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■■■五代群雄伝■■■

307 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/14(木) 21:56:12 ID:k8sSvxUy0
さて、ひさしぶりに。

>>236-237で蜀将を書いたけど、それをさらに補足する。

何重建という人で、この人は契丹が中原を支配したおり、その招安の使者を斬って捨て
蜀に帰順したひと。
性格は謹厚丁寧。後晋朝ではわずか2年あまりの間に、五つの藩鎮を歴任するという
偉能なのか、朝廷の人事がクソなのか、よくわからぬ人。
戦将としては、対契丹戦で黄河の防衛の要衝である楊劉鎮を守り、また東南面の大将として
兗州の守備についた。
後晋軍が総力をもって契丹の鋭鋒を退けた後は、契丹に奪われていた州の節度使となったが
やはり数年を経ずして各藩鎮をたらいまわし。

やがて落ち着いた秦州では、ついに後晋が契丹のために潰えてしまう。
契丹からの誘いを蹴って、後蜀に帰順した何重建は、隣州である階州と成州を切り取り
それをもって、帰参の手土産とした。
そのあと、秦州と梁州(漢中)を結ぶ地点の鳳州および固鎮を攻めるべく兵を借り、これを平らげた。
(後蜀後主本紀では、何重建は勝つことができず、蜀将の孫漢韶がこれを抜いたとされる)
何重建はそのまま秦州を任された。

やがて後漢が起ち、不安になった長安の趙匡賛は、鳳翔の侯益と謀って、後蜀に帰順しようとした。
後蜀の広政10年(947)12月、後主孟昶は、梁州節度使の張虔釗を北面行営招討安撫使とし、
何重建をその副使とし、宣徽使の韓保貞を都虞候とし、5万の兵をもって三秦平定の兵を挙げた。

張虔釗と韓保貞は大散関に出、何重建は隴右より出て、鳳翔の侯益の救援と岐地を伺う。
また、李廷珪は兵2万を領して子午谷より出て、長安(雍州)の援軍とその方面を伺う。
それぞれの軍容はすこぶる勢威であった。

これを知った新後漢皇帝の劉知遠は、客省使の王景崇に禁軍数千を与えて倍道兼行させ

て岐地へと向わせた。
その間、高祖(劉知遠)は趙匡賛を帰順させるよう使者を往来させており、王景崇が迫るに及んで、
趙匡賛は雍州を離れて開封に上洛した。

翌、広政11年(948)正月、そのとき子午谷を進み雍州に至った李廷珪は、すでに趙匡賛

は漢に帰順したことを知ると、軍を返そうとして、王景崇の邀撃に遭い子午谷において大敗した。

また宝鶏(陳倉)に至った張虔釗は諸将と軍議を開くが、協議が長引き兵を抑えて
進まなかった。
鳳翔の侯益は趙匡賛がすでに漢に投じているのを知り、また蜀将の李廷珪が敗れて軍を
返したことを聞き、城門を閉ざして後蜀軍を拒んだ。
張虔釗は敵地に孤軍となり、退却を始めたが、漢将の王景崇が
鳳翔、隴、邠、涇、鄜、坊などの兵を併せて追撃してきたので、
大散関において敗北を喫した。虜にされた将兵は400名に及んだ。
この憤りがあって、張虔釗は漢中においてまもなく死去してしまう。

(蜀軍を破った王景崇も、この年6月、河中の李守貞に同調して後漢に叛旗を翻し、後蜀

に帰順することになる)

何重建はその後特に功績なく、69才にして世を去った。

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