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■■■五代群雄伝■■■

277 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/19(月) 20:59:33 ID:Ahsxy+6o0
閑散としてしまってるんで、ネタ出ししておこうかな。
>>276さんには劉知俊なんつうマイナーどころを紹介していただいて、ごくろうさまでした。
劉知俊VS康懐貞は、かつての戦友同士の戦いということで、小説的ネタとしては
申し分ない魅力があるが… そうかぁ、この人前蜀にまで亡命してたんですね。
ノーマークだったから、ありがたいことです。

さて、今回の小ネタ。

呉の領域の中に、舒州というのがある。楊行密はもと淮南節度使として揚州に鎮し、呉王に封ぜられた。
よって、淮南地方(淮南道)は彼の本拠地ということになる。
その淮南を構成する州のひとつに、舒州がある。合肥の下の州。合肥のある州は廬州という。

その舒州宿松出身者に、周本という男がいる。
ずいぶん前に、名将百選スレで、五代のところでチラっと書いたように記憶しますが、彼は
後漢南郡太守・周瑜の子孫だった。
周瑜は宿松に葬られたようで、墓は祠となり、子孫は代々そこを守っていた。
年代が進むにつれて、数十家ほどとなり、ひとつの村状態になっいったみたいなかんじ。
周本はそのうちのどれかの家の子だそうで。

周瑜の子孫と言われれば知略縦横、な感じですが…
どうも暮らしは貧しかったようだけど、子供の頃から膂力に優れ
「つねに虎と一人で格闘しては、殺していた」という猛者だった。

宣州節度使の趙鍠(宣州は揚子江を挟んで舒州の隣の藩鎮)に仕え、勇は軍中に抜きんでいたという。
楊行密が領土拡大のおり、趙鍠と戦い破ると、周本を帳下におき、やがて楊行密の牙将(直属の兵)
となって戦いの都度真っ先に進み、敵の鋭鋒を挫き、飛び来る矢石をもろともせず、身に傷のないところがなかったという。

浙江での叛乱と、楚軍(馬氏)との戦いで戦果をあげた周本は、信州刺史とされたが
閩、楚、呉越ら併せて2万に攻められた。
しかも信州兵には不満をもつものが多く、かなりヤバイ状態だった。
連合軍は呉越軍が主体となって信州を囲んだ。
周本は門を開かせ、偽りの幔幕を門内に設営し、城壁の上に僚佐(幕僚)を集めて、宴を始めた。
連合軍は試しに矢を射掛けてみたが、周本らはまったく動じなかったので、これは何かある
と疑った呉越軍が囲みを解いたので、信州城は事なきを得た。
いわゆる「空城の計」。

後唐の荘宗が後梁を滅ぼして洛陽に入洛すると、楊行密は使者を出して賀を述べた。
荘宗はそのとき「貴国に名将はいるか?」と問うた。
呉王の使者は周本と答えたので、周本の知名度はアップした。
以後、親軍将、寿州節度使、徳勝軍節度使(廬州)を歴任し、安西大将軍、太尉、中書令、西平王を加えられる。

もともと読み書きには疎くて、書物を知らない人物だが、儒者を尊び、属僚には礼をもって接し、兵、民を愛した。
性格は素朴で無趣味な男だが、ただ軍事用兵に関しては、柔軟で知略に富んでいたという。


呉越の水丘昭券や、この周本など、後漢にゆかりの人が他にもいるかもしれない。
そういうのを探すのも、結構面白いかもしれない…
また、孫姓や顧姓、厳姓とかを、この江南地方で見かけると、もしや? とか思ってしまう。

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