州放置して二方向から攻められる状況を避ける方が正解ではあったのかなあ

ただ、劉備が反旗を翻したことで曹操が建安4年の宣戦布告時点で思い描いてたであろう戦略は全部水の泡になって、
しかも劉備を優先したことで袁紹の南下に対し対策がどれも後手後手になったのは間違いないと思う
白馬に兵を置いたりしてたのは劉備反乱前の戦略だったんだろうな、君の言うとおり
徐州平定してからその戦略を採ろうとしたけど軌道修正を余儀なくされたのが白馬の戦い以降の流れか

346 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 17:16:24 ID:yA+sirtf0
>>345
この板で臧覇はあまり評価されてないみたいだが、
実際には、曹操と対等同盟を結んだ群雄の一角と見るべきで、
それだけに動員力もあるが、必ずしも曹操の自由になる兵力ではないのね。
(曹丕が魏王のとき曹真や曹休と同等の方面軍司令をやってる、それくらい格が高い)
官渡の戦いのとき、袁譚が青州を空けているのに特に成果は上げてない。
臧覇伝には何度も攻め込んだと書いてるけど、袁紹伝、王脩伝には記録がないんだ。
臧覇が無能というよりも、本当は中立的な立場を守っていたんじゃないかと思ってる。

その臧覇は劉備と面識があり、泰山諸将の一人昌キが劉備に呼応してる。
たぶん曹操は臧覇が去就を決める前に劉備の出鼻を挫いておきたかったんじゃないかな。

347 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 18:18:32 ID:k5B6/l0Q0
>>344
いい推察だけどこれが欠けてる

>おそらく曹操は199年の段階でかなりの攻勢を考えていて

張繍が降伏したのが11月。年の終わり。
劉備が謀反したのが恐らく6〜8月。

攻勢を考えていたなら後方の安全を確実にするはずだけど(これは袁紹没後ですら顕著)、この状態だと安全もクソもない。
大体にして長期決戦を否とする曹操にすれば、何時終わるか判らない攻勢に出るのははなはな動機が乏しい。



黎陽攻撃が攻勢の序幕だったとするなら、動かした軍勢や予定の後詰めがそれに足るはずなのだけど、どうみても小勢の域を超えてないんだな。
私は白馬と延の価値が曹操にとってはさほど重要ではなかったというと、やれソースだせとかなんとか説明に苦労したけど、
今度はそちらが199年に曹操が攻勢をかけようとした説明をお願いしたい。

348 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 18:25:35 ID:zyZFoSw60
おまえら、今日も元気だなっ。

349 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 18:55:05 ID:fYM0gySf0
>>347
やれソースだせとかなんとかって……。
さっきから思ってたが、なんか無駄に挑発的すぎる気がする。

350 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 19:38:29 ID:k5B6/l0Q0
あなたとは別人だけど
ID:c5m3YWiJ0
この人がソース、ソースとさっきから五月蠅いんだけど。

まさか人の説(津非重要説)を聞くときはソースだけが証拠認定されて
曹操199年説にはソースから推測発展させた状況証拠が認定されるというダブルスタンダードはないよね?



351 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 19:51:55 ID:fYM0gySf0
>>350
議論をする以上はソースを提出する必要はあるんじゃないの。
貴方も。ID:c5m3YWiJ0氏も。
でも煽りや挑発は要らないじゃん。

ちゅうか貴方、曹操199年説にソース求めてるけど、
津非重要説のソース出してないよね。
そんな状況でダブルスタンダードとか言われても……。

352 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 20:01:30 ID:k5B6/l0Q0
>>351
それがアイロニーと受け取ってくれないのかね?
他説にソースだけを証拠認定して、自説にはソースに基づいた推測までを証拠認定してる。
これだとアンフェアだから、どっちかに基準を統一してくれない?

史書の流れ、節々からそう推測して述べたら「ソースは?」と一蹴された私が曹操199年侵攻説のソースを求めたらいけないのかな?



353 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 20:35:07 ID:c5m3YWiJ0
>>346
なるほど、臧覇たち泰山諸将にまで反乱が飛び火するのを恐れたと。
彼らが素直に劉備を牽制してくれるとは計算できないもんな

>>347
この年建安4年は呂布を破って徐州を平定し、続いて袁術も死んだ後。
一方で袁紹はこの年に公孫サンを破っている。
どちらもひとまずは後顧の憂いがなくなった状態と言ってよく、次がこの両者の対決であることは明らか。
すでに程イクとの挿話が示すように袁紹との対決が確定事項となっていた曹操からすれば、この年に行われた冀州牧位の剥奪は実質的な宣戦布告だろうし、むしろ袁紹が本腰を入れる前にと曹操が積極的に河北側に進出しているように見える。
劉備の離反は曹操とっては寝耳に水の事態で、それまでは袁紹に集中しうる状況なんだから攻勢に出ても不思議じゃないわけだ。
その攻勢の出鼻が挫かれ計画が大幅に狂った原因が劉備の離反ということだ。

失礼だが官渡まで撤退したのが「想定の範囲内」と曹操たちが考えていたという史料上の根拠はまだ示してもらってないと思う。
出さなくてもいいし無いなら無いでもいいけど。貴方の説の説得力がなくなるだけのことだし。

俺は>>323で「想定の範囲内なら曹操陣営の伝で大きな功績として書かれてそうだけど無いの?」と聞いているので、無いなら無いでその理由を説明できればそれでいいよ。
状況証拠を否定したりソースだけを絶対視したつもりはないけど。
自分はその件のソースを出しもしなければその理由も説明もしないのに相手には求めてるのってそれこそダブルスタンダードじゃないかしら?

354 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 20:37:23 ID:yA+sirtf0
論者の姿勢をうんぬんするのは面白くないな。

袁曹両氏が対決姿勢を深めていったのは198年ごろからなんだけど、
とくに河内の領有をめぐってその対立は表面化したといえるんじゃないかな。
袁紹は自身を光武帝のイメージに重ねているらしく、その意味でも河内は譲れないのだが、
実際には曹操の方が黎陽津・延津に進出している。押してるのは曹操の方なんだよね。
袁紹が攻めの姿勢に転じるのは曹操が徐州遠征に出てからのことだよ。

というか、官渡に誘いこんで袁軍を一気に殲滅するつもりなら、
そもそも黎陽津や延津に進出する理由がないっす。


あと、どうでもいいけどソースって証拠って意味じゃないよ。>all

355 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 21:52:58 ID:k5B6/l0Q0
>>353
どうして官渡まで撤退も有り得ることが大きな功績なの?
私は津を手放して袁紹が黄河南岸まで侵攻することは想定の範囲内とは言ってるけど
予め官渡で決戦すると決めてたとは書いてないよ。>>341をよーく読むように。
于禁を「官渡に」引っ込めたあたりからして、黄河を渡たらせるのは既定路線だと思うが?

>この年建安4年は呂布を破って徐州を平定し、続いて袁術も死んだ後

呂布が斬られたのは198年12月
袁術が死んだのは199年6月

>後顧の憂いがなくなった状態と言ってよく

呂布並みの死闘を繰り広げた張繍はまったくの健在。

>この年に行われた冀州牧位の剥奪は実質的な宣戦布告だろうし

実はその2ヶ月前に袁紹が宣戦布告といってもいい射犬城を寝返らせてる。
つまり曹操が剥奪したのは宣戦布告の返答だよ。
もし大将軍を剥奪して曹操から攻勢するなら、公孫サンの後始末(滅亡から1ヶ月しか経ってない)に追われているこの時じゃない?

>曹操が積極的に河北側に進出しているように見える

曹操が積極的(?)だったのは袁紹が奪った自領を取り返すことだと思う。
199年に積極的だったのは公孫サンを打ち破って「完全に後顧の憂いがない」袁紹ではないかな?



あなたの199年侵攻説は曹操の黎陽攻撃がどれくらい大規模であったが何よりの証拠になるはず。
寡兵で後顧の憂いを取り除いていない曹操がなぜ、黄河を渡って兵站に労力を裂いてまで侵攻せねばならないのかという動機欠如を補うので是非これをやってもらいたい。

>>354

ちょと明日に書くと思う

356 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 00:15:20 ID:Vs8z7HUP0
結果として袁紹が負けた。

357 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 02:14:28 ID:5qu+k0UZ0
>>355
想定の範囲内かどうかでいえば、何かもかも全てが範囲内になってしまうので、
あんまり意味がないと思う。
曹操が赤壁で敗れたことも、諸葛亮が北伐に躓いたことも想定の範囲内ってなる。

袁軍に黄河を渡らせるつもりだったなら、そもそも白馬に劉延を入れたりしないし、
白馬住民や輜重隊を文醜の追撃に晒すことはしないと思うよ。
それに黄河を渡らせたあと、背後または側面から袁軍を脅かす別働隊の存在が見えないね。
ちょっと無理筋じゃないか。

> 呂布が斬られたのは198年12月
> 袁術が死んだのは199年6月
> 呂布並みの死闘を繰り広げた張繍はまったくの健在。

この辺は、ちょっと論争相手に対する誠意を感じられない。
曹操がこのとき後顧の憂いをほぼ一掃していたという指摘に、上二段はまったく答えてない。
下段は針小棒大的。それを言うなら袁紹の背後にも張燕がいた。

358 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 03:49:00 ID:YtnLKe250
今日も今日とて千日戦争か。
黄金聖闘士同士で戦うからそんなことになるんだよ。

359 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 09:23:56 ID:z0YdEfUb0
>>357

>白馬に劉延をいれたりしないし

白馬津は東郡白馬県。劉延は東郡太守。だからなんの不自然もないんだなー。
劉延が白馬駐屯した正確な時期と規模は不明だが、中央から兵を授かった形跡がない。
恐らく程cと同程度か、多くて+1000の兵だったと思われ。つまり東郡で動員できる範囲内。

劉延が特別な守備隊だと思ってるのかもしれないけど、太守が非常時に敵国と隣接する城に入ったことが(普通の行為)
「譲るつもりはない」「河を渡らせない」ことになるのかな?
譲るつもりがないならこんな寡兵で守らせないよね?
援軍もすぐさま向かうよね?
顔良を斬って包囲を解いたら入城して更なる防備増強に励むよね?
でも、そういう形跡がないんだよ。
劉延は自領を守るために城にはいった。寡兵で2ヶ月の包囲に耐えた。ただそれだけ。特別視しないほうがいいよ。


>それに黄河を渡らせたあと、背後または側面から袁軍を脅かす別働隊の存在が見えないね。

鳥s(

>この辺は、ちょっと論争相手に対する誠意を感じられない
>上二段はまったく答えてない

事実を指摘すると誠意を感じないとはどういうことでしょう?

>下段は針小棒大的。それを言うなら袁紹の背後にも張燕がいた。

張燕の背後に劉表がいるの?


で、敵対する劉表張繍を背後に持つ曹操が攻勢に出ようとした、
あるいは出た(黎陽)のならそれが本腰の大軍であることを証明しないといけないんだが、
その辺はどうですか?



360 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 10:35:32 ID:vI/6YUE10
黎陽に出た頃は劉備は味方だった。
彼の別働隊としての活躍も当然計算に入ってたことだろうし成算がないとは思えない。
劉備が曹操の構想通り動いていれば、もっと無難に勝っていたように思うが。
袁紹の兵力を完膚なきまで打ち破ることが出来なくても、冀州を戦乱でズタボロにすれば相対的な国力差は縮まる。
また劉表は張羨の乱を抱え込んでて身動き出来ないし、孫権は地盤固めでそれどころじゃない。
荒れ果てた中原で四方を敵に囲まれた状況の曹操が、
ガチで勝負を仕掛けるには、やはり千載一遇の丁度いい時期と思うけど。

361 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 11:07:48 ID:vI/6YUE10
>>310から読んでみたがID:k5B6/l0Q0がひどい。
自分の主観を押し通す割に説明が一々横柄で不明瞭不愉快。
納得いく説明になってないからソース提出を迫られると、相手の揚げ足を取って挑発。
自分がやらないことを相手に要求して議論をややこしくするあたり厨房だろうか?
そのあたりをダブスタと非難されるとアイロニーとか、のたまい出すふざけたやつだ。
勝ち組みを結果論で持ち上げてるだけじゃねーか。
曹操が勝っただけでおまえがエライ訳じゃねー、ということを理解すべきだろう。
袁紹が曹操より下回ることは確かだが、ID:k5B6/l0Q0と曹操ほどの差はない。

362 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 11:18:52 ID:5+1VJQD/0
そうやって人格批判のみに走るのは止めようぜ
雰囲気が悪くなる

363 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 11:25:33 ID:z0YdEfUb0
>黎陽に出た頃は劉備は味方だった。

これの明確なソースありますか?
私も探しているのですが、正確な劉備の謀反時期は不明だと思ってました・・・


劉備はどうも8月の黎陽出兵前に反乱してるくさいんだけど・・・

まず袁術が死んだのは199年6月。
劉備が到着したのはその後。
で、劉備が徐州に出兵したのは袁術が北行を始めてからだから、恐らく5月には許都を出てる。
(何故なら袁術は途中徐州の半ばまで行って引き返し、迷走してる形跡がある)
そして朱霊伝には劉備と一緒だった朱霊が帰った直後に事を起こしたとある。

さて、この時期に朱霊とその軍勢を数ヶ月も放置するかといえばそうではないと考えるのが妥当。
徐州刺史もいるし、劉備もいる。ゾウハもいる。そう考えると朱霊は帰還したのが7月。

となると反乱が7月に起きたと仮定できるのだが、黎陽出兵の8月、黎陽撤退の9月と結びつかないんだよね。
まぁ上記にあるように、この付近の時系列は不明っぽいので推測の域を超えないのだから断言できない。


>別働隊としての活躍も当然計算に入ってたことだろう

朱霊が帰っているのでそれはありえない。


>冀州を戦乱でズタボロにすれば相対的な国力差は縮まる

孤立無援のギョウ城ですら、どれだけの包囲に耐えたか思い出してくれ。
冀州を荒らすには万端のギョウを避けて通れないが、ここでズタボロになるのは相対的な力からすると曹操。


>孫権は地盤固めでそれどころじゃない

孫策が死ぬのは200年4月。ピンピンに生きています。

364 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 14:10:37 ID:5qu+k0UZ0
>>359

> 白馬津は東郡白馬県。劉延は東郡太守。

そんなことはとうに知ってるよ。ずっとスルーされてるけど上の方で、
それまで郡治ではないところに詰めていると指摘している。

白馬は黎陽津を抜けた場所にあるから、直近の太守が詰めるのは当然だが、
あなたの主張は、白馬放棄は既定路線ということだから、
多くて1000だかどうだかの寡兵でわざわざ包囲されに行くことはありえない。
要するに、あなたの主張は、史実の示唆するところと乖離してるわけ。

> 恐らく程Gと同程度か、多くて+1000の兵だったと思われ。つまり東郡で動員できる範囲内。

根拠のない推測を、別の命題の前提にしてはいけないよ。

> 鳥s(

文字化けかな。

> 事実を指摘すると誠意を感じないとはどういうことでしょう?

事実を指摘したからではなくて、その逆、指摘しなかったから批判しているんだよ。
>>353の人は、当時、袁曹どちらもほぼ後顧の憂いを断った状態で決戦に臨んだと言っている。
あなたが証明しなければならないのは、この時点でまだ「後顧の憂い」が存在したこと。
それなのに、あなたの回答は、>>353の指摘に答えるものでは全くなかった。
まるで関係のない事実を摘示して論点をはぐらかしている。

> 張燕の背後に劉表がいるの?

そうやって際限なく万全を求めても意味がない。
袁紹にしても曹操にしても他の群雄にしても他の時代にしても
背後に懸念することなく全力を投入できた戦いなど存在しないわけ。
だいたい、さっき張繍と言ったときには出てこなかった劉表が、いま出てきている。
後出しじゃんけんと言われても仕方ない。
今回もやはり誠意を疑わせる発言がある。ちょっとどうかと思うよ。

> あるいは出た(黎陽)のならそれが本腰の大軍であることを証明しないといけないんだが、

いまさら説明するまでもなく、199年8月の段階で、曹操本人が黎陽まで進出していて、
それはあなた自身も知っているはずだよ。
まさか動員規模が書かれてないから寡兵だったとか言わないでね。

365 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 14:25:11 ID:5qu+k0UZ0
k5B6/l0Q0の人は初登場の>>313のころから論点がころころ変わりすぎなんだよな。
顔良・文醜の死は袁軍にとって大きなインパクトだったという結論を導くために、
根拠不明な前提が山ほど出てくるから、いちいち根拠を質しているうちに
論点があっちこっちに飛びまくってしまう。
ちょっと、疲れてしまうね。

366 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 14:31:44 ID:jkecapUL0
>>363
それは面白い話だ
はっきり言って劉備の反乱時期は不明だね
でも、状況で見ると8月の曹操出兵時には臧覇も動いてるんだよね
劉備の反乱以降だったら、いくら半独立勢力でも臧覇らがのこのこと進軍するとは思えないんだよな
また、朱霊帰還の時期を7月と考える根拠があまりに薄い

曹操の動きを合わせて考えるなら、9月の許への帰還が劉備反乱の報を聞いての措置という感じがする

>孫策が死ぬのは200年4月。ピンピンに生きています。
それは言うとおりなんだけど、孫策については郭嘉の有名な予見があるから、最低でもこっちに進出できはしない、と考えていたことには変わりないでしょ
それに袁術を曹操・董承らと討とうとするなど、孫策はこの時点での曹操側の認識では敵ではなかったんだろうね
孫策が曹操に刃向かうのも、劉備の反乱と袁紹の怒涛の南下を見てからみたいだしね

367 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 15:14:10 ID:5qu+k0UZ0
>>363
曹操が199年8月に北上した事実を矮小化しようと、その結論に導くため、
劉備の挙兵時期をむりやり前倒ししようとしてないかい?

それぞれの事件がまんべんなく等間隔に起こったとは思わないけど、
袁術の北上から病死、劉備の徐州到達、戦後処理、朱霊の帰還、車胄の斬殺まで、
これが6月〜8月の足かけ3ヶ月のあいだに目まぐるしく起こり、
翌年1月に曹操が出馬するまで半年、劉岱・王忠らの征討を除いて、
まったくの音沙汰なしというのは、あまりに不自然な想定。

あなたの理屈では、白馬救出まで2ヶ月かかったことを理由に、
曹操は最初から白馬を維持するつもりがなかったと言うのだから、
半年ものあいだ放置されたと(あなたが)想定している徐州も、
曹操は維持するつもりがなかったということになる。
おまけに朱霊を引きあげて大して守備兵力を置かなかったのだしね。

同時に、あなたは曹操が四方に敵勢力をかかえる困難さを主張しているのだから、
破綻してるとしか言いようがない。

368 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 15:59:56 ID:z0YdEfUb0
流れと余り関係ないけど面白いの見つけたw

魏書にこうある。劉備が謀反したとき曹操は「官渡」にいた、と

曹操が官渡にいたのは199年2月の官渡布陣(射犬奪還の駐留軍)から出発の4月まで。
4月から8月までの曹操の居所は不明だけど、8〜9月は黎陽に出陣してる。
そして12月に再び官渡にいる。

6月までは袁術が生きているから除外する。8〜9月も当然除外(この時期の終わりから官渡に居たのは于禁)。

曹操が官渡にいた時に乱を起こしたという魏書にもとづくと、

7月(曹操が官渡に居た可能性は高い=黎陽出陣の準備)
10〜11月(曹操が官渡に居た可能性がないこともない)
12月(許都から官渡へ出陣しているので確実に居た)



あら、黎陽出兵自に劉備が反乱した可能性はなくなっちゃった。
7月ならば出兵の決断にはなんの影響も及ぼしていない。
10〜12月は黎陽から撤退した後なので、これも影響していない。

黎陽出兵が大規模な攻勢で劉備の乱によって頓挫したという説はこれにて終了じゃないかな?

369 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 16:04:09 ID:jkecapUL0
>>368
そういう時はその記事が何伝のどことか言うものでしょ

370 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 16:04:38 ID:GAZaDtzc0
于禁伝だな。

太祖初征袁紹、紹兵盛、禁願為先登。太祖壯之、乃遣歩卒二千人、使禁將、守延津以拒紹、太祖引軍還官渡。
劉備以徐州叛、太祖東征之。紹攻禁、禁堅守、紹不能拔。

371 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 16:09:34 ID:5qu+k0UZ0
「魏武与袁紹相距官渡」に類する言いまわしは各所に見られるけど、
それがただちに曹操が官渡城というポイントにあったという証明にはならないよ。
黄河沿岸で袁紹軍と対立したという広い意味で言ってる場合が多いので。
たとえば袁曹両軍が実際に官渡で対峙したことを孫策は知らないはずなのに、
孫策伝には官渡の対峙を聞いて、と書いている。
賈ク伝でも張繍帰順の前後両方に官渡の名が出ている。

ほかには「赤壁」なども同様。

372 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 16:11:33 ID:jkecapUL0
>>370
お、ありがとう
これ、王忠たちの鎮圧隊のことが入ってないね。
あと「劉備が徐州で反乱してい(て鎮圧もできなかっ)たので曹操が自ら東征に出た」であって、官渡にいたときに初めて劉備反乱の報を聞いたとするのはここだけでは言えないんじゃないかな?

于禁伝だとそこの前に「太祖初征袁紹、紹兵盛、禁願為先登」とあって、曹操の側から袁紹を攻めてることが明記されるんだね。規模はなんともいえないからアレだけど。

373 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 16:21:18 ID:z0YdEfUb0
>>364

>そんなことはとうに知ってるよ。ずっとスルーされてるけど上の方で、
>それまで郡治ではないところに詰めていると指摘している。

鬼の首をとったように劉延がいたから守るつもりだったと言ってるのは199年攻勢説の人だったので、
それを普通の行為と指摘しただけですが?

>寡兵でわざわざ包囲されに行くことはありえない

たかが一太守の軍勢しかなかったようですが?
まさか地方太守に強力な軍権があったとは思わないでしょうね?
そして増援された形跡がないの。
ありえないかどうかはあなたの主観でしょ。

何度も書いたけど、明らかに官渡が陣地構築の中心地になってるわけよ。
河から随分離れた官渡がね。
もし河を渡らせないなら延と白馬が中心になるんじゃないか?
しかし曹操は官渡を選らんで白馬はその地方の太守にしか任せてない。
一応守備はしたけど、力はそれほどいれてないということ。
あなたの考えにように、

重視してない=放棄しないといけない
渡河を許容する=袁紹が円滑に渡れるようにしておく

みたいなイコールになってるから考えがよく解ってもらえないんだと思うよ。 
結果論からすると曹操はそこで何も失ってないから。


>あなたが証明しなければならないのは、この時点でまだ「後顧の憂い」が存在したこと

してるじゃないですか。
なぜか劉表がバックにいる「張繍の存在が些細なこと(w」になってるし。
この時期生きていた孫策を殺してまで四方が安全になったことにして、力が弱い曹操が強い袁紹に攻め込むという説を提示したいのですかね?


>そうやって際限なく万全を求めても意味がない。
>袁紹にしても曹操にしても他の群雄にしても他の時代にしても
>背後に懸念することなく全力を投入できた戦いなど存在しないわけ。

何故いきなり一般論が出てくるの?
あなたが説明しないといけないのは動機に欠ける曹操の攻勢を裏打ちする根拠でしょ。


374 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 16:26:30 ID:jkecapUL0
8月:曹操の黎陽出兵
その間:劉備反乱(臧覇が青州に進軍していたちょうどいい機会)→王忠らの派遣
9月:曹操が許に戻る
その間:王忠ら勝てず
12月:曹操官渡に(これが于禁伝の「太祖引軍還官渡」)
翌1月:曹操劉備征伐(「劉備以徐州叛、太祖東征之」)

こういう流れなんじゃないかなあ。つまり8月の黎陽出兵までは曹操は袁紹に攻勢をかけたが、劉備反乱により中断。袁紹がその間に南下し、曹操は攻勢どころか撤退に次ぐ撤退を余儀なくされる、と。
この8月時点なら、
劉備:味方
孫策:懐柔
袁術:死亡
劉表:敵、ただし領内と孫策の動向が気になるはず
と、曹操と直接に接する勢力が比較的落ち着いているようだから、大規模な攻勢に出る機会としては申し分ない
四方全て敵のようになるのは袁紹が南下してから

375 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 16:27:38 ID:z0YdEfUb0
>>369−370
あ、ごめんなさい。
先主伝ね。

376 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 16:27:47 ID:zaAsxlED0
>>373
>ありえないかどうかはあなたの主観でしょ。
じゃあ、「寡兵を守備として置いてるから死守するつもりはない」というのも貴方の主観なのでは……。

377 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 16:34:49 ID:5qu+k0UZ0
>>373
> 鬼の首をとったように劉延がいたから守るつもりだったと言ってるのは199年攻勢説の人だったので、
> それを普通の行為と指摘しただけですが?

だれも白馬を守るつもりだったとは言ってないよね。守るつもりがないというのがおかしいとは言った。
白馬を放棄するのが規定路線なら、劉延をわざわざ包囲陣の中に入れる理由がないと言ってるわけ。
白馬を守ろうとするのは普通の行為だけど、
白馬を放棄するという普通でない行為を、普通の行為で説明することはできない。

> たかが一太守の軍勢しかなかったようですが?

あなたは郡兵以外の兵力が白馬にいなかったことを証明しなければならないし、
それ以前に、放棄予定の城にわざわざ劉延が居残った理由を合理的に説明する必要がある。

> もし河を渡らせないなら延と白馬が中心になるんじゃないか?

とは限らない。曹操が警戒しなければならなかったのは袁紹軍だけではなく、
膝元の許も抑えておかなければならなかったし、徐州や揚州、荊州の動向にも
睨みをきかせなければならなかった。
全方位に対応できるのが官渡ということだろう。

> してるじゃないですか。

してないよ。あなたの発言を再掲する。

> 呂布が斬られたのは198年12月
> 袁術が死んだのは199年6月

これをどう読めば、後顧の憂いの証明になるんだろうか?

> あなたが説明しないといけないのは動機に欠ける曹操の攻勢を裏打ちする根拠でしょ。

すでに示している。ちゃんと読んでね。

378 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 16:39:56 ID:jkecapUL0
>>375
于禁伝のことじゃないの?
ごめんなさい本当にどこのことか分からないのでもっとkwskお願いします。

379 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 16:43:03 ID:5qu+k0UZ0
>>375
ああ、先主伝に引用してる魏書のことね。
ちくま本では「このとき、曹公は官渡にいて…」と書いてるので誤解したんだと思うけど、
原文には「是時,公方有急於官渡,乃分留諸將屯官渡,自勒精兵征備.」で、
官渡にいたとは書いてないよ。
これは武帝紀でいう「九月,公還許,分兵守官渡.」に相当すると見るべき。

380 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 16:43:52 ID:jkecapUL0
>>378
ああ、ごめん自己解決
でもこれが陳寿の三国志に反映されてないのは、他の各史書が伝えるところと事実関係が合わないからなんじゃないのかなあ
特に曹操より先に派遣した鎮圧隊の件が

381 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 16:48:12 ID:vI/6YUE10
>この時期生きていた孫策を殺してまで四方が安全になったことにして、
>力が弱い曹操が強い袁紹に攻め込むという説を提示したいのですかね?

>>360の「孫権」は孫策のtypoだから、気にせんといてくれや。
どっちにしても地元の鎮撫もろくに出来てない時期から中原進出など現実性がない。
孫策は性急に領土を広げることが出来たが固めきった訳じゃない。
反乱が起こって引き返すか、曹仁あたりに弾き返されるのがヲチだろうよ。

382 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 16:50:17 ID:jkecapUL0
>>379
ああ、なるほど
それに先主伝とその注を見てもどの時期に反乱したのかについては断定できないよね
やっぱ劉備反乱は8月の曹操攻勢以降なのかねえ、断言はできんけど

俺はちくま持ってないので確認してなかったけど、その訳は超訳気味だね

383 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 16:50:21 ID:5qu+k0UZ0
>>380
王沈の魏書は、陳寿の魏書の元ネタになってる官撰の史書で、
曹操を美化しすぎている点はあるけど、曹操の行動についてはかなり正確だと思うよ。
この部分は、劉備が戦わずに逃走した理由を説明する部分なので、
王沈は途中の経緯をはしょってる。
はしょったのは裴松之かもしれないけど、魏書のこの記述自体に不自然な点はないよ。

384 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 17:13:52 ID:5qu+k0UZ0
なんか混乱してそうなんで、はっきりさせとくけど、

SIHljiDh0
yA+sirtf0
5qu+k0UZ0

以上が俺のID。

385 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 17:14:46 ID:GAZaDtzc0
>>375
あ、そっちか。

386 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 17:58:49 ID:/U/aT/YM0
レスの同一性を強調したいならコテでも付けろバーカw

387 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 18:08:05 ID:5qu+k0UZ0
この板だとIDはあんまり変わらないみたいだし、
論争はすでに終わってると認識してるので今さらコテも必要ないと思ってるんだよね。
SIHljiDh0とyA+sirtf0については流れを読めば同一だと分かるけど、
5qu+k0UZ0になってから、先方がちょっと混乱してるので同一を表明したまでだよ。

388 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 18:29:06 ID:vI/6YUE10
そもそも「沮授と郭図のどっちが優秀か?」という話題で
なんでここまで論点がずれたんだろうか?

389 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 18:34:26 ID:0yovEDxt0
官渡前後の分析するのが一番楽しいから

390 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 18:35:24 ID:jkecapUL0
>>388
よくあること
官渡前の曹操の攻勢や劉備反乱の時期などを確認できたので俺的には収穫あって良かった

391 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 19:12:06 ID:HSV7SGZh0
そもそも沮授の器量を測れるほど資料ないしな

392 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 22:51:44 ID:5qu+k0UZ0
後漢紀という本では、沮授が白馬包囲にも加わっていたと書いてる。
個人的にはこれはナシだなという感じなんだが、実際どうなんだろうね?

393 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 23:53:54 ID:/U/aT/YM0
沮授が顔良ではいけませんと言ったから?
袁紹も性格悪いから自分がダメ出しした顔良につけるのもありだなぁ
でも、その場合は沮授の方が上位だと思うので、やっぱ無し

394 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/12(月) 00:52:12 ID:8jnjKwNK0
なんか>>386とえらい口調違うのね。

後漢紀によると白馬攻めに参加したのは沮授・郭図・淳于瓊・顔良ら。
ご指摘のようにこのメンバーの顔ぶれからいくと沮授がトップになるはずなので、
後漢紀が正しければ白馬陥落の功績はすべて沮授のものということになって、
このスレで言われてるような郭図の手柄はナシになる。

ただ、袁紹伝の記述だと、ずっと袁紹の側にいたような感じなんだよね。
それでナシかなぁと思うんだが、後漢紀はこれはこれで甘く見られないからな。
ちなみに後漢紀は、韓馥が袁紹に冀州を譲ったときも諫言者として沮授の名を出してる。

395 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/13(火) 17:41:42 ID:Eb7X1Of40
バーカだから

396 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/14(水) 11:08:39 ID:T2+K6+ZV0
スレ読んだらゲームで袁紹プレイしたくなった。
派閥とか無いけど。



397 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/14(水) 12:04:02 ID:wlzHP61LO
三国志Yお勧め

398 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/14(水) 22:08:31 ID:FGUQAzIvO
>>397
それもアリだが、Zか[で郭図プレイを勧めるw
俺は袁煕で後継者認定されるように励んだがw

399 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/14(水) 22:26:04 ID:fmItOO8u0
ゲームネタと言えば、ナムコの三国志だなぁ〜

あれはプレイ前にプレイヤーの性格診断をして、
プレイヤーに一番近い性格の群雄でプレイするシステムに成ってるから。

で、自分の性格は袁紹と出て、その時から袁紹にはシンパシーを感じる様に成った。

400 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 18:41:04 ID:0QehCnbY0
すっごい今更な話なんだけど、袁紹死後の袁煕って何やってたの?

401 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 00:24:38 ID:VrKgMtmM0
労働学習生殖睡眠

402 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 01:00:46 ID:SImkMRCr0
貧乏不遇欲情空腹

403 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/23(金) 20:48:42 ID:7zUzKk5l0
>>283 >>285

亀で申し訳ないけど、両者の意見を伺って「演義」の審配と、
「正史」の審配のギャップにずっと違和感を感じていたんだけど、
何となくその二つのイメージをつなげられそうな気がしてきた。
「キングメーカー」という表現は言い得て妙だと思う。
ある種の剛直さを持ってはいるが、
同時に政治面における豪腕ぶりも卓越している、という感じで。




404 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/24(土) 23:32:56 ID:KQ1mQCSV0
>>403
審配の顔が森元総理に見えてきちゃったじゃないか

405 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/03(月) 01:13:35 ID:gzHYnhF10
 

406 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/21(金) 18:01:17 ID:rDGruxrAO
もうだめじゃあー

407 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/26(水) 13:43:31 ID:enYYRov60
もしも許ユウが裏切らなかったら

408 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/10(木) 18:46:50 ID:y+WHj30L0
そもそもなぜ献帝を曹操より早く奉戴しなかったのか
距離のせいか
家臣の内訌のせいか
本人の優柔不断のせいか

409 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/10(木) 19:54:46 ID:mwWT/KgR0
奉戴する必要は袁紹にはなかったんじゃない?
袁術にはあったみたいだけど。

410 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 03:34:40 ID:sZjTsl+SO
この女は天下を治める器の女ではない

411 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 05:46:20 ID:0qj0yhuJ0
驚愕!袁紹は女性だった!!

412 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 18:48:27 ID:f5rY8KDD0
袁紹は劉虞を皇帝にしようとしてる。
つまり他人の手垢が付いてる皇帝は嫌だったんじゃないかね。
献帝は既に朝廷を構成し廷臣が付いて回ってるわけだから、
それらを急には排除できない。独裁体制に瑕疵が付くかもしれないし、
寝首を掻かれる恐れもある。

413 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 19:56:42 ID:L1gpoPnd0
洛陽にいた自分の一族を皆殺しにしたトウタクに担ぎ上げられた
献帝を上に戴くのが嫌だったんじゃないか

414 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 18:21:38 ID:RQfbo2oJ0
董卓と董承は親戚という話もあるし、董卓の縁者を上にいただくの嫌じゃ〜ってのは信憑性あるな。

415 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 20:17:47 ID:Hsuohe9N0
董卓に袁一門が全殺しにされたのは袁紹だって折込済みだったろ
一族郎党董卓の手元にいるのに反董卓連合の代表に就任しました〜とか
これで一族が生かして置かれるはずがないというかむしろ殺してと
言ってるみたいな物
袁家総帥の地位欲しさに一族を見捨てたと言われても仕方ないと思う

416 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 10:53:16 ID:z5UXoMAI0
>411
なるほど、袁紹が兜を被らなかったり、女性のような顔立ちだったというのはそういう訳か!

417 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 22:16:55 ID:Ao8muF+qO
妾の子と馬鹿にされてたみたいだしな
それに袁術ごときが勢力を持っていたあたり、袁紹以外はアフォばかりで、彼はとっとと連中をぶっ殺してほしかったんじゃないかな

418 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 23:46:41 ID:wAA4kmyi0
叔父の太傅袁隗や、後継者で兄貴の太僕袁基が
うざかったんだろう。

419 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/16(水) 02:46:33 ID:2dgZ1Lxq0
トウタクの立てた傀儡皇帝を擁するのは関東軍の旗としても受け入れられないんじゃないか?

420 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/16(水) 13:10:18 ID:pLE5hFDeO
そもそも、袁紹の勢いを考えると、皇帝擁立なんて必要無いんじゃないの?
皇帝なんて、曹軍を踏み潰して袁術派を撃退した後に禅譲を勧告するだけの存在だし、擁立したところでどうしようもない

421 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/16(水) 17:35:19 ID:SWbkXDQW0
劉虞擁立を試みているだろう、現に

422 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/16(水) 23:11:56 ID:fTiZ/DCW0
>>421
冀州牧にもなってない時期だからな
関東軍を一応まとめるには皇帝という神輿が必要だった

しかし冀州牧になり勢力も確立してしまうと、下手に皇帝を擁立するほうが足枷になる

423 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/17(木) 03:17:23 ID:Dwpalp3F0
足枷の方が大きい、とは言えないよ。
正統な王朝の継承という建前が形式的なものではないからこそ、
禅譲に至るまでの長々とした儀式が重んじられるわけだから。
まあ、見通しと目論見次第なのは確かで、
袁紹はデメリットの方を嫌って劉協を迎えることをしなかった、
ということだろうけど。

424 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/17(木) 10:41:34 ID:u6BdgUXTO
担いだところで処理に困る
現に曹操でさえ存命中に皇位を禅譲させられなかったから
袁家の場合は文官の派閥同士でまた内紛が起きかねない
むやみらたらに触らなくて正解だった…

425 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/17(木) 18:39:17 ID:ReR7QFSqO
確かに担いだところで扱いに困るというのはその通りだね。
郭図などが反対した理由もよく分かる。
ただ、難しいのが、奉戴に関しては、自勢力だけでなく、他勢力の動向も考えないといけないとこだね。
奉戴しない場合はそのデメリットとして、他勢力に奉戴されることも視野にいれておかないといけない。
当時も紛糾しただろうなあ…

426 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/17(木) 18:52:39 ID:Q7HTE+dW0
献帝担ぐかどうかはともかくとして、ヘイ州から川を下って司隷を押さえるという戦略は悪くなかった。

427 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/17(木) 19:03:44 ID:Dwpalp3F0
天子には丁重な扱いをしなければ意味がないが、
それを扱いに困るというのは適当ではないと思うな。
また、最終的に禅譲に至るなら、袁紹存命中か否かと言うのはあまり問題ではないと思う。
曹操が禅譲までいけなかったのは荊州と漢中の敗戦で統一が遠のいたことが大きいだろう。
袁紹が奉戴して曹操に勝ったとして、それを超えられるかは解らないが、
逆に曹操が献帝を手中に収められなければ、
221年段階で史実と同等以上に安定的な魏朝成立はまず無かったと見ていいのではないかな。
皇帝は大義名分だから、一度奉戴してしまえばむしろ内部の結束を強める。
帝位を簒奪するにしても、広く漢帝と認められている人物から譲り受けるのと
そうでないのとでは大違いだ。特に中原を支配するのなら。
>>425のいう通り他者に取られてしまえば、それこそ分裂の原因になり兼ねない。
だからこそ曹操に献帝を取られて袁紹は後悔して、「こっちに寄越せ」と言ったわけじゃないか。

428 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/17(木) 19:13:36 ID:Dwpalp3F0
あ、ちょっと訂正。
奉戴云々は置いといて、袁紹が官渡で勝っていたら
曹操を超えた可能性は十分にあると思うな。
曹操は官渡で一応袁紹を撃退したが、その後体制を整えて
袁譚袁尚を完全に破るのに七年掛かった。
逆に袁紹が勝てばその一戦でほぼ曹操はおしまいで、
一気に中原を制覇できる。
一番大きいのは孫権が跡を継いだばかりで何も出来ないだろうこと。
劉備も強固な後ろ盾が無ければどうしようもないだろう。
「赤壁」はない。軍事力で注意すべきは涼州諸勢力くらいになる。
袁紹の病死を官渡の敗戦が後を引いたためとするなら、
それが無ければまだ10年以上生きていいだろうし、かなりのところまでいけたと思う。

429 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/17(木) 22:43:56 ID:u6BdgUXTO
長男のウンコっぷりと許の裏切りの二つくらいだよな、敗因は
曹操は完全に棚ぼた勝利
荀イクや郭嘉が曹軍の勝ちを最初からわかってたみたいな書き方されてるけど、あれは胡散臭すぎるよ
現にこいつらは押されっぱなしで、兵糧切れ負けなんてパッチ当ててないコーエー三国志みたいな負け方しそうだったし
それと、帝を担いでも、逆に敵に「帝を利用して天下を奪わんとする姦臣を〜」と、敵を団結させるきっかけを与えかねない
現に曹操はそれで苦しんだ面もある

430 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/17(木) 22:57:12 ID:eJo+Ipz+0
「君側の姦」という言葉があるけど、曹操なんかは袁紹にも周瑜にも言われてるよな。
奉戴オーラが無効化されてあんまり通じてない。

431 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/17(木) 23:02:27 ID:G/p807aU0
天子を奉戴して国政をわたくしする権臣を「君側の奸」とするから
まさに曹操のことだわ。
もし曹操が皇帝ならば、「偽帝」呼ばわりだろうが。
唐の安禄山が叛旗を翻したときも、直接皇帝に背く、では将兵に疑念を
与えかねないので、楊国忠を君側の奸とした。
まぁ、もともと楊国忠のいらぬ讒言のせいで追い込まれたこともあり、
別に嘘ではないし、また誰もがその悪行を知っているので、うってつけ。

432 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/17(木) 23:14:03 ID:UVf/ZrM10
袁紹が最初に献帝を迎えるよう進言された時、献帝の周りには関西から来た董承、楊奉ら宿敵董卓系統の連中がくっついていたし、袁術がその後ろ盾だったらしい
この状態のままでは献帝を強奪するには強い抵抗を受けるし、穏当に迎えたとしても董承・楊奉らとの関係が非常に微妙になる
袁紹が献帝を迎えるのを危ぶむのも無理はない

曹操が献帝を強奪・拉致し、楊奉らを破った後は、献帝のそばにいるのは曹操だけ
つまり曹操から奪うだけなので他の面倒が無い
だから献帝を迎えるのに積極的になった

必ずしも前後矛盾しているわけではないよ
曹操もそうだが、結局献帝に求めているのは「自分の言いなりになる傀儡」としての皇帝であって、自分の思いのままにならない余計な大臣や軍隊は要らないんだよ

433 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/18(金) 00:11:19 ID:QAkK190x0
いやちょっと待て
いくら袁紹スレだからって引き倒しが過ぎないかw
俺も>>412のようなことも書いたが、
楊奉・董承を排除するのが厄介で曹操は面倒がないってのはないだろう。
曹操が袁紹との戦いに主力を注げたのは天子奉戴の要素が大きい。特に西と南。
「君側の奸」なんてスローガンとしてはいいが、それを元に諸勢力が一致団結する例は少ない。
天子を野放しにしてたらそれこそ袁術がまだ生き残ってた可能性もある。
リスクを承知で奉戴に手を突っ込んだ曹操、観望して時期を逃した袁紹。
兵力兵站共に著しく劣勢にも拘らず正面に集中できた曹操。優勢にも関わらず攻め切れなかった袁紹。
寝返り続発にも関わらずそれを致命傷にしなかった曹操、不和からの寝返りを一発致命傷にした袁紹。
時機を掴んで奇襲に成功した曹操、配置ミスから全面後退を強いられた袁紹。
大げさに言えば「奇蹟の大逆転」かもしれないが、棚ボタ偶然なんぞとは絶対に言えないよ。
すべては勝因あっての勝利だ。

434 :432:2008/01/18(金) 00:30:51 ID:U1ZnHhc40
>>433
>楊奉・董承を排除するのが厄介で曹操は面倒がないってのはないだろう。
「ほかの」面倒がない、だよ
もちろん一大勢力となった曹操を倒すか屈服させなければいけないわけだし事実それに失敗したんだが

献帝が関東に来た段階で迎えようとせず、曹操が許に連行してから欲しがった理由は
「献帝にくっついていた董卓系統の群雄と袁術の勢力が一掃されたから」
(逆に言えば、董卓系統や袁術系統を消せるまでは手を出さない)
と思っただけで、俺は自分のレスがそんなに袁紹贔屓な発言だったと思わなかったが

献帝連行のくだりを見ると、曹操陣営が離反と嘘と裏切りを重ねているのが分かって面白い
(それ自体は乱世の習いかもしれないが)
・袁紹と同じで反献帝(を擁立している関西軍閥)→献帝を擁立する関西軍閥に近づく
・関西軍閥によしみを通じるため張楊を頼る→洛陽に乗り込むと真っ先に張楊を追い落とす
・楊奉に嘘を並べて信用させる
・楊奉に嘘を並べて献帝を強制連行する

しかし献帝を擁立していた董卓も李カクも楊奉も仲間割れして滅んでいるなあ


435 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/18(金) 01:25:31 ID:G8k2ndtZ0
楊奉騙されすぎワロタw
最後も劉備に騙されてるしw

436 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/18(金) 01:25:53 ID:8E+mgk45O
>>433
一連の勝因がすべて仕組まれたことなら分かるが、大半が予想外の事に起因するじゃないか。
それを利用したところが曹操の曹操たるところだけど、勝つべくして勝った、とするにはパンチが弱い。現に烏林でも淳于ケイの反撃でやられかけてる

それと>>434氏の例を見てみると、帝を立ててるやつの敵がみんな「君側の奸」を一応の名分にしてる
擁立者の帝に対する扱いの実情はどうであれ、名分を掲げる側はからすれば、いくらでもこじつけられる


それに曹操は袁紹と違い劉協を擁立しないとやっていけなかっただろう
除州での民間人虐殺の件もあるし、劉表や孫策の台頭もあった
しかし、袁紹にはわざわざこの汚れた帝を擁立する理由がない。袁術に取られたら少し状況が怪しくなるだろうけど、それはありえない
他の誰かに取られても軍事的にはたいした障害にはなりえない

名声、血筋、実績、物資、武官、文官etc
長男のダメっぷりと自身の寛大さの中にある偏狭な性格以外は万全以上の状態。華北掌握後は帝を特に必要としない理由として十分。帝の威光に勝るとも劣らない状況だった
だから帝の擁立云々は、官渡で曹操が勝った理由にも袁紹が負けた理由にもなりえないよ

437 :432:2008/01/18(金) 01:29:19 ID:U1ZnHhc40
袁譚は駄目とはどうしても思えないんだよな
荒れた青州に力による統治を断行し、官渡の頃にはそれを成功させている
優秀とまでいえるか微妙でも、まあ及第点以上ではあるだろう

438 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/18(金) 13:14:52 ID:QAkK190x0
>>436
勝つべくして勝った、とは言わないよ。戦略段階で圧倒的に負けていたのは事実。
必然の勝利とは決して言えない。でも偶然の勝利とも言えない。
「正を以って戦い、奇を以って勝つ」だ。曹操は曹操なりの正を尽くした上で奇を成功させた
わけだから。天子擁立もその一つ。
天子がいないから袁紹が負けたとは言えないにしても、天子がいたから曹操は奇を掴む
段階まで持ちこたえることが出来た、と言える。

袁譚も評価が割れてる人物だよね。情け深いとも言われてる。
青州を獲ってるのは確かだし。まあ、三男に後継を取られれば納得もし難いだろう。

439 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/18(金) 20:48:44 ID:ETRscNxT0
>>434
献帝の傍から、曹操を排除するよりも楊奉・董承を排除する方が簡単なんじゃないかと思えるのだが。
董卓系・袁術系の邪魔なコブを排除するのを、袁紹は面倒がった、曹操は面倒ごとに手を出して成功
させた。あまり袁紹を弁護できることではないと思うが。

440 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/18(金) 21:18:43 ID:U1ZnHhc40
>>439
面倒だったというより、大博打に手を出さなかったと言うべきじゃない?
>曹操を排除するよりも楊奉・董承を排除する方が簡単
それは結果を知っている我々だから言えることだ
少なくとも楊奉が軍事的には手強かったのは間違いないし、袁紹が介入すれば楊奉たちと曹操と両方を敵にしかねない
曹操たちの成功はもちろん偉業なんだが、袁紹の選択はベターなものだと思うよ

441 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/19(土) 01:28:02 ID:eT5Y8aBl0
つうか、対呂布の時点までは曹操は袁紹のパシリなわけだよな。
長安で内ゲバやってる時点で叩かなかったのは規定の戦略になかったからだろうし、
曹操が抑えた後で考えを変えたのは曹操に(自分への)恭順の意を問うというのもあったんじゃね?

442 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/19(土) 18:37:04 ID:o+dF66Gn0
>>440
楊奉が強兵の持ち主だったことは特筆されているが、根拠地を持たない軍は脆い。
まして洛陽近辺は誰も軍が維持できないほど荒廃していた。
東帰した天子の軍を軍事的に破るのは難しくなかっただろう。董承らは厄介だろうと思うが。
また、袁紹の選択がベターだったのは、天子を政治的に有効に活用できる人間がいない時点までの話。
曹操に取られて山東の群雄達の官爵を好きにされた時点で後手を踏んだ失敗に変わった。
だから後悔して、こっちに寄越せ、となったわけだろうね。

443 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/19(土) 19:52:55 ID:DR4iYHfbO
そりゃないわw

444 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/20(日) 19:03:47 ID:ejAKgb/M0
つか自分が住んでいる地域以外の動員兵力なんてまともに調べられない時代だろ?

445 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/17(日) 16:45:42 ID:Cb2mFxeu0
フェアな精神の袁紹は、ずるい曹操の戦術にかなわなかった

446 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/17(日) 16:58:55 ID:OBhaVz+h0
スポーツならな。

447 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/19(火) 11:44:11 ID:tr+EbP940
強大で朝廷が懐柔策をとることを余儀なくされた黒山賊を呂布と共同で撃破し、
精強な騎兵を率いる公孫サンを界橋の戦いで破る……と書くと名将に見えるね。

448 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/19(火) 18:18:38 ID:dATZcJbr0
名将という区分が正しいかはともかく、
公孫サンや各地に跋扈していた賊を平定して河北を纏め上げ、
後々まで治世を偲ばれたわけだから、そこまでは良君と言っていいだろう。
袁紹の最大の失敗は官渡で負けたことなんかじゃなくて、
後継者問題を残して死んだことだよなあ。
分裂してさえ袁家は五年持ったわけだから、ちゃんと袁譚に任せてたら
どう転ぶかはまだ判らなかった。
袁譚は冷遇されて外に出されながら青州北部を平定する辺り、全然馬鹿じゃない。
中華統一に乗り出せるような器があるかはまた別だけど。

449 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/19(火) 18:42:13 ID:xngdrJXW0
冷遇されてるか?
官渡で袁紹と行動を共にしてるあたり、むしろ優遇されてる印象を受けるが。

450 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/19(火) 18:49:14 ID:dATZcJbr0
戦力が必要だったんだろう。
だが家としては嫡男を単独で本拠の外に出すってのはありえない。
長男次男を外に出して三男を残す時点で、衆目には袁紹の意思は
ほとんどはっきりしてる。
江夏に出たことで自分から脱落して見せた劉gの例や、
孫登を出征させるのを諌められた孫権のように。
あとは後継を袁尚にすると明言するだけ(袁譚を理由付けて処分すればベターだけど)
だったんだが、それが出来なかったんだよなあ。なぜなんだろ。


451 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 01:30:45 ID:qRf2aHQZ0
>>450
いや、袁尚後継は始皇帝→胡亥と同じ事情じゃないか。
袁尚はまだ年齢、経歴の面で刺史、将軍といった官に就く段階ではなかったんじゃないかと思うんだよなあ。
ちょうど近くにいたから擁立者に選ばれただけで。

452 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 10:58:29 ID:rzQB3JiE0
袁譚が袁基の養嗣子になってた、って袁紹伝の記述見て、
袁譚と袁尚の関係が袁紹と袁術の関係そっくりだと思った
(年上なのに外に出されて伯父の跡を継ぎ、独自にそれなりの基盤を築いたあたり)
袁譚が「親父だって俺と同じ立場から成り上がって袁氏の頭領になったじゃねーか」って考えて、
とっくに袁尚後継で解決してた後継者選定に異を唱えて反乱した
……てのは小説的にすぎるか?
官渡あたりで権力強化した郭図ら穎川流れ名士+青州派VS袁尚の下で巻き返しを図る冀州派の取り巻き抗争とか、他にも色んな要因はあるだろうけどさ

横槍でレスするけど
>>451
袁紹伝の袁譚が袁基の養嗣子って記述と、後漢書袁紹伝?の袁譚を「袁基の後継者として青州に出向させた」という記述が事実なら、そもそも後継者枠から袁譚は外されてるわけで
袁尚が若くて袁紹存命時に刺史や将軍につけないってのはどうか知らんが、少なくとも近くにいたから擁立者〜は当てはまらないんじゃないかな?
>>448-450
袁譚が青州に行ったのが「嫡男ではなくなったため」だったなら、
袁譚の立場は「袁紹に信頼されてる有力な一門」であって、それ以上でも以下でもないと思うんだけど
自分からその立場を投げ捨てたって一点で、オレは青州統治者としてはそれなりでも、袁譚の行動はかなりの減点だと思う
つーか、跡目争いって半分袁譚のわがままが原因じゃね?
……と自説を延々語ってから、当時の常識的に、伯父・袁基の跡を継いだら「袁譚が袁紹の後継者になれる権利」が消えるのか?って疑問が
誰か教えてエロい人

453 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 12:19:53 ID:tgKLYcGzO
「伯父の後継ぎ」は、「袁紹の家の後継ぎ」より上位の可能性があるよ
司馬炎が伯父司馬師の後継ぎとした次子司馬攸を皇帝の後継ぎにしようとした時に、そんな理屈を持ち出したはず

454 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 14:25:11 ID:pH5qe9840
>>453
袁氏の束ね役って袁術じゃなかったっけ?と思ってウィキの汝南袁氏の項目見てみた
袁基は董卓が洛陽入りした頃に洛陽で太僕やってたんだな。しかも袁術と同母兄だかられっきとした正嫡…
袁術が袁氏のまとめ役になったのってその後だったのか
偉そうな事言って思いっきり勇み足だった。ハズカシス


でも、そうなると
袁譚「俺は袁氏宗家の跡を継いだんだからオレが指導者になるべきだろ常考」
袁尚「滅んだ家継いだやつが文句言ってんじゃねーよ。今は実質冀州袁家が袁氏を束ねてんだよ」
の双方の主張、どっちにも一応は言い分があるって事か?

もしも冀州豪族の勢力削りが、もし次期総帥袁譚のための布石だとしても(単純に君主権強化のための措置かもしれんが)
どっちみち袁紹がいきなり病死したせいで恐ろしく面倒な状態になっちゃったんだな

455 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 19:30:36 ID:2zjEm0LI0
\次男もここにいるぞ!/

忘れてたw
袁譚が袁基の養子になったことも考えに入れるの忘れてた。
長男が養子に出されても袁煕がいるわけだから、
袁尚にはスライドしないんだよな。
で、正嫡に袁尚を指名する前に袁紹は死んでしまった。
袁譚と袁尚の争いを独立した二家の争いと見るのは面白いと思った。けど、
後漢書の方を見ても、

嗣未だ定めるに及ばず(略),衆は袁譚が長であることを以って之を立てようと欲す。

とあるから、袁譚を元の家に戻そうとする動きがあったんじゃないかな。
で、袁尚が(袁譚はともかく袁煕も差し置いて)跡を継いだ流れが大いに怪しいわけだ。
袁基が宗家だと言っても、河北にはその基盤は無いに等しいわけだし、
内紛の流れを見るとさすがに袁尚は袁譚に対してかなり優位の勢力を持っていたわけだから、
袁譚は宗家の嫡男として権利を主張したというよりも、「俺は袁紹の長男だ」って感情を
殺すことが出来なかったんじゃないかなあ。

でも、劉表らは袁譚の方を諌めているのに後漢書は袁譚の名で付の伝を置いてるのが面白いな。

456 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 00:21:19 ID:cv/HzSXb0
袁譚(や周囲の一部)にとって、袁基の跡継ぎというのは袁氏宗家の跡継ぎということで、
袁紹の跡を継ぐことを正式に認められたと考えた、とかはどうかな。それはつまり袁紹流
でもって袁氏正嫡をのっとるということになるから。

457 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 00:51:13 ID:XYzWVyPs0
この当時の群雄と後継者って微妙だからな

爵位の後継ぎ:嫡男のみ
覇業の後継者:立派な子がいれば子が後を継ぐ。いなければ弟や一族にお鉢が回る。
「家」の宗主:総本家の嫡男。
州や軍の後任:州・軍にとっては子や一族である必要はない。

袁紹は嫡男袁譚を宗家の後継ぎとすることで、袁譚を自分の後継者=宗家の後継者にしようとしたのだろう。つまり456氏も言う宗家乗っ取り。
また袁譚は青州刺史としての実績と劉備の後ろ盾を得ることで、覇業の後継者としても、軍全体の後任としても、及第点であることを示そうとした。
袁紹の死のタイミングの悪さと審配らの暗躍さえなければ、袁紹政権は袁紹の計画通り袁譚が磐石の後継者になりえたんじゃないかなあ。

458 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 01:02:58 ID:hTcUfbId0
でも、儒教下の養子縁組はかなり強い力があって、
実際に血が繋がっているかどうかはあまり問題じゃないんだよね。
袁譚は養子に出された時点で、袁尚らとは従兄弟の関係になってしまう。
袁紹が養子に出されたのに実父の喪に服したという記述に対して、
裴松之は、「他家を相続する身になったのにそれはおかしい」と言っている。

だもんで、袁譚が袁紹の相続を主張するのは、
他家の財産を横取りすることになってしまうんじゃないかな。いくら系譜で上位と言っても。
帝位なんかと違って河北は袁紹一人で築いた勢力だし、
帝位だとしても一旦下の兄弟に渡った座の後継順位第一位は
やはりその嫡男であるわけだから。
司馬攸の話は達成されれば美談になったかもしれないけど、珍しい例だよね。

459 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 01:55:51 ID:k5ecPd110
袁譚「俺が袁家を継ぎます。俺が」
袁尚「いやいや俺が継ぎます。俺が」

郭図「審配とかに相当恨まれてるし、殺されたくないんで徹底的に戦います。身内と。袁譚引きずってでも」
審配「袁譚に嫌われてるし、逢紀と一緒に袁尚担ぎます。てか、袁譚って廃嫡だろ?」

劉表「いいから折れる余地がありそうな袁譚がさっさと頭下げろ。俺ん家まで滅ぼす気かボケ」

袁煕「|ω・)」

こんな状態にしたのも、やっぱり全ては袁紹が病死するタイミングが悪すぎたせいなんだろな……
後継者関係の布石が全て中途半端に終わってて、結局袁紹の真意がどこにあったのか読めない

460 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 19:16:06 ID:K4qni3Gx0
袁譚らも哀れだな 親父の拡張路線の負の遺産を背負わされてさ。

慕容恪みたいな政争を収めて軍事力抜群、政治力最強、人格最高な
ヤツが一人袁紹軍団にいればなぁ。袁紹軍団みたいなのはみんな各々の
理由で仕えてそれぞれの理由で行動してるからボスが死ぬと終わる。

461 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 19:45:44 ID:W6HSIeyi0
抜群、最強、最高、ではないが、沮授だな。
官渡から生きて帰ってくればまだ違った道があっただろう。
郭図との対立が大きな懸案だが、二人とも袁譚派ではあるんだよな。

462 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 23:33:54 ID:XvPdtA5j0
沮授がそのまま生きてたら好き勝手してガタガタになりそう

463 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/26(火) 21:16:35 ID:mv7h/kk70
最近「天破三国志」って小説読んだ。
袁紹陣営の人物が結構活躍する。
だけど袁紹自身の扱いは悪い。

464 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/27(水) 09:53:30 ID:u9+MLtc0O
>>463
あれの見所はペテン師劉備と愉快な仲間達だと思うんだ。
主役食うほどキャラ濃いし

465 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/27(水) 15:33:42 ID:NdYGsC+e0
呉が一応主役だったっけ

466 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/27(水) 15:45:55 ID:NdYGsC+e0
袁煕ってどんな人物だったのか、ほとんど不明だな

467 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/06(木) 21:52:06 ID:MUfB7xcK0
袁紹は官渡で勝てる絶好の機会に自分の妻が病気だからとか言って
侵攻しなくて部下にあいそをつかされて負けたんだったっけ。

そこで「一番大事な時に病気になりやがって」と妻を殺せる裁量が
あれば天下を取れていただろう。

468 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/06(木) 22:17:48 ID:A9N4Nt2S0
なんか三国志より五胡にありそうな話だなw

469 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/06(木) 22:43:26 ID:1lWbvHkzO
妻じゃなくて息子だよ

470 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/08(火) 03:43:37 ID:wcYcfZzoO
息子って何人いたんだろ?
長男と三男って年齢差大きかったのかな

471 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/08(火) 10:11:14 ID:+EcjqDkq0
譚、煕、尚、買の4人までは確かのはず

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