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■■■五代群雄伝■■■

276 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/14(水) 04:16:09 ID:g61XhTnA0
五代初期の武将に劉知俊というのがいる。

徐州沛の出身で、最初は群雄の一人時溥に仕えてその才能を認められたものの
時溥はやがて劉知俊の勇略を忌避するようになった。そこで配下二千人を率いて
朱全忠に降った。これが最初の寝返り。資治通鑑には「これより時溥の軍振るわず」とある。

朱全忠のもとで「勇は諸将に冠たる」という活躍をして天祐元年(904)に同州の匡国軍節度使となり
これ以降もっぱら李茂貞を相手に戦う。三年には美原において康懐英と五千の兵で楊崇本率いる
岐軍六万を打ち破り斬首二万、馬二千と指揮官百人を捕える大勝利を収めて鄜、延など五州を
続けさまに落とし「西軍これより振るわず」とある。
開平二年(908年)には王重師と幕谷で岐軍五万を大破し李茂貞は僅かに身をもって逃れる。
翌年には攻勢に出て丹、延など四州を落とし、その功績で大彭郡王に封ぜられた。

さてここまでは良かったのだが、活躍したせいでまたもや主君から猜疑されることになった。
丁度そのころ、幕谷で共に戦った王重師が無実の罪で処刑されたこともあって劉知俊は不安にかられ
遂に同州で叛逆した。
隣接する華州・雍州を襲ってこれを確保し、潼関に兵を送ってこれを守ろうとしたが討伐にやって来た
劉鄩によって潼関があっさり突破されたのを知って鳳翔に逃走する。

李茂貞は劉知俊の来降を喜んだが、土地が無いので霊州を攻めさせてこれを劉知俊に与えようとした。
これに対し朱全忠が霊州救援に派遣したのはかつて共に美原で岐軍を破った康懐貞。
劉知俊は霊州から取って返して三水で後梁軍を迎撃し、ここは王彦章の奮戦により突破されたが
昇平に伏兵をおいてこれを大破、数人の副将を皆失って康懐貞は命からがら逃げ延びた。

乾化元年(九百十一年)には前蜀に侵攻し、最初は勝利したものの前蜀軍の反撃にあって撤退した。
これが原因で李茂貞の側近に讒言されて一時期兵を取り上げられたが、李継崇がとりなしてくれたおかげで
事なきを得た。(この時李茂貞は讒言した側近を処刑して劉知俊を安心させている
劉知俊が仕えた四人の中では一番いい人だったのではなかろうか)

ところがこれが次の寝返りを引き起こすことになる。
この時劉知俊の一族は李継崇の領する秦州に住むことになったのだが、貞明元年(915)に
前蜀軍が北上してきた時、なんと李継崇が秦州ごと降伏してしまった。そのために劉知俊の一族は
成都に遷されてしまう。当時劉知俊は叛逆して霍彦威率いる後梁軍を引き込んだ邠州を包囲していたが
これを知るや囲みを解いて鳳翔に帰り、疑われるものと思い込んで遂に信頼できる者百余人とともに夜中に
国境を越えて蜀に出奔した。

蜀でも歓迎され、王建は早速武信節度使に任じて岐を攻めることを命じたが、部将は皆王建の昔からの部下で
劉知俊の命令を聞こうとしなかったため失敗した。
蜀人はそれを貶し、王建も劉知俊を評価する分だけ忌むようになった。
「自分は老い、知俊はお前のような輩に使いこなせる人間ではない」
遂に貞明三年(917年)に処刑された。


朱全忠、李茂貞、王建と唐末・五代初期を代表する群雄に仕え、行く先々で重用
されたにもかかわらずろくでもない結末を迎えた人物。
せっかく才能あるのに発揮しきれず、もったいないことだ、と思う。

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