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■■■五代群雄伝■■■

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 01:58:33 ID:MrQnEw320
中国史上屈指の乱世五代十国時代。

栄華を誇った大唐帝国が崩壊し、秩序が失われた中原で群雄が覇を競い、異民族が侵入した戦乱の時代。

この激動の時代を駆け抜けた英雄たちを語れ。


236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/03(月) 22:42:14 ID:pPvWH4Sr0
今度は後蜀の将について。

韓保貞などを…
韓保貞はあざな永吉(えーきっつぁん!!wwwwwww)。
もと潞州の人で、父、韓昭運が後唐の将、孟知祥の成都入りに従い、四川に赴任すると
韓保貞も、孟知祥の牙兵として四川入りした。
(後唐期、前蜀は郭崇韜によって滅亡しましたが、郭崇韜は讒言に遭い誅殺され、孟知祥が
西川節度使として任命され、成都入りしたわけです。さらにちなみに、前蜀討伐の総大将だった
魏王・李継岌は、父、荘宗・李存勗が弑され明宗・李嗣源が立つにおよび帰路、自殺)
孟知祥は東川節度使・董璋などと四川領域内で戦争に明け暮れ、ようやく一帯を平定したものの
皇位についてすぐに死去。
二代目後主たる孟昶が継ぐ。
韓保貞は後主のもとで枢密副使となり、後蜀の重臣となった。
ときに後主が好色なことを言い出すと折檻… ではなく切諫したという。

中原で後漢がたったおり、晋昌軍節度使(雍州。長安)の趙匡賛は契丹の任命によって
長安に拠っているので、また自身、契丹の燕王・趙延寿の子ということもあり、
後漢が立たれて非常に不安だった(趙延寿は契丹を後ろ盾にして後晋をフルボッコにしたお人)。
そこで後蜀に帰順を願い出て、後蜀の将、李廷珪が長安救援のため子午谷ルートで
軍を進めることになった。
一方、長安の後方に位置する鳳翔(岐州)を攻撃するため、韓保貞は数万の兵をもって肉薄したが
鳳翔節度使の侯益が戦わず帰順を申し出たので、これを容れた。

関西があやしくなった後漢朝では、異民族鎮圧と称して討伐軍を大挙派遣することにした。
皇帝禁軍数千を核とした討伐軍は、王景崇を大将とした。
後漢VS後蜀の矢面に立たされることとなる位置である趙匡賛は、真っ先に自滅しそうな気がして
不安になり、ふたたび後漢に帰順を申し出た。当然、鳳翔の侯益も(おまえら定見なさすぎ)。
勃興したての後漢では、あまりムリをしたくないので、両人の帰順を容れた。

いい面の皮は後蜀軍で、せっかく長安近辺まで迫っているのに、相手はすでに心変わりしていたという。
2万をもって子午谷から長安に迫っている李廷珪を、王景崇は迎え撃って撃破した。
韓保貞も陳倉に軍を返したが、侯益の変心あって、ついに戦うことなく成都に帰還した。

やがて北宋が王全斌をもって後蜀討伐に乗り出すと、興元(漢中)において迎え撃ったのだが
相手は無双の王全斌。
韓保貞は興元を棄てて西県を固守したが、史延徳に敗れ捕虜となった。
開封に送られた韓保貞は、どういうわけか手厚く扱われた。
趙匡胤は親しく接し、いろいろなブツを下賜したという。
(なんつう気さくな。成都の略奪に対するパフォーマンス?)


237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/04(火) 22:26:26 ID:RXYbYDJm0
続いて後蜀から、李廷珪。
韓保貞とともに、雍州の趙匡賛を救援するために出陣した人。

李廷珪。もとは太原の人で、幼い頃、孟知祥の帳下にあり、ともに成都に入る。
隷属的なものだったので、全然名もなき庶民だったのでしょう。
そういった実力者の身の回りの世話とかから出世できてしまうのが今の世の中。
後主の代になって中央軍の将帥となり、契丹の侵攻で動揺している後晋領の階州を抜いた
功績により、眉州刺史とされ、例の雍州節度使・趙匡賛帰順の折では、
韓保貞が鳳翔を牽制、あるいは攻撃の動きを見せ、李廷珪は長安救援のため子午谷を急いだ。
しかし子午谷を抜けて耳にしたのは、趙匡賛がすでに後漢に帰順したとの報告だった。
軍を返そうとしたところ、王景崇に遭遇し、李廷珪は敵地に孤立状態となり敗走した。

その敗戦後、李廷珪は興元(漢中)に拠り、西暦954年には閬州に移り、
興元には韓保貞が入った。
西暦955年5月、後周軍が後蜀の秦、鳳、成、階の四州を攻略目標として出師した。
李廷珪は北路行営都統として迎撃軍を指揮し、秦、成、階の三州において後周に敗れる。
(あっさりした記事だな… 後主本紀で補うか…)

秦州(天水)の韓継勲は大敵を防ぐ器にあらず、と客省使の趙季良は言い、自分が適任と売り込んだ。
しかし後周の大将・王景が瞬く間に大散関を抜け、秦州の八つの砦を抜くと、恐れて逃げた。
後主は改めて迎撃軍を編成した。対後周軍に対する布陣は以下のとおり。
北路行営都統に、捧聖控鶴都指揮使、保寧軍節度使・李廷珪。
北路招討使に、左衛聖歩軍都指揮使、武定軍節度使・高彦儔。
副招討使に、武寧節度使・呂彦珂(武寧軍は徐州節度使の軍額。遥領か?)。
監軍に、客省使・趙崇韜。

6月、李廷珪は武威城の戦いで、後周軍を破り、排陳使・胡立(濮州刺史)を捕らえた。
このときの後蜀軍の軍装には、斧の刺繍がされてあり、自らを「破柴都」と呼んだという。
むろん、後周皇帝の姓が柴だからだ。
後蜀朝廷は南唐と北漢に使いを出し、二国の協力をもって後周包囲網を作った。
このとき後周軍は撤兵の気運が高まっていた。しかし後周将・韓通の援軍、
趙匡胤の激励によって勢いを盛り返した。
8月、李廷珪は後周の将・王景に打ち破られ、300人の捕虜を出した。
後主は伊審徴を遣わし、将兵の労をねぎらうと共に、改めて作戦を練らせた。
9月、李廷珪は先鋒都指揮使・李進を馬嶺寨に拠らせ、さらに伏兵を斜谷から出させたうえで、
残りの兵力をもって鳳州の北、唐倉鎮、黄花谷に出、後周軍の糧道を狙った。
翌閏9月、後周軍も負けておらず、大将の王景は裨将・張建雄をして黄花谷を牽制させ
また別に1000ほどの部隊を唐倉鎮に向わせ、逆に後蜀軍の退路を断つ構えを見せた。

唐倉鎮を任された王巒は出撃して寡兵の張建雄を攻撃するため、黄花谷に向ったが
そこで敗れ、また唐倉鎮に戻る帰路でも後周軍の部隊の奇襲に遭い、さらに敗れた。
これによって、馬嶺寨の李進も王景の各個撃破のえじきに遭い、潰えてしまった。
李廷珪と高彦儔は退いて青泥嶺に拠ったが、秦州の雄武軍節度使たる韓継勲は怖れて、
秦州を棄て成都に一人遁走してしまった。
秦州は城をもって降り、斜谷からの援軍もまた潰えてしまった。
そうなるともう見ているしかなく、成州も階州も続いて降ってしまった。
李廷珪は罪を謝したが、後主は不問としたという。

しかしここで完全に抜け殻になってしまったようだ…
後の北宋が起こした後蜀討伐のとき、王全斌の軍と遭遇すると狼狽して逃げたという。
この頃は朝廷が随分おかしなことになっていたので、真面目に戦うのも馬鹿らしかったろうけど
韓保貞にしろ李廷珪にしろ、前半よくて後半ダメダメというのは、なんかこの時代ならではのような気が…



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