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■■■五代群雄伝■■■

248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/06(木) 23:04:17 ID:nX/Q3DG20
他で誤爆したが…

銭弘佐に触れたので、ちょっとやってみるか。

中献王・弘佐。
《新五代史》、《旧五代史》は宋代に編まれた史書なので、宣祖の諱である「弘」が省かれ、銭佐となる。
銭弘佐の薨じた季節は、6月乙卯(22日?よくわからん…)、つまり夏真っ盛り。
『潮音』の書き出しの幻想的な描写は潰えた…
ということは、やっぱり《新五代史》のあの九行程度の記事をもとに、あの短編を起こしたのか。

14歳で、鎮海(杭州)、鎮東(越州)両節度使を継ぎ、9月、王位に上った。
しかし若い主に、軍中の評判はよろしくなかった。
丞相の曹仲達(いい名前だな…)が親しく言い聞かせて、とりあえず収まったそうな。
実際に、後晋から玉冊を受けたのは、2年後の天福8年(943)10月。11月には曹仲達が卒した。
この前後年に、先任の丞相が続々と死に絶えている…
銭弘佐としては辛いところだったろう。
そのため、11月に弟、銭弘倧を丞相に据えている。
(ただ、中献王世家に記述がなく、忠遜王世家にあるのみというのは…?)
1年ののち、杜昭達、闞璠(かんばん)ら、親衛の将帥を誅殺した。
呉越王といっても、内実は節度使の気風が強く、その身の回りを固める親衛隊の
将兵は牙兵といって、とくに節度使と個人的に密接な間柄といえた。
官ではなく私兵的な存在なので、公私の別がつきにくい事情があった。
そのため、牙兵は驕慢に陥りやすく、節度使でさえ意のままに挿げ替えようとする動きが活発だった。
これは、皇位を称した河南政権でさえそうだった。
皇帝の親衛隊たる禁軍の将兵が駄々をこねて、皇帝を擁立した例は、李嗣源、郭威、趙匡胤
を見れば明らか。柴栄も高平戦のとき、禁軍将帥に裏切られ、全軍崩壊の手前まで陥ったことがある。

翌年になって南面兵馬都元帥を拝命し、その冬、閩国に乱あり、遺臣の李達は呉越に臣と称して
救援を請うた。
銭弘佐は諸将を集め事を計ったが、諸将は救援には反対だった。
しかし銭弘佐は唇亡歯寒の故事を言い、異議あるものは斬る、とまで言い李達の救援を決した。

閩国はこの2年前から内乱によって簒奪があった。
閩王を弑した朱文進と殷皇帝を称した王延政が争い、南唐の枢密使・査文徽の提案により
南唐が介入するという擾乱ぶりを呈していた。
福州をもって南唐に庇護を求めた李仁達(李達)は、しかし南唐の入朝の命に従わず、呉越に
臣と称して救援を求めた次第だった。

内衙都監使の水丘昭券(後漢の司隷校尉・水丘岑の末らしい…)に用兵を司らせ、
丞相・元徳昭に軍略を委ね、実戦部隊3万を張筠、趙承泰に預け、
水陸から福州に向わせた。
南唐の査文徽は、建州にあって、降将・孟堅を監軍使・馮延魯(馮延己の異母弟)につけて
各地を平定させていった。
呉越軍の入った福州も一気に攻め、呉越軍はいきなり苦戦を強いられた。

翌年の3月になってようやく銭弘佐は余安を海路から援軍として差し向けた。
余安は上陸するや船を棄て、平地に陣形を展開した。
馮延魯はこれをみて、「福州はなかなか落ちないが、あの援軍を叩けば降伏するだろう」と言った。
しかし孟堅は諫めた。「彼らは自らを死地に置いています。このまま戦っても勝敗定かとはいえません」
馮延魯はそれを聞かず、軍を進めた。
余安は陣鼓を打ち鳴らして、福州城内に援軍来着を悟らせた。
福州城内の呉越軍は、はたして出撃し、平野において馮延魯の軍は挟撃され壊滅した。
孟堅は戦場に踏みとどまり、馮延魯の血路を開いたが、力尽きて果て、
楊匡業、蔡遇などを捕縛し、死者は万を数えたと言う。
(《新五代史》に楊業となっているのは、当然、趙匡胤の諱を避けたからだ)

南唐に勝ち、福州を得られたことは呉越にとっては大きい。
後晋は諸道兵馬都元帥、開府儀同三司、尚書令および、資忠緯武恭懿翊載功臣を賜った。
そして6月、20歳にしてこの世を去る。

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